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知的社会研究所

Institute for Studies on the Intellect-based Society

(ISIS)

 

12. 首相の靖国参拝問題

 

12.4. 日本人に対するBC級戦犯裁判

 

1)犯罪被害者の心の癒し─罪の裁きと加害者の懺悔

2)BC級戦犯裁判─林博史の優れた業績

 (1)BC級戦犯裁判とはなにか

 (2)BC級戦犯裁判の代表例(1)シンガポール華僑粛清事件

 (3)BC級戦犯裁判の代表例(2)石垣島米兵処刑事件と花岡事件

 (4)裁かれることが少なかった人道に対する罪

 (5)朝鮮や台湾など日本の植民地の人たちへの残虐行為は裁かれなかった

 (6)日本の戦争犯罪はドイツと比較して裁かれることが少なかった

3)「なぜ、いま戦犯裁判か」

4)中国におけるBC級戦犯裁判

 (1)中国における戦争犯罪は裁かれることが少なかった、その理由

 (2)国民政府(中華民国)のおこなったBC級戦犯裁判

 (3)中華人民共和国のおこなったBC級戦犯裁判─示された裁きの倫理

 (4)我が国の倫理意識のレベルの低さ─日本の新聞報道

5)日本政府の卑劣な行為─植民地の人たちへの差別

 

文献総一覧

 

1)犯罪被害者の心の癒し─罪の裁きと加害者の懺悔

 

犯罪の被害者、あるいは家族が殺人のような犯罪の被害にあった人たちは、どのようにすれば加害者に対する怨みを乗り越えることができるのでしょうか。常識的には法の裁きが下されることでしょう。遺族の中には「目には目を、歯には歯を」の復讐心に燃えて、犯人が殺された家族と同じ苦しみを味わい死刑になることを望む人もいます。しかし、日本でおきた最近の殺人事件の経過が示すように、犯人の心からの謝罪がなければ遺族の心は結局癒やされないのです。

同じことが戦犯裁判にも当てはまるでしょう。加害者が国家という集団であり、かつ組織的に行なわれる戦争犯罪という特異性はありますが、加害者と被害者の間に横たわる倫理の問題で本質的な違いはないでしょう。

この点で特筆されねばならないのは、加害者である日本人に対する戦犯裁判において被害者側の周恩来首相がまれにみる優れた倫理性を発揮したことです。12.3.で述べたように、彼の倫理思想・哲学は、中国のひとたちが日本人への怨みを乗り越える道を「周恩来の遺訓」によって教えました。戦犯裁判においても前例のない方法で日本人を処遇し、結果的に素晴しい成果をあげました。日本人はもっとこのことを学び、周恩来に心から感謝しなければなりません。単に「寛容な心」で済ましてはいけないことです。

そのためにはBC級戦犯裁判全体についてもっと勉強する必要があります。事件の大部分は国外でおこったことであり、当時でさえいわゆる内地にいた大部分の国民はよく知らないのです。戦争報道というものは国家が検閲し、政府にとって都合の悪い事実は報道されません。イラン戦争やベトナム戦争で我々もいやというほど見せつけられたことです。民主主義国家の代表であるアメリカでさえそうなのです。また、日常生活ではありえない残酷な体験を実際に外地でした人にとっては、怖しい記憶を封印しなければ生きていけません。帰国してから普通の日常生活にもどれず病院生活をするひともいます。まして、現在は戦後生まれのひとが7割に達しているのだからわからないのは当然です。事実の悲惨さがあまりにも現実離れしているので被害者の気持ちをわかるのは難しい。できるかぎり想像力を発揮するしかありません。

 

2)BC級戦犯裁判─林博史の優れた業績

幸いなことに、2005年に林博史の著書「BC級戦犯裁判」(【文献63】)が出版され多くのことを教えてくれます。この著書は第一級の業績です。その理由は、裁かれたことと裁かれなかったこと、裁かれた人と裁かれなかった人、裁く側と裁かれる側の両方に対する著者のフェアな姿勢にあります。このことは、著者が加害者側の国にいるひとだけに特に重要でした。高い知性と倫理観、それに幅広い視野がなければ不可能なことです。

 

 (1)BC級戦犯裁判とはなにか

まず、本書の序章から引用します(【文献63】p.2-3)。

第二次世界大戦は、世界中の人々にかってないほど大きな被害を与えた戦争であった。死者は全体で5千万人にのぼるとも見られており、そのほかに傷ついたり家を失った者の数は計り知れない。特にドイツと日本の侵略を受けた国や地域の被害は深刻だった。そのため、連合国は、そうした戦争を開始、遂行し、多くの残虐行為をおこなったドイツや日本など枢軸国の責任者を戦争犯罪人として処罰し、そのことを通じて二度と同じような惨禍が起きることを防ごうと考えた。そのためにおこなわれた施策の一つが、戦犯裁判であった。

