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走れメロス 太宰だざい 治《だざい おさむ》

メロスは激怒した。必ず、かの(1)邪知暴虐の王を除かねばならぬと決意した。メロスには政治せいじがわからぬ。メロスは、村の(2)牧人である。笛を吹き、羊と遊んで暮らしてきた。けれども邪悪じゃあくに対しては、人一倍に敏感であった。今日未明、メロスは村を出発し、野を越え山越え、(3)十里離れたこの(4)シラクスの町にやって来た。メロスには父も、母もない。女房《にょうぼう》もない。十六の、内気な妹と二人暮しだ。この妹は、村のある律儀《りちぎ》な一牧人を、近々花婿として迎えることになっていた。結婚式も間近なのである。メロスは、それゆえ、花嫁の衣装やら祝宴のごちそうやらを買いに、はるばる町にやって来たのだ。まず、その品々を買い集め、それから都の大路をぶらぶら歩いた。メロスには竹馬の友があった。セリヌンティウスである。今はこのシラクスの町で、石工をしている。その友を、これから訪ねてみるつもりなのだ。久しく会わなかったのだから、訊ねていくのが楽しみである。歩いているうちにメロスは、町の様子をあやしく思った。ひっそりしている。もうすでに日も落ちて、町の暗いのはあたりまえだが、けれども、なんだか、夜のせいばかりではなく、町全体が、やけにさびしい。のんきなメロスも、だんだん不安になってきた。道であった若い衆《しゅ》をつかまえて、何かあったのか、二年前にこの町に来たときは、夜でも皆歌を歌って、町はにぎやかであったはずだが、と質問した。若い衆は、首を振って答えなかった。しばらく歩いて老爺《ろうや》に会い、今度はもっと語勢を強くして質問した。老爺は答えなかった。メロスは両手で老爺の体を揺すぶって質問を重ねた。老爺は、辺りをはばかる低声《こごえ》で、わずか答えた。
「王様は、人を殺します。」
「なぜ殺すのだ。」
「悪心を抱いているというのですが、だれもそんな、悪心をもってはおりませぬ。」 
「たくさんの人を殺したのか。」
「はい、初めは王様の妹婿様を。それから、御自身のお世継よつぎぎを。それから、妹様を。それから、妹様のお子様を。それから、皇后様を。それから、賢臣のアレキス様を。」
「驚いた。国王は乱心か。」
「いいえ、乱心ではございませぬ。人を信ずることができぬというのです。このごろは、臣下の心をもお疑いになり、少しく派手な暮らしをしている者には、人質一人ずつ差し出すことを命じております。御命令を拒めば、十字架にかけられて殺されます。今日は、六人殺されました。」

聞いて、メロスは激怒した。「あきれた王だ。生かしておけぬ。」

メロスは単純な男であった。買い物を背負ったままで、のそのそ王城に入っていった。たちまち彼は、(5)巡邏の警吏に捕縛された。調べられて、メロスの懐中からは短剣が出てきたので、騒ぎが大きくなってしまった。メロスは王の前に引き出された。

