1999年8月2日(月)から2000年3月31日(金)まで,文部省在外研究員(若手教官)として,
アメリカ合衆国テキサス大学オースチン校に派遣されることになりました。

このページでは,8ヶ月にわたる滞在の記録をつづっています。


3月1日−31日 : 最後の問題―そして帰国

3月1日
Carlos さんが今日まで滞在されていることもあり,今日のランチも,Gordon 先生, John,Carlos, Hugh, Emily,そして私で近所の中華レストランへ行った。
Emily Hamilton は,Alan のところへきたVisitor で,このセメスターの間だけだそうだ。
Alan の論文を読んでいるといっていた。
3月2日
まだ早いのだが,忘れないうちにと,帰国便のreconfirmation をした。
American Airline は,日本語によるフリーダイアルを用意していて,簡単だった。
座席指定もチャイルドミールもOK。
だんだん帰国の気分が高まってくる。
3月4日
いくつかの荷物を発送した。
日本から船便で送ったときの半額ぐらい。安い。
**
車の保険屋にいって,解約の手続きを聞いてきた。
現在,うちの車はすでに61000マイル強走行している。
つまり10万キロだ。
ところで,ガソリンの値段が毎日のように上昇している。
1ガロン(3.8リットル) $1.45 という店もでてきた。
***
現在,同室の松田君の運転練習をしているが,いよいよ来週は受験予定。
3月5日
今日のトポロジーセミナーでは,私が講演した。
こちらにきてから始めた研究テーマは一応決着しているので,それを話した。
先日のSouth Alabama 大学での失敗とは違い,今回は時間内で予定していたところまで きっちり話せたが,英語での講演はもう上達しないのではないかと思ってしまう。
特に,どうしゃべるか,前もって英作文しているわけではなく,思いつきで話しているからだろうか。
もっとも,たった8ヶ月のアメリカ滞在でそうやすやすと上達するわけはないのだろう。
3月7日
今日の午後,松田君が運転免許試験に挑戦したが,結果は不合格だった。
縦列駐車はないとふんでいたのだが,やまがはずれた。
火曜日に数回,練習はしていたのだが。残念だった。
3月8日
明日の再試験に向けて,夕方,松田君の縦列駐車練習をした。
**
レンタル家具のピックアップを予約するために電話したのだが,留守電になっていた。
おり返し,連絡があるはずだが。
明日,月末での車の保険の解約をお願いする。
3月9日
レンタル家具店から電話があり,ピックアップの予約がとれた。
**
妻の自転車を処分しないといけないのだが,John に,娘のGwen ちゃんにいらないかと たずねたら,一度,家で相談してきてくれることになった。
**
さて,今日は松田君の2度目の運転免許試験。
予想通り,縦列駐車から始まった。
残念ながら,うまく入らなかったが,結果は合格。
他の減点が少なかったからだ。
なにはともあれ,本当によかった。
3月13日
今日から1週間,大学は春休みだ。
先週,John にきいたら,彼は大学で研究するといっていた。
きっとCameron 先生もきているに違いない。
3月15日
今日の夜から土曜日まで,日本から水江くんが遊びにくる。
彼は学校教育学部の学生だったが,その後,大阪大学大学院に進学して, この3月で無事修了予定。
私のゼミ生ではなかったが,講義に出席していた学生だ。
**
夜,娘と2人で空港に迎えにいった。
予定通りに到着したのだが,荷物の1つが出てこない。
最後まで待っても結局出てこず,デルタ航空のカウンターでクレイムをつけたら, きっとダラスからの乗り継ぎ便につみそこなったということで, 4時間以内には配達できるという返事だった。
アパートで待っていたら,約4時間たった0時前,配達がやってきて,ほっとした。
3月16日
朝,娘をdaycare に送り,そのまま,水江君と私でテキサスの州議事堂へ。
その後,大学を案内し,近所のみやげ店と本屋などをまわる。
午後,Texas Star Fair and Rodeo という祭りを見に行く。
移動遊園地が主で,娘は大喜びだった。
子ども用の乗り物だけでなく,なかなかの絶叫マシンもあり, 水江君にお願いして,とんでもないマシンに乗ってもらった。
見ているだけでもぞっとしたが,水江君は大丈夫だといっていた。
晴天で,暑かったのだが,天気予報どおり,夕方から天気が激変した。
黒い雲が近づいてきたので,引き上げてスーパーで買い物をしたのだが, スーパーを出るときにちょうど激しく雨が降り始めた。