第二次世界大戦後におこなわれた戦犯裁判には大きく言って二つの種類がある。一つはニュルンベルク裁判と東京裁判(極東国際軍事裁判)である。これらは「平和に対する罪」(A級戦争犯罪)をふくむ戦争犯罪を裁いたもので、主に政府や軍の指導者が対象となった。そこで裁かれた被告たちは、一般にA級戦犯(主要戦犯)と呼ばれている。ニュルンベルク裁判は英米仏ソの4カ国から、東京裁判は11カ国から裁判官が出る国際法廷だった。

もう一つは「通例の戦争犯罪」(B級戦争犯罪)と「人道に対する罪」(C級戦争犯罪)を裁いた、いわゆるBC級戦犯裁判である。こちらは個々の残虐行為に関わった者(命令者から実行者まで)を裁いた。日本に対しては連合国のなかのアメリカ・イギリス・オランダ・フランス・オーストラリア・中国・フィリピンの7カ国がそれぞれ裁判をおこなった(ソ連も含めると8カ国)。本書が扱うのは、このBC級戦犯である。

BC級戦犯裁判の全般的な状況については後で触れるが、東京裁判の被告が28人であったのに対して、BC級裁判では7カ国によって約5700人が裁かれた。死刑が最終的に確認された人数も、前者が7人に対して、後者では934人にのぼっている。

ところで日本に対してはほとんどB級犯罪しか適用されていないので、BC級戦犯裁判という言い方はやや不正確である。またこの言い方はアメリカだけのもので、イギリスやオーストラリアなどは、軽戦争犯罪裁判(Minor war crimes trials)と呼んでいる。ただ日本ではBC級戦犯裁判という呼び方が一般的であるので、本書でもこの名称を使うこととする。

最後の指摘、つまり日本人の「人道に対する罪」(C級戦争犯罪)がほとんど裁かれなかったことは特に重要です。後の(4)を参照してください。

 

 (2)BC級戦犯裁判の代表例(1)シンガポール華僑粛清事件

林博史は、BC級戦犯裁判といってもさまざまなケースがあり、ひと言で言い表わせるような単純なものではなかったことを明らかにしています。連合軍捕虜に対する残虐行為が裁かれたとか、あるいは上官の命令に従っただけの下級兵士までもが極刑に処せられたというような、われわれ一般のイメージは間違いなのです。

林博史は、シンガポール華僑粛清事件、石垣島米兵処刑事件、中国人強制労働・花岡事件などを例にとって、異なった三つのタイプがあったことを説明しています。ここでは本書をもとにシンガポール華僑粛清事件を紹介します(【文献63】p.4-7)。

シンガポール華僑粛清事件で虐殺された華僑男子の数は、日本軍が認めたものだけでも約5千人、地元では4、5万人と言われています。日本軍は真珠湾攻撃に先立ちマレー半島上陸作戦を行いました。目的は石油などの資源獲得です。山下奉文(ともゆき)中将率いる第25軍は、開戦2カ月後の1942年2月15日にシンガポールを占領します。この地の住民の8割近くは華僑が占めていました。華僑は日本の中国侵略に抵抗して祖国支援をおこなっていたので、日本軍は彼らを反日的であるとみなし、あらかじめ粛正する計画を立てていました。

山下軍司令官は河村参郎(さぶろう)少将をシンガポール警備司令官に任命し、市内の華僑成年男子を集めて抗日分子を摘出し即時処刑せよという命令を下します。これを実際に担当したのが第二野戦憲兵隊(隊長・大石正幸中佐)と歩兵部隊から狩り出された補助憲兵でした。義友軍に入っていた者、銀行員、政府の仕事をしていた者、シンガポールに来て5年未満のもの、などを自発的な挙手あるいは地元警官による摘発で選別し、トラックで海岸や郊外のジャングルに運んで機関銃で一斉に射ち殺したのです。同じような処刑はシンガポール市外でも行われ、こちらは近衛師団(師団長・西村琢磨中将)が担当しました。

裁判はイギリス軍が行い、河村参郎少将と大石正幸中佐は絞首刑が執行され、西村琢磨中将と選別を現場で指揮した4人の憲兵将校には終身刑が宣告されました。山下奉文中将はフィリピンで米軍に捕らえられ、アメリカの戦犯裁判で死刑判決を受け執行されています。処刑現場の命令者や実行者は起訴されずに終わりました。死刑判決が二人だけだったことに華僑団体やマスコミは猛反発しましたが、イギリス軍当局は抗議を抑えています。

実は、この事件の実質的な責任者は全体計画を立案し粛清を現場で指導した第25軍参謀の辻正信中佐でした。終戦時に彼は僧に変装して巧みに潜航し、のちに中国共産党と対立していた国民政府の保護を受け、さらにGHQ参謀第二部(G2)の庇護を受けてイギリスの戦犯追求を逃れています。

 

 (3)BC級戦犯裁判の代表例(2)石垣島米兵処刑事件と花岡事件

石垣島のケース(【文献63】p.7-9)では、3人の米軍捕虜を裁判抜きで残虐な方法で処刑した(二人は日本刀で斬首し、残り一人に対し将校が銃剣で刺したうえ40人の部下に銃剣で順番に刺突させた)。この事件に対して7人が死刑、兵士は上官の命令という理由で死刑を免れました。

