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知的社会研究所

Institute for Studies on the Intellect-based Society

(ISIS)

 

12. 首相の靖国参拝問題

 

12.5. 裁かれずに終わった多くの残虐行為

 

1)圧倒的多数の残虐行為が裁かれなかった

 (1)女性に対する性暴力

 (2)強制労働の証拠隠滅

 (3)731部隊による人体実験と細菌・毒ガス兵器の使用

 (4)日本の植民地の民衆に対する残虐行為

 (5)民衆に対する残虐行為の計画立案・命令

2)スガモプリズンへの戦犯移送と戦犯への恩典付与

 

文献総一覧

 

1)圧倒的多数の残虐行為が裁かれなかった

 

イラクのサダム・フセイン元大統領は、イスラム教シーア派住民虐殺事件で「人道に対する罪」(C級戦争犯罪)に問われ死刑判決を受けました(日経11/06/06)。市民感覚からすれば「人道に対する罪」は人々が最も強い憎しみを抱くものであり、裁かれて当然の重罪でしょう。

ところで、日本に対する戦犯裁判で「人道に対する罪」(C級戦争犯罪)は裁かれたのでしょうか。日本では一般に「通例の戦争犯罪」(B級戦争犯罪)も含めて「BC級戦争犯罪」という呼び方が使われているので、われわれ日本人はついB級の裁きもC級の裁きも終わっていると思ってしまいます。だから林博史の著書「BC級戦犯裁判」(【文献63】)の中で、「日本に対するBC級裁判で約5700人が裁かれ、死刑が最終的に確認された人数は934人にのぼっている」という部分を読んで、「人道に対する罪」の裁判も行なわれたと誤解しても不思議ではありません。ところが著者の林博史が強調しているとおり、日本に対して実際に適用されたのはほとんど「通例の戦争犯罪」だけであって「人道に対する罪」は裁かれていないのです(12.4.参照)。「BC級戦争犯罪」という我が国での呼び方自体に誤解を招く可能性があります。

しかし、中国の人たちに対してわれわれ日本人が「人道に対する罪の裁きは済んでいる」と言ったりしたとすれば後で恥ずかしく思う羽目になります。林博史の著書「BC級戦犯裁判」から教えられることはたくさんありますが、「人道に対する罪」が裁かれずに残されていることは特に注意して考えねばなりません。一部の政治家が口にする「自虐史観」などの発言は論外です。林博史の著書から引用します。(【文献63】p.166-167)

戦犯として起訴された日本人は、朝鮮人と台湾人を含めて約5700人である。敗戦時、海外にいた日本軍は約350万人、国内も含めると総兵力826万人であった。

中国だけでも1931年以来の13年余にわたる戦争のなかで死者は1000万人以上、負傷者や家を失った者は数知れない。にもかかわらず中国裁判で起訴された者は、中華人民共和国裁判を含めても900人ほどにすぎず、ほとんどの残虐行為は裁かれることなく終わったといって過言ではない。数多くの住民虐殺事件や虐待、拷問のような人的被害のケースについてそうであるだけでなく、財産の焼却・略奪のような物的被害について犯人はほとんど裁かれないままだった。強かんや日本軍「慰安婦」への強制、あるいは山西省において日本軍がおこなったような監禁して強かんを繰り返すケースはまったくと言ってよいほど裁かれなかった。戦犯裁判にかけられたものは、残虐行為の中のほんの氷山の一角にすぎなかったことをまず確認しなければならない。

被害者にとっては、加害者たちが裁かれることなく、謝罪も補償も受けることなく放置され続けたのであり、そのため被害者たちの心身の傷は癒されることはなかった。さらに日本政府や日本社会がしばしば日本のやったことを正当化し、残虐行為があったこと自体を否定しようとしていることは、被害者の傷に塩を塗る行為でしかない。圧倒的多数の残虐行為が裁かれなかったことが、その後に多大な影響を与えることも見ておく必要があるだろう。

 

 (1)女性に対する性暴力

林博史の著書から引用します。(【文献63】p.148-50)

連合国戦争犯罪委員会の極東太平洋小委員会が作成したリストでは、合計で144人が強かんなどの容疑で掲載されている(すべて中国が提出したもの)。ただ、ほとんどは殺人や拷問などと併記される形になっている(内海愛子「戦時・性暴力と東京裁判」VAWW-NET Japan 編「戦犯裁判と性暴力」所収)。

