太田川 − 日本名水百選、珍魚の里

松本 安生

全体像 − 1.太田川とは?

                2.太田川と人

3.三段峡

                4.ゴギ・サツキマス

                5.まとめ

 

広島県最西端の冠山を発し、広島県西部を流れ、広島湾に注ぐ長さ103km、流域面積1700平方メートルの川が太田川である。古くからこの川の流域は「安芸の国」と呼ばれ、16世紀に毛利輝元が広島城を築城してから、中国地方の中心として発展を続けてきた。

 

−太田川の水系パターン−

 広島県の西部地域は北東−南西方向に走る断層が平行に幾重にも存在し、断層に沿う谷が発達している。このような断層群はわが国ではほかに例をみない。

 冠山に源を発した太田川は、上流部では押ヶ峠断層がある断層線に沿って流れ南流する柴木川と合流する。柴木川は高位面を流れ、河川の侵食力が強く、多くの滝を持つ三段峡を形成している。

 太田川本流は加計から中位面に入り、可部まで断層群を横切って見事に蛇行している。一方、筒賀川、水内川、丁川など断層にそう支流は直線状の谷を流れ、左右から太田川本流に合流している。太田川の水系パターンは、このように蛇行する本流と直線状の支流の組み合わせによってつくられている。

 可部からは穏やかな流れとなり、祇園までは谷底平野を形成し、それ以南はデルタを形成しつつ瀬戸内海に流れ込む。

 

−太田川デルタの形成−

 最終氷河期の末期(1万数千年前)には氷河が溶け海面が上昇を始めたが、当時、広島湾は瀬戸内海の奥にあり陸地を形成するには至ってなかった。平野が形成されるのは1万年前以降の完新世と呼ばれる時期で、可部から南流する太田川が河口に砂礫の推積を始めた。当時の瀬戸内海は穏やかであり、河口には砂礫や粘土などがよく推積した。その後推積を続けていくが、4千年程前から海面が徐々に低下し、それにより河口に推積した礫層が姿を現し広島デルタの基礎ができた。異語明治に至るまで現在の祇園大橋付近を頂点としデルタを発展させてきた。明治以降、現在の100m道路(平和大通り)付近を境とし、埋め立てによりデルタの拡大を図り現在の広島デルタを形成した。

 

−太田川の舟運−

平地が少なく、陸上交通が発達しにくい状況にあった太田川流域では、大量輸送機関として太田川を利用した舟運が発達した。舟運がいつ頃から開始されたかは明らかではないが、12世紀中頃、当時の荘園の倉敷地が設置された記録があり、年貢はまず陸路輸送され、太田川中流域で舟に積まれ、河口の倉敷地へ運ばれたものと考えられる。

毛利時代には広島城下から可部あたりまでの舟運が通じており、広島城築城の際にも建築資材の輸送に大きな役割を果たした。江戸時代に入ると広島城下と領内(芸北地域)を結ぶ動脈として上流に向かって開発が進められ、ほぼ全域にわたって舟運が展開された。

舟運の発達により可部、河戸、三田、深川、加計などの川奏が発達するとともに、運河に関連した船乗り、船大工、船問屋などの職業も発展した。三篠川筋からは年貢米、太田川上流からは木炭、鉄、紙、木地などが運ばれた。また広大な山林資源を有することから、材木を運搬する筏流しも行われた。

江戸時代には藩により舟数も株船として村ごとに制限されていたが、明治2年(1869)に統制が廃止されると同時に船数は格段に増え、明治末にはピークを迎えた。しかし、道路改良による陸上輸送の強化や、発電所建設による環境の変化によって舟運は次第にすたれ、昭和8年(1933)以降、可部から上流の舟運は途絶えた。昭和29年国鉄可部線(現JR可部線)が加計まで開通すると、舟運の衰退は決定的となり、筏流しも含めて完全に姿を消した。デルタに今も残る雁木(舟着場の階段のある桟橋)は、往時の盛んだった舟運を物語っている。

 

−太田川の水利用−

 太田川は度々洪水を起こし、人々に脅威を与えるとともに、古くから多くの恵みをもたらしてきた。太田川の占める空間が舟運に利用されてきたのは前述のとおりであるが、その清流はアユをはじめ、コイ、アマゴ、ウグイ、シジミなど様々な生物を養い、人々に食料や生活の糧をもたらした。