花岡のケース(【文献63】p.9-11)は、東條内閣が1942年11月、土木建築業界や石炭鉱山業界からの要望を受けて中国人労働者の「内地移入」を閣議決定したことに始まります。対象となったのは山東省などで捕らえられた中国兵捕虜だけでなく拉致された民間人もいて、日本政府の記録では約4万人にも達しています。花岡鉱業所の土木部門を請負っていた鹿島組には986人の中国人が連行され、虐待により半数近い419人が死亡、反抗して蜂起したものが捕らえられ暴行拷問により事件後1カ月の間に100人が死亡したのです。米軍の裁判では、強制連行・強制労働を立案実施した政府・軍・企業の幹部・経営者は裁かれず、企業と警察の末端のみの6名が裁かれました。死刑3人(のちに禁固刑に減刑)、重労働20年が1名、無罪2名の判決でした。

 

 (4)裁かれることが少なかった人道に対する罪

国連国際法委員会が平和に対する罪、戦争法規違反、人道に対する罪の3犯罪を「国際犯罪」と規定したのは1950年のことです。「人道に対する罪」は、戦時だけでなく平時も集団殺害を罪とする「ジェノサイド条約」(発効1951年)に受け継がれました。冷戦終結後に高まった民族紛争を背景に、2002年7月には国際刑事裁判所(ICC)が発足しています(毎日新聞、「戦後60年の原点シリーズ」、05/01/06)。

日本軍は長期にわたって中国に駐留し民衆に対して残虐な行為を繰り返しました。西欧諸国が植民地で行った残虐行為、ベトナムで米軍が行った残虐行為、グアンタナモ基地に収容しているテロ容疑者に対する米軍の虐待などを考えると起こるべくして起こったことで弁解の余地はありません。イスラエル─パレスチナ紛争が震源となって世界中に広がっているテロ、ロシアのチェチェン紛争などの民族紛争がひき起こすテロ、宗教対立によるテロなどを考えれば、今日でもテロの背景にある問題を解決することこそ重要なのです。したがって、日本政府はまず自らの過去をきちんと総括し清算しなければ国連の常任理事国に入る資格はないのです。

日本人に対してBC級戦犯裁判が行なわれたときは「国際犯罪」がまだきちんと定義されていなかっただけに、林博史が終章で指摘していることは非常に重要な意味があるのです。そのような状況であったことを考えると、周恩来の倫理思想・哲学がなお一層輝いてきます。(【文献63】p.200-202)

民衆が攻撃の対象になったということは同時に、民族運動・民族意識がかってなく高かったことの反映でもある。その民族運動はそれまでの西欧の支配者に向けられるとともに、新たな占領者である日本にも向けられた。その抵抗力は大きく、そのため日本軍の矛先はそうした民族運動の基盤である民衆自体に向けられることになった。

こうした状況に対して従来の戦争犯罪の理解ではとても対処しきれないことは、連合国内でも認識され議論が展開されていた。そこから「平和に対する罪」や「人道に対する罪」という概念が生まれたのだが、連合国戦争犯罪委員会のメンバーらの問題意識は、BC級戦犯裁判を実施した各国のスタッフまで伝わっていたとはとても言えなかった。しかし民衆の深刻な被害を前に、そうした被害を取り上げざるをえなかった。

日本について見ると、A級戦犯裁判は政治的駆け引きの中で東京裁判の一度限りで終わり、その中で「人道に対する罪」は適用されなかった。(後略)

また大規模で組織的な残虐行為をおこなった上級の指導者たちもほとんど裁かれないまま、多くの場合、個々のケースについて現場の責任者や実行者が裁かれるにとどまった(それさえも一部にすぎなかった)。

ところで、もしBC級戦犯裁判において、捕虜だけでなく一般民衆に対するすさまじい残虐行為をまったく裁かなかったとしたならばどうなっていただろうか。降伏した日本軍将兵や日本の民間人に対する大規模な報復が起きていたとしても不思議ではない。もしそうなっていれば戦争犯罪とは関係のなかった数多くの人が犠牲になっただろうし、報復に抗して血で血を洗う惨劇が起きたかもしれない。

連合軍は、戦争犯罪人を裁判で処罰すると宣言することにより、そして実際に戦争犯罪を捜査し、容疑者を逮捕し、裁判にかけて処罰したことによって、民衆の怒りを抑えることができた。法による裁きとは、まず被害者による報復をやめさせるという効果を持つ。たしかに戦犯裁判は勝者がおこなったことであり、勝者による裁きという性格を持っているが、同時にそれが民衆の報復を防ぐ役割を果たしたということも認めなければならないだろう。

 

 (5)朝鮮や台湾など日本の植民地の人たちへの残虐行為は裁かれなかった

朝鮮や台湾など日本の植民地民衆に対する残虐行為は、自国民に対する行為と見なされ、通例の戦争犯罪として裁かれていない、このことはきちんと認識しておかねばなりません。林博史の著書から引用します(【文献63】p.201)。

