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知的社会研究所

Institute for Studies on the Intellect-based Society

(ISIS)

 

12. 首相の靖国参拝問題

 

12.6. 日本人の「一億総懺悔」を腰くだけにした冷戦

 

1)東西の冷戦激化がもたらしたアメリカの対日政策の180度転換

2)マイケル・シャラー教授が語るアメリカの対日「二重封じ込め」政策

3)わたしが描く日本近代史の中の主な出来事

 (1)明治維新からアジア太平洋戦争の敗戦まで

 (2)マッカーサーが行なった戦後初期のリベラルな改革

 (3)アメリカの冷戦戦略の一環であった「日本の安定と再建」政策

 (4)冷戦と異常な円安水準の固定為替レートがもたらした日本の経済成長

 (5)「日本の安定と再建」の経済政策を支えた戦前の日本の官僚機構

 (6)独立した日本経済を襲ったバブル経済、その崩壊と平成不況

4)失敗から学ぶための条件

5)戦後の日本経済

6)日本の戦後政治

 (1)日本が失敗から学ぶ機会は冷戦の激化によって奪われた

 (2)社会の右傾化と政治がたどった「逆コース」

 (3)変わり行く世界

 (4)日本のリベラル派

7)「日本の保守層」

 (1)「日本の保守層」が抱く欲求不満

 (2)小泉・竹中改革

 (3)直系の保守遺伝子をもつ安倍晋三首相

8)教育基本法改正案の衆院における与党強行採決に思う

 

文献総一覧

 

 

1)東西の冷戦激化がもたらしたアメリカの対日政策の180度転換

 

戦後の6・3・3制は、1947年(昭和22年)4月に新しくスタートしました。わたしは新制中学に1期生として入学しましたが、校舎はなく旧制の中学校や国民学校での仮住まいでした。新制中学は、マッカーサーひきいるGHQ民政局が敗戦後の日本において実施した民主主義の理想教育のシンボルです。わたしの戦後は実質的にそこから開始されました(4.2.参照)。しかし、中華人民共和国の成立と朝鮮戦争の勃発によって全てが激変したのです。

アメリカの対日政策の180度転換という大きな変化は、高校生になっていた私にもはっきりとわかりました。国民が一億総懺悔の反省をし、間違いのない国の復興を自分たちの頭で考え、自分たちの手で新生日本を作るんだという意気込みは、国の右傾化によって水をさされました。わたしの落胆は大きく、ふわふわと流されていく不安、もやもやとした不満、ぼんやりとした不信感、その中で整理もつかないまま長い時間を過ごしてきたのです。

これから説明していきますが、現在のわたしは戦後の日本の姿を明瞭に把握できたと考えています。皆さんも一緒に考えてみてください。ここでの議論の参考に、関係する戦後の出来事を以下にまとめておきます。

 (1)日本国憲法(1946年11月3日公布、1947年5月3日施行)

 (2)教育基本法・学校教育法(1947年3月31日施行)

(3)ブレトンウッズ体制の固定相場、1ドル=360円

  (1949年4月23日)

 (4)中華人民共和国成立(1949年10月1日)

 (5)朝鮮戦争勃発(1950年6月25日)

 (6)マッカーサーが警察予備隊の創設を指令(1950年7月8日)

 (7)サンフランシスコ対日講和条約・日米安保条約の締結

   (1951年9月8日調印、1952年4月28日発効)

 (8)ニクソンショック・ドルと金の交換停止(1971年8月15日)

(9)スミソニアン合意・円の切り上げ、1ドル=308円

  (1971年12月)

(10)ブレトンウッズ体制の崩壊・変動相場制へ移行

    1ドル=250ー180円(1973年)

(11)中東危機によるオイルショック・原油価格20倍(1973年、79年)

(12)プラザ合意・日米貿易不均衡是正、1ドル=110円

   (1985年9月22日)

(13)ベルリンの壁崩壊(1989年11月10日)

(14)ソ連崩壊(1991年12月)

 

2)マイケル・シャラー教授が語るアメリカの対日「二重封じ込め」政策

 