ラジオをきいていると,ちょうどその頃,Austin のすぐ北部で小規模のトルネードが 発生していた。
**
夜,雷雨が続いていたが,ほんの一瞬,停電した。
復旧後,アラームが誤作動し,警報音が止まらなくなった。
Emergency用の電話番号にかけようとしたら,電話もきれていた。
電気を使用していないはずなので不思議だ。
仕方なく,階下に住んでおられるマネジャーに助けを求めた。
夜10時ごろのことで,事情を説明したら,私の部屋にきてアラームを 解除しようとしてくださったが,解除コードが働かない。
落雷か停電の影響で完全に誤作動しているようだ。
最終的に,マネジャーのご主人がこられて,奥のクローゼットにある アラーム用の主電源をぬいてくださった。
主電源の場所は,安全のため,わかりにくい場所にある。
実は私も電源を落とすことを考えていたが,場所がわからなかった。   
3月17日     
天気は相変わらず不安定。
午後から,水江君をつれて,San Antonio のMarket Square へ。
天気のわりには,やけに混んでいて,考えていたレストランに入れず。
早めに引き上げ,夜,Lake Austin に面したメキシコレストランにいく。
久しぶりに食べるとおいしいのだが,量が多すぎる。
3月18日     
朝,水江君を空港へ送る。
午後,こちらで知り合った方に招かれて,BBQ パーティ。
娘は,たくさんの子ども達といっしょに遊べて楽しかっただろう。    
3月19日     
雲一つない晴天だが,風が強くて肌寒い。
まだいったことのないところということで,Austin から西へ1時間,
Fredericksburg という街へ出かけた。
名前の通り,19世紀にドイツからの移民が開拓した街。
本当はその街の18 マイル北部にあるEnchanted Rock というはげ山にいきたかったのだが, いってみると入場制限をしていて,午後4時まで入れないという。
あきらめて,Fredericksburg へ戻り昼食。
メインの通りに沿って,風情のある町並みが展開している。
Hill Country における1つの有名な観光地らしい。
観光客でずいぶんにぎわっていた。
Austin からの道中,テキサスの花であるブルーボンネットが,そこかしこに群生して, 紺色の花を咲かせていた。
楽しいピクニックだった。
3月20日     
Spring Break があけて,大学に活気が戻ってきた。
今日も昨日同様,晴天。
朝一番で,議事堂そばにあるTax Office にいって,車の所有者変更手続きを聞いてきた。
ガイドブックなどにあるように,あらかじめ検査場で点検などをしてもらう必要はなく, 安心した。
売り手の側は,書類の作成だけで,簡単だ。
あとは買い手である松田君側の手続きだけだ。
**
ランチは,Gordon 先生,John,Hugh,Michael Starbird といういつものメンバーに, Yoav Rieck くん。
彼はもともとGordon 先生の学生だ。
日本にくる可能性があるといっていた。
実現するとよいのだが。
**
John の娘さんに妻の自転車を譲る話だが,サイズがいいということで, めでたく引き取ってもらえることとなった。
今週末にでも取りに来てもらえることになった。
ひとつ,問題が片付いた。
3月21日     
帰国直前に泊まるホテルを予約した。
いろいろ考えたあげく,結局8月から9月にかけて1ヶ月滞在した,なつかしのHawthorn Suites Hotel に決めた。
少々,割高だが,間違いがない。
**
松田君から車の代金を小切手でもらった。
**
天気が悪いので,娘のピックアップは私が行き,そのまま帰宅。
午後,Gordon 先生のお宅へお借りしていたものを返しに伺う。
6ヶ月以上お借りしていたギターともお別れとなり,しばらく寂しくなる。
奥さんのSusan さんとお会いするのも久しぶりだ。
ちょうど息子さんが帰ってきておられていて,1時間ほど,お茶をいただきながら, お話できた。
息子さんはまだ20歳にならないぐらいだろう。
イギリスでの仕事を探しているそうだ。
数学は嫌いだそうで,Gordon 先生は残念がっていると,奥さんは言っておられた。
息子さんは,Gordon 先生と違って,それほどギターは弾かないそうで,ドラムがほしいらしい。
Susan さんは,Gordon 先生のギターには,もうあきあきしているそうだが。
3月22日     
銀行にいって,松田君からもらった車の代金を私の口座に入金する。
小切手に裏書がいることを初めてしった。
**
夕方,松田君に付き添って,車の保険を購入しにいく。
車の写真をとる必要があるとのことなので。