BC級戦犯裁判でも、取り上げられたのはもっぱらB級戦争犯罪、すなわち通例の戦争犯罪であった。そのため、占領地民衆に対する残虐行為はある程度は裁かれたものの、植民地民衆に対する残虐行為はまったく裁かれなかった。朝鮮や台湾など日本の植民地民衆は日本国籍を持っていたので、自国民に対する行為は通例の戦争犯罪とは見なされなかったからである。

 

 (6)日本の戦争犯罪はドイツと比較して裁かれることが少なかった

林博史は、おなじBC級戦犯裁判であっても、ドイツを中心とするヨーロッパと日本とでは大きな違いがあったという指摘もしています。このことも重要です(【文献63】p.38)。

ドイツを中心とするヨーロッパの戦犯裁判で裁かれた人数は、上述の数字を合わせると約9万人にのぼる。一方、日本の場合、後で詳しく述べるように、ソ連裁判を含めて9千人足らず(ドイツの場合の1割)であった。すでに独立国であった被害国多数が自ら戦犯裁判をおこなったドイツのケースと、被害地の多くが欧米植民地であり自ら戦犯裁判をおこなえず、また最大の被害国中国が内戦のために対日宥和的だった日本のケースとの違いが現れているように思われる。

 

3)「なぜ、いま戦犯裁判か」

 

林博史は、現在わが国で行われている戦犯裁判の議論について注目すべき指摘も行っているので引用します(【文献63】p.12-13)。

そうした点(BC級戦犯裁判のもつ問題点、戦犯の家族が周りから白眼視されたり財産が差し押さえられたりした苦しみ、などを指す)はたしかにその通りであるが、一つ一つのケースごとに問題を明らかにする作業なしに一概には言えないだろう。私がいくつかのケースを調べた限りでも、検察が事実をほぼ明らかにし、妥当な容疑者を起訴したと考えられるものもあるし、そうでないのもある。

日本での議論は、感情的に戦犯裁判を非難するものが多く、残念ながら、冷静な議論ができていない。また被害者の主張は、ウソ、誇張であると決め付けながら、被告の言い分を丸のみして連合国を一方的に断罪しているものも目立つ。連合国側の行為や意図を根拠のないまま推測したり、きわめて悪意に解釈して、それをあたかも事実であるかのように非難するケースも多い。裁判記録を見れば、とてもそうは言えないようなことが主張されていることも少なくない。

最近は、出版されている戦犯裁判に関する文献でも、事実関係の間違いや資料に基づかない一方的な思い込み、推測(だいたいが連合国は悪者という前提に立ったもの)が目立つ。つまりこの問題の議論になると、途端に日本人被告に感情移入してしまい、事実が何かという冷静な議論ができなくなる状況がある。そしてしばしば戦犯裁判を否定することによって、日本がおこなった侵略戦争とそのなかでの残虐行為の事実すらも否定し、日本(と自己)を正当化しようとする政治的弁論に利用される傾向がある。概して、連合国を非難するだけで終わり、何の発展性もない議論に終始しているように思える。

 

4)中国におけるBC級戦犯裁判

 

 (1)中国における戦争犯罪は裁かれることが少なかった、その理由

林博史の著書をもとに考えます。注意しないといけないのは、中国でのBC級戦犯裁判が特異な状況のもとでおこなわれたことです。

ヨーロッパの9カ国は、すでに1942年1月に戦犯の処罰をロンドンのセント・ジェームズ宮殿で公式に宣言しました。国民政府は、中国を代表するオブザーバーとしてこの会議に参加しています(【文献63】p.23)。国民政府はこの宣言の原則に同意し、早い時期から戦争犯罪の調査を開始しました。しかし、日本軍の占領下にあっては具体的な活動などできるはずはありません(【文献63】p.103)。

こういういきさつから、国民政府は戦後の1945年12月からBC級戦犯裁判を開始しました。しかし中国共産党軍と内戦状態にあり、しかも敗北していくという混乱の中ですから裁判どころではなかったでしょう。結局、裁判そのものが人々の納得のいく形で行われなかったのです。本文から引用します。

戦争が終わった1945年12月には戦犯処理委員会が設置され、捜査と戦犯の処理がなされていくが、46年10月までに17万件あまりの日本の戦争犯罪の事件が受理された。極東大平洋小委員会では各国から提出された名簿を基に日本人戦犯リストを作成、計3147人を戦犯として指名したが、そのうち中国が提出したものは2523人にのぼった。日本軍による虐殺や家屋破壊、財産破壊など民衆からの告発は膨大な数にのぼったが、犯人を特定し逮捕することがきわめて困難であることを捜査当局も痛感していた。長年の日本による侵略と占領によって、戦犯捜査や裁判をおこなうための人員、機構、予算、能力が不足しており、そのため容疑者の逃亡を許すと同時に誤認逮捕などの問題もあった。特に日本軍の作戦中の残虐行為は犯人の氏名がわからないことが少なくなく、被害の告発を受けても容疑者を特定できないことが多かった。また国民政府内部の腐敗により、容疑者が賄賂で戦犯追求を逃れたケースもあった。(【文献63】p.101-2)