最近ぶつかったアメリカ側からのある発言を読んで、わたしは日本の戦後史をきれいに整理して描くことができました。まさに衝撃的でした。われわれは実際に日本の戦後を生きてきたわけですから、その内容のそれぞれの部分はいろいろな形で記憶しています。何がそれほど衝撃的なのか、それを考えることが重要でした。それは、一人のアメリカ人が、ナショナリズムを超越した「科学者の創造的思考」(1.6.、後述)を行なって、アメリカの対日政策が戦後の日本に今日までずっと与えてきた大きな影響の全体像を簡潔に明示したことです。これを、日本がアメリカに支配されているとか、日本はアメリカの51番目の州である、といったとらえ方をするのは間違いです。地球上でおこった人間の歴史の一断面であり、日本がアメリカに開戦してからの必然的な連鎖としてすべてをあるがままに受取らねばなりません。

1945年9月2日、戦艦ミズーリ号で日本の降伏文書の調印がおこなわれました。この日をもってアジア太平洋戦争は正式に終結し、これ以後に戦闘は二度と起こりませんでした。昨年9月はその60周年にあたります。この機会に、毎日新聞の記者・吉田弘之は当時の米外交に詳しい米アリゾナ大学のマイケル・シャラー教授にインタビューし、彼が語った米国の占領政策を「戦後60年の原点」シリーズの中で掲載しました。当時は何気なく読み飛ばしていました(見出しはポイントを外していたように思います)。しかし最近、あらためて注意深く読み直してみて、日本の戦後を左右し現在の日本を生んだアメリカの政策があっけらかんと語られていることに気がつきました。われわれ個人は自由に生きてきているようで、実は厳然とした歴史的必然の制約にしばられている事実をつきつけられ、なかばぼう然とした気持ちになりました。以下に紙面から引用します(毎日新聞9/2/05)。

時を置いて全く違う二つの政策で構成されていた。

占領初期の政策は、日本を武装解除し政治・経済的民主国家を築くことだった。懸念されたのはアジアにおけるパワーの空白だったが、中国が日本に代わってそれを埋めることが期待された。日本を小規模な平和国家とすることが目標だった。

また当時、米国の戦後構築の優先度は欧州、中国、日本の順だった。トルーマン米大統領は元々、連合国軍最高司令官(マッカーサー)とそりが合わず、欧州の戦後構築にかかりきりで日本に関して「放置策」を取った。この構図がうまく機能した。

だが、この政策は47年(昭和22年)以降、中国の内戦などで劇的に変化した。49年(昭和24年)に中国は共産主義国家になった。国務省は、日本の安定と再建がソ連、中国の封じ込め政策の核になると考えた。欧州ではドイツが強くなればソ連の拡張を阻止できる。東アジアでは日本が強くなれば良い。日本への見方を180度変えたのだ。

米国は、日本の共産主義化はないと考えたが、中立国となることに強い不安を覚えた。占領期間中、日本が中国との貿易再開を主張したが、米国は反対した。日中間の貿易の増加、外交、文化的つながりが米国から日本を引き離してしまうと考えた。日米安全保障条約は日本を中国とソ連の軍事的脅威から守ることが主目的だが、日本が漂流して中国に向かないようにする意図があったと考える。中国と日本に対する「二重封じ込め」の意味合いがあったと言える。(中略)

日本の再軍備については、国務省は賛成だったが、日本国内の経済・政治への影響、他のアジア諸国の懸念などを認識していた。特に、欧州復興のためのマーシャルプランを実施したケナン(国務省政策企画室長)は、このプランを日本の再建にも適用できると考えたが、ドイツと同様、日本の再軍備を優先しなかった。ソ連や中国を軍事的脅威とは考えず政治、イデオロギー、経済的脅威だととらえ、日本の経済再建、政治的バリアの建設を最優先に置いた。大規模な最軍備はソ連、中国を刺激し、日本の安定度を弱めると考えていた。