中国裁判では強かんで裁かれた者は49人、強制売春3人、婦女誘拐1人とされている(法務省資料)。女性を誘拐して姦淫しながら連れ歩いていた憲兵軍曹、わいせつな行為や暴行、略奪をおこなった憲兵上等兵のようなケースから、部下の殺人、強かんの責任を問われた師団長(中将)クラスに至るまでさまざまである。

しかし、ほとんどの強かん事件は訴追されないままに終わった。大きな事件としては、ビルマの南シャン地方のある村で75人の女性が日本軍に集団強かんされた事件がある。これはイギリスが追求し、14歳や18歳の被害者などから証言を集めていたが、起訴にまで持ち込めなかった。捜査さえされなかったケースは無数にあるだろう。

全体として強かんは、一連の残虐行為の中の一つとして容疑に含まれることはあっても、独立した訴因になることはほとんどなかった。強かんなど性暴力は戦争犯罪の一つとはされていたが、それはハーグ陸戦規則第46条の「家の名誉」を侵害する行為として認識されていたにとどまり、女性の人権を侵害する国際犯罪という認識は乏しかったと言わざるをえない。

戦時性暴力については、戦後50年あまりたって、ようやく1998年に採択された国際刑事裁判所規程において「強姦、性奴隷、強制売春、強制妊娠、強制避妊措置、または同等の重大さを持つ他の形態の性暴力」が戦争犯罪と人道に対する罪の両者の類型に加えられた。さらに国連安全保障理事会は2000年10月31日に戦時性暴力などに関する18項目の決議をおこなった。そのなかの第11項において「すべての国家には、ジェノサイド(大量虐殺)、人道に対する罪、性的その他の女性・少女に対する暴力を含む戦争犯罪の責任者への不処罰を断ち切り、訴追する責任があることを強調する。またこれらの犯罪を恩赦規程から除外する必要性を強調する」と述べられている。戦時性暴力が裁かれなかったことを批判し、そうした犯罪を裁くべきであることが国際的に確認されるようになった。

この決議の直後の2000年12月におこなわれた「日本軍性奴隷制を裁く女性国際戦犯法廷」において、日本軍「慰安婦」制度は「人道に対する罪としての強かんと性奴隷制」と認定された。ようやく日本軍「慰安婦」制度自体が裁かれることになったのである。その背景には1990年代を通しての国連人権委員会における議論の発展があった。女性国際戦犯法廷の判決では、連合国が日本軍性奴隷制を訴追しなかったことは「サバイバーたちを沈黙させ、辱め、そして、彼女たちの癒しを妨げるという、許しがたい役割を果たした」「その怠慢は特に非難されるべきである」と連合国を厳しく批判している(VAWW-NET Japan 編「女性国際戦犯法廷の全記録II」)。戦犯裁判を実施した者は、一部の書記や通訳を除いて、何らかの権限のある者すべてが男たちであった。戦争の勝者も敗者も男たちによってしか代表されていなかった。勝者と敗者の違い以上に、男性と女性の間の断絶は大きかった。

 

 (2)強制労働の証拠隠滅

林博史の著書から引用します。(【文献63】p.159-60)

中国人強制労働問題についても、かれらを使っていた土木建設業の業界団体である日本建設工業統制組合のなかに華鮮労務対策委員会を設置し、花岡事件が戦犯に問われた状況を危惧して、それ以外に中国人虐待問題が広がらないように対処しようとした。業界は責任逃れに奔走する一方で政府に働きかけ、中国人の「移入」による企業の「損失」に対し、政府から補償金を獲得さえした。

日本政府は、GHQと中国側より中国人労務者についての報告を求められ、外務省は46年に報告書を作成したが、そこでは死亡原因が書き換えられ、「酷使」したことがわからないように脚色された。華鮮労務対策委員会と外務省とは裏で結びついていたことが指摘されている(杉原達「中国人強制連行」)。この報告書について、その後、外務省は「戦犯問題の資料」に使われるかもしれないということで焼却したと答えていたが、1990年代になって東京華僑総会に密かに保管されていたものがようやく公開された(NHK取材班『幻の外務省報告書』)。

 

 (3)731部隊による人体実験と細菌・毒ガス兵器の使用

林博史の著書から引用します。(【文献63】p.167-8)