中国(国民政府)裁判で特徴的なことをあげると、一つは無罪の多さである。無罪判決は約40パーセントを占めている(表─1、他の国の裁判では平均14%)。大きな理由として、国共内戦で国民政府が旧日本軍を利用したこと、また内戦での敗北が続き、裁判を中途半端に打ち切ったことがあげられる。国民政府に協力していた支那派遣軍総司令官岡村安寧次(やすじ)大将を世論の圧力におされてやっと起訴しながら無罪にした(49年1月)のは、その典型的な例だろう。この内戦は裁判内容にも影響を与えていた。日本軍による徹底した燼滅(じんめつ)作戦、いわゆる三光作戦とも呼ばれる村落の破壊、殺戮、略奪作戦が展開されたのは華北の共産党地区であり、そこでの被害は甚大だったが、こうした残虐行為は国民政府による戦犯裁判では裁かれなかった。中国人の強制労働についても、中国が戦犯裁判で裁いてもおかしくなかったが、扱われなかった。その一因として中国側が、連行された者たちは八路軍(共産党軍)関係者であると見ていた可能性がある(猪八戒「冷戦構造と中国人強制連行」)。(【文献63】p.104-5)

国民政府は内戦で敗北していくなかで、1949年1月26日、岡村寧次らに無罪を言い渡して上海での裁判を終え、すべての戦犯裁判を終了した。翌月には刑に服していた戦犯をすべて日本に送還して。国民政府は台湾に逃れた。5月には上海も共産党軍に占領された。中華人民共和国の成立が宣言されたのは同年10月1日だった。(【文献63】p.105-6)

もう一つの理由は、中華人民共和国が担当した戦犯裁判において、戦犯に対して例外的に寛大な措置が取られたことです。周恩来の倫理の哲学が大きな影響を与えたのです。詳しくは後で述べます。

 

 (2)国民政府(中華民国)のおこなったBC級戦犯裁判

林博史の著書から引用します(【文献63】p.102-104)

こうした中で国民政府は46年2月に「戦争罪犯処理弁法」など三法令を制定し、四月に北京で戦犯裁判を開始したのを皮切りに、南京、上海、漢口、広東、瀋陽、太原、徐州、済南、台北の10ケ所で裁判をおこなった。中国の場合、満州事変が開始された1931年9月18日からの犯罪が対象となった。早い時期の犯罪としては、1932年9月に中国東北の撫順郊外にある村を襲い、村民を大量虐殺した平頂山事件も裁かれている。中国裁判によって裁かれた人数は、日本側の資料によると883人、うち有罪判決が504人とされている。中国側の資料では、有罪が442人から458人と数字が異なっている。

中国裁判で裁かれたケースは基本的にすべて中国人に対する犯罪であり、ほとんどは民間人への犯罪である(表2─2)。これは中国本土が日本軍によって長期間にわたって戦場にされ、あるいは占領されたことの結果である。起訴された犯罪行為を見ると、殺人や虐待など人に対する行為が圧倒的多数を占めるが、他国の裁判と違うのは、財物の略取や破壊・焼却・強制挑発、労務強制、民衆追放、思想麻痺・奴隷化、アヘン販売などさまざまな行為が扱われていることである。また侵略戦争助長という「平和に対する罪」に相当する行為も裁かれている。

1946年4月─6月に中国外交部がおこなった調査によると、上海方面では家屋破壊13万400件、財産破壊2万7054件の告発があった。衡陽方面では4万5000軒余の家屋のうち無傷が5軒、修理すれば使用できるものが200軒あまりにすぎず、人的被害は14万人余り、農耕牛も8万頭あまりのうち残ったのは2万頭にすぎなかった(伊香俊哉「中国国民政府の日本戦犯処罰方針の展開」)。このように日本軍によるすさまじい破壊と略奪をうけており、殺人や虐待を裁くだけではすまなかったと言えるだろう。また日本軍はアヘンの栽培と販売によって資金を手に入れており、これも重大問題だった。さらに新民会など対日協力組織を作って中国人を組織し、中国の日本への隷属を進める行為は、中国人の思想麻痺・奴隷化をおこなうものとして裁かれた。

虐殺や破壊が大規模であったことが反映してか、個々の行為が裁かれただけでなく、師団長など将軍クラスの者を一連の戦争犯罪の責任者として起訴したケースが比較的多い。将官の被告数は人数ではアメリカに次いで、率では最も多かった(表2─3)。ただ、彼らは禁固刑や無罪に終わる割合いが高く、厳しく罰せられたのは現場の下級将校や下士官であった。特に憲兵は中国人を拷問にかけ、恐れられていたと同時に憎まれており、有罪者の約4割、死刑の約半分を占めている(和田英穂「被侵略国による対日戦争犯罪裁判」)。占領が長期にわたり憲兵による抗日運動の弾圧が厳しかったことを反映している。

