12.目次にもどる   トップページにもどる

 

知的社会研究所

Institute for Studies on the Intellect-based Society

(ISIS)

 

12. 首相の靖国参拝問題

 

12.1. 靖国問題の背景

1)議論する前に理解しておくべき事項

 (1)中国政府首脳が日本政府首脳に求めていること

 (2)05年4月の中国における大規模な反日デモの真相

2)議論を始める前に確認しておくべきこと

 (1)この問題の本質は倫理である

 (2)ナショナリズムの排除

3)日本国内で「靖国問題」の議論が収束しない原因

 (1)問題は未解決のままである

 (2)重複する複数の要因と歴史への深いかかわり

4)小泉純一郎と安倍晋三との違い

 (1)小泉純一郎

 (2)安倍晋三

5)私が本シリーズで展開する議論の予告

 

1)議論する前に理解しておくべき事項

(1)中国政府首脳が日本政府首脳に求めていること

私は、このシリーズで日本の首相の靖国参拝問題について考察します。中国政府の首脳が日本政府の指導者に求めていることは何か、まずこのことを正確に理解することが重要です。それを説明するのに長い文章は必要ありません。即ち「中国人が、日本の侵略の中で繰り返された残虐行為に対する怨みを克服しようと努力してきたことを考え、少なくとも日本の首相、官房長官、外相の3人だけはA級戦犯が合祀されている靖国神社に参拝しない」ことです。

中国政府は、首脳会談のあらゆる機会に同じことを辛抱強く繰り返しています。しかし、小泉純一郎首相はその真意をくもうとしませんでした。参拝しないことを明言しないばかりか、逆に参拝を繰り返してきたのです。その結果、小泉政権時代には、中国政府は日中首脳会談を拒否してきました。この問題については韓国政府も同じ姿勢です。

(2)05年4月の中国における大規模な反日デモの真相

この「靖国問題」がクローズアップされるきっかけになったのは、中国の各地で05年4月に起こった大規模な反日デモでした。しかし、このデモは日本の政治指導者の靖国参拝中止を求めて行なわれた訳ではありません。デモの後処理のために行なわれた日中協議の中でデモの再発防止のために重要なこととして中国政府が従来から一貫している指摘を繰り返して再考をもとめたのです。

では、デモの真の目的は何だったのか、このことを正確に理解しておく必要があります。それは、米国発のネットによる署名運動に賛同して日本の国連安保理常任理事国入りに反対することでした。日本の共同提案は秋には廃案になったので、それ以後大規模な反日デモは発生していないのです。

 

2)議論を始める前に確認しておくべきこと

(1)この問題の本質は倫理である

「靖国問題」の中心には倫理の問題があります。中国の人たちが心に抱く心の傷、日本の残虐行為に対する忘れられない怨みをいやすために、無条件にできるかぎりの最大限の配慮をするのが人間として礼節のある態度です。とにかく、ことをしかけたのは日本であることを認識することが重要です。日本人の中国の人々に対する謝罪の気持ちを「自虐史観」などというのは、自己規律を欠いたナルシシズムで不道徳極まることです。何故こうなるのか、その理由をよく自覚して軽はずみなことを口にしないよう注意しなければなりません。

第一に、我が国の侵略行為によって中国国民がこうむった被害の大きさがどんなものか、とりわけ中国の人々が忘れようとしても忘れられない怨みという心の傷の深さがどんなものか、それを大部分の日本人は十分に実感することができない。なぜなら、それは我が国から遠く海を隔てた大陸でおこったことであるし、さらに報道管制により事実が伝えられなかったからです。

第二に、そのように大きな怨みを13億の中国に人たちはどのようにして乗りこえたのか。そのことに思いを致す日本人は極めて少ない。それを可能にしたのは中国の首相であった周恩来の「遺訓」です。「周恩来の遺訓」とは何か、どのようにして生れたのか、それによって日本人がどれほど大きな恩恵を受けてきたか、これらのことは歴史認識のなかで最も重要な事柄の一つです。しかし、このことが日本の社会では十分に共有されていません。