「この短刀で何をするつもりであったか。言え!」暴君ディオニスは静かに、けれども威厳《いげん》をもって問い詰めた。その王の顔は蒼白で、眉間《みけん》のしわは刻み込まれたように深かった。
「町を暴君の手から救うのだ。」とメロスは、悪びれずに答えた。
「おまえがか?」王は、(6)憫笑《びんしょう》した。「しかたのないやつじゃ。おまえなどには、わしの孤独《こどく》の心がわからぬ。」
「言うな!」とメロスは、いきりたって反駁《はんばく》した。「人の心を疑うのは、最も恥《は》ずべき悪徳だ。王は、民の忠誠をさえ疑っておられる。」
「疑うのが正当の心構えなのだと、わしに教えてくれたのは、おまえたちだ。人の心は、あてにならない。人間は、もともと私欲の魂さ。信じてはならぬ。」暴君は落ち着いてつぶやき、ほっとため息をついた。「わしだって、平和を望んでいるのだが。」
「なんのための平和だ。自分の地位を守るためか。」今度はメロスが嘲笑《ちょうしょう》した。
「罪のない人を殺して、何が平和だ。」
「黙れ。」王は、さっと顔を上げて報いた。「口では、どんな清らかなことでも言える。わしには、人のはらわたの奥底が見え透いてならぬ。おまえだって、今にはりつけになってから、泣いてわびたって聞かぬぞ。」
「ああ、王はりこうだ。うぬぼれているがよい。わたしは、ちゃんと死ぬる覚悟でいるのに。命ごいなど決してしない。ただ、━━」と言いかけて、メロスは足元に視線を落とし、瞬時ためらい、「ただ、わたしに情けをかけたいつもりなら、処刑までに三日間の日限を与えてください。たった一人の妹に、亭主を持たせてやりたいのです。三日のうちに、わたしは村で結婚式を挙げさせ、必ず、ここへ帰ってきます。」
「ばかな。」と暴君は、しゃがれた声で低く笑った。「とんでもないうそを言うわい。逃がした小鳥が帰ってくると言うのか。」
「そうです。帰ってくるのです。」メロスは必死で言い張った。「わたしは約束を守ります。わたしを三日間だけ許してください。妹がわたしの帰りを待っているのだ。そんなにわたしを信じられないならば、よろしい、この町にセリヌンティウスという石工がいます。わたしの無二の友人だ。あれを人質としてここに置いていこう。わたしが逃げてしまって、三日目の日暮れまで、ここに帰ってこなかったら、あの友人を絞め殺してください。頼む。そうしてください。」

それを聞いて王は、残虐な気持ちで、そっとほくそ笑んだ。生意気なことを言うわい。どうせ帰ってこないに決まっている。このうそつきにだまされたふりして、放してやるのもおもしろい。そうして身代わりの男を、三日目に殺してやるのも気味がいい。人は、これだから信じられぬと、わしは悲しい顔して、その身代わりの男を(7)磔刑《たっけい》に処してやるのだ。世の中の、正直者とか言うやつばらにうんと見せつけてやりたいものさ。

「願いを聞いた。その身代わりを呼ぶがよい。三日目には日没までに帰ってこい。遅れたら、その身代わりを、きっと殺すぞ。ちょっと遅れてくるがいい。おまえの罪は、永遠に許してやろうぞ。」
「なに、何をおっしゃる。」
「はは。命が大事だったら、遅れてこい。おまえの心は、わかっているぞ。」

メロスは悔しく、じだんだ踏んだ。物も言いたくなくなった。

竹馬の友、セリヌンティウスは、深夜、王城に召された。暴君ディオニスの面前で、よき友とよき 友は、二年ぶりで相会《お》うた。メロスは、友に一切の事情を語った。セリヌンティウスは無言でうなずき、メロスをひしと抱きしめた。友と友の間は、それでよかった。セリヌンティウスはなわ打たれた。メロスはすぐに出発した。初夏、満点の星である。

メロスはその夜、一睡もせず十里の道を急ぎに急いで、村へ到着したのは明くる日の午前、日はすでに高く昇って、村人たちは野に出て仕事を始めていた。メロスの十六の妹も、今日は兄の代わりに羊群の番をしていた。よろめいて歩いてくる兄の、疲労困憊《こんぱい》の姿を見つけて驚いた。そうして、うるさく兄に質問を浴びせた。

「なんでもない。」メロスは無理に笑おうと努めた。「町に用事を残してきた。またすぐ町に行かなければならぬ。明日、おまえの結婚式を挙げる。早いほうがよかろう。」

妹はほおを赤らめた。

「うれしいか。きれいな衣装も買ってきた。さあ、これから行って、村の人たちに知らせてこい。結婚式は明日だと。」

メロスは、また、よろよろと歩きだし、家へ帰って神々の祭壇《さいだん》を飾り、祝宴の席を調え、間もなく床に倒れふし、呼吸《いき》もせぬくらいの深い眠りに落ちてしまった。

