向き合う人生といっても、「死」以上に、人間にとって向き合うことが大切なものはない。もし「人生とは何か」という質問が投げかけられるとすれば、私は即座に「死に支度」と答えるだろう。人間はオギャアとこの世に生を授かった瞬間から、「死に支度」のスタートを切ったのである。
百花繚乱の春に、「死の支度」とは何事かと思われるかもしれないが、死を語ることは別に縁起の悪いことでも何でもない。いや、人生に終わりがあるということは、誠にお目出度いことである。これだけ四苦八苦が続く人間の生が、永遠に続くと思っただけで、うんざりするではないか。何事も終わりがあるということは、いいことだ。
終わりがあるから、限られた時間の中で、人は懸命に努力して向上しようとする。そこに人生の発見があり、その喜びが魂の栄養となっていく。大好物の食べ物だって、食べきれないほど目の前に置かれたら嬉しくもないが、お皿に少しあるから、よけいにおいしく感じるのと同じである。
若い人なら自分は当分の間、死ぬことなんかないと思っているかもしれないが、死の訪れは年齢に関係なく、容赦なくやってくる。芭蕉は「やがて死ぬ景色は見えず蝉の声」と詠んだが、病気や事故で、いつ息絶えることになるか分からないのが人間だ。だから若くても、死を想うことはムダではない。
というよりも、ほんとうに充実した生を送りたければ、つねに死を意識したほうがいい。線香花火は、まもなく消えると分かっているから、今という瞬間の輝きに美しさを感じるのである。
日本は、悲しいことに自殺天国である。自殺天国というのは、妙な言い回しだが、それほど簡単に自らの命を絶つ人が多いということだ。自殺は「死に支度」をしないままの死だから、死んでからあの世でたくさん宿題をやらされるに違いない。
「死に支度」とは、目前に迫る死のために遺書を書いたり、財産の整理をしたりすることではない。それは生涯かけて、真剣に取り組むべきものである。五十歳が寿命の人は五十年、百歳が寿命の人は百年、「死に支度」の時間が必要だったということである。レオナルド・ダ・ヴィンチが「あたかもよくすごした一日が、安らかな眠りをあたえるように、よく用いられた一生は、安らかな死をあたえる」と言っているが、人生の中味が問われても、その長短に一喜一憂することはない。
「死に支度」は、その人が自分の運命をどこまで生き切ったかで決まる。自分に正直に、自分のやりたいように生きるのが、最高の「死に支度」である。明日かあさって死ぬかも知れないのに、十年後の定期預金の満期を楽しみにするような生き方は愚かである。「刻々と迫る死の足音に怯える」というのは文学的な表現としては面白いが、宗教的には間違っている。死は懸命に生きた者への最高のご褒美なのだから、その足音に甘美な優しささえ覚える、というのが正しい。
死を覚悟すれば、残された時間の中で、誰でも人には親切に、自分にも優しく生きようとする。自暴自棄になったりするのは、死に向き合わず、死に背中を向けて逃げようとするからである。
「死に支度」のうちには、矛盾するようだが、健康管理も含まれている。いい死に際を迎えるためには、平生から肉体を鍛えておかなくてはならない。さあ今や春もたけなわ、表に出て気持ちのよい汗を流しながら、「死に支度」をしよう。 |