占領が今の日本政治、国際社会に与えた影響について言えば、占領が「弱さ」と「服従」を象徴する苦い記憶となっている日本の保守層に、真の独立のために占領以降の流れを断ち切ることを求める考えがさらに強まっているようだ。彼らは、占領と再建の代償となった断固たるナショナリズムの再興を求めているようにみえる。逆にリベラル派は、占領を肯定的に見ており、その遺産を除外するより包み込む機会だと考えている。現在、高まっている憲法論議もそうだ。一方、国際社会は極めて肯定的だ。冷戦時代に日米安全保障条約に常に抗議してきた中国、旧ソ連(ロシア)も、この条約が日本の行動を制限し、現状を維持したという事実に満足しているのではないだろうか。

最後に占領政策でのマッカーサー(連合国軍最高司令官)の立場を指摘したい。彼は保守的な共和党員だったが、リベラルな改革、特に財閥解体を推進した理由の一つは、彼の政治的野心に基づくものだったと思う。彼は大統領選予備選で勝利して共和党の指名を受け48年の本選に出馬することを考えていた。

日本占領の成功で、政治的能力を示したかった。予備選で一番先に投票される州が重要だが、それがマッカーサーの父の出身地ウィスコンシン州だった。同州は特に改革的伝統を持っており、財閥解体は同州の民主党票に対するアピールという側面があった。選挙運動で、独占禁止法推進者で有名な名門政治家の息子をアドバイザーに起用したことでも分かる。結局、予備選で大敗し指名争いを断念した。

マイケル・シャラー教授が語る「占領が今の日本政治、国際社会に与えた影響」について、記事を書いた毎日新聞の記者・吉田弘之は、「日本占領」は今に至る日本の国家のあり方や国際政治に影響を及ぼしている、と書いています。まったくその通りです。マイケル・シャラー教授の語った「戦後に米国がとった対日政策」を頭に刻みこんでおくために、大切なポイントを5つに整理しました。

(1)トル−マン政権が戦後の日本で目指したのは「政治・経済的民主国家の建設」であり、日本を小規模な平和国家とすることが目標だった。トル−マンは欧州の復興を重視し、日本の復興はマッカーサーにまかせる「放置策」をとった。

(2)マッカーサーは、48年の大統領選に出馬する政治的野心を持っており、日本の占領政策で成功して政治的能力を示そうとしてリベラルな改革をおこなった。これはうまくいった。

(3)トル−マン政権の対日政策は、中国が共産主義国家になったことで劇的に変化する。「日本の安定と再建」政策の推進である。サンフランシスコ講和条約を締結して日本を独立させ、さらに日本を中国とソ連の軍事的脅威から守るため日米安全保障条約を締結する。

(4)「日本の安定と再建」政策によって日本を強くする、そこには二つの意図があった。一つは、東アジアにおけるソ連・中国の封じ込めの核として日本を位置付けること、二つ目は、日本が中立国となったり漂流して中国に向かうことを封じ込めることである。「二重封じ込め」とよばれている。

(5)日本の現状に対する簡潔な指摘が最も印象的である。占領が「弱さ」と「服従」を象徴する苦い記憶となっている保守層がいる。彼らはナショナリズムが占領と再建の代償にされたと考え、断固として再興を求めている。他方には、占領を肯定的に見ているリベラル派がいる。彼らは、その遺産を除外するより包み込む機会だと考えている。

これらのことは勿論初めて知ったことではありませんが、アメリカのとった政策とその結果についてのアメリカ側の客観的な観察は、正に簡にして要を得たものでズバリと身にこたえました。傍目八目とはこのことでしょう。マイケル・シャラー教授の語った「米国が行なった戦後の対日政策」を中心にすえて考えれば、日本がたどった歴史的筋道に対して一貫してピントの合った明瞭なイメージを描くことができます。それを以下に説明したいと思います。

 

3)わたしが描く日本近代史の中の主な出来事

 