表2─1(【文献63】p.61)によれば死刑を執行されたのは149名ですが、無期・有期刑に服していた355名はすべて日本に送還され、サンフランシスコ平和条約が1952年に発効後に全員が釈放されています(【文献63】p.188、 p.191)。

 

 (3)中華人民共和国のおこなったBC級戦犯裁判─示された裁きの倫理

林博史の著書から引用します(【文献63】p.106-8)。

中華人民共和国が成立したとき、その下には日本人戦犯は一部を除いてほとんどいなかった。中国共産党は岡村ら戦犯の日本送還に反対したが、国民政府が送還してしまったからである。その後、ソ連が勾留していた者のなかから中国での戦争犯罪の疑いのある者969人が、1950年7月に中国に引き渡された。それ以外に山西省などに残留して軍閥の閻錫山(えんしゃくざん)軍に協力して共産軍と戦い、逮捕されて戦犯として勾留されたものが140人いた。前者は撫順の、後者は太原の戦犯管理所に収容された。

そこで彼らは戦犯として虐待されるどころか、かえって人道的な扱いを受けるとともに、自己の行為を徹底的に告白し反省し罪を認めるように「認罪学習」がおこなわれた。その間、中国側も事実を調査して被害者や関係者の証言や証拠を収集し、戦犯に事実を認めさせる努力をおこなった。当初は事実を認めると命がないと考えてウソをついたり、命令だから仕方がなかったなどと自己弁護に終始していた戦犯たちも、その人道的な扱いに驚き、また被害者の痛みや悲しみを感じる人間性を取り戻していった。そして次第に自分のおこなった残虐行為を告白し、謝罪する者たちが増えていった。文字通り「鬼から人間に」生まれ変わっていったのである

こうした経緯をへて1956年4月、全国人民代表大会常務委員会は、多数が「改悛の情」を示していることを考慮して「寛大政策に基づいて処理する」ことを決定した。これにより、起訴された45人と途中で死亡した者を除く1017名は起訴免除となって、6月から9月にかけて帰国した。

起訴された45人の内訳は、満州国関係者28人、閻錫山軍ら国民党協力者9人、その他軍人8人である。前二者のなかにも軍人が多く含まれているが、概して将官や佐官クラスが多く、下士官や兵はいない。ソ連から引き渡された時点で陸軍関係585人のうち下士官が223人、兵259人、計483人と多数を占めていたが、そうした下級の兵士は誰も起訴されなかった。満州国関係では長官や次長、局長、科長クラス、あるいは憲兵隊の各隊長クラス(佐官)などが中心である(豊田雅幸「中華人民共和国の戦犯裁判」)。つまり、上級将校あるいは幹部に限定して起訴していることがわかる。

裁かれた犯罪は、軍人では捕虜や住民の虐殺、毒ガス使用、人体実験、住民の放逐、公共物の破壊、財物の略奪などである。細菌戦準備活動で731部隊の榊原秀夫少佐が責任を問われたケースもある。満州国関係者では殺害、拷問などの具体的な残虐行為とともに、治安・経済侵略・労務・文化侵略・毒化(アヘン製造販売)など各政策が訴追内容に含まれており、日本の侵略によって作られた満州国そのものが裁かれたといってよい内容になっている。閻錫山軍関係は日本軍国主義を復活する目的で残留し、解放戦争に敵対したことが裁かれている。

56年6月から7月にかけて瀋陽と太原において最高人民法院特別軍事法廷が開廷し、4件に分けて審理され45人全員が有罪判決を受けた。しかし、刑は禁固20年(4人)から11年の範囲内で、死刑はなかった。しかも勾留日数が刑期に参入され、かつほとんどが減刑され、64年4月までに全員帰国した。1950年時点の1109人中、途中病死した者を除いて1061人が帰国できた(中国帰還者連絡会編「帰ってきた戦犯たちの後半生」)。

このように寛大な措置がとられた理由について、林博史はつぎのように推測しています(【文献63】p.108)。

中華人民共和国がこのような寛大な対応をした理由として、戦後、時間がたち冷静に対処できたこともあるだろうが、53年の朝鮮戦争休戦、54年の中国とインドの平和5原則の共同声明、55年のアジア・アフリカ会議(バンドン会議)など中国が平和攻勢に出て、日本との関係改善を進めようとしていた時期にあたる。戦犯への極刑を求める国内世論を抑えて戦犯を寛大に扱ったことは、日本に向けての関係改善のアピールであったと言えるだろう。

たしかにこのような背景があったことは事実でしょう。しかしわたしには、そのような表面的な理由だけでなく、その精神的な支柱として周恩来首相の倫理思想・哲学が根底にあったと思います。次の記述と考えあわせると、それは確信にかわるのです(【文献63】p.109)。

ところで、以上述べてきた戦犯裁判とは別に、終戦直後に、少なくない日本人が共産党軍によって捕まり、いわゆる人民裁判にかけられて処刑されたケースもあった。公衆の面前での即決裁判であり、1千人以上が処刑されたという推定もあるが、その実態はよくわかっていない。