目が覚めたのは夜だった。メロスは起きてすぐ、花婿の家を訪れた。そうして、少し事情があるから、結婚式を明日にしてくれ、と頼んだ。婿の牧人は驚き、それはいけない、こちらにはまだなんの支度もできていない、ぶどうの季節まで待ってくれ、と答えた。メロスは、待つことはできぬ、どうか明日にしてくれたまえ、とさらに押して頼んだ。婿の牧人も頑強であった。なかなか承諾《しょうだく》してくれない。夜明けまで議論を続けて、やっと、どうにか婿をなだめ、すかして、説ふせた。結婚式は、真昼に行われた。新郎新婦の、神々への宣誓が済んだころ、黒雲が空を覆い、ぽつりぽつり雨が降りだし、やがて(8)車軸を流すような大雨となった。祝宴に列席していた村人たちは、何か不吉なものを感じたが、それでも、めいめい気持ちを引き立て、せまい家の中で、むんむん蒸し暑いのもこらえ、陽気に歌を歌い、手を打った。メロスも満面に喜色をたたえ、しばらくは、王とのあの約束をさえ忘れていた。祝宴は、夜に入っていよいよ乱れ華やかになり、人々は、外の豪雨《ごうう》を全く気にしなくなった。メロスは、一生このままここにいたい、と思った。このよい人たちと生涯暮らしていきたいと願ったが、今は、自分の体で、自分のものではない。ままならぬことである。メロスは、我が身にむち打ち、ついに出発を決意した。明日の日没までには、まだ十分の時がある。ちょっとひと眠りして、それからすぐに出発しよう、と考えた。そのころには、雨も小降りになっていよう。少しでも長くこの家にぐずぐずとどまっていたかった。メロスほどの男にも、やはり未練の情というものはある。今宵(9)呆然《ぼうぜん》、歓喜に酔っているらしい花嫁に近寄り、
「おめでとう。わたしは疲れてしまったから、ちょっと御免こうむって眠りたい。目が覚めたら、すぐに町に出かける。大切な用事があるのだ。わたしがいなくても、もうおまえには優しい亭主があるのだから、決してさびしいことはない。おまえの兄のいちばん嫌いなものは、人を疑うことと、それから、うそをつくことだ。おまえも、それは知っているね。亭主との間に、どんな秘密でも作ってはならぬ。おまえに言いたいのは、それだけだ。おまえの兄は、たぶん偉い男なのだから、おまえもその誇りをもっていろ。」

花嫁は、夢見心地《ごこち》でうなずいた。メロスは、それから花婿の肩をたたいて、
「支度のないのはお互いさまさ。わたしの家にも、宝といっては妹と羊だけだ。ほかには何もない。全部あげよう。もう一つ、メロスの弟になったことを誇ってくれ。」

花婿はもみ手して、照れていた。メロスは笑って村人たちにも会釈《えしゃく》して、宴席から立ち去り、羊小屋に潜り込んで、死んだように深く眠った。

目が覚めたのは、明くる日の薄明のころである。メロスは跳ね起き、(10)南無三《なむさん》、寝過ごしたか、いや、まだまだ大丈夫、これからすぐに出発すれば、約束の刻限までには十分間に合う。今日はぜひとも、あの王に、人の(11)信実の存するところを見せてやろう。そうして笑ってはりつけの台に上がってやる。メロスは、ゆうゆうと身支度を始めた。雨も、幾分小降りになっている様子である。身支度はできた。さて、メロスは、ぶるんと両腕を大きく振って、雨中、矢のごとく走り出た。

わたしは、今宵、殺される。殺されるために走るのだ。身代わりの友を救うために走るのだ。王の(12)奸佞邪知《かんねいじゃち》を打ち破るために走るのだ。走らなければならぬ。そうして、わたしは殺される。若いときから名誉《めいよ》を守れ。さらば、ふるさと。若いメロスは、つらかった。幾度か、立ち止まりそうになった。えい、えいと大声上げて、自身をしかりながら走った。村を出て、野を横切り、森をくぐり抜け、隣村に着いたころには雨もやみ、日は高く昇って、そろそろ暑くなってきた。メロスは額の汗をこぶしで払い、ここまで来れば大丈夫、もはや故郷への未練はない。妹たちは、きっとよい夫婦になるだろう。わたしには、今、なんの気がかりもないはずだ。まっすぐに王城に行き着けば、それでよいのだ。そんなに急ぐ必要もない。ゆっくり歩こう、ともちまえののんきさを取り返し、好きな小歌をいい声で歌いだした。ぶらぶら歩いて二里行き三里行き、そろそろ全里程の半ばに到達したころ、降ってわいた災難、メロスの足は、はたと止まった。見よ、前方の川を。さくじつの豪雨で山の水源地は氾濫《はんらん》し、濁流とうとうと下流に集まり、猛勢《もうせい》一挙に橋を破壊し、どうどうと響きをあげる激流が、こっぱみじんに橋げたを跳ね飛ばしていた。彼は(13)茫然《ぼうぜん》と立ちすくんだ。あちこちと眺め回し、また、声を限りに呼びたててみたが、(14)繋舟《けいしゅう》は残らず波にさらわれて影なく、渡し守の姿も見えない。流れはいよいよふくれ上がり、海のようになっている。メロスは川岸にうずくまり、男泣きに泣きながら(15)ゼウスに手を上げて哀願した。「ああ、しずめたまえ、荒れ狂う流れを!時は刻々に過ぎていきます。太陽もすでに真昼時です。あれが沈んでしまわぬうちに、王城に行き着くことができなかったら、あのよい友達が、わたしのために死ぬのです。」