 (1)明治維新からアジア太平洋戦争の敗戦まで

300年にわたる鎖国の中で安穏に生きてきた日本人、開国して彼らが直面したのは、ロシアや西欧諸国が富を求めて国家の基盤が弱いアジアで展開していた植民地主義であった。日本人は、文明の進歩から取り残されている焦りと、極東アジアで資源もなく生きていかなければならない不安の中でひたすら富国強兵に努めた。その結果、大国ロシアの極東における覇権主義にかろうじて勝利した。日本は世界から評価され、これが強烈な成功体験となったのである。開国からわずか40年後のことであった。

1929年(昭和4年)10月のニューヨーク・ウォール街の株の大暴落が引き金となった世界不況が国内経済にも波及するなかで、日本政府は経済不況を植民地主義で乗り切ろうと韓国、中国、東南アジア諸国を侵略した。しかし所詮不正によって未来への展望を切り開くことはできなかった。日本は世界から非難されて孤立し、そのままトンネルの中に入り出口を見失う。アジア太平洋戦争を始めるときも戦争を終わらせるときも、冷静な思考を欠いた行動に終始した。2発の原爆を落とされても自己中心的な根拠のない神國の夢からさめられない。政府は一億総特攻の玉砕政策によって本土決戦へとつきすすむ。悲惨な結末に終止符を打ったのは、連合国への無条件降伏の詔勅を発した昭和天皇であった。日本人は、開国から40年かけて築き上げてきたものをその後の40年ですべて失うことになった。

 

 (2)マッカーサーが行なった戦後初期のリベラルな改革

アメリカが戦後初期に行なった対日占領政策は、民主国家を築いて日本を政治・経済的に小規模な平和国家とすることであった。リベラルな改革を行ったのはマッカーサーである。トルーマン政権は欧州重視で日本に対しては「放置策」をとりマッカーサーに全てを丸投げした。リベラルな改革の象徴が戦争放棄をうたった日本国憲法や教育基本法の制定である(「戦後60年の原点」シリーズ、毎日新聞9/2/05)。GHQの民生局で働いていて財閥解体と独占禁止法の制定を推進したのはエレノア・M・ハドレーである。彼女は改革派の女性であり、米国に帰国後、冷戦下の米国で吹き荒れたマーカシズムにより長らく公職につくことを阻まれている(日経7/25/04)。リベラルな改革にたずさわったものは米国のリベラルであったことを忘れてはならない。理想の追求において国籍は関係ないのである。

 

 (3)アメリカの冷戦戦略の一環であった「日本の安定と再建」政策

中国が内戦を経て共産主義国家になったことで冷戦は顕在化した。アメリカ政府が対日政策を180度転換したのはこの事態に対応するためであった。「政治・経済的民主国家、小規模な平和国家の建設」を転換し、中国の拡張を阻止するために日本を強化する「日本の安定と再建」政策へ向かったのである。第一の目的は、東アジアにおけるソ連・中国の封じ込めるため日本を核とすることである。しかし、アメリカには日本にエネルギーを割く余力はなく、占領状態を急いで終わらせて独立させる必要があった。このような事情からサンフランシスコ講和条約が急いで締結された。

アメリカの「日本の安定と再建」政策は、日本政府が明治維新からずっと腐心してきた「富国強兵政策」の前半分の「富国」と同じものである。今回はアメリカが後押ししてくれたことが違う。後半分の「強兵」であるが、すでに平和憲法が施行されており日本の再軍備はできない。そこで日本の本土防衛には警察予備隊を作り、日本を中国とソ連の軍事的脅威から守る仕事はアメリカが肩代わりした。日米安全保障条約の締結である。アメリカのさしせまった目的は独立後の日本で米軍基地を確保することであった。一言で言うと、日本は経済と外交の両面にわたってアメリカから全面的なバックアップを受け、開国以来いだいてきた独りぼっちで生きていく不安からはじめて解放されたのであった。これは敗戦と冷戦のおかげなのだ。

アメリカの「日本の安定と再建」政策の第二の目的は、日本が中立国となったり漂流して中国に向かうことを封じ込めることである。「二重封じ込め」とよばれている。この政策は日本の独立後に実施されており、日本の保守勢力がそれに従ったのである。

 