裁かれなかった代表例は、細菌戦の研究・遂行にあたった秘密部隊である731部隊であろう。そこには連合国、特にアメリカの政治的判断が働いていた。

中国各地でおこなった細菌戦をはじめ、BC級戦犯裁判で扱われるべき犯罪はたくさんあった。毒ガス戦について(裁かれたの)は、オーストラリアの香港裁判で青酸ガスを使った人体実験(被害者はオランダとオーストラリア軍捕虜)が裁かれたケース、歩兵連隊が毒ガスを使用したケース(中国裁判)などがあるだけであり、ほかに中華人民共和国裁判で3人の起訴理由に含まれている程度である。将来の自国の毒ガス使用を制限されたくない米軍は、アイゼンハワー陸軍参謀総長よりキーナン主席検察官に対して、東京裁判において毒ガス使用の訴追を中止させるように要請していた(吉見義明「毒ガス戦と日本軍」)。そうした米軍の意志が働いていたと言えるだろう。

人体実験による犠牲者は3000人とも言われています。神奈川大・常石敬一教授が米国立公文書館で発見したGHQ諜報部門の書簡によれば、731部隊関係者は米陸軍情報部に実験データを提供する見返りに現金の提供まで受けていたことが明らかになっています(日経08/15/05)。

 

 (4)日本の植民地の民衆に対する残虐行為

林博史の著書から引用します。(【文献63】p.168-9)

日本の植民地民衆に対する残虐行為もまったく裁かれなかった。中国人強制労働はほんの一部が裁かれたが、朝鮮人の同じようなケースはまったく裁かれなかった。労働者としての強制連行・強制労働や日本軍「慰安婦」の徴集を含めて、朝鮮人の置かれた状況についても当然情報は入っていたはずである。このケースを取り上げるとすればアメリカ裁判だったであろうが、しかし米軍にはそうした問題意識がまったくなかったとしか言いようがない。米軍の戦犯捜査資料を見て感じるのは、米軍の朝鮮に対する関心の弱さである。逆に、強制連行など植民地統治において日本に協力した対日協力者を、米軍政のために活用し、その後の親米政権の担い手にしていくという方法を選択した。その点も考えると、朝鮮における非人道的行為を裁こうとしなかったことは、戦後の韓国のあり方を歪ませる一因ともなったと言えるだろう。植民地に対するこうした対応は台湾でも同様で、台湾人を戦犯として裁いても、台湾人の被害は取り上げようとしなかった。

性暴力がほとんど裁かればかったことはすでに述べた。強かんを女性に対する人権侵害とする考え方はなかったし、また日本軍「慰安婦」制度自体を戦争犯罪とする認識もなかった。西欧女性が強制的に「慰安婦」にされたことは裁かれたが、アジア太平洋地域の住民がそのようにされても裁かれることはなかった。

 

 (5)民衆に対する残虐行為の計画立案・命令

林博史の著書から引用します。(【文献63】p.169-71)

ある犯罪が裁かれたとしても、被告の選定が妥当であったのかどうかという問題は残る。全体として、一部の上級責任者が裁かれたとはいえ、現場に責任が押し付けられた傾向は否めない。実際に戦争計画や作戦命令を立案起草し、戦争を指導していた大本営参謀や参謀本部・陸軍省の幹部たち、総軍や方面軍などで実質的に動かしていた軍参謀たちはほとんど裁かれなかった。中国人強制連行は東條内閣の閣議で決定され、その実施は次官会議で具体化されたが、商工大臣の岸信介をはじめ、かれらは東條など一部を除いて誰も裁かれなかった。

中国での日本軍の残虐行為を引き起こした原因の一つは、食糧の補給をせずに現地調達させたことであった。食糧の補給が来ない部隊は、食糧を求めて村々に侵入して略奪し、そしてその際に抵抗する村民を殺害し、しばしば強かんもした。そうした行為をおこなったのは個々の部隊であったにせよ、そうした事態を引き起こしたのは、そのような作戦計画を立案実施した軍中央や派遣軍の幹部たちだった。この問題は、太平洋の島々で多くの日本軍将兵が餓死した原因でもある。食糧の補給のない日本軍は、住民がいるところでは略奪をおこない、それができないところでは餓死するしかなかった。中国でも死亡した兵士の多くが飢えと栄養失調に起因するものだった(藤原彰「餓死した英霊たち」)。

泰緬鉄道についても、そうした無謀な鉄道建設を計画し、しかもそこに捕虜や労務者を投入することを決定し、さらには建設中にろくに食糧も医薬品も供給しようとしなかった大本営や南方総軍などの幹部たちは裁かれず、もっぱら現地の幹部や末端の軍属らが裁かれた。また捕虜や中国人・朝鮮人を使用した企業経営者たちもまったく裁かれなかった。捕虜や中国人を虐待したことはすべて現場に責任が押し付けられた。