**
最後に,前のアパートへ。
昨年12月に払った$2275 の小切手が,まだ落ちていないのだ。
来週には口座を閉めるので,とにかく相談しなければならない。
行ってみると,受付のスタッフはまたまた変わっていて, 私が小切手を渡した前任者がたくさん仕事を残していったそうで, 新しいスタッフがぶつぶつ言いながら机の上の 未処理の書類の中から,私が払った小切手を出してきた。
事情を説明したら,今日換金するといった。
ともかくこれでこの問題は決着した。
予想通り,違約金のバックはなかった。
期待していたわけではないが,いっしょに当時のマネジャーと 話し合ってくれたJohn がこのことを知れば,かんかんに怒りそうだ。
3月23日     
今朝,松田君が無事,車の所有者変更を済ませたので,これで もう私の車ではなくなった。
**
ケーブル会社に電話して,切断の予約を入れる。
**
夜,Gordon 先生と奥さん,息子さんと私たち家族で夕食。
Lake Travis がみわたせるIguana Grill というメキシコ料理店に連れていってもらった。
Gordon 先生は,いつも披露するという記憶トリックをしてくださった。
こちらが勝手にいった25個の物をすべて記憶するというもの。
ビールが入っていたせいか,途中でミスられたが,やり方を教えていただいたので, 練習して教育学部での講義で試してみよう。
夕食後,Gordon 先生のお宅におじゃましてお茶をいただく。
娘はずっと楽しみにしていたトランポリンを楽しんだ。
3月25日     
夕方からJohn の家に招かれてパーティ。
うちから,妻の18段ギアのマウンテンバイクを,娘さんのGwen ちゃんにもっていた。
到着したら,すでにHugh とJohn はビールを飲みながらバスケット中継を見ていた。
Michigan State 大学とIowa State 大学によるファイナルだという。
夕食前,John の家の庭にあるバスケットゴールで,John,Hugh,私とGwen で 2対2のゲームをしたのはよいが,私も年をとったもので,途中で疲れて参ってしまった。
そのうち,Alan が彼女づれでやってきた。
夕食が始まるまでずいぶん時間があり,私は主にJohn の奥さん,その妹さん, John の奥さんのおかあさんと話していた。
奥さんのおかあさんとは,クリスマスイベントのときに一度お会いしている。
**
夕食は,John の一家,John の奥さんのおかあさん,John の奥さんの妹さんと息子, それに数学関係のメンバーというなかなかの人数で始まった。
John が最近買ったというグリルでバーベキューを焼いてくれた。
Hugh はいつもと違い,ずいぶんわきまえた姿勢だった。
Alan は彼女といちゃついていた。
**
夕食,デザートの後,Alan と彼女,Hugh は帰った。
帰り間際,picture がどうのこうといっていて,きっとAlan は 写真ぎらいなのだろうと勝手に想像していた。
しかし実はそうではなかった。
まぁ,適当に切り上げて帰りたいという気持ちは,Alan には, はじめからあったとは思うが,John たちといっていたことはpicturist という ゲームのことだったのだ。
おもむろに,John が小さい黒板を出してきて,チーム分けが始まり, そのゲームをすることになった。
これがなかなか大変だった。
John の家族,親類と私の家族で,チームを作る。
各チームから順にひとりづつ出てきて,カードをひく。
そこに書かれている言葉を,絵だけで自分のチームのメンバーで 当てさせるというもの。
いわばジェスチャーゲームのようなもの。
本当はもう少し複雑だが大筋はこんなもの。
たとえば,私が絵を描く番にカードをひくと,「funeral」とある。
制限時間内にわがチームのメンバーにあててもらわなければならない。
映画でよくみかける葬式のシーンをかいたら,とびかう怒号の中, John の奥さんの妹さんの息子が,その言葉を言ったように聞こえた。
私が「You said "funeral"?」ときくと,Yes というので,みごと正解。
John にトリッキーだとひやかされたが。
とにかく,小学生が3人いるわけで,絵描きが始まると,怒号のように みんなが叫ぶので,大変な騒ぎだ。
私や妻が正解を出すということは,英語のハンディからいって, ほとんど不可能だった。
**
ゲームが終了して,お別れをしたのはもう22時すぎだった。
楽しかったが,疲れた一日だった。
娘は帰りの車の中で寝てしまった。
3月26日     
午後から,こちらで知り合った方に招かれて,息子さんの 誕生日パーティに出席した。
