「イスラームと戦争―その関係性の変容と中東―」(『平和文化』平成14年3月号掲載)
主として人口面でムスリム(イスラーム教徒)が圧倒的に多い国々から構成された中東世界を舞台に、第二次大戦後幾多の戦争が発生してきた。パレスチナをめぐる四度に渡る戦争はもとより、レバノン内戦、イラン・イラク戦争、アフガニスタン戦争、さらに湾岸戦争など枚挙に暇がない。追い打ちをかけるかの如く発生した昨年9月11日の「米国同時多発テロ」の実行犯19人が「イスラム原理主義」国際組織アルカーイダのメンバーであったとの報道も、イスラームと戦争の一体不可分の関係イメージを増幅させた。これら戦争原因の全てでなくとも、この宗教の政治性、好戦性がそこに関わっているかの如く、まことしやかに語られる。
コーランの中のジハード
イスラームと戦争との関係を語る際、直ちに想起される概念として「ジハード(聖戦)」がある。イスラーム前の部族集団間の戦争の性格を反映したと言われるジハードについて、コーランは例えば以下のように述べている。
「汝らに戦いを挑む者があれば、 アッラーの道において堂々とこれを迎え撃つがよい。だが、こちらから不義を仕掛けてはならぬ」(第2章190節) 。
「不当な目に遭わされた者が、 相手に敢然と挑みかかることはお許しが出ている。そういう人たちはアッラーが助けて立派に 勝たせて下さろう。則ち、何の罪科もないのに、唯『我らの主 はアッラーだ』と言うだけの理由で住居から追い出されたような人たちのこと」(第22章40節)
622年のメッカからメディナへの移住(ヒジュラ)後間もなく下されたこれら啓示以外にも、ジハード関連の様々な啓示がコーランにはある。軍役免除、戦争捕虜への対応、敵との休戦、更に殉教者(シャヒード)としての戦死者の扱いと天国行きの約束など。特徴的なことは敵に対する寛大な措置を勧めつつ、異教徒世界との戦いが「防衛的」な性格をもって語られていることである。
無論、防衛戦争という側面がコーランの全ての章句で常に強調されている訳ではない。例えば、第9章5節には「神聖月があけたら、多神教徒は見つけ次第、殺してしまうが良い。引っ捕らえ、追い込み、至る所に伏兵をおいて待ち伏せせよ。しかし、もし彼らが改悛し、礼拝の務めを果たし喜捨も喜んで出すようなら、その時は逃がしてやるが良い」と。
預言者ムハンマド死去後の正統カリフ時代(632-661)に、イスラームはアラビア半島から周辺世界に急速に拡大する大征服時代を迎えた。そこでは防衛戦争というより、宗教的情熱に駆られ、戦利品分配を通じてムスリム戦士の士気を鼓舞する膨張主義的ジハードが確かに顕著であった。とは言え、先の防衛的性格だけではなく、その後のジハードの意味の多様化からも、イスラームを「好戦的」と断じることはできない。メッカ・クライシュ族との628年のフダイビーヤの和議をはじめ、多くの敵対勢力との和解の前例もある。付言すれば、聖戦は1096年から1291年までエルサレム奪回を目的(あるいは口実)に断続的に実施された十字軍など、キリスト教を含む他の宗教にも認められ、決してイスラームの専売特許ではない。
ジハードの多様化とイスラーム国際法
ところで、単一のカリフとイスラーム共同体(ウンマ)を前提に実施された大征服期のジハードはまた、全世界への神の教えの普及と確立を必然視する確信にも支えられていた。軍事的攻撃前には、不信仰者へのイスラームへの改宗或いは服従の呼びかけが不可欠とされた。そして、更に重要な点は軍事的征服よりも世界中の人々のイスラーム改宗こそが神の本来の意図であるとの解釈も成立し、武力行使を伴わないジハード理解も生まれていく。
その議論はアッバース朝(751-1258)下でのイスラーム法の整備・体系化と無関係ではない。そこでの非武力的なジハードは、不信仰者への説得による改宗を意図した「言葉のジハード」と、イスラーム社会の道徳の改善を目的とした「筆のジハード」を柱とした。「努力」を広く意味するアラビア語の原義に適うそれらの解釈は邪悪との静かな平和的闘争を特徴とした。集団的な「剣のジハード」が「小ジハード」と見なされるのに対して、それらはイスラーム法では個人が行うより高次の「大ジハード」と位置づけられる。
このようなジハードの意味の多様化はムスリム世界観の変容に対応している。世界のイスラーム化という当初の構想が内部分裂と征服活動の停滞という現実に直面し、崩れ去る中で、非イスラーム世界との関係をめぐる問題が法学者にとって重要な議論の対象となっても不思議ではない。その結果、ザイド・イブン・アリー(738年没)を筆頭に、その後多くの法学者はイスラーム国際法(スィヤール)の体系化に従事していく。