濁流は、メロスの叫びをせせら笑うごとく、ますます激しく踊り狂う。波は波をのみ、巻き、あおりたて、そうして、時は刻一刻と消えていく。今はメロスも覚悟した。泳ぎ切るよりほかにない。ああ、神々も(16)照覧あれ!濁流にも負けぬ愛と誠の偉大な力を、今こそ発揮してみせる。メロスはざぶんと流れに飛び込み、百匹の大蛇のようにのたうち荒れ狂う波を相手に、必死の闘争を開始した。満身の力を腕に込めて、押し寄せ渦巻き引きずる流れを、なんのこれしきとかき分けかき分け、(17)獅子《しし》奮迅の人の子の姿には神も哀れと思ったか、ついに(18)憐愍《れんびん》を垂れてくれた。押し流されつつも、見事、対岸の樹木の幹にすがりつくことができたのである。ありがたい。メロスは馬のように大きな胴震いを一つして、すぐにまた先を急いだ。一刻といえどもむだにはできない。日はすでに西に傾きかけている。ぜいぜい荒い呼吸をしながら峠を登り、登りきってほっとしたとき、突然、目の前に一隊の山賊が踊り出た。

「待て。」
「何をするのだ。わたしは日の沈まぬうちに王城へ行かなければならぬ。放せ。」
「どっこい放さぬ。持ち物全部置いていけ。」
「わたしには、命のほかには何もない。その、たった一つの命も、これから王にくれてやるのだ。」
「その、命が欲しいのだ。」
「さては、王の命令で、ここでわたしを待ちぶせしていたのだな。」

