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『徳と毒』
 言葉というのは、面白いものです。とても似た言葉が、少しの違いで、意味が大きく異なります。そのひとつが、徳(トク)と毒(ドク)です。チョンチョンと濁点があるかないかで、まったく意味が異なります。
 果たして、二つの言葉の意味を根本的に変えてしまう濁点とは、何でしょうか。それは、エゴ、つまり自我意識のことです。自我意識があれば、どれだけ世に称賛される慈善事業に励もうとも、毒となります。立派なことをしているようで、世間に毒を垂れ流していることになります。「徳は必ず隣あり」ですが、我執は我臭となり、人を遠ざけます。
 「徳を積む」という表現と「毒を積む」という表現も、そっくりでありながら、まったく異なることを意味します。前者は自己の人間性を深めることであり、後者は他者を殺めることです。常にみずからを静かに振り返ることができる人は徳を積みますが、他者を毀誉褒貶する人は、毒を積んでいることになります。
 腹蔵なき人は信頼できますが、「腹に一物を持っている人」は、心の宿便を溜めているようなものであり、だんだんと腹黒くなってきます。なんのことはない、悪い人相というのは、慢性的な心の便秘症に苦しむ顔のことだったのです。
 食べ物も胃で消化され、腸で貴重な栄養として吸収されますが、便秘をして腸内に溜まると体毒となります。それと同じように、思いを腹に溜めると、怨念になります。それは心の毒であり、人徳を損ねます。
 ですから食べ物にせよ、想念にせよ、一度、体に入れたら、さっさと排泄したほうがいいのです。どちらも腹に溜めると、ろくなことがありません。私が「心と体のデトックス」と考えている健康断食を普及させたいのは、そのためです。
 徳のある人は無心であるがゆえに、人間社会の希望の光となります。とくに現在のように悲観的な世相では、徳人、つまり「タダの人」の存在がほんとうに貴重なものとなります。徳の有無は学歴や社会的肩書きとは、まったく関係がありません。トクに濁点をつけるかどうか、その人の心がけ一つで決まります。
 じつは徳の光というのは、人間の体から発せられるのではなく、宇宙の光です。それが人間の肉体を通じて、この世に現われてくるだけです。ですから、徳を積むために、なにか特別に殊勝なことをする必要はなく、宇宙の法則に沿って生きていれば、いいだけです。
 もう少し具体的な話をすれば、徳の光を手に入れるためには、笑いと、「ありがとう」の言霊がいちばんいいと考えています。わざわざお寺に行って、しかめ面で坐禅なんかしても、体の便秘だけでなく、心の便秘になるだけです。ただし、便秘が趣味だという人は、難しい修行を大いにやってください。
 そんな便秘になりたくなければ、「タダの人」に徹して、いつも屈託のない笑い声をあげ、誰にも「ありがとう」と言っていれば良いだけですから、これほど安上がりで、ありがたい修行はありません。厳しい世情を生き抜くためにも、いまこそ笑いを忘れず、すべてに感謝して生きたいものです。(2009.1.15)

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