「20世紀の総括〜広島の自然破壊と環境問題〜」
井上新平
* 全体像
@ 20世紀の日本における環境問題の変遷
a)戦前の環境問題の変遷
b)高度経済成長期の環境問題の変遷
A 日本における環境状態
a)公害
b)大気汚染
c)水質汚濁,地盤沈下
B 20世紀の広島における環境問題の変遷
C 広島における環境状態
a)公害
b)大気汚染
c)水質汚濁,地盤沈下
d)動植物
D まとめ
@20世紀の日本における環境問題の変遷
a)戦前の環境問題の変遷
明治維新後、殖産興業のスローガンの下で近代的な製造技術が導入され、都市では工場が建てられ、生産活動が展開され始めた。しかし明治10年には工場周辺の煤煙、悪臭被害が発生し、生産の拡大とともに被害も拡大していった。また、山間部の鉱山や精錬所でも排水や排ガス被害が始まった。
殖産興業と急速な近代化は、自然環境にも急激な変化をもたらした。産業開発に伴う人口の都市集中のため、旧来の神社仏閣や各地の名所旧跡の森林や自然海浜が次々と失われていくとともに、都市の無秩序な開発は、災害に対する脆弱性を高めてしまうことにもなった。[参考文献:平成11年版環境白書]
b)高度成長期の環境問題の変遷
すべてのものを戦争につぎ込んだ末に日本の都市は焦土となり、多くの山は気を失ってようやく終戦を迎えた。しかし軍国主義の重圧から逃れたとはいえ、経済経営の環境への配慮はやはり乏しかった。戦前の公害体験の反省が活かされず,経済の復興にばかり目をやった。日本経済の発展に伴い、重化学工業のシェアが高まり,環境汚染が進んだ。
また、高度経済成長政策は経済活動の成長を最優先させていたので、高度成長期末期の昭和45年度においても,公共事業の約半分は,道路など産業基盤整備のための産業関連事業で,下水道,廃棄物処理,都市公園などの生活環境整備のための生活関連事業は,公共事業費の約5%程度に過ぎなかった。
加えて地域間の経済発展の不均衡も問題になったため,昭和37年には,全国総合開発計画が策定され、工場の地方分散、拠点における集中的な市域開発が方針地されたため、地方でも工業化が進み、地方における自然破壊、環境問題が深刻になった。
[参考文献:平成11年版環境白書]
A日本における環境状態
a)公害
水俣病 昭和31年、熊本県水俣市において発生した。これは工場廃水によって汚染された海域に生息する魚介物を食べることによって、魚介物に蓄積された有機水銀が体に取り込まれることにより発生した。昭和40年頃、新潟県阿賀野川でも発生した。
イタイイタイ病 昭和30年、富山県神通川において報告された。これは大正時代からカドミウム,鉛,亜鉛等の金属類が神通川の水とともに水田に流れ込み発生した。
[参考文献:平成11年版環境白書]
b)大気汚染
昭和30年代の飛躍的な経済成長によりエネルギー消費が高まり、またエネルギー源も石炭から石油へと転化した。そのため大気汚染も粉塵を中心としたものから硫黄酸化物を中心としたものへと変わりつつ、広域化していった。特に30年代以降の石油コンビナートの形成は,硫黄酸化物による広域的な大気の汚染や悪臭、水質汚染を招いた。
一方、45年頃からは都市部で、毎年夏になると、光化学スモッグが発生し、被害者が続出した。[参考文献:平成11年版環境白書]
c)水質汚濁,地盤沈下
昭和40年代に入ると、河川,湖沼,沿岸海域等の公共用水域についても、当時の高度成長,地域開発の進展に伴い、水質の汚濁が著しくなった。
地盤沈下については戦前から発生は認められていたが、昭和25年頃から水需要の急激な増加に対し、水質資源等の開発が遅れ、地下水の使用量が増加したため激しくなった。30年代以降になると、関東平野、大阪平野、濃尾平野、新潟平野、筑後・佐賀平野など全国的に認められるようになった。[参考文献:平成11年版環境白書]
B20世紀の広島における環境問題の変遷
原爆により多大な自然環境の被害を出した。
戦後では、国の所得倍増計画において昭和50年代の国の施行と、沿岸地域の自治体の企業誘致志向、企業の拡大基調と瀬戸内海の産業運河としての有用性、埋め立て適性地多、自然災害少、気候温暖などの地理・自然条件とで重化学中心の急激な工業化、都市化が進んだ。特に広島市、呉、福山の人口増加率ははなはだしかった。そのため沿岸部の自然破壊が急速に進んだ。
また経済復興が最優先目的の工業化、都市化により生活環境整備が追いつかず、昭和55年における下水普及率は27,1%8全国平均42.9%)、加えて大量生産大量消費の時勢により、ごみの焼却、堆肥化などの衛生処理率は31.9%(全国平均39.8%)と垂れ流し状態であったため水質汚濁、大気汚染などの環境破壊が進んだ。
これらの環境破壊により中国山地などの動植物などにも多大な被害をもたらすこととなった。