そうしたイスラーム国際法では唯一神アッラーの神聖なる法が施行される「イスラームの館」と、未だ統一的な法が不在であるが故に、互いに攻めぎ合う異教徒国家の総体としての「戦争の館」に二分された。前者の世界ではユダヤ教徒やキリスト教徒(さらにゾロアスター教徒まで)も「啓典の民」として、彼らに安全と信仰の自由を保証する共存システムを原則とした。だが、後者の「戦争の館」との関係では当初原則的に戦争が常態として認識されていた。しかし、後者の問題はその後更に宗教法上第三のカテゴリーの設定により是正されていく。「盟約の館」或いは「和平の館」と呼称される概念が導入されるからである。そして、条約締結により非イスラーム世界に位置する国々との休戦状態の維持が法的に承認された。休戦の有効期限を10年以内に限定されたが、その更新は可能であり、それ故その休戦は半永久的とも理解される。
かかる柔軟な発想に従えば、非イスラーム世界とのジハード原則は最終的に放棄されざるを得ない。イスラーム諸王朝が乱立し、特に19世紀よりヨーロッパ列強の植民地主義的支配を経験しながら、イスラーム世界は今日まで外部世界と政治的、経済的関係を維持していくが、そこには上述の如きジハード解釈の変容も関わっている。
中東の紛争地帯化と大国主義
以上のことから、戦争とイスラームを因果関係の中で捉える根拠は存在しない。それでは、第二次大戦後の中東における戦争多発の原因は何であろうか。それは端的に言えば、植民地支配以来のこの地域をめぐる他律的な政治社会構造の組み替えと大国政治の継続的な関与という問題に求められる。
今日の中東諸国家体制は無論、19世紀以来の植民地支配体制により、政治的に規定され成立している。そこでは、英仏を中心としたヨーロッパ列強の思惑から領土分割がなされただけでなく、国家基盤の存在しないところに「人工国家」が樹立され、歪な統治システムと独裁政権の創設・温存も図られた。冒頭に指摘したレバノン内戦の場合、委任統治国フランスが導入した宗教宗派別縦割りシステム(コンフェッショナリズム)の政治的矛盾の検討抜きに、国家解体への危機に深化したこの国の問題性を理解することはできない。
また、イラン・イラク戦争(1980-88)の場合も、その直接的な戦争原因はともかく、その背景には同じく「人工国家」イラクの脆弱性とそれ故のアラブ全体の統一・復興を求めるバース党政権の成立(1968年)、さらに米国からの支援で53年以降に独裁化を遂げるイラン・パフラヴィー王政の存続が深く関わっている。後者が79年イラン革命で打倒され、その後の「革命外交」が展開されることで、イラクは重大な脅威にさらされ、開戦に踏み切った。そして、この戦争でのソ連を含む欧米列強の対イラク支援が戦争を長期化させ、湾岸戦争への契機となるこの国の軍事大国化とクウェート侵攻に連動していく。
上記戦争では周辺諸国や自国社会を念頭に、ジハードを含むイスラーム的言説が多用された。しかし、戦争原因の根本には「平和の担い手」たる使命を掲げ、その実、国益の維持・拡大のために種々の介入を繰り返して止まない欧米列強の大国主義・覇権主義がある。この構図は9月11日事件という未曾有の蛮行との関係で、最終的にテロ行為の「共犯者」として今回米国に空爆されたアフガニスタンの事例でも同様に看取される。
かかる矛盾に満ちた構図をより鮮明に示している事例がパレスチナ問題でもある。ヨーロッパにおける反セム主義、その結果生まれたシオニズム(ユダヤ国家建国イデオロギー)への英国の「多重人格的」外交によって、その問題がパレスチナに持ち込まれたことは今更言うまでもない。そして、戦後はユダヤ・ロビーの圧力の前に変説を重ね、冷戦下での中東戦略上イスラエルを擁護し、パレスチナ・アラブ住民の民族自決権を国連安保理を舞台に葬り去ってきた米国の存在も浮き彫りにされる。
こうした大国政治の暗躍は無論、ヨーロッパとアジアの間を取り結ぶ中東の地政学的位置とそこでの石油・天然ガスをはじめとするエネルギー資源の豊かな埋蔵量に深く関わっている。換言すれば、そうした地域的特性が存在しなければ、中東への度重なる列強の介入もなく、イスラームが戦争との関わりで議論されることもなかったに違いない。
おわりに
イスラームの原義に従えば、ここでのテーマは「平和と戦争」と置き換えられる。しかし、戦争を惹起するイスラームという固定観念の背景にはこの宗教に対する欧米の差別・偏見が介在している。それを日本社会もまた継承し、それに基づきイスラーム・中東への無関心維持してきた。それは翻れば、無批判的な西欧中心史観でもあり、また中東での戦争多発構造への無理解にも繋がる。
かかる偏見の除去は世界平和の構築に不可欠な要件である。日本の対中東和平への積極的な役割が求められ、その際中東で手を汚した歴史を持たない日本の特性が指摘される。しかし、戦争との関連でイスラームを特別視する限り、その役割も不可避的に限定されたものとならざるを得ないでろう。