ついに町田宗鳳にも「焼き」が入りました。不死身の私が病気になったのです。といっても決して深刻な病気ではなく、単に扁桃腺炎をこじらせただけですが、ここまで高熱に悩まされたのは、幼少期を除いて私の記憶にありません。 事の発端は、教室でゴホゴホと咳き込む学生が多く、いつのまにかうつされていたというわけです。私の経験では、どこの国の学生も寒い日にかぎって、なぜかT-シャツだけだったり、ミニスカートをはいてきたり、恰好だけは威勢がいいのですが、そのくせ簡単に風邪を引きます。 そんな連中を相手に教壇に立っているわけですから、こちらもいちいち感染しているわけには行きません。そこには一種のプロ魂があるわけで、現に私は十年以上、風邪で寝込んだことがなかったのです。 ところが今回ばかりは、そうはいきませんでした。あっという間に喉が腫れ上がり、首が回らないほどになりました。そればかりか、熱が一気に上がり、一時は39度以上あったと思います。一週間の半分以上をホテルで過ごす私にとっては、これは地獄です。それでなくても、ホテルの部屋は乾燥し切っており、おまけに誰も看病などしてくれません。一睡もできない夜を幾夜か過ごし、食欲はゼロ。目の前にあるコップ一杯の水を飲むのも、死ぬ思いでした。 ほうほうのていで自宅にたどり着いたものの、「アナタみたいなスケジュールで動いていたら、誰でも死ぬよ。還暦直前だというのに、人生を根本から考え直しなさい!」と家内に罵倒される始末。 ああいう時、心優しい妻なら「よくこんな体で帰ってきたね。あとは私に任せて」とでも言って慰めてくれるのでしょうが、気の強い九州女の罵詈雑言は、病院に向かうクルマの助手席で屍同然となった私の耳元でも容赦なく続きました。 こちらに腹を立てる気力すらなかったのが不幸中の幸いでしたが、病院のベッドに横たわるのも、点滴を受けるのも、生まれて初めての体験でした。良妻悪妻の議論は暫く措くとして、あれこれ看病してくれる伴侶の有難さが、このときほど身に沁みたことはありませんでした。 私はもともと虚弱体質だったのですが、中学二年生で禅寺に飛び込んで以来、体を鍛えに鍛えてきました。その体力だけを元手に、今日までの波乱の人生を切り抜けてきたのです。フットマッサージなどに行くと、「分厚い足ですねえ」と驚かれることがありますが、学者となった今も、足の裏だけは「労働者時代」の私を正直に記憶してくれているのです。私がよく人に向って「白髪が一本もないのが、私の唯一の自慢」などと軽口を叩いたりするとき、じつは鍛え抜かれた自分の肉体への自負心が底流にあるのです。 それでも人間ですから、日々の体調は異なります。立場上、どこかで躓くと多方面の人々に迷惑をかけてしまうことになるので、柔軟体操・一キロの水泳・八階の研究室まで階段使用・指圧治療・食事・排泄・睡眠など、私は日頃から健康管理に細心の注意を払っています。ましてや健康断食の指導者でもあるわけですから、おいそれと病気になれないのです。 とくに体調不良が理由で暗い顔して演壇に上がるというのは罪なことですから、講演にはつねにベストコンディションで臨むようにしています。また温度や湿度、食事や時差が大きく異なる海外にも頻繁に出ているにもかかわらず、それでも体調を維持しているのは、自分で自分に勲章をあげたいぐらいです。 そんな私が、なんと二日間も寝込んでしまったのです。三日目には大きな講演会が九州で控えていましたらから、絶対に起き上がらなくてはいけないという焦りは、相当なものでした。薬が効いて少し熱が下がると、今度は胃がズキズキと痛み出し、寝ているどころではありませんでした。 夜ごとに滝のような汗を掻きながら、いろんなことを考えました。老いてどこかで一人暮らししていれば、こんな辛い気持で息絶えていくのかなあ。そういえば『往生要集』で源信は、自分の死に際のことをやたらと心配しているけれど、たしかに穏やかに死ぬのは並大抵なじゃないなあ。奢り高ぶった平清盛は、熱病でうなされて死んだらしいけど、こんなふうだったのかなあ。それにしても、病床でもつねに「真身の仏」を中空に見続けた法然さんは、偉かったなあ。 そのうちに全身に奇妙な発疹まで出る始末で、アレッ、まさか梅毒?と思ったけれど、さしあたっての心当たりはありませんでした。寝返り打つのも、トイレに行くのも大ごとで、昔、都立神経病院でボランティアしていた時の、患者さんたちの難儀ぶりが思い出されました。 私の主治医ともいうべき内科医兼指圧師である徐桂琴先生の見立てによると、今回の事件の根本因は、最近の敦煌の旅で口にした珍味の数々にあったようです。そう言われれば、確かにロバやラクダの肉を得意げに食べ、果ては羊の脳味噌まで口にし、成分不明瞭の55度もある白酒を毎晩あおっていました。中でも最大の問題は、やはり中国の野菜や食品に大量使用されている農薬や人工保存料にあり、そういう毒素が溜まりに溜まって、ついに爆発を起こしたそうです。なるほど、それなら不気味な発疹のことや、今も痛む手足の関節、唇の周囲の痺れなどのことも納得できます。放置すれば、痛風になっていたとか。 野口整体でも言われてきたように、年に一度ぐらい高熱を出すというのは、体内消毒という意味で重要なことであり、寝床から消え入るような声で徐先生に病状を報告したときも、開口一番「良かった!熱が以前からチャンスを狙ってたのよ」と、祝福の言葉が返ってきました。 みずから不摂生をして病気になる者は、愚かです。すでに思いきりメタボの人間が大食しているのを見たりすると、自制心の欠如を感じます。神から授かった〈いのち〉を親から授かった肉体の中で大切に花咲かせる責任が、私たち一人一人に与えられています。 熱病地獄を掻い潜って思うのは、慎ましやかな生活と輝くような健康があれば、それだけで人間は幸せです。しかし、その状態を死の当日まで持続させるとなれば、それはよほどしっかりした人生観と、日々の努力がないと叶わないことです。どうやら今回の高熱騒ぎは、58歳になったばかりの私に贈られた知恵熱だったようです。「高熱さん、ありがとう!」(2008.11.15) | |||
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