 (4)冷戦と異常な円安水準の固定為替レートがもたらした日本の経済成長

アメリカが「日本の安定と再建」のためにとった経済政策は、国際通貨基金(IMF)を軸とするブレトンウッズ体制のもとで、1ドル=360円という為替レートに固定することであった。この異常な円安水準の固定相場は、実に20年以上にわたって維持された。日本はアメリカという巨大なマーケットを与えられ、輸出主導による急速な経済発展が可能となった(行天豊雄・元財務官、「戦後60年」シリーズ、日経7/18/05)。勿論、原油などの資源の輸入にも問題はない。

冷戦が朝鮮戦争の勃発で熱い戦いとなり、朝鮮特需が経済成長を加速した(「戦後60年」シリーズ 日経8/15/05、日商会頭・山口信夫、日経7/18/05)。朝鮮戦争で犠牲となった米軍兵士の死者は3万6574人である。朝鮮戦争は、北朝鮮の金日成がスターリンと毛沢東に個別に接触して画策した。スターリンは、金日成からの依頼を毛沢東に肩代わりさせる形にもっていこうとし、最終的には金日成が仕組んだ戦争へ毛沢東を引きずり込んだのであった(【文献64】p.47)。

実質GDPの伸びが年率おおむね2ケタを記録した日本の歴史的な高度成長は20年以上続いた。一人当たりの国内総生産(GDP)は262ドル(1955年)から4471ドル(1975年)ヘと20年で17倍に増え、欧米のほぼ3分の2の水準に達した。為替レートは1971年のスミソニアン会議で308円に切り上げられている(「経済教室」中村高秀 日経7/21/06)。

1970年代の2度にわたる原油の価格高騰(オイルショック)で、安価な原油の輸入に依存していた日本の成長力は大幅に低下した。20年続いた日本経済の高度成長期はここで終り、実質GDPの伸びが年率4%前後の安定成長期に入る。最も重要な資源である原油の価格が中東情勢(このときは第4次中東戦争やイラン革命など)に左右される事情は現在も変わらない。

 

 (5)「日本の安定と再建」の経済政策を支えた戦前の日本の官僚機構

アメリカが「日本の安定と再建」の経済政策を実施するにあたって、みごとに機能したのが敗戦後も残っていた戦前の官僚機構であった。大蔵省が中心となって官僚主導の政策形成が進行したのはごく自然の成り行きである。地方行政の隅々まで中央官庁が支配する中央集権、「護送船団方式」で守られた銀行、「親方日の丸」で中毒した経済界のもとでエコノミックアニマルと化した国民が成し遂げた経済成長は記録的なものであった。「上から下」(7.参照)にできた国の挙国一致体制が復活し、「官民結束して経済大国に」が実現したのである(「戦後60年」シリーズ、日経7/18/05)。敗戦で飢えていた日本人は懸命にもの作りに励み、安価で優秀な消費財の世界的生産基地となり、手に入れた経済大国と一億総中流の社会は日本人にとって有り難いものであった。しかしこの成功は、アメリカの「日本の安定と再建」政策無しには困難であったことを忘れてはならない。

1973年に日本が手に入れた経済的独立のあと、官僚が主導する政策形成への信用は20年以上はもたなかった。バブルの形成と崩壊によって失われたのである。

 

 (6)独立した日本経済を襲ったバブル経済、その崩壊と平成不況

政治主導で実施されたブレトンウッズ体制の固定金利は、ドルと金の交換を停止したニクソン・ショックを経て1973年に変動相場制に移行した。主要通貨間の為替レートの決定は市場原理にゆだねるのが正しいのである(「経済教室」歴史の教訓、香西泰、日経8/1/05)。アメリカ政府が「日本の安定と再建」政策のために実施した日本経済のバックアップはここで終了し、日本は経済的に独立したのである。

しかし現実には政府の財務当局が円相場の急騰を抑えるために為替介入をしている。買い込んだドルは米国債の購入という形で米国に環流した。現在の米中関係とおなじ構図だし、米国が財政赤字と貿易赤字という双子の赤字を抱える状況もおなじである。当時も今も依然として米国が世界の経済を支えていることになる。