旧日本軍内部でも、問題が起きると士官学校出身の将校は罪に問われることがなく栄転を繰り返し、下士官上がりの将校やそれ以下の者たちに責任が転嫁されることが多かった。

戦犯裁判に不公平感がともなう一つの理由は、そうした問題があるからだろう。と同時にこれは刑事裁判という方法の限界かもしれない。結局、個々の犯罪の命令者・実行者を処罰することになると、現場に責任が転嫁されやすい。軍内部の命令は文書としてはあいまいなものが多く、具体的には口頭で指示されることが多い。上級者がそんなことを命令した覚えはないと否定すると、それを覆すことは難しい。指揮官としての責任を問うことはできるが、その場合、実質的に動かしていた参謀は権限がないとして免れ、またその上級者まで訴追することは難しい。それに対して、現場にいた最上級者(多くは大隊長や中隊長クラス)は命令文があるかどうかに関わりなく、残虐行為の現場の命令者であることは明白であり、逃げることは難しかった。こうした問題は戦犯裁判だけでなく、われわれは日常社会においても抱えている問題ではないだろうか。

 

2)戦争犯罪人のスガモプリズンへの移送と恩典付与

 

林博史の著書から引用します(【文献63】p.186-7)。

戦犯裁判によって死刑判決が確定した者は、留置されていた刑務所において死刑が執行された。禁固刑あるいは重労働刑に処せられた戦犯の場合、横浜裁判で裁かれた者はスガモプリズンに収容されていたが、そのほかの裁判の戦犯は現地の刑務所で服役していた。しかし戦犯裁判が終了し、やがて日本が独立を回復しようとする中で、こうした服役中の戦犯の扱いが問題になってきた。そうした問題をこの章では見ていきたい。

1949年1月に中国(国民政府)裁判が終了したのにともない、翌月には中国の戦犯260人がスガモプリズンに移された。国共内戦で敗勢となった国民政府は戦犯を収容することもできなくなり、中国共産党の抗議を押し切って戦犯を日本に帰した。その後、50年にオランダとフランス、51年にはイギリスも服役中の戦犯をスガモプリズンに移した。刑務所費用の負担が重荷であること、あるいは植民地の独立により現地で収容できなくなったことなどの事情が背景にはあった。

1952年4月28日に平和条約(講和条約)が発効した時点でスガモプリズンに収容されていた戦犯は、927人(うち朝鮮人29人、台湾人1人)であった(表6ー1)。海外では、フィリピン111人、オーストラリア(マヌス島)206人、計317人が服役中であり、国内外合わせて合計1244人にのぼった。その後、フィリピンとオーストラリアの戦犯も、53年8月までに全員スガモプリズンに移された。

オーストラリアを残して戦犯裁判が終了していた50年3月、GHQは回章第5号「戦争犯罪人に対する恩典付与」を施行した。これにより、未決勾留期間も刑期に含め実質的に減刑となる勾留特典、服役中のおこないがよい者には刑期を短縮するという善行特典、刑期の3分の1以上を服役した者(終身刑は15年以上)に仮出所の資格を与える宣誓仮出所制度が導入されることになった。仮出所は本人の申請に基づき、GHQ内に設置された中央更生保護委員会が保護監督をおこなった。この回章は裁判国がどこであるかを問わず、スガモプリズンに収容されている戦犯すべてに適用され、平和条約(講和条約)発効までに仮出所したものは892人にのぼった。

「回章」という聞きなれない漢字は「a circular, a circular letter or note」の邦訳で、書類の重要性としては比較的軽い扱いでしょう。50年3月という日付が物語るように「戦争犯罪人に対する恩典付与」が実施される背景となったのは朝鮮戦争の勃発(50年6月)に象徴される冷戦激化です。アメリカは対日占領政策を180度転換し、日本に対して「二重封じ込め」政策を実施しました。サンフランシスコ講和条約、日米安保条約の締結です。かくて日本人の「一億総懺悔」は腰くだけとなりました。政治は「逆コース」をたどり、戦争犯罪人の取り扱いでは「二重基準」が生れました。靖国問題において国論が二分している現状を招いたのは、このような日本の戦後史に原因があります。詳しくは次章で扱います。

 

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