読者の誤解を招かないように、あえて書いておくが、本シリーズの「狂の巻」は、「非常識のすすめ」でも、「変人奇人の処世法」でもない。編者としての私が意図するところは、本書を読んで頂いたことがきっかけとなり、一人でも多くの読者が「こころの自由」を獲得してくださることである。
幸せなことに、わが日本には徴兵制もなければ、一度は剃髪して僧院に入らなくてはならないという社会的義務もない。あるいは生まれたら男児はすぐに割礼しなくてはならないとか、女性はベールをかぶらなくてはならないとか、遵守すべき煩雑な宗教的ルールもほとんどない。
世界を流浪した挙げ句に広島の片田舎に暮らすことになって、つくづく感じることなのだが、現代日本ほどタブーの少ない自由社会は希有である。おまけに銃弾が飛び交うわけでも、国民の大多数が貧困にあえぐわけでもない。四季の美しさは格別だし、食事の美味しさとなれば、世界最高級である。たまたまこの国に生まれ落ちたことを、ほんとうに有り難く思う。
しかしそれにしては、窮屈なものの考え方にとらわれて、苦々しい顔をして暮らす国民が多すぎるのではなかろうか。現に自殺率は、世界のトップクラスの座をここ数年維持している。
そもそも、どうしてみんながいつも同じ政党に投票し、どうして老いも若きもワールドカップにうつつを抜かさなくてはならないのか。横並び思想もここまでくれば、病膏肓に入るといったほうがよい。
どうして皆がみんな似合いもしない背広を着て、毎日、同じ時間に出勤しなくてはならないのか。おまけに有給休暇を最大利用する職場の同僚がいれば、みんなで白い眼で見る。『人間を幸福にしない日本というシステム』という本を書く外国人が出てくるもの不思議ではない。
勉強嫌いの我が子を無理やり医学部に入れようとしたばかりに、子供に殺されたりする医者がいるかと思えば、ぐうたら息子を寺の跡取りにしようとして、本堂に火を放たれたりする住職もいる。ともに、とんでもない錯誤の人生である。あまりに常識的な世界を生きようとして、かえって「破壊の狂」に陥っている。
せめて若者ぐらいは、既存の価値観にとらわれず、大胆にオリジナルな生き方をしてくれるのかと思えば、彼らが大胆なのはファッションばかりで、中高年よりも、人の顔色を見て生きる者が多いと聞く。「なんじゃ、それは」と言いたくなってくる。
でなければ、ニートか引きこもりになって、満身創痍になってでも世間と戦おうとはしない。やっと元気な連中がいたかと思えば、成人式で騒ぐぐらいの幼稚さしか持ち合わせていない。
日本は間違っている、というような偉そうな口の利き方はしたくないが、少なくとも、現代日本人は哀れである。いったい誰の責任かと言いたいが、それを政治が悪い、教育が悪いと言い逃れをしている人間が、いちばん悪い。
責任は自分にしかない。不幸なのは自分で作り上げた幻想の中で、自分の首を締め上げているからである。幸い本書では、そういう愚行の放棄を呼びかけるにふさわしい、個性豊かな執筆陣を揃えることができた。
第一章「〈風狂〉の深層心理学:一休の場合」の町田は、まるまる青春時代を禅寺生活で棒に振った恨みから、海外で長年、勝手気ままに生きてきた坊主崩れの比較宗教学者である。そういう意味では、とうてい常識人に理解できる代物ではない一休の〈風狂〉を語るには、とってつけの人間かもしれない。
第二章「社会構造にひそむ狂」の上田紀行氏は、ユニークな視点から人間のこころと社会の絡み合いを解明する気鋭の文化人類学者である。最近の上田氏は僧職でもないのに、物好きにも日本仏教再生運動の陣頭指揮を取り始め、そのことによって日本人が「生きる意味」を再発見することを応援しようとしている。
第三章「精神疾患における「狂」」の岩波明氏は、精神を病む人たちの修羅場を目の当たりにしてきた臨床医であるだけに、その言説には説得力がある。われわれのように「狂」を思弁的に語るのではなく、精神疾患の生物学的分析に加えて、法医学的な観点から「狂」に深く切り込んでいく手腕は、岩波氏ならではのものである。
第四章「狂とセックス」の坂東眞砂子氏は、みずからタヒチ島に移り住んで、あまりにも彩り鮮やかな「狂」の時間を満喫しておられる作家である。日本人が幸福人間として立ち直りたければ、タヒチの砂浜に額ずいてでも、脱日本人的な感性の持ち主である彼女の教えを乞うべきだろう。
最終章にある「対論「破壊の<狂>、救済の<狂>」は、画家・宮迫千鶴氏の胸を借りて、町田が独り相撲をとったようなものである。ヨレヨレの背広を来て通勤電車に乗っている男どもを尻目に、彼女が颯爽と伊豆高原という別天地に生活拠点を移してしまって久しい。ひとたび絵筆を取れば、たちまち豊かな「狂」の空間に没入することができるアーチストとの語らいは、本書における祝祭的役割を果たしている。
(おわり)
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