先日、永田町の議員会館で衆議院議員にレクチャーをする機会がありました。今国会では、臓器移植法の改正案が四案も提出されていて、その内どれを選べばよいのか考えあぐねている議員が多いということで、東京財団が主体となって政策勉強会を開いたわけです。 作家の渡辺淳一氏、東大先端科学技術センターの米本昌平教授、同総合文化研究科の松原隆一郎教授、加藤秀樹東京財団会長が同席されていました。生命倫理の問題は、どれを取り上げても、複合的な要素が絡んでおり、一筋縄ではいかないのですが、かといって採決を迫られている議員に、抽象的な神学論を述べても致し方ないので、私は持ち前の単純さを発揮して、なるべく明確な話をすることにしました。 まず脳死ですが、これはどう考えても死と認めるわけにはいかないことを伝えました。なぜかと言えば、それは日進月歩の医学における「仮の概念」にしか過ぎないからです。そもそも脳死は、生命維持装置が出来るまでは存在しなかった概念だし、精度の高い人工臓器が開発されたり、人工多能性幹細胞の臓器再生が可能となったりすると、移植が不要となり、やがては死語となるのは目に見えているからです。脳死状態の人でも、脳低温療法で復活の事例が幾つもあるし、将来的には蘇生率がうんと高まる可能性は高いのです。 二番目に、生命観について説明しました。まず近代的生命観は、一神教の人間は神の似姿(imago dei)として創造されたという神話を基盤に持ち、そこには生物学的個体生命を絶対視する文化的背景があります。欧米社会でエンバーミング(遺体防腐処理)が不可欠となるのは、死を人間の敗北と見る傾向があるからです。生物学的個体生命の絶対視が、近代になって、意識なき人間を物体と見るパーソン論のような功利主義的生命観に発展することには、それなりの必然性があるのでした。 もう一つの古典的生命観は、ギリシア語でいうビオス(限りある命)とゾーエー(限りなき命)のうち、実証不可のゾーエーのほうを重視するものです。とくに、多神教文化圏では、魂は限界と他界との間を往来すると信じられ、生命の連続性こそを尊重する傾向があります。それは、「ただ生死すなわち涅槃とこころえて、生死として いとふべきもなく、涅槃として ねがふべきもなし」(『正法眼蔵』)という道元の死生観とも通じるものがあります。 三番目に、臓器移植問題の背景には、医師と患者の双方に焦りがあることも指摘しました。前者は、海外医療に技術的遅れをとる不安、病院の経営上の目論み、個人的功名心などのことです。患者の焦りとは、是が非でも生きたい、生かせたい、という欲望に由来するものです。 四番目に、移植手術後の深刻な問題が解決されていないことを指摘しました。それは、免疫抑制剤の長期使用、短命化、不自然な人格変容などのリスクがあることです。 五番目に、そういう問題意識を持ちながらも、現状を正視する必要があることを強調しました。日本には移植をするだけの高度な医療技術が存在していること、多数の移植希望者がいること、莫大な費用を工面して海外渡航しても移植優先順位が低下していること、そして国内手術の困難さが海外での臓器売買を助長していることなどを指摘しました。 そして結論として、以下の五点をあげました。(1)脳死を死と認めてはならないが、現状に合わない法的厳格化は不正医療行為を招く、(2)重要なのは透明性:本人と家族の意志表示、医療機関の情報開示、第三者機関による審査、金銭授受禁止など、(3)臓器移植の積極面を注目し、ドナーには利他の精神、レシピアントには社会貢献への覚悟を求めるなど、国民的啓蒙をすれば臓器移植は蔓延する自己中心主義への解毒剤となること、(4)この種の法安には数年ごとの見直しが必要なこと、(5)小児の臓器提供についても門戸を開いておくべきこと。 問題の複雑さから決断できない国会議員が多いため、廃案になる可能性もあるそうですが、私の意見を汲み取ってくれる一人でも議員がおられたなら光栄なことです。ちなみに、隣席に坐っておられた渡辺淳一氏に、将来に備えて「失楽園」ふう小説の書き方について指南を受けようと思っていたのですが、彼の態度に聊か不快なものを感じ、聞けずじまいに終わったことが、私にとって大いに失楽園でした。(以上) | |||
![]() 「下座の人・鍵山秀三郎氏」 | |||
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