第9回イラン大統領選挙について

 新月ニューズレターNo.27で既に紹介された如く、2005年6月17日と24日に開催された第9回大統領選挙は日本を含めて国際的にも注目された。選挙を報道しようと、周辺諸国だけでなく、BBCやCNNを含む欧米・アジア諸国から400名にも達する記者・カメラマンがイランに押しかけたことはこの点を反映した。そして、選挙後、「保守強硬派」として知られるアフマディネジャード候補が大差で当選を決定したことへの懸念も未ださめやらない。2期8年務めた改革派の旗手ハータミー大統領の後任大統領次第で、隣国イラクやアフガニスタン情勢に加えて、核開発疑惑や対米関係などを中心に域内、引いては世界の不安定化を加速するとも見なされるからである。
 今回の選挙結果は恐らく大方の予想を覆すものであったと言うことができる。詳細な選挙分析はここではできないが、様々な要素を内に孕み、予想外とも言えるこの結果に即して若干のコメントをここではしてみたい。
 まず第一に、ハータミー政権に対する失望から改革派支持の国民的気運が退潮し、当然の如く投票率の低下が予測されたにもかかわらず、実際には約63%の投票率となったことに関係する。確かに1997年(79.9%)や2001年(66.8%)と比較すれば見劣りするが、投票率が今回60%を超えた理由としてまず、投票日直前にブッシュ米国大統領が国際的なテロの拡散と国内的な自由の抑圧を前提に、今回の選挙も「圧制の25年の結果」に過ぎないとして暗に選挙ボイコット支持声明を発出した影響を看過することできない。これは既に投票率の低下を懸念していた体制指導部による有権者向け投票行動宣伝を一層促進する材料となった。選挙ボイコットがすなわち「米国の陰謀」に加担するものと指摘されると共に、今回の選挙が単に大統領選出のためだけでなく、憲法・イスラーム政治体制自体への国民投票であることが強調された。二大政党制に胡座をかき、国民の直接選挙による大統領選出ではない米国との比較において、イランの(宗教的)民主主義の先進性を証明する好機であると体制指導部から謳われた。さらに、主要なイラン在住の宗教的最高権威(マルジャ)、シェイフ・ファズロッラー・ランキャラーニー、ヌーリー・ハマダーニー、セイエド・シーラーズィーなどから「シーア派ムスリムの国民的」義務として投票が繰り返し呼び掛けられた。
 ラフサンジャーニーを除けば、やや「小粒」とも言われた候補者の多様な顔ぶれも有権者の投票行動を支える一因であった。そして、多くの国民の素朴な祖国愛が外圧に抗して結集したことが63%の投票率に結果したとも言える。今回、イランを訪問し、「イランが好きだから」との声をしばしば耳にした。その結果、第一次投票の翌日(18日)に、「マルドム・アーマド(国民がやってきた)」、「シェキャステ・タフリーメ・エンテハーバート(選挙ボイコットの敗北)」なる見出しが一面を飾り、最高指導者ハーメネイーは「選挙の最大の勝利者が国民である」旨表明した。民主主義の欠落を揶揄したブッシュ政権の発言が投票率の上昇に貢献し、体制へのイラン国民支持を訴える格好の契機となったことは何とも皮肉であった。
 第二に、この選挙で候補者のいずれもが投票総数の過半数を獲得できず、上位2名の決選投票に移行し、そこにラフサンジャーニーが残るであろうことは彼の政治経験と指導力から十分予測された。しかし、その対抗馬としてアフマディーネジャードが第二位に着けたことは恐らく誰も予想しなかったに違いない。先に述べた如く、今回の選挙は「改革派」から3名、「保守派」から3名、そして「現実派」から1名が出馬し、票が分散することは当然予測の範囲内であった。そのこと自体特に「改革・保守」両派共に、統一候補を立てられない点で各派内の路線の相違や指導権争いが存在したことも浮き彫りにした。「保守派」について言えば、特に注目されたのは候補者中最も若く(44歳)、革命第二世代の筆頭と目され、またそのダンディーさから人気を集めたガーリバーフであったと言える。しかし、彼は4位(407万票、全体の13.9%の得票)に終わり、ラフサンジャーニー(616.9万票、21.1%)はもとより、「保守派」のなかでも超強硬派として人気薄に見られたアフマディーネジャード(571万票、19.3%)に大きく水をあけられた。