 また、その豊かな水は古くから流域の田畑を潤し、農業を支えてきた。明和5年(1768)に完成した定用水(現八木用水)はその代表的なものである。農業用水の乏しかった沼田郡一帯では、用水井戸や水車での揚水、古川に井出(堰)を作っての取水などが試みられたが、いずれも水が行き届かなかった。このため南下安村の大工卯之助が中心となって、八木村から取水し豊富な太田川の水を導き入れた。卯之助用水と呼ばれたこの用水による灌漑面積は、約230町歩(約230ha)に達したという。

 水の持つ位置エネルギーは、水力発電に利用される。太田川水系最初の水力発電は、明治35年(1902)、加計の丁川に設けられたが、本格的な水力発電は明治45年(1912)、太田川中流に建設された亀山発電所にはじまる。太田川源流部は豊かな降水量を有する西中国山地の連山で、その後も多くの水力発電所が作られ、西の黒部と称される大電源地帯が形成されていった。

 太田川の水は古くから飲料水としても利用されてきたが、近代的都市に不可欠な上水道は、明治31年(1898)牛田村神田に浄水場が建設され、翌32年1月から給水が開始された。また、産業の発展とともに、工業においても多くの水を利用するようになった。このように太田川の水は様々に利用され、その需要も増大した。このため、江の川から給水を受けたり、太田川の水を有効利用するため、高瀬堰(昭和50年完成)が設けられている。太田川の水は、現在呉市や竹原市だけではなく、瀬戸内の島々にも送られている。

 

−三段峡−

 島根県付近の山々を源流とする柴木川は、長さ27km、戸河内町で太田川に合流する。この柴木川流域の標高350〜750mのところに、長さ11kmにわたる峡谷が存在する。これが国の特別名称三段峡である(昭和28年指定)。1000m以上級の山々に囲まれ中国山地の最多雨地を流域にもつ柴木川は、古くはなだらかな山地を流れていたが、地盤の隆起により川の流れが急になり侵食力を強めた。三段峡の侵食は川底を下方へ深く削る力が強く、周りを断崖絶壁に囲まれた谷や多くの滝を形成している。特に、柴木川と支流の合流部では、侵食の深さの違いから滝が多く見られる。

 三段峡には見所は数多くあるが、中でも柴木川の三ッ滝・竜門・三段滝・黒淵、横川川の猿飛・二段滝が特に有名である。また、横川川に合流する田代川には奥三段峡があり、訪れる人も少なく神秘的な雰囲気を醸し出している。

 

−ゴギ−

 ゴギとは、中国地方の一部にのみ分布するイワナで、山陰では島根県下の斐伊川から高津川までが、山陽では岡山県の吉井川から広島県の太田川を経て山口県の錦川までが、自然分布の範囲である。日本に生息するイワナの中で最も西に生息する種類である。広島県では県の天然記念物に指定されており、環境庁のレッド・データ・ブックにも絶滅が危ぶまれる危惧種として記載されている。

体側は淡い茶褐色で、黒いパーマークが並び、背側は暗褐色で青みを帯びている。腹面は白、黄、橙、柿色など川の明るさにより色が変わる。頭頂から背側、側線の下にかけて、瞳大の白い斑紋がまばらに散る。全長20cm前後が平均的である。東北地方に生息するイワナによく似るが、その違いを見分ける上で重要な特徴として、頭頂に見られる明瞭な斑紋がある。この斑紋は実際には東北のイワナにも見られるのだが、その頻度は低く、不明瞭な場合が多い。その点、すべてのゴギは頭頂に不揃いな斑紋を有している。これがゴギの持つ唯一の他のイワナとの違いである。

同じ渓流魚であるアマゴやヤマメと較べるとゴギは一般的に知られることの稀な魚である。川の最上流部(平均水温15度以下)にしか住まず、さらに周辺の環境が広葉樹林でなくてはならない。この厳しい状況の中で何万年も前から生き抜いてきたのだが、近年その生息地域と個体数が激減している。原因としては、ダムを建設したため、種の移動をストップさせたこと。全山、杉松の単植林としたこと。自然林を伐採し、植林するために林道を作ったこと。山が傷ついたせいで、川に土砂がたまること。砂防提を築いたことでさらに種を閉じ込めてしまったこと。河川の護岸工事。スキー場、レジャー施設、別荘、そして中国自動車道を主とする道路などの建設。これらの地域開発によってゴギは為す術もなく減り、最後にモラルの無い釣り人の横行によっていまや末期的にその繁殖数は減っている。