周恩来首相が「このままでは大変なことになる」と考えて偉大な「周恩来の遺訓」を残した背景には、報復のために悪に手を染めていく状況が国中に拡大していくことがあったのではないでしょうか。戦犯に対する寛大な扱いにもそれが現れていると思います。

 

 (4)我が国の倫理意識のレベルの低さ─日本の新聞報道

このシリーズの後の章でふれることになりますが、近世の日本文化の特徴の一つは倫理意識のレベルが低いことです。世界で普遍的と考えられるレベルに達していません。倫理思想・哲学で使われる重要な言葉が社会で普及していないことがその証拠です。宗教が扱う心の問題の一つは倫理ですが、特にキリスト教では倫理が重要なテーマになっています。それは人間の間で起こる犯罪について、罪を犯したものの懺悔と犯罪犠牲者の赦しが双方の救済につながることを教えています。この倫理観が世界の普遍的なレベルに達しないと日本が国連の常任理事国になる資格はありません。

すべての国の歴史は必然です。仏教の普及、250年にわたる鎖国によるキリスト教の排除、明治維新後の急激な近代化と富国強兵、植民地政策の失敗が招いた国の破局、アメリカが冷戦対策として実施した日本の富国政策による経済発展、などを考えるとよくわかるはずです。キリスト教の信者になることとイエスの「山上の垂訓」を学ぶことは別のことです(6.10.参照)。

倫理レベルの問題は次に引用する毎日新聞の記事(毎日新聞、「戦後60年の原点シリーズ」05/01/06)に明瞭に現れています。注意して読んでほしい点は、倫理は人間相互の問題であるのに相手のことは無視し自己中心的にしか書いていないことです。

厚遇受け反省、残虐行為詳述、死刑なし─中国共産党の戦犯裁判

中国(共産党)が瀋陽などで開いた日本人戦犯裁判での被告人45人は、判決に死刑はなく最高でも禁固20年、ほとんどが満期前に釈放され日本に帰国した。全員の供述をまとめ昨年中国で出版された書籍には、本人が日本語で記した供述書があり、虐殺行為が赤裸々に描かれている。東京裁判やほかのBC級戦犯裁判とはかけ離れた結末に、戦争裁判の矛盾が浮き彫りになる。

被告たちはもともとシベリアに抑留されていた捕虜だ。50年7月ソ連と中国との間で結んだ条約に基づき、中国での戦犯行為を問われた約1000人が、遼寧(りょうねい)省の撫順戦犯管理所などに移送された。

当初は「戦犯」扱いに反感を持っていたが、手厚い処遇などもあり変化。「学習」という思想改造教育を受け残虐行為を反省する。54年になり、自らの罪状についての供述書を記し、起訴された45人が裁判を受けた。不起訴となった者はすぐに帰国した。

不起訴となり56年8月に帰国した坂倉清さん(85)=千葉市在住=は戦時中、中国の農民相手にガス実験をしたり、農民を殺害した。今、「自分たちの行為を考えると、日本は中国に対し真剣に謝罪しなければならない」と考える。戦友会などの集まりで経験も交えて話すと、反感をもたれることが多いという。【東京社会部・照山哲史】

 

5)日本政府の卑劣な行為─植民地の人たちへの差別

 

朝鮮や台湾は日本の植民地として大日本帝国に組み入れられ、地域の住民は日本国民にされてしまった。彼らには苛酷な運命が待っていました。林博史の著書から関係のある部分を引用します。

また当時の日本は大日本帝国であり、朝鮮や台湾は日本の植民地であったので、そこの人々は日本国民であり、戦犯として裁かれる対象となった。サイパン、テニアンなどの南洋諸島は日本の植民地ではなく国際連盟の委任統治領だったので日本国民ではなかったが、日本に保護された地域の住民として戦犯裁判にかけられた。北に目を向けると、南樺太(サハリン)は日本領であったので、そこのウィルタニやニブヒの人たちが日本軍に徴用され戦犯になったケースもある。つまり、日本によって侵略され併合された地域の人々が日本の戦争に動員され、そこでの行為が戦争犯罪として裁かれたケースが少なくなかった。ところが戦後の日本社会は、そうした人々が戦犯に問われたことを無視し放置してきたのである。

日本人と言ってもけっして一様ではない。日本人が裁かれたというが、その内実は単純ではないことに留意しておきたい。(【文献63】p.16-17)

大日本帝国は、領土の拡張とともに支配下に入れた人々に対して「日本人」として皇民化教育をおこない戦争に動員しながら、敗戦により領土が縮小すると、日本ではなくなった地域の人々─朝鮮人、台湾人、サイパン人、ロタ人、ウィルタ、ニブヒなど─を「日本人」ではないとして切り捨ててきた。「日本人」戦犯には、戦犯裁判での弁護にあたっての援助や残された家族への支援、さらには戦犯への軍人恩給の支給など、十分だとは言えないにしてもさまざまなケアをおこなった。こうした差別を続けてきたのは、戦後の「日本人」であり、いまに生きる「日本人」には解決しなければならない責任があるだろう。(【文献63】p.158)

