1994年頃に行った東広島市の町並み調査の際に、ひとつの疑問を残していた。25年も経ってしまったが、疑問が解けないまま、フェードアウトするのも残念なので、次世代のためにWEB上に提示しておきたい。下記の報告書に恐る恐るほのめかしておいた。私は建築学、都市計画学が専門なので、歴史学や考古学の研究をまたなければならないが、誰かが意図を持って都市計画を行わなければ、これほど合理的な形態は取れないだろう。図を挙げておくので誰かがしっかりとした研究をしていただければ幸いである。その場所は戦後、耕地整理事業によって碁盤目の間隔が変わり、正方形グリッドでなくなり、また市街化したので、わかりにくくなっているが、直交する街路網は継続されている。
広島県の西半分はかつて安芸の国と呼ばれた。奈良時代に国府、国分寺、国分尼寺が今日の東広島市の西条地区に置かれたとされているが、考古学者によって国分寺跡は発掘され、すでに公園整備がなされている。しかし国府と国分尼寺の位置がいまだに確定していない。国府は平安時代には今の広島市域内の府中町に移ったとされ、小規模なその輪郭がおおよそ推定されている。西条の地には百年間くらい存続していたと考えられるが、千二百年も経過していて痕跡もほぼ消えてしまっていると思われている。
実は25年前に町並み周辺域の地籍図や古い航空写真などを詳細に見ていて、現在の東広島市中心部の西に碁盤目の敷地割が目に止まった。これまでこれは田園の条里制の痕跡と見做されてきたが、『芸藩通志』という江戸時代後期の資料をもとにこの地区の図面復元をしてみると、「西条東村」という村域内に輪郭が一町=100m強を単位とする正方形グリッドからなる、ほぼ正方形の碁盤目の地区をすっぽり包むこととなった。それは方八町の国府と見てもよいような街路構成となっていた。山口県防府市には方八町の周防国府跡がよく残るが、同様の安芸国府があったものと言えようか。
古代都城は中国にならって四神相応をもとに設計されたが、ここでは北の玄武は少し盛り土してある諏訪神社、東の青龍は半尾川、南の朱雀は敢えて言えば安芸津の港のある瀬戸内海、西の白虎は旧山陽道の西への続きと見立てることができる。『芸藩通志』付図には、 平城京の朱雀門に相当するような場所に「焚賣門」という意味不明な名称が記入されているが、古代風のこの名称は曰く有りげである。ここから南へ、朱雀大路に相当する直線道があったろう痕跡が復元できそうである。南の丘陵上にある前方後円墳「三ツ城古墳」から盆地景観が開けるが、国府もその中央に見渡せたはずである。山陽道は北から碁盤目のどこかに入り、直角に曲がって国庁の前を通り、まっすぐ西に延びていたと想定できる。半尾川は今も南北に直線的に流れるが、国府設置の合わせて流路の整備を行っただろう。
「西条東村」という名称が面白い。なぜならそれは今日の西条地区の真ん中あたりにあり、決して東とは言えないからである。勝手な想像だが、実はもともと条里制が敷かれたこの盆地には西条と東条があったのが、いつか東条の名が消えて西条で一括されたようである。だからかつては西条の東端部だったこの地区が拡大した西条の真ん中になってしまったのだろう。つまり、西条盆地の中央部、西条と東条に挟まれた場所に国府があり、それが移転した跡に「西条東村」となり、その後、東条の名が消えたと考えれば辻褄が合う。
このように、国府の姿としてかなり確からしく妄想することが可能であるが、あくまで図面上で読み込める想像の域を出ない。国府があったとして、他にこれ以上の条件を揃えることができる場所はないと思われ、どなたかに吟味していただきたいものである。もしも確証できれば、東広島市の都市イメージに重厚さが大きく加わるはずである。
参照= 杉本俊多他著, 『東広島市の町並み-西条四日市と白市-』, 日本観光資源保護財団, 1994.
(図番号は本報告書掲載時のもの。)