第三に「中国に対する日本の侵略行為は日本側が始めたことである、両国がからんだ単なる国際紛争ではない」、そのことを忘れがちです。人間社会では、侵略した側の責任は消えません。侵略した側、誤りをおかした側に残された道は、罪を心から懺悔するだけです。米国政府は第二次大戦へ介入するとき、賢明にも自国が日本海軍に奇襲攻撃されるまで参戦せずにじっと待ちました。日本軍の攻撃が近いことは無線の解読でわかっていたけれども、それが真珠湾であることは知らなかった。それによって戦争に踏み込む正義を客観的に担保したのです。現在の国連安保理の常任理事会を構成する5カ国(イギリス、フランス、米国、中国、ロシア)すべて、そのような他国に攻撃された歴史を共有していることを忘れてはいけません。

第四に、安倍晋三首相に象徴されるように、戦後生れの人は太平洋戦争そのものを知らない。そのことをよく自覚すべきです。現在の日本では、戦後生れがすでに7割以上を占めているのです。

(2)ナショナリズムの排除

「靖国問題」の解決を困難にしている原因が、日本や中国の政治体制の違いや国民性の違いにあると考えるのは誤りです。この問題に正しく立ち向かうには、国家の枠を超え、ナショナリズムを排除し、あくまで一人の人間としての立場を堅持する必要があります。関連するその他の問題もできるだけ切り離し、問題の核心を集中すべきです。東京裁判が正しいか正しくないか、戦争責任は誰が負うべきか、靖国神社が公開している戦争観、A級戦犯の合祀や分祀の問題、戦争犠牲者の追悼施設の問題、等々を持ち出して問題の範囲を拡大し、ポイントをぼかしてしまう人が多すぎます。

 

3)日本国内で「靖国問題」の議論が収束しない原因

(1)問題は未解決のままである

「靖国問題」は、日本のいろいろな人たちが長年にわたって繰り返し論じてきました。そこで展開された議論は、右から左までさまざまです。最も重要な特徴は、議論が何らかの結論に収束する兆しが見られず放置されていることです。この「靖国問題」がいつまでも国民的解決に至らない現状をどう受け止めるべきでしょうか。このことをいたずらに悲観するのは誤りです。問題がまだ除かれていないで残されていることを我々に知らせてくれている訳で、チャレンジすべきです。

人間の精神の健康も身体の健康と同じです。身体に問題がなければ身体のことは忘れていて考えることもありません。しかし、少しでも問題があると痛みや違和感を発し、問題があることを教えてくれます。心に悩みを抱えることは、問題を解決しようと懸命に考えている状態です。正しい解答を見つけるまで人は悩み考え続けます。正しい考えに到達すると人々は心の悩みから解放され、そして進歩します。だから悩むこと自体が我々に対する大きな恵みであり、努力を続け解決することが喜びにつながります。

(2)重複する複数の要因と歴史への深いかかわり

「靖国問題」はなぜ解決しないのでしょうか。

第一に、問題の解決を困難にしている原因が認識されていません。その存在さえ明瞭にされておらず、ましてきちんと考察されてもいないのです。

第二に、原因は一つではなく複数の原因が重複しています。交通機関の大事故が例外なく複数の原因が同時に重複して起こるのと似ています。

第三に、それぞれの原因は過去100年にわたる日本の歴史に深く関わっています。それ故、総合的な考察が必要になります。

私がこの課題にとりかかったとき、倫理の重視を中心に議論すれば済むと考えていました。日本人の倫理観は、伝統的な宗教である仏教の特徴と日本人の宗教嫌いに関係があると思います。しかし問題の根は深く、それだけでは説明のつかない現象であることが分かりました。