先進5カ国が米国の巨大な貿易赤字問題を協議してドル高是正に合意したのが1985年のプラザ合意である。そして円は2週間で217円まで急騰したのであった(「激動の円・ドル」、ベーカー元米財務長官、毎日新聞9/28/05)。このようにして日本経済の安定成長期は、経済的に独立してから10年で終了することになる。

円の急騰に直面した日本政府および日本銀行は、マクロ経済政策の柱である金融政策で大きな過ちをおかし、バブルの形成(1985年ー1990年)、およびバブルの崩壊と平成大不況(1991年ー2003年)を招いた(三菱総合研究所、ゼミナール「入門日本経済」(1)、日経3/21/05)。

まず、円高による経済不況を怖れた日本政府および日本銀行は1986年から金融緩和基調を続け、公定歩合を1年間に5%から戦後最低の2・5%まで引き下げ、しかも2年間も維持したのである(ゼミナール、三菱総合研究所「入門日本経済」(16)、日経4/11/05)。さらに、だぶついた資金が流れる先の監視を怠たり、企業は「財テク」に走り、銀行から供給された資金の大部分は土地、株式、商品に投入された。株価と地価は異常な騰貴を示して平成バブルを招いてしまう。1985年に1万3000円を超えていた日経平均株価は、1989年(平成元年)に3万8915円へと5年間で3倍、6大都市圏の地価は商業地で4倍、住宅地も3倍に跳ね上がった(中村隆英、「経済教室」日経8/16/06)。

日本政府および日本銀行はここで再度もっと大きな誤りをおかす。事態にあわてたあげく、公定歩合をわずか15カ月の間に2・5%から6%へという無茶苦茶なスピードで引き上げたのであった(ゼミナール、三菱総合研究所「入門日本経済」(16)、日経4/11/05)。これがバブル崩壊を誘導して日本経済と銀行を奈落の底にたたき落とし、15年にわたる平成大不況をまねいたのである(内海まこと、「経済教室」日経11/3/05)。1990年末に2450兆円あった土地の資産総額は、2004年末には1260兆円へと半減した(滝田洋一、日経10/27/05)。日経平均株価も2003年春には8000円を割るまでに下落した(ゼミナール「入門日本経済」(34)日経5/5/05)。日本が経済的に独立した1973年から20年後のことであった。

 

4)失敗から学ぶための条件

 

人間は失敗しないと学ばない。自分の成長にとって大切なことを学ぶのは失敗したときである。知的に成熟した人たちは、自分が成熟できたのは失敗を重ねた結果であることを経験から肝に命じて知っている。ただしその前提になるのは失敗できる自由を持つこと、自ら失敗する自由を求めることである。失敗できる自由のある環境とは、放置されて独り立ちを強いられるか、あるいは独立していて失敗する自由も持っていることである。社会は失敗を防ぐために個人を保護・監督しようとし、その程度に応じて個人の自由は制限される。しかし個人に失敗する自由を与えない社会は進歩しない。社会も国家も人間と同じで、失敗が起こらないように庇護されている国家や社会は独立しておらず、失敗する自由が与えられていないから進歩しない。

従って、まず個人が独り立ちする勇気をもつことが基本である。その上で、真実を追求する情熱、自己愛を捨ててあるがままの自分を理解しようとする潔白さ、フェアプレイの精神、そして自己を厳しく反省する倫理的・道徳的謙虚さを持つことが大切である。失敗を恥じて隠す「恥の文化」を捨て、自分の失敗の経験を周りの人とオープンに話し合う環境をつくることである。それは自分の理解を深めるだけでなく周りの人が学ぶチャンスにもなる。

人間にとってまことに幸せなことは、自分があやまちを犯しているのに、そのあやまちから学んでいないときは同じ失敗を繰り返すことである。それが、学ぶべきことを学ぶまで考えるチャンスを与える。失敗を恥と考え、失敗を忘れようとか失敗を隠そうとする文化をすてないかぎり、ひとや社会が知的に成熟する可能性は無い。