といっても,いきつけのKiddie Acres という小さい遊園地で行われるもので, パーティのあとは,娘はいろんな乗り物にのって楽しんできた。   
3月27日     
午前中は,娘のdaycare への送り迎え。
妻の自転車がもはやないからだ。
電気,ガス,電話の各会社に電話して,disconnect の依頼。
**
午後2時からのトポロジーセミナーには出席した。
Gordon 先生の学生であるJason くんが,curve complex における頂点間の距離を 計るアルゴリズムの存在について話した。
**
セミナー終了後,銀行へ。
口座をしめるためだが,案の定,先週の水曜日にもめた前のアパートに支払った 小切手がまだ落ちていない。
これでは口座をしめられない。
実は,毎日,Internet で残高をチェックしていた。
先週の金曜日の時点でまだ落ちていないので,不審に思い,前のアパートに電話までして 確認したのに。
こんなことになるのではないかと予感していたが,口座の閉鎖はいったん棚上げにして, 再び前のアパートへ。
先週の水曜日にあった担当者がいた。
1時間ほどの話し合い。
ずいぶんもめたが,状況は100%理解できた。
まず,私の側になんの落ち度もない。
担当者であるTania は,彼女の言葉どおり,先週の水曜日の時点で 私の小切手を確かに処理していた。
私がこのときまでわかっていなかったことは,この「処理した」という意味。
アパートの経営母体である企業の取引銀行Bank of America に現在,私の小切手が流れている。
あとは,Bank of America が私の口座からいつ現金を引き落とすかという段階なのだ。
こういったシステムの説明の後,よってTania にはもうコントロールできる問題では ないと逃げてくる。
私には,このあとすぐ口座をとじる権利すらあるとごねた。
それなら帰国日の前日である水曜日まで待ってくれという。
今日の時点でできていないことは,水曜日になってもできていない可能性が高いと私。
最大限譲歩して,口座の閉鎖を水曜日まで待ってもよいが, そのときは,Bank of America が小切手をクリアしていようといまいと,口座を閉じると いきまいた。
これは効いた様で,彼女はすぐにBank of America に電話して, 私の小切手の処理を促そうとしたのだが,すでに銀行側が業務を終了していて, 電話に出てこない。
結論はこうなった。
明日の朝8時半,彼女がBank of America に電話する。
そして私が水曜日に口座を閉じることを伝えて,処理を直ちにすることを要請する。
Bank of America の返答を,すぐに私に電話で連絡してもらう。
どういう結果になろうと私は水曜日に口座を閉じる。
前のアパート「Trestles」は最後まで足をひっぱってくれた。
(本当に口座をしめるかどうかはまだ決心していない。
しばらく口座を保存して,後に残金転送・閉鎖処理をするというoptionもあろう)
**
大学の研究室からは全ての荷物を引き上げた。
アパートの中も徐々にがらんとしてきた。
いよいよこのアパートともお別れだ。
前のアパートと違って,今のアパートは本当に快適だった。       
3月28日      
朝,まず娘をdaycare へ送る。
今日が最後だ。
**
アパートに戻って電話を待つ。
しかしいくら待ってもかかってこない。
とにかく荷造りを進めていると,10時半前,電話がなった。
それは前のアパートのTania からではなく,Bank of America からの電話だった。
事情は理解していて,私の口座がある銀行Credit Union の連絡先を教えてくれという。
電話番号を伝えたら,15分でかけなおすという。
結局電話がかかってきたのは30分後。
Credit Union の担当者とBank of America の担当者と私が 同時に回線を保有して,処理は簡単にすんだ。
やればできるではないか。
全てがすんでほっとしていると,すぐに前のアパートのTania から 電話がかかってきた。
全部すんだでしょ?という電話。
確かにすんだとだけ伝えて,Thank you とはわざといわなかった。
**
昼前,娘をdaycare に迎えにいく。
いつもより少しだけ早めにいって,娘のサマンサ先生や友達たちとの 写真をとった。
サマンサ先生は,娘に「YUI」と文字の並んだネックレスをくださった。
スタッフのみなさんにお別れをして,daycare をあとにした。
**
昼食後,私は郵便局に荷物の発送。
2回の往復で4箱発送した。
全部,船便だから日本につくのは2ヶ月先だろう。