もっと直接的な原因の存在に気がついたのは、首相の靖国参拝に対する世論調査の結果がきっかけでした。首相といえどもひとりの個人にすぎず、誤りも犯す。しかし世論調査の結果は、不特定多数のひとびとの意見の集約であり、個人の考えより間違いを犯す確率は低い。これが不完全ながらも市場経済や民主主義が世界で容認されている理由です。もちろん短期的には常に何らかのバイアスがかかっているのでぶれが大きく長期的に見る必要があります。政治家が自分の主張を正当化する根拠として世論調査の結果を使うとバイアスは拡大します。

私が考えるきっかけとなった具体的な疑問とは、「首相の靖国参拝に対する賛成・反対が拮抗している結果が続いている」理由です。直近の調査でも賛成40%、反対41%です(日経9/28/06)。しかも、賛成が30歳代と40歳代で共に48%と最も多く、逆に60歳代37%、70歳代32%と高齢者ほど少ないのです。

一般的に、若い人は高齢者とくらべて妥協することをせず正義感や倫理観が強く、保守的というよりも進歩的な人が多いと思っています。ですから、この結果を生んでいる理由は、日本の歴史上のことがらで、相対的に若い人ほど理解が難しい内容であることを示唆しています。そのような日本の歴史の側面が何であるかを明らかにすることが、靖国問題の国民的解決への近道になるでしょう。この課題は、安倍晋三より20歳も年長者である私のようなものの仕事でしょう。

 

4)小泉純一郎と安倍晋三との違い

(1)小泉純一郎

怨みを克服する中国人の努力を小泉純一郎首相が理解できない理由は何でしょうか。

彼の場合はイデオロギーはからんでいません。好意的な解釈ですが、3度目の正直で自民党総裁選に勝利するには妥協が必要だったのではないか。自身が属していた派閥の長である森嘉朗が典型的な調整型政治家であるのとは対照的に、彼は孤高の姿勢を保つ変人政治家だからなおさらです。自民党総裁選で靖国参拝を公約したのは、表面的には自民党の3大圧力団体である日本遺族会の支持を取り付けるためでしょう。

しかし、もっと大事なことは、岸信介・中曽根康弘を中心とする保守派の支持を取り付けることだったと思います。森派は岸信介・福田赳夫の系譜を引き、憲法改正と教育刷新を柱とする「占領体制からの脱却」を掲げた鳩山一郎・三木武吉の保守派の流れをくんでいます。日本の二大勢力としてこの保守派と対抗してきたのは、軽武装による経済発展を重視した保守本流(吉田茂・池田勇人・佐藤栄作・田中角栄・大平正芳)の流れでした(日経、「中外時評」安藤俊裕、10/01/06)。

小泉純一郎は、保守本流が作り上げた55年体制の政治が、官僚主導の中央集権、族議員が跋扈する既得権益擁護のバラマキによって経済が行き詰まったのを批判して国民的人気を集め、政治・行政の統治改革による経済再建を目指しました。しかし不思議なことに、保守派の系譜に属しながら保守派の掲げる憲法改正と教育基本法改正には熱心ではなかったし、伝統的な「占領体制からの脱却」路線とも一線を画していました。歴史認識でも、95年の村山富市首相の「村山談話」を積極的に肯定しています。彼の発言は論理的ではなく情緒的ですが、少なくとも率直であり本音と建前を使い分けることはなかったので国民から愛されました。

05年9月の衆院選で自民党が大勝したとき、多くの人はこれで小泉純一郎の靖国参拝はなくなるだろうと推測したのです。しかし、その期待は見事に裏切られました。まことに残念なことです。

(2)安倍晋三

安倍晋三は、官邸主導の政治改革を目指した小泉純一郎の路線の継承者として登場しました。この点では同じですが、経済発展を重視し、保守派の伝統的な「占領体制からの脱却」を政策の中心にすえており、靖国問題に対する姿勢も小泉純一郎とは大きな違いがあります。岸信介から三代目の世襲議員のDNAのなせる技でしょう。