山賊たちは、ものも言わず一斉に棍棒《こんぼう》を振り上げた。メロスはひょいと体を折り曲げ、飛鳥のごとく身近の一人に襲いかかり、その棍棒を奪い取って、「気の毒だが、正義のためだ!」と猛然一撃、たちまち三人を殴り倒し、残る者のひるむすきに、さっさと走って峠を下った。一気に峠を駆け降りたが、さすがに疲労し、折から午後の灼熱《しゃくねつ》の太陽がまともにかっと照ってきて、メロスは幾度となくめまいを感じ、これではならぬと気を取り直しては、よろよろ二、三歩歩いて、ついに、がくりとひざを折った。立ち上がることができぬのだ。天を仰いで、悔し泣きに泣き出した。ああ、あ、濁流を泳ぎ切り、山賊を三人も打ち倒し、(19)韋駄天《いだてん》、ここまで突破してきたメロスよ。真の勇者、メロスよ。今、ここで、疲れきって動けなくなるとは情けない。愛する友は、おまえを信じたばかりに、やがて殺されなければならぬ。おまえは、(20)希代の不信の人間、まさしく王の思うつぼだぞと自分をしかってみるのだが、全身なえて、もはや芋虫ほどにも全身かなわぬ。路傍の草原にごろりと寝転がった。身体疲労すれば、精神も共にやられる。もう、どうでもいいという、勇者に不似合いなふてくされた根性が、心のすみに巣くった。わたしは、これほど努力したのだ。約束を破る心は、みじんもなかった。神も照覧、わたしは精いっぱいに努めてきたのだ。動けなくなるまで走ってきたのだ。わたしは不信の徒ではない。ああ、できることならわたしの胸をたち割って、真紅の心臓をお目にかけたい。愛と信実の血液だけで動いているこの心臓を見せてやりたい。けれどもわたしは、この大事なときに、精も根も尽きたのだ。わたしは、よくよく不幸な男だ。わたしは、きっと笑われる。わたしの一家も笑われる。わたしは友を欺いた。中途で倒れるのは、初めから何もしないのと同じことだ。ああ、もう、どうでもいい。これが、わたしの定まった運命なのかもしれない。セリヌンティウスよ、許してくれ。君は、いつでもわたしを信じた。わたしも君を欺かなかった。わたしたちは、本当によい友と友であったのだ。一度だって、暗い疑惑の雲を、お互い胸に宿したことはなかった。今だって、君はわたしを無心に待っているだろう。ああ、待っているだろう。ありがとう、セリヌンティウス。よくもわたしを信じてくれた。それを思えば、たまらない。友と友の間の信実は、この世でいちばん誇るべき宝なのだからな。セリヌンティウス、わたしは走ったのだ。君を欺くつもりは、みじんもなかった。信じてくれ!わたしは」急ぎに急いでここまで来のだ。濁流を突破した。山賊の囲みからも、するりと抜けて一気に峠を駆け降りてきたのだ。わたしだからできたのだよ。ああ、このうえ、わたしに望みたもうな。ほうっておいてくれ。どうでもいいのだ。わたしは負けたのだ。だらしがない。笑ってくれ。王はわたしに、ちょっと遅れてこい、と耳打ちした。遅れたら,身代わりを殺して、わたしを助けてくれると約束した。わたしは王の卑劣《ひれつ》をにくんだ。けれども、今になった見るとわたしは王の言うままになっている。わたしは遅れていくだろう。王は、独り合点《がてん》してわたしを笑い、そうしてこともなくわたしを放免するだろう。そうなったら、わたしは、死ぬよりつらい。わたしは永遠に裏切り者だ。地上で最も不名誉の人種だ。セリヌンティウスよ、わたしも死ぬぞ。君といっしょに死なせてくれ。君だけはわたしを信じてくれるにちがいない。いや、それもわたしの、独りよがりか?ああ、もういっそ、悪徳者として生き延びてやろうか。村にはわたしの家がある。羊もいる。妹夫婦は、まさかわたしを村から追い出すようなことはしないだろう。正義だの、信実だの、愛だの、考えてみればくだらない。人を殺して自分が生きる。それが人間世界の(21)定法《じょうほう》ではなかったか。ああ、何もかもばかばかしい。わたしは醜い裏切り者だ。どうとも勝手にするがよい。(22)やんぬるかな。━━ (23)四肢を投げ出して、うとうと、まどろんでしまった。

ふと耳に、(24)せんせん、水の流れる音が聞こえた。そっと頭をもたげ、息をのんで耳を澄ました。すぐ足元で、水が流れているらしい。よろよろ起き上がって、見ると、岩の裂け目からこんこんと、何か小さくささやきながら清水がわき出ているのである。その泉に吸い込まれるようにメロスは身をかがめた。水を両手ですくって、一口飲んだ。ほうと長いため息が出て、夢から覚めたような気がした。歩ける。行こう。肉体の疲労回復とともに、わずかながら希望が生まれた。義務逐行の希望である。我が身を殺して、名誉を守る希望である。斜陽は赤い光を木々の葉に投じ、葉も枝も燃えるばかりに輝いている。日没までには、まだ間がある。わたしを待っている人があるのだ。少しも疑わず、静かに期待してくれている人があるのだ。わたしは信じられている。わたしの命なぞは問題ではない。死んでおわびなどと、気のいいことは言っておられぬ。私は信頼に報いなければならぬ。今はただその一事だ。走れ! メロス。

わたしは信頼されている。わたしは信頼されている。先刻の、あの悪魔のささやきは、あれは夢だ。悪い夢だ。忘れてしまえ。(25)五臓が疲れているときは、ふいとあんな悪い夢を見るものだ。メロス、おまえの恥《はじ》ではない。やはり、おまえは真の勇者だ。再び立って走れるようになったではないか。ありがたい!わたしは正義の士として死ぬことができるぞ。ああ、日が沈む。ずんずん沈む。待ってくれ、ゼウスよ。わたしは生まれたときから正直な男であった。正直な男のままにして死なせて下さい。