人間も社会も成功からは学ばない。成功の経験を周りの人に伝えることが周りの人を成功に導くわけでもない。ノーベル賞受賞者の話をきいたところでノーベル賞に一歩でも近づけるわけではない。

 

5)戦後の日本経済

 

経済は政治に優先する。対冷戦のアメリカの「日本の安定と再建」政策は、日本がアジア太平洋戦争の引き金を引く原因となった資源確保の問題だけでなく、製品を輸出する貿易の問題まで解消してくれたのであった。20年にわたるアメリカのバックアップを受けて経済は驚異的な成長を果たして日本人は有頂天になった。いまになっても自力で達成したと誤解しているひとも多い。自己中心で、グローバルな視点でものを考える習慣がなく、労働不況を輸出して世界からエコノミックアニマルと称されても気がつかないノーテンキな時期があった。アメリカにバックアップされていることを忘れて「知」の深化を放置し、「日本型資本主義」の優秀さをアメリカに吹聴してまわる傲慢さまでさらけだした。これこそが「恥」である。

シャラー教授の説明通り、『日本に対する「二重封じ込め」』により「日本が漂流して中国に向かないようにする」アメリカの「日本の安定と再建」政策は、政治的にも経済的にも十二分に成功を収めた。アメリカ人が重視する「勤勉と努力は報われなければならない」という信念が自国の利益を超えて飢えていた日本人に示されたことは事実である。彼らの信仰するフェアプレイの精神は国境や国籍を超えたところにある。

アメリカにとって核戦力の均衡の下で展開された冷戦を現実に戦う恐怖は大きかったであろうが、それにしても「日本の安定と再建」政策で示された日本に対する優遇は異常である。1950年代には円安による繊維輸出急増によって日米間に深刻な繊維摩擦が起こった。しかし、アメリカは日本に自主規制を要求しただけで我慢している。もしかして、原爆投下による一般市民の無差別大量殺害に対する贖罪の気持ちが無意識のうちに込められていたのではなかったか。

日本の経済的独立は1973年の変動相場制への移行によってもたらされた。その後20年もたたないうちにバブル経済にふみこみ、1991年のバブルの崩壊後に平成大不況を招くという失敗をおかした。わたしが強調したいことは、日本が失敗する自由を持っていたことの幸いである。そして今回は十分長い時間をかけて失敗から学ぶことができた。だれも助けてくれず自分で考えるしかない機会を得たことが重要であった。「失われた10年」あるいは「失われた15年」という見方は皮相的である(青木昌彦、「ニッポンの力」、日経1/1/06)。

下で詳しく述べるが、その最大の成果は、経済不況を克服するために国民が政治を改革するインセンティブを獲得したことである。平成大不況の末期の2001年に変人政治家・小泉純一郎を登場させ、小泉改革を進めさせた。議会制民主主義を隠れ蓑にした自民党派閥政治をぶっ壊し、官僚主導の政策形成を改め、小泉・竹中改革による官邸主導の「経済財政諮問会議」中心の政策形成システムを起動し、「政官財」が演出する官僚主導の中央集権、利益分配に終止符をうったのである(加藤寛、「経済教室」日経8/17/06)。平成大不況を招いた大蔵官僚への国民の批判が官僚主導に引導をわたした。何度も言うが経済は政治に先行する。ここで注意しないといけないのは、たとえば官僚主導は悪、官邸主導は善などと決めつけてはならない。あくまで歴史の進歩の自然な流れとしてとらえることである。

ところで日銀は、今になっても、バブル形成と崩壊を導いた金融政策の失敗について十分に総括していないし敗因分析を公にしていない(竹森俊平、「経済教室」日経7/19/06、「大磯小磯」日経7/20/06)。プラザ合意の政策協定を律儀に守って超低金利を長引かせた背後には、財政を優先する政府・財政当局の強い圧力があった(ティートマイヤー旧西独財務次官、「激動の円・ドル」毎日新聞9/29/05、岡部直明「核心」、日経12/19/05)。日銀としては、当時の大蔵省が日銀をコントロールしていたのだから敗因分析の責任は大蔵官僚にあるといっているのであろう。しかし、当時の大蔵官僚の発言は今になっても歯切れが悪いし(大場智満、「激動の円・ドル」毎日新聞9/30/05)、官僚寄りの学者の見方にも違和感を感じるところがある(中村隆英、「経済教室」日経8/16/06)。日銀の独立性を確立していなかった政治に根本的な責任があり、独立していない日銀が責任を取れるはずはない。