9月22日のテレビ朝日の番組「サンデープロジェクト」に出演した安倍晋三は、キャスターの田原総一朗に「村山談話」に対する自身の考えを問われ、閣議決定されたものである、という建前だけを語りました。「ご自身の考えはどうですか」と重ねて質問されても同じ答えを繰り返すだけで本音を語りませんでした。

総裁選でキャッチコピーに使った「美しい国日本」を国会における首相の所信表明演説でも繰り返しています。これは、保守派の重鎮である中曽根康弘が自民党の新憲法起草委員会の前文小委員長としてまとめた憲法前文草案にこめられたナショナリズムのイデオロギーの表出です。しかも、「外交と靖国神社参拝を切り離すため、自身が参拝するかどうかを明言しない方針」だと公言しています。倫理の問題で「ほんね」と「たてまえ」の使い分けるのは相手の気持ちを逆なでするだけでしょう。

ところが、安倍晋三首相は就任早々に首脳会談の中断に終止符を打つことに成功しました。安倍晋三首相が約束したことは、両国政府が容認できる範囲まで言動を抑制することでした(日経10/09/06)。安倍晋三首相の自論、つまり「ほんね」は何も変わっていないのです。これまで公言してきた通り、中韓の政府首脳が「なぜ靖国参拝に異を唱えるのか」、その理由を理解していません。この解決は政治的な一種の緊急避難であって、中韓とも「たてまえ」で妥協したのです。

北朝鮮の核実験によって「靖国問題」は吹き飛んでしまったのですが、マスメディアの言うように「安倍政権は運が良い」で済ますことはできないでしょう。現在は日本人を「靖国問題」に引き戻すことは難しいかもしれないが、ここで考えておくのは無駄ではないでしょう。いずれ決着を付けなければならない時は必ずやってきます。この問題がアジアの一員である日本人にとっても「心の問題」であるからです。

 

5)私が本シリーズで展開する議論の予告

06年春にこの課題に取りかかってから6カ月が過ぎてしまいました。私自身が新しく学んだこと、新しく発見したことはたくさんあり、非常にエキサイティングな経験をした半年間でした。結果的には一度書いた原稿を何度も書き直すことになりました。私が到達した結論をこのシリーズで展開していきますが、皆さんの興味を引き出すために、いろいろな質問をぶっつけておきます。

(1)大平洋戦争における日本の敗北のはるか40年前、日米開戦と日本の敗北を預言した日本人がいたこと、そのことを警告し考え直すように誠心誠意日本人に忠告した本が日本で出版されていたことを知っていますか。

(2)「靖国問題」の国民的解決を困難にしている現状は、「北朝鮮の金日成が朝鮮戦争を始めたことに遠因がある」と言ったら皆さんは驚きませんか。

(3)「日本の保守層は、占領と再建の代償となったナショナリズムの断固たる再興を求めている。この保守層は中曽根康弘や安倍晋三らの自民党の保守派に代表されるが、憲法改正や教育基本法の改正をしつこく追求してやまない。国を二分してこれと相対するリベラル派は、アメリカによる日本の占領を肯定的に見ており、その遺産である憲法を除外するのではなく肯定的に包み込もうとしている」、このような分析は実に正確だと思いませんか。この分析は、日本の研究者ではなくアメリカの研究者によるものです(毎日新聞9/02/05)。自分たち日本人の真の姿をアメリカの研究者が見事に喝破していることを知って口惜しいとは思いませんか。

次章では、05年4月に中国で起こった大規模な反日デモの真相、中国政府が靖国参拝に異議を唱ことについての中国側の説明、小泉純一郎首相の靖国参拝が門題視されるようになった経緯、「首相の靖国参拝」についての世論調査の結果、などを扱います。

 

12.目次にもどる   トップページにもどる