日本から発送したときの半額くらいですんだ。
**
私が帰宅すると,ちょうどレンタル家具のpick up が到着していた。
家具がなくなってがらんとしたアパートをみるとさびしい。
**
午後3時半,アパートをたって,銀行へ。
口座を閉める。
いろいろ議論したが,結局,もっとも簡単な方法であるcash で, 残高を引き落とした。
その足で,松田君のところに荷物を運ぶ。
4月からAustin にこられるある方に,うちに荷物のほとんどを お譲りすることになっているからだ。
ただ,私たちの出発とその方の到着に時差があるため, 一時的に松田君に保管してもらうという作戦だ。
**
松田君のアパートから,なつかしいHawthorn Suites Hotel へ。
チェックインしたのがちょうど5時。
夕食がついているホテルなので,3人ともすぐ夕食をいただいた。
**
夕食後,アパートに戻り,妻は部屋に掃除機をかけた。
その間,私はホテルへ全ての荷物を運んだ。
アパートに戻り,妻と娘をのせて,ホテルへ。
本当に長い一日だった。   
3月29日      
夜明け頃,嵐が通過した。
ちょうどそのころ,Dallas の隣にあるFort Worth にトルネードが発生したそうだ。
**
朝一番で,アパートに戻り,最後の荷物を引き上げ,鍵を返却。
なにかとお世話になったマネジャーさんにも挨拶ができた。
**
妻と娘をいきつけのCaptial Plaza で降ろして,私は大学へ。
数学教室のあるRobert Lee Moore Hall の下まできたら,前をJohn Luecke が歩いている。
彼にお別れの挨拶をしつつ,エレベータを待っていたら,ちょうどAlan Reid がおりてきた。
Alan にお別れをして,John と12階へ。
ちょうどCameron Gordon 先生が部屋から出てこられて,最後のご挨拶をした。
私の部屋がある13階に上がると,ちょうどHugh Howards がいた。
同室の Alex とRicaldo はいなかった。
数学教室事務におりて,Nita さんに部屋の鍵を返却。
事務局に挨拶をして,すべてが完了した。
驚くほどとんとん拍子に,最後の挨拶がすんでいった。
**
予想に反して時間があいたので,大学のすぐ近くにある楽譜店にいって,Fingerstyle の Guitar 譜を3冊買ってしまった。
収録曲がいまいちだが,William Ackerman のcollection がみつかり,幸運だった。
**
Capital Plaza に戻ると,ちょうどホテルに向おうとしている妻と娘を見つけた。
今日は30℃にもなる暑さだった。
3人でホテルのプールに入ろうとしたら,なんと水が汚れている。
私たちのアパートではとっくにプールが始まっていて,今週は妻も娘もひと泳ぎしている。
このホテルではまだプールに入る人がいるとは思っていなかったようだ。
娘は大のプール好きだから,納得させるため,少しだけ浸かって遊ばせた。
そのあとすぐにお風呂に入れて,体を洗った。
**
午後,最後の買い物。
夕食後,いきつけの本屋へ。
**
ホテルに戻り,最後の荷造り。
これで私たちのAustin 滞在も実質的に終了した。   
3月30日      
午前5時起床。
最後の荷造り。
午前6時,ホテルを発ち,まず松田君を迎えにいく。
実は,車はすでに彼の名義に変更済みで,今日,空港からは彼が運転して持って帰ることになっている。
**
松田君をのせて,空港に到着。
彼とはそこで別れた。
check in 後,電話したら,無事,アパートまで帰りついていたので安心した。
今回が,彼にとっては初めてひとりで運転する機会だったからだ。
**
2時間の待ち時間の後,AA61 便にてDallas へ。
わずか1時間ほどの飛行だ。
Dalls-Fort Worth 空港は,とても大きい。
Terminal 間の移動に電車にのるのだが,乗り継ぎは1時間しかなく, ゲートについたら,すぐに日本への便の搭乗が始まった。
東京行きだから日本人がたくさんいるかと思っていたが,意外と少なくて, 中国人だらけだった。
成田でのりついで,台北などへいくようだ。
**
13時間半のフライトはつらかった。
娘は2度ほど,短い睡眠をとったが,私と妻はほとんど眠らず。
幸い,おもしろい映画をみれた。
「007 The world is not enough」と「The sixth sense」。
ついでに「釣りばか日誌」も観た。    
3月31日      
ここからは日本時間。
31日午後3時半,成田到着。
預けた荷物もすべて到着。
すぐに宅急便で広島に送った。
成田空港内でたべた食事は,本当においしかった。