16世紀の日本に正五角形のルネサンス型理想都市が築かれた?

正五角形頂点に位置する白市中心部の航空写真(1981)

・・・下図の復元図上では、D の位置

現在の白市

 

 広島大学のある広島県東広島市の町並み調査を行っていて、意外な発見をすることとなった。正五角形の都市計画の痕跡である。そこは16世紀初期に戦国城下町が築かれたという白市という地区である。

 白市は江戸時代初期の国指定重要文化財「木原家」が現存することで知られている。古い民家としては全国でも貴重な例である。

 本格的な城下町の計画としては、信長による安土の山城と町が有名であるが、ここはそれを約半世紀遡る。しかも見出された者はかなりな精度の正五角形である。いったいそのような幾何学的都市計画の理論が16世紀初めの日本にありえたのか、現代の歴史学の常識では考えられないことである。しかも中国地方の田舎にである。これを見つけた当時からいまだに不思議さは払拭できないが、正五角形が地面に描かれて言うことは否定が仕様もなく、それが16世紀初期意外には時代を推定しようがないことも否定できない。

 何かの間違いであれば気が楽ではあるが、これが確かのあったのならば、日本の都市計画史の常識を覆す、大きな発見であると言わざるを得ない。なぜかということをこれから紹介したい。

 

 そもそも白市とは、戦国領主が群雄割拠する中、文亀三年(1503)にこの地域の領主平賀弘保が平地にあった小規模な館に満足せず、複雑な地形で攻めるのに困難と思われる白山(標高314M)に城を築き、その下に建設した町だったとされる。その後、平賀氏は毛利の配下となり、関ヶ原の合戦後、毛利氏が萩に移封されたのに伴ってこの地から去り、同時に城も捨てられた。白市は平賀家の傍流である木原家が非軍事的な地方経済の拠点として江戸時代を生き抜くこととなる。

 

 なぜ正五角形でなければならなかったのか。ひとつには軍事的な守り神であり、星形をシンボルとする妙見信仰があったものと想像される。もうひとつは陰陽五行説である。ちなみに、ここでは東西・南北軸と正五角形が併せて用いられており、風水の方位についての理論も背景にあると考えられる。

 

 参照= 杉本俊多他著, 『東広島市の町並み-西条四日市と白市-』, 日本観光資源保護財団, 1994.

 

 

 

白市戦国城下町計画の推定復元図
 

a=福岡八幡神社

b=木原城跡

c=白山城跡

d=稲荷神社

e=屋敷跡(?)

f=屋敷跡(?)

g=砦跡(?)

h=養国寺・土宮神社

i=御土居

j=砦跡(?)

k=砦跡(?)

 

破  線=五角形街路

       (ABCDE)

一点鎖線=東西・南北軸

二点差線=対称軸補助線

点  線=路地軸補助線

 

 

 

 

復元図解説

 

 白山城(c)と福岡八幡神社(a)は同時期に建設されたとされるが、acはほぼ東西軸をなす。支城である木原城(b)と、

おそらく見張り台の役目も持ったと思われる高台の稲荷神社(d)は南北軸よりやや傾斜するが、e地点でac軸と交差する。

 ABCDEはほぼ正五角形をなし、e地点がその中心をなす。ただし、CD、DEの道の半分くらい、およびABが地面に痕跡として残るが、その他は推定復元である。

 CDEの角度はほぼ108度、またBAcは54度であり、復元できるBAEも108度となる。周知のように、正五角形の頂点の角度は108度である。

 

 D付近が城下町の集落の名残であり、国指定重要文化財の木原家が現存する。そこには108度の角度を持つ平行四辺形の路地網の痕跡が残り、二筋の道によって構成された町並みがあったと推定される。

 

 なお、この付近は複雑に起伏する、いかにも防衛的な理由で選んだ土地と言え、集落は急な坂の連続となる。実際には不合理な都市計画であったが、そこまでしても正五角形にこだわらなければならない、砦の都市の理論があったと言うべきである。(ちなみに、サンフランシスコが碁盤目の街路計画を行ったために、市街地が急な坂の連続となり、ケーブルカーが名物となってしまったことがよく知られるが、それと似ている。) 

 

   
 (c) Toshimasa Sugimoto