バブル形成と崩壊を導いた金融政策の失敗については、私のような素人でもその原因を数え上げることはできる。日本経済新聞を講読しているだけでよい。ここでは適切な解説記事を紹介するだけにする。篠原三代平、「経済教室」日経8/15/06、竹森俊平、「経済教室」日経7/19/06、宮尾龍蔵、「経済教室」日経3/17/06、岡部直明、「核心」日経10/31/05、日経12/19/05、内海まこと、「経済教室」日経11/3/05。これらを読んで総合的に自分で判断することがたいせつである。ベーカー元米財務長官は「失敗を許さない日本の文化」も要因の一つだと指摘している(「激動の円・ドル」毎日新聞9/28/05)。

 

6)日本の戦後政治

 

成功すると人間も社会も有頂天になり、傲慢になり、他者への思いやりを失う。日露戦争の強烈な成功体験が武力への過信と無敵神国の傲慢を生んだのは自然ななりゆきであった。後の章で詳しく紹介するが、日露戦争のポーツマス講和条約締結(1905年)のわずか3年後に、憂国の士、朝河貫一が米国から日本人に発信した悲痛ともいえる忠告は無視された。彼が預言した通り、日本はアメリカと戦い、そしてアメリカに破れた。

 

 (1)日本が失敗から学ぶ機会は冷戦の激化によって奪われた

有頂天になっている社会に「過信と傲慢はつつしむべきだ」といったところで効き目はない。過信と傲慢が悪かったと反省できるのは、それが招いたアジア太平洋戦争の敗戦と国の荒廃という大失敗をかみしめるときであり、それこそ日本が学ぶ貴重なチャンスであった。

ところがこの貴重なチャンスは、敗戦後わずか数年にしてアメリカの「日本の安定と再建」政策によって失われた。アメリカがこの政策はとったのは、冷戦に対処するためであって歴史的必然と受取らねばならない。サンフランシスコ講和条約の締結で形の上では日本の占領状態は終了した。しかし、経済的にも政治的にもアメリカが背後で保護しており独立した状態にはなっていない。つまり失敗をすることも許されないのである。

政治で最も重要な課題である外交は日米安全保障条約の締結によりアメリカが肩代わりし、日本の政治は独り立ちすることはできなかった。まずいことに、極東だけは北朝鮮の存在により冷戦からの緊張状態をずっと今日まで引きずっている。板門店で米韓と北朝鮮が向き合っている状況は昔とおなじである。国民がアジア太平洋戦争の敗戦までの政治を十分に反省する機会はついに今日まで得られなかった。政治的に失敗するチャンスも与えられなかった。日本の政治が知的に成熟することはできなかった。

 

 (2)社会の右傾化と政治がたどった「逆コース」

現実主義のアメリカは、冷戦を戦うために日本を小規模な平和国家にするリベラルな改革をあきらめ、「中立国になったり漂流して中国に向かないように日本を封じ込める」ことを最優先した。サンフランシスコ対日講和条約の締結(1952年4月28日に発効)により日本の占領状態は敗戦後6年という早期に終結された。東西分裂状態のドイツとはまったく対照的である。極東においてソ連や中国の政治的・イデオロギー的脅威を封じ込めるためのバリアの建設、それが日本に対する「二重封じ込め」政策のもうひとつの側面であり、日本の「独立」はその線に沿って行われた。アジア太平洋戦争を押し進めた日本の政治家や官僚を「日本の安定と再建」政策で利用し、社会が右傾化するのを許容した。アメリカのこの政策は「行動の限定合理性」(10.7.)によるものである。ジョンズ・ホプキンス大教授のフランシス・フクヤマの言っていることを引用しよう。(「戦後60年 平和と繁栄への教訓」、日経8