著者の林博史は、特に「日本軍に利用され棄てられた戦犯たち」という一章をもうけて詳しく論じていますが、その中から朝鮮人・台湾人の部分を引用します。安倍晋三首相や麻生太郎外相が、日本政府が彼らにおこなった卑劣な仕打ちが放置されていることに気付けば、彼らのナショナリズムも多少は評価されるでしょう。(【文献63】p.152-5)

戦犯裁判で裁かれた朝鮮人は148人(死刑23人)、台湾人は173人(同21人)にのぼる(表5─1)。これは全戦犯の5・6パーセント、有罪判決を受けた戦犯の中では7・2パーセントにあたる。朝鮮人では軍人は3人、うち1人は比島俘虜収容所長だった洪思翊(こうしよく)中将である。ほかに通訳が16人(中国裁判)、それ以外はすべて俘虜収容所の監視員としてタイやジャワ、マレーの収容所に配属された軍属であり、泰緬鉄道関係だけで35人(うち死刑9人)になる。これらの監視員はイギリス裁判とオランダ裁判で裁かれた者が多い。台湾人の場合、日本軍や軍政部の通訳、あるいはボルネオの俘虜収容所の監視員だった者が多い。ボルネオのケースはオーストラリア裁判で裁かれ、通訳の場合、イギリス裁判と中国裁判で裁かれたものが多かった。通訳で戦犯になった者は憲兵隊などの通訳として、逮捕した者などに暴行を加えた容疑が多い。

日本軍はアジア太平洋戦争の緒戦で英米蘭などの多数の捕虜を捕らえたが、朝鮮人や台湾人の「欧米崇拝観念を払拭」し日本の力を見せ付ける「思想宣伝工作」に利用するため、欧米人捕虜を朝鮮や台湾の俘虜収容所に送り込んだ。と同時にそうした捕虜の監視員に朝鮮人や台湾人を活用しようとして、朝鮮では約3000人の青年を募集し軍事訓練を与えたうえで、1942年8月から東南アジア各地の俘虜収容所に送り込んだ。台湾人は主にボルネオに送り込まれた。かれらは軍人精神を叩き込まれ、日本軍のなかで常態化していたビンタなどの暴力を日夜受けながら、収容所では捕虜と直接接する役割を担わされた。勿論捕虜などを人道的に扱わねばならないというジュネーブ条約など戦時国際法は、まったく教えられなかった。軍属とは兵以下の存在であり、上官の命令に絶対服従することを叩き込まれていた。

監視員たちは捕虜を強制労働に駆り立てる役割をさせられ、しばしば殴打などの暴力を振るった。捕虜が規則違反をしたときには、上官に報告して正式の処罰をおこなうよりはビンタで済ませるのが温情だとも考えた。しかし栄養不良と強制労働、マラリアなどの病気で弱っている捕虜たちにとって、そうした暴力は命取りになることも多く、直接暴力を振るう監視員は憎悪の対象になった(内海愛子「朝鮮人BC級戦犯の記録」、内海愛子ほか「死刑台から見えた二つの国」)。朝鮮人・台湾人の監視員は日本の皇民化教育と軍国主義訓練の産物であるが、その暴力性は本人には無自覚のままに捕虜たちに向けられたのである。

しかし、そうした朝鮮人と台湾人が多数裁かれたことは、「日本の戦争責任を肩代わりさせられた」と言わざるをえない。ただ上官の命令に従っただけとはいえない暴力や虐待の事実を見ると、それが日本軍内では日常茶飯事であったとはいえ、個人に責任がないと言い切れるだろうか。元朝鮮人戦犯のなかには、責任を取るべき上級者(日本人)に代わって自分たち朝鮮人が戦犯として責任を取らされたことの不当性を訴えながらも、捕虜たちに対しては自分たちも「加害者側の一人」であったことを認め謝罪する人もいる(内海愛子ほか「泰緬鉄道と日本の戦争責任」)。

ところでさらに問題なのは、1952年に日本が独立を回復したとき、日本政府は朝鮮人から一方的に日本国籍を剥奪したが、朝鮮人ら戦犯は刑が科せられたときには日本人であったということで、刑の執行はそのまま継続された。ところが他方では、もはや日本人ではないとして軍人恩給などの援護の提供を拒否したのである。戦犯でなくても朝鮮人や台湾人の軍人軍属は同じように差別され、援護の対象から外された。当時は日本人だとして戦争に駆り立てておきながら、戦争が終わると日本人ではないと言って援護を拒否し、戦犯としての罪だけは押し付けるという、卑劣としか言いようのない政策をとったのである。

その後、長い間の補償を求める運動や裁判闘争にもかかわらず、一部に若干の弔慰金が支払われただけで、日本人と同様の扱いを拒否するこうした差別は現在もなお続けられている。

 

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