 各漁協は禁猟区や自主禁猟区を指定するなどしているが、これといった保護策を施しているわけではない。さらにヤマメ、アマゴにくらべ養殖技術がいまだ充分に確立されておらず(西中国山地においては、一部その養殖に成功した人もいるが)その増殖はほとんど天然孵化に頼らざるを得ないのが現状である。

 

−サツキマス−

 サツキマスとはアマゴの降海固体で、アマゴが川から海へ下り、そして海で成長したものである。サツキマスについて述べる前にまずその残留固体であるアマゴについて述べておこう。

アマゴは、日本固有の亜種で、体側に7〜11個のパーマークがあり、背側には小黒点、側線の上下から背部にかけては朱点が散在する。ヤマメ(サクラマス)とはこの朱点の有る無しと、その天然分布域が異なっていたことからその亜種に分類される。自然分布域は、神奈川県酒匂川の右岸(静岡県)側支流以西の本州太平洋側、四国全域、大分県大野川以北の九州瀬戸内海側である。近縁のヤマメはこれを除く主に日本海側を中心に分布している。しかしながら、1970年以降は、移植や放流のために、両者の地理的分布は乱れてきた。当たり前のことなのだが、放流するのであれば両者の形態や分布の違いをよく考えて、ヤマメ域にはヤマメを、アマゴ域にはアマゴを入れるべきなのである。しかし悲しいことにそれは全くと言って良いほどできていないのが現状で、特に九州と中国地方では、ヤマメ域へのアマゴの侵入が目立つ。アマゴとヤマメは容易に交雑しえるらしく、自然分布域を考慮しない相互放流が繰り返された結果、これらの混生する河川では、まったく朱点の認められない固体から、朱点の鮮やかな固体にいたるまで連続した変異を示す。

 さて、サツキマスである(ちなみにこのサツキマスという名称はサツキの咲くころに遡上を始めるためにつけられたものである)。サツキマスはゴギと同様に環境庁のレッド・データ・ブックの絶滅危惧種の筆頭に上げられている。

稚魚期の生態はアマゴと同じと考えられるが、謎に包まれ定かではない。九月の中旬頃から主に1歳に満たないもの、まれに1歳魚のスモルト化が始まり、下流に向けての移動が始まる。スモルト化に伴い、明瞭だったパーマークは銀白色のグアニンの下に隠れ目立たなくなる。11〜3月、川の全域にわたって体調15〜25cmほどのスモルトが認められ、少し遅れて定置網やまき網でやや大型のスモルトが漁獲され始めることから、スモルトの中には直ちに降海するものがいると考えられる。河川でのスモルトには、アマゴのような強い攻撃行動は見られず、数十匹の群れを形成して遊泳し、上層や中層の流下動物を冬でも盛んに捕食する。これらのスモルトの全てが降海するわけではなく、中流あるいは下流域に下ったのち、降海することなく再び春の水温上昇とともに上流に回帰する固体(もどりシラメと呼ばれる)も存在するらしい。

 降海したサツキマスは、沿岸域で過ごし、冬から春に甲殻類、イカナゴ、カタクチイワシ、マコガレイの稚魚などを飽食し、海中生活わずか数ヶ月で急速に成長する。4〜5月に体調30〜50cm、体重300g〜1kgに成長したサツキマスは再び長良川に遡上し、産卵期が近づくにつれ、体重はむしろ減少する。夏、中・上流域に達したあとは大きい淵で遊泳し、8月には婚姻職に染まり始める。

 産卵期は10月下旬、以前は源流近くまで遡上し産卵していたが、堰堤構築後は堰堤直下の中流域の瀬頭で主に産卵している。アマゴとの生殖関係を見ると、つがいはサツキマス同士であったり、サツキマスの雌とアマゴの雄であったりその逆であったりで、両者の間に生殖隔離は認められない。またサツキマスは本州北部のサクラマスと同様に、雌が多く雄が少ない。スモルト化は性成熟と拮抗関係にあり、雄の早熟傾向がスモルト化を抑制しているためと考えられる。

