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『不生の仏心』
  「禅師のいわく、仏心は不生にして霊明なものに極まりました。仏心は不生にして一切事が整いまするわいの。したほどに皆な不生でござれ。不生でござれば、諸仏の得ておるというものでござるわいの。尊いことではござらぬか。仏心の尊いことを知りますれば、迷いとうても迷われませぬわいの。これを決定すれば、いま不生でおるところで、死んでのち不滅なものともいいませぬわいの。生ぜぬもの滅することはござらぬほどに、そうじゃござらぬか。」(『御示聞書』)
  これは江戸時代の禅僧、盤珪永啄(ばんけい ようたく)の言葉です。誰もが生まれつき「不生の仏心」をもっているのだから、特別な信心も修行もいらないという考え方は、禅宗史の中でも、きわめてユニークなものです。
 盤珪は若いおり、異常なまでに強い求道心を持っていた人で、十二歳のときに聞いた「大学の道は、明徳を明らかにするにあり」という言葉に心が引っかかり、その明徳を明らかにするために、十七歳で出家しています。それから三年間、山に籠って坐禅をしたのですが、どうしても答えが見つかりませんでした。
 それから暫くは、あちこちの禅僧を訪ね歩くのですが、少しも納得のいく説明を受けることがありませんでした。そこで二十四歳の時に、奈良興福寺の裏山にあった庵に籠り、決死の思いで修行に取り組むことにしたのです。入口を土で固め、食事は下男に小さな穴から差し入れてもらい、大小便は庵の中から下の小川に落とすようにしたしたそうです。
 ところが、ろくに日も当たらない庵で二年近くも坐禅を続けたために体が衰弱し、結核になってしまい、お粥さえ喉を通らなくなったのです。あるとき咳をすると、親指ほどの大きさの血痰が口から飛び出て、壁を転げ落ちていきました。「ああ、これで自分も終わりだ」と思った時、ふいに「不生の仏心ですべてが整う」ということに気づいたのです。
 それが彼の大悟です。命を危険にさらし、死の一歩手前まで行くことによって、じつに平明な真理に気づいたわけです。それからは七十二歳まで生きて、多くの僧俗を導きました。今も姫路の網干には、彼のいた龍門寺という立派なお寺があります。
 「その不生で整いまする不生の証拠は、皆の衆がこちら向いて、身どもがこういう事を聞いてござるうちに、後にて烏の声、雀の声、それぞれの声を聞こうと思う念を生ぜずにおるに、烏の声、雀の声が通じわかれて、聞き違わずにきこゆるは、不生で聞くというものでござるわいの。かくの如くにみな一切事が、不生で整いまする。これが不生の証拠でござるわいの。その不生にして霊明な仏心に、極まったと決定して、じきに不生の仏心のままでいる人は、今日より未来永劫の活如来でござるわいの。」(『御示聞書』)
 つまり今朝、目が覚めてから顔を洗い、食事をし、電車に乗って、出勤しただけで、「不生の仏心」が立派に働いているということを示しています。満員電車の中で足を踏まれて、「痛い!」と感じたらな、それも「不生の仏心」のおかげです。ところが、その時、「こんちくしょう!」と思った瞬間、「不生の仏心」を眩ましたことになります。今日という日に、どういう思いを自分の魂に刻み込んだか、それだけが私たちに問われているとすれば、人に腹を立てたり、嫉妬したりするのは、とんでもないことです。
 「自分は性格が悪い」という人がいますが、親が悪い性格を生みつけたわけではありません。自分がそう思い込んでいるだけです。また私たちは、とかく他人の言動に振り回されがちですが、どういう内容であっても、問題はその言動を発している当人にあることであり、こちらの問題ではありません。他者の感情を自分に取り込まず、自分の「霊明な仏心」を汚さないように努力をするところに、日々精進の意味があるように思います。(2011・6・14)

「盤珪」