 アフマディーネジャードの2位への躍進の鍵は、特にエスファハーン(約80万票で、43.6%)を筆頭に、その他宗教都市マシュハド(37.8万票、14.6%)やゴム(25.6万、13.2%)、さらに首都テヘラン(50万票、9.6%)など、大都市圏で大きく票を伸ばしたことである。開票当日の18日夕刻時点で、穏健な「改革派」候補キャッルービーが2位に着け、アフマディネジャードは約30万票の差で3位であった。しかしその後、一挙にキャッルービーを抜き去った。全国的な知名度と政治的実績の点で選挙前より突出していた訳ではないアフマディーネジャードのこうした躍進の背景には、ひとつに彼の支持組織「イスラーム革命献身者協会」を中心に、その他革命防衛隊やバシージ(志願兵組織)を通じた貧困層の票の取り込みが組織的に行われたことが考えられる。
 しかし、さらに有権者の関心の変化が彼に有利に働いたことは否定できない。ラフサンジャーニーもキャッルービーもハータミー政権の改革路線の継続、対外的な開放と自由主義経済の拡大など、青年層や中上流階層をターゲットにしていた。彼らと異なり、アフマディーネジャードはイスラーム革命の理念への回帰を主張し、特に腐敗撲滅、社会正義の実現、富の平等な分配によるモスタザファーン(被抑圧者)・戦争被災者・遺族の救済といったポピュリスト的な性格が濃厚であった。貧困層にとって、ラフサンジャーニーの唱える米国を含めた先進工業国との自由な経済関係は一層貧富の格差の拡大を意味したと考えられ、そうであれば庶民派アフマディネジャードが魅力的な存在として映っても驚くべきではない。日本を含む外部世界では、変化=自由と捉えがちだが、イランでは今や変化=経済状況の改善であり、これこそが新鮮みのあるアフマディーネジャードによって達成される可能性があるものと認識されたに違いない。
 1週間後の5月24日に開催された上位2者、すなわちラフサンジャーニーとアフマディーネジャードの決選投票は以上の延長線にあったと考えられる。「保守派」と「改革派」という党派対立的論理で言えば、両派の残る候補者の票がそれぞれに彼らふたりに流れ込み、その点ではラフサンジャーニーが1,600万票以上を、アフマディネジャードが1,150万票を獲得すると考えられ、前者の圧倒的な有利が予想された。しかし、実際の投票結果(内務省発表)によれば、アフマディーネジャードが1,724万票余りを獲得し、ラフサンジャーニー(約1,000万票)を大きく引き離して当選した。無論、改革路線に逆行する「保守強硬派」の当選阻止に向けて、「改革派」陣営が一丸となってラフサンジャーニー支持に回ったにもかかわらず、こうした結果に終わったことは彼の政治力への期待感の薄れや彼とその一族の金権体質が悪影響を及ぼし、逆に「保守派」が81年に第二代大統領に就任しながら爆弾事件で死亡したモハンマド・アリー・ラジャイーの再来としても徐々に支持を集め始めたアフマディネジャードに対する組織選挙に成功したということはできる。
 ともあれ、イラン政治はこれによってひとつの重要な節目を迎えた。ホメイニー死去後16年間、特にハータミー政府の下で8年間継続的に模索されてきた路線の急激な転換が予測されるだけでなく、司法・立法・行政三権が全て「保守派」優位、あるいは「保守派」支配体制へと移行するものと考えられるからである。様々な変転と共に政治的経験を豊かにしてきたイラン国民の厳しい審判を受けた「改革派」の今後の動向に注意を払わねばならないが、何よりアフマディーネジャード新政府の政策が経済復興、核開発問題や対米関係、さらに党派対立の桎梏など取り組むべき課題に如何に対応するかをより注意深く見守る必要がある。
 アーザーデガーン油田開発プロジェクトを中心にイランとの経済・貿易関係の強化に努めてきた日本にとって、今回の大統領選挙結果の持つインパクトは大きい。と同時に、日本外交が単なる米国追従ではないことを示す意味で、その力量が試される時である。そうであるならば、民意、少なくとも選挙を通じて選ばれた合法的な新政府を「色眼鏡」で見るのではなく、真に域内の平和と繁栄、イランの経済復興に貢献する外交努力が強く望まれる。今回短期間ながらイランを訪問し、多くのイラン人にインタビューするなかで、保守的、改革的政治スタンスに関係なく、彼らの親日的スタンスを再確認した。目先の利益に右往左往するのではなく、イランの急激な変化も視野に入れたグランドデザインのもとで、対イラン、中東諸国関係を構築することが日本に最も求められている。

* 尚、詳細な報告・資料はhttp://www.cismor.jp/research/project/project02/050708.html
を参照。

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