 以前はアマゴの自然分布域である東海地方から四国沿岸、それに瀬戸内海沿岸にかけては普通に見られたが、相次ぐダム建設などによる河川内での環境悪化に伴って、減少の一途をたどっている。

サツキマスを語る上で何としても外せないのが長良川である。かつて太田川と同様、木曽3川(つまり木曽川、長良川、揖斐川)にもそれらの川の上流で生まれ、伊勢湾を中心とした海域の沿岸部で成長した後、川へと戻ってきたサツキマスの一群がそこにはあった。現在でもそうした自然のサイクルにしたがって、降海、遡上が個体群としてかろうじて長良川では見られるのはある。しかしながら木曽川と揖斐川は他の河川同様相次ぐダムや堰堤の建設でもはやかつての状況を取り戻すのは不可能になっている。

これは太田川でももちろん同じことが言える。太田川に沿って車で走ってみるとじつに多くの堰堤が見られる。それらの堰堤のせいで魚が川と海とを行き来するのが非常に困難になった。とくに太田川本流と根の谷川、三篠川が合流するすぐ下流にある高瀬堰はサツキマスやヨシノボリ、さらにアユなど川と海とを行き来する魚たちにとっては致命傷であった。そのせいで一時期太田川から実際にほとんどのサツキマスの姿が消えた。今は堰堤のほとんどに魚道が一応整備され、かろうじて魚がそこを上って川の上流までいけるようになり、さらに漁協をはじめとした様々なグループがサツキマスの放流を行った結果、努力の甲斐あってサツキマスの姿が毎年川で見られるようになった。

 

−まとめ−

 約100万年前に太田川は誕生したといわれている。その誕生以来、太田川はその周辺の命全てを育み、支えてきた。しかし、人間が文明というものを手に入れるにつれ、人間は自然から離れ、より住み易い環境を求めるようになった。そしてそれを満たすために木を切り、道を作り、山を削り、川をせき止め、どんどん自然を消していったのである。結果、我々の生活は物質的には大変豊かなものになった。そしてそれは我々人間にとってはすばらしいことである。当然自分もそのなかに生活している。

しかしこれは自然にとっては当然のことながら良い訳がない。人間には自然のことなどは一つも頭になく、とにかく自分たち人間さえよければ何でもいいと言わんばかりに今まで開発を進めてきた。結果として、川は汚れ、森林はなくなり、明治の半ばにはニホンオオカミが日本から姿を消し、広島でもカワウソや、イヌワシ、サツキマスがそれに続いて姿を消した。さらに今、広島の周辺ではクマやモモンガ、クマタカ、そしてゴギなどが絶滅の危機に立たされつつある。開発だけがこれらの生物を絶滅させたのではない。その背景には乱獲など様々なファクターがある。しかし、やはり人間による過剰な開発がその中でももっとも大きなファクターであろう。

先ほど述べたように、今の世の中は大変我々人間にとっては住みやすく、すばらしいものである。よくまあここまでやったものだ。人間はすごいなあと思う。何かを追い始めたらそれに追いつくまでとことん努力ができる。自分達が暮らしやすい世の中を求めて、今もまだ研究を続けている。

しかし最近よく思うのだが、もう今の状態で充分なのではないだろうか。とにかく自分たち人間がいい思いをできれば、その考えのもとに今まで開発は進んできた。しかし裏ではそのせいで地球から姿を消した生き物は数え切れないほどいる。そしてさらに今まさにその姿が人間の手によって消される寸前の生き物たちも数え切れないほどいるのである。これで良いのか?もちろん答えはNOである。最近になってようやくそれにみんなが気付きだしたような気がする。

これからは自分だけでなく自然も頭の中に入れて考えなくてはならない。これらを守るために何ができるのだろうか?もう既に絶滅させてしまったものは仕方がない。大切なのはこの失敗から学んでもうこれ以上繰り返さないこと。我々一人一人が自然を守ることについてちゃんと考え直し、どうにかして人類と自然が共生できる手立てを考えることである。これからは自然を昔のように豊かな状態に戻す研究をしていかなくてはならない。難しいことだが、ここまで自分生活を豊かなものにできたのだ。だからできないわけがない。何年かかるかは分からないが、今からでも遅くはない、しかももう既に我々の中にはそれを始めている人たちもいる。今度は我々一人一人がちゃんと考えて、行動を起こす番である。

 

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