ここ10数年では広島市周辺において住宅地開発のための山地開発も自然破壊を招いていると問題になっている。[参考文献:平成11年版環境白書、瀬戸内からの報告、環境基本情報書]
C広島における環境状態
a)公害
明治100年的にいえば、瀬戸内地域の公害問題は、被害農民の決起、騒擾事件を背景とする明治、大正、昭和の三代のわたる別子銅山(新浜、愛媛)がある。これらによりこの地区の公害防止技術水準が、戦前においてすでに昭和30年代を上回っていたことが認められている。しかしながら戦後、そのような貴重な体験の積み重ねは忘れ去られたかのように、再び繰り返されることとなった。昭和51年には、全国的にも、瀬戸内においても公害の重要な転機になったのではないかと思われるいくつかの兆候が認められたのである。
広島においては、昭和53年から55年までのわずか2年の間に公害受理管理件数が590件から1093件へと2倍近い伸びを記録している。また実際の事件としては、広島市草津で魚カス工場日とる悪臭、汚水の訴え、呉市で鉄鋼による赤い煙害、呉市広湾でパルプ工場による養殖カキ死滅の訴え、岩国市でメッキ工場による悪臭の訴えなどがある。[参考文献:瀬戸内からの報告]
b)大気汚染
昭和30年代後半から、瀬戸内地域の、瀬戸内海の産業運河としての有用性、埋め立て適性地多、自然災害少、気候温暖などの地理・自然条件と国の政策があいまって、重化学中心の急激な都市化・工業化が進んだ。そのため煤塵や硫黄酸化物、亜硫酸ガス等の大気汚染が深刻化した。特に大竹では昭和53年から硫黄酸化物の環境順適合基準に不適合となるほど大気汚染が進んだ。
昭和55年以降の状況では、二酸化硫黄の測定に関しては改善し始めていたが、二酸化窒素、一酸化炭素、浮遊粒子状物質、浮遊粉塵、光化学オキシダントは横ばいあるいは上昇傾向にあった。[参考文献:瀬戸内からの報告、環境基本情報書]
c)水質汚濁・地盤沈下
河川、湖沼では後背地に工場、年を抱える山陽筋で問題個所が多い。広島においては、広島市内の猿コウ川、また福山市の芦田川の支流高谷川合流地点で特にはなはだしかった。(昭和55年)
また、瀬戸内海における赤潮の発生状況の推移を見ると、年を追うごとに地域的な広がりを見せている。瀬戸内における赤潮は、昭和25年から30年ごろまでは大阪湾と広島湾の奥の一部などいずれも局地的であったが40年ごろになると広域化の傾向が急速に進むとともに、発生件数の年間40件を超え、45年においては、瀬戸内海のほぼ全域に発生が見られるようになった。これにより水産資源の宝庫といわれた瀬戸内海でも、大量の漁業被害を発生させるにいたった。
戦後から20年経っても、全国的に見てもそうだったが、広島においてはさらに生活環境整備が進んでおらず、都市排水による水質汚濁が、いっそう深刻化した。
[参考文献:瀬戸内からの報告、環境基本情報書]
d)動植物
戦後の経済の高度成長期に開発による自然環境の改変が進み、全国的に自然林や干潟等が減少した。特に瀬戸内地区では沿岸部の埋め立てが進み自然環境をえらく壊した。都市化に伴う汚染や汚濁など生物の生息環境の悪化・消滅、あるいは希少な動植物の乱獲・密猟・盗掘等が進んだ。さらに里地自然地域における人とのかかわりの減少も、二次的な自然環境に適応してきた生物の生息・生育の場を減少させることとなった。
広島県の植生は、常緑広葉樹林、中間針葉樹林、落葉広葉樹林であったと考えられるが、中国山地の「たたら製鉄」や沿岸地方での製塩業のための薪炭材としての伐採等の人為的要因により、常緑広葉樹をまじえたアカマツ林が大半を占めるようになった。またこれらの植物も工業化による大気汚染や、あいつぐ宅地開発により減少の一途をたどっている。
また松に関しては、沿岸部の工業化により大気汚染が瀬戸内地域全域に広がり、そのため松が弱り、そこをマツクイムシにやられるという被害が広がった。これにより宮島も多大な被害を被った。
海洋生物に関しては、都市排水、工業排水による海水の富栄養化にともない発生した赤潮による被害、また工業排水の中に含まれる重金属などにより発生した奇怪魚がみとめられている。昭和50年の大竹での異臭魚・魚の斃死、51年の養殖カキの斃死、特に呉の広湾・同海域河川の”オバケハゼ”は有名となった。シロウオ(はぜの一種)においては絶滅の危機にも瀕している。これには瀬戸内海の流入する河川が多く栄養分が豊富であり浅海・干潟・藻場が多く産卵・生育に適しているという魚の生態に最適な環境と、黒潮分流が紀伊・豊後両水道から入り中央部で会離するので外界との海水交換が悪いという海域環境にあるのが深くかかわっている。
[参考文献:背筒からの報告、平成11年版環境白書、環境基本情報書]
図 ごみ排出量増加率