道行く人を押しのけ、跳ね飛ばし、メロスは黒い風のように走った。野原で酒宴の、その宴席の真っただ中を駆け抜け、酒宴の人たちを仰天させ、犬をけとばし、小川を飛び越え、少しずつ沈んでゆく太陽の、十倍も速く走った。一団の旅人とさっとすれ違った瞬間、不吉な会話を小耳にはさんだ。「今ごろは、あの男も、はりつけにかかっているよ。」ああ、その男、その男のためにわたしは、今こんなに走っているのだ。その男を死なせてはならない。急げ、メロス。遅れてはならぬ。愛と誠の力を、今こそ知らせてやるがよい。風体なんかはどうでもいい。メロスは、今は、ほとんど全裸体であった。呼吸もできず、二度、三度、口から血が噴き出た。見える。はるか向こうに小さく、シラクスの町の(26)塔楼が見える。塔楼は、夕日を受けてきらきら光っている。

「ああ、メロス様。」うめくような声が、風とともに聞こえた。
「だれだ。」メロスは走りながら尋ねた。
「フィロストラトスでございます。あなたのお友達セリヌンティウス様のでしでございます。」その若い石工も、メロスのあとについて走りながら叫んだ。「もう、だめでございます。むだでございます。走るのはやめてください。もう、あの方をお助けになることはできません。」
「いや、まだ日は沈まぬ。」
「ちょうど今、あの方が死刑になるところです。ああ、あなたは遅かった。おうらみ申します。ほんの少し、もうちょっとでも、早かったなら!」
「いや、まだ日は沈まぬ。」メロスは胸の張り裂ける思いで、赤く大きい夕日ばかりを見つめていた。走るよりほかはない。
「やめてください。走るのはやめてください。今は御自分のお命が大事です。あの方は、あなたを信じておりました。刑場に引き出されても、平気でいました。王様がさんざんあの方をからかっても、メロスは来ますとだけ答え、強い信念を持ち続けている様子でございました。」
「それだから、走るのだ。信じられているから走るのだ。間に合う、間に合わぬは問題でないのだ。人の命も問題でないのだ。わたしは、なんだか、もっと恐ろしく大きいもののために走っているのだ。ついてこい!フィロストラトス。」
「ああ、あなたは気が狂ったか。それでは、うんと走るがいい。ひょっとしたら、間に合わぬものでもない。走るがいい。」

(27)言うにやおよぶ。まだ日は沈まぬ。最後の死力を尽くして、メロスは走った。メロスの頭は空っぽだ。何一つ考えていない。ただ、わけのわからぬ大きな力に引きずられて走った。日はゆらゆら地平線に没し、まさに最後の一片の残光も消えようとしたとき、メロスは疾風のごとく刑場に突入した。間に合った。

「待て。 その人を殺してはならぬ。メロスが帰ってきた。約束のとおり、今、帰ってきた。」と、大声で刑場の群衆に向かって叫んだつもりであったが、のどがつぶれてしゃがれた声がかすかに出たばかり、群衆は、一人として彼の到着に気がつかない。すでに、はりつけの柱が高々と立てられ、なわを打たれたセリヌンティウスは徐々につり上げられてゆく。メロスはそれを目撃して最後の勇、先刻、濁流を泳いだように群衆をかき分けかき分け、
「わたしだ、刑吏! 殺されるのは、わたしだ。メロスだ。彼を人質にしたわたしは、ここにいる!」と、かすれた声で精いっぱいに叫びながら、ついにはりつけ台に上がり、つり上げられてゆく友の両足にかじりついた。群衆はどよめいた。あっぱれ。許せ、と口々にわめいた。セリヌンティウスのなわは、ほどかれたのである。
「セリヌンティウス。」メロスは涙を浮かべていった。「わたしを殴れ。力いっぱいにほおを殴れ。わたしは、途中で一度、悪い夢を見た。君がもしわたしを殴ってくれなかったら、わたしは君と抱擁《ほうよう》する資格さえないのだ。殴れ。」

