もう2年半になるが、あの運命的な日をご紹介しておこう。
2001年9月初旬、ニューヨーク一週間の旅をしました。目的はMoMA(ニューヨーク近代美術館)とホウットニー美術館で開催された二つのミース・ファン・デル・ローエ回顧展を見、併せてグローバル・キャピタルのニューヨークが地球環境時代に何か変化を来してきていないか、取材するためでした。まさか、あのような事態に遭遇するなど、知るよしもなく。
9月11日朝9時頃の便で帰国するべく、早朝にブロードウェイのホテルを出、ラガーディア空港に到着。搭乗してベルトを締めるまでは何の変わりもなく。しかし、航空機は一向に滑走路へと移動しない。そのうち機内放送があり、何だか遅れるようで、整備に手間取っているよう。改めて聞き取りにくい機内放送。隣の女性が携帯電話でどこかに急ぎの電話をしたと思ったら、飛び出していった。そこから私の生涯初めてと言うべきザ・ロンゲスト・デイが始まった。
航空機から降ろされて、空港の案内放送には、"New York is in emergency!"
の一言が混じる。何が起きているのかもわからない。機内から戻された思い荷物を引きずりながら、近くのホテルに電話してもすでに満室。大量の乗客が一斉に出ていったので、バスもいっぱい。途方にくれはじめた時に当時の東海銀行ロンドン支店の若い日本人といっしょになり、タクシーでペンション探しへ。
タクシーの運転手が、「俺は見たんだ。」と言い始め、WTCの事態を知る。しかし、まさかと、半信半疑。ラガーディアからマンハッタンに近づくに連れ、たなびく黒煙が見えてきた時の驚きは、頭の中が真っ白になる。タクシーに2~3時間は乗ってクィーンズからブルックリンを彷徨ったように思う。マンハッタンに渡ろうとしたが、大渋滞と交通規制でできない。マンハッタンからは群衆が歩いて帰宅してくる。ほとんど戦場の風景と化してしまっている。昼過ぎになって、運転手は家に帰って休憩したいという。彼の安アパートに日本人二人で一服させてもらう。エジプト人の中年の運転手の顔がアラファトに似ていて、ちょっと複雑な心境。
相方は電話で東海銀行と連絡を取り、今日は銀行のフロアで寝るしかないということになる。パークアヴェニューにある東海銀行ニューヨーク支店に出かけるのに、もちろん道路は大渋滞、とりあえずはクィーンズボロ・ブリッジを渡るべく、旅行一式の重い荷物を引きずりながら、体力勝負で石畳やアスファルトを歩く。幸運にも電車が動いていて、橋をわたってパークアヴェニューへ。
東海銀行ニューヨーク支店にお邪魔して、改めてハッとする。向かいにかのミース・ファン・デル・ローエのシーグラムビルが見える。ミース・ファン・デル・ローエについて考えるべく訪れたニューヨーク。もっと勉強して行けと言わんばかりのことに、なにやら運命的なものを感じてしまう。
書きたいことが脳裏に山とあるのだが、時間もないので、いずれ年金生活になった時にドキュメント小説でも書きたいので、ここはこれくらいにしておこう。その後数日、空港が閉鎖されたが、幸運にも空港が開いた朝の便に乗ることが出来、帰国するに至る。
日本の人たちは私が何が起こったのかわからない時にすでに生のテレビで事態を知っていたと言う。しかし、対岸の火事の実態を取り違えている。「同時多発テロ」の言葉に違和感を感じてから、21世紀の世界の実状が日本人に見えていないことを嘆かわしく思っている。この言葉を英訳しても世界では通用しない。アメリカ人にとっては、"Attack
on
America."つまり「アメリカ攻撃」だったのであり、ニューヨークでの数日間は戦争が始まり、次の攻撃に迎え撃とうという戦時意識に満ちてきていた。個人主義と競争社会のニューヨークは、一日にして相互扶助の社会に変わった。ホテルの中に家庭のように助け合う風景が出現したのには、暖かいものを感じた。テレビではエンパイアステートビルが避難命令が出た、次はタイムズ・。スクエアだと、ニューヨーク中に緊迫感がみなぎった。町に出ると交通規制を行ったマンハッタン南部地区では、のんびりとした歩行者天国が広がる。きな臭い匂いと薄い煙がただよっているのを除けば、そこはまさに天国のようでもあった。
21世紀のグローバル社会と素朴な人間的感覚との対立の構図は、古典主義とロマン主義の二元論にも似た、潜在的な意識構造をなしている。この摩擦は当分継続する。実はそれは建築のデザインにも反映しているように感じる。これもまた多くを語る余裕がないのだが、ドイツ新古典主義建築家のシンケルについての研究、その継承者でもあるミース・ファン・デル・ローエについての研究は、そのような琴線にふれるものを私に教示してくれている。この事件に出くわしたことが、私にとって運命的に感じるのは、21世紀の建築デザイン思想のテーマがそこに見え隠れするからである。
そのように考える過程で、私はドイツ人建築家の1930年代の活動が気になってきて、次の研究テーマにし始めた。
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