セリヌンティウスは、すべてを察した様子でうなずき、刑場いっぱいに鳴り響くほど音高くメロスの右ほおを殴った。殴ってから優しくほほ笑み、

「メロス、わたしを殴れ。同じくらい音高くわたしのほおを殴れ。わたしはこの三日の間、たった一度だけ、ちらと君を疑った。生まれて初めて君を疑った。君がわたしを殴ってくれなければ、わたしは君と抱擁できない。」

メロスは腕にうなりをつけてセリヌンティウスのほおを殴った。

「ありがとう、友よ。」二人同時に言い、ひしと抱き合い、それからうれし泣きにおいおい声を放って泣いた。

群衆の中からも、(28)歔欷《きょき》の声が聞こえた。暴君ディオニスは、群衆の背後から二人のさまをまじまじと見つめていたが、やがて静かに二人に近づき、顔を赤らめて、こう言った。

「おまえらの望みはかなったぞ。おまえらは、わしの心に勝ったのだ。信実とは、決して空虚な妄想ではなかった。どうか、わしも仲間に入れてくれまいか。どうか、わしの願いを聞き入れて、おまえらの仲間の一人にしてほしい。」

どっと群衆の間に、歓声が起こった。

「万歳、王様万歳。」

一人の少女が、(29)緋《ひ》のマントをメロスにささげた。メロスは、まごついた。よき友は、気をきかせて教えてやった。

「メロス、君は、真っ裸じゃないか。早くそのマントを着るがいい。このかわいい娘さんは、メロスの裸体を皆に見られるのが、たまらなく悔しいのだ。」

勇者は、ひどく赤面した。


(1)邪知暴虐の王 ・・・ 悪知恵を働かせて、人民にひどい仕打ちをする王のこと。

(2)牧人 ・・・ 牧場で馬や牛を飼う人。ここでは羊飼いの意。

(3)十里 ・・・ 1里は約三.九キロメートル。

(4)シラクス ・・・ イタリア半島の南端、シチリア島の東岸にある港町。ギリシャ時代にできた古い町で、ギリシャ・ローマ時代の遺跡がある。

(5)巡邏 ・・・ 見回って歩くこと。パトロール。

(6)憫笑 ・・・ 哀れんで笑うこと。

(7)磔刑 ・・・ はりつけの刑。

(8)車軸を流す ・・・ 車の軸(心棒)のような雨脚の太い雨が降る意で、大雨の様子を表す。

(9)呆然 ・・・ どうしていいかわからず、ぼっとするさま。

(10)南無三 ・・・ 「南無三宝」の略。「しまった」の意。

(11)信実 ・・・ 正直。真心。(「真実」は、本当のこと。)

(12)奸佞邪知 ・・・ 心がねじけて、悪賢いこと。

(13)茫然 ・・・ 予想もしない出来事にあい、気が抜けてぼんやりしているさま。

(14)繋舟 ・・・ 岸につないだ舟。ここでは渡し舟のこと。

(15)ゼウス ・・・ ギリシャ神話の最高神。天上を支配するとともに、人間界をも支配するとされた。

(16)照覧 ・・・ 明らかに見ること。神仏が御覧になること。

(17)獅子奮迅 ・・・ 獅子が荒れ狂うように、すばらしい勢いで奮闘すること。

(18)憐愍 ・・・ 哀れみの気持ち。

(19)韋駄天 ・・・ 韋駄天のように走って。「韋駄天」は、仏法の守護神の一つで、非常に早く走るとされている。

(20)希代 ・・・ 世にまれなこと。

(21)定法 ・・・ いつも変わらぬ法則。

(22)やんぬるかな ・・・ もうおしまいだ。万事休す。

(23)四肢 ・・・ 両腕と両足。

(24)せんせん ・・・ 浅い川などの水がさらさらと流れる音。またはその様子。

(25)五臓 ・・・ 内臓の総称《そうしょう》。ここでは体全体のこと。

(26)塔楼 ・・・ 「塔」も「楼」も高くそびえ立つ建物のこと。

(27)いうにやおよぶ ・・・ 言うまでもない。「言うにおよばず」も同じ。

(28)歔欷 ・・・ すすり泣き。

(29)緋 ・・・ 火のような、濃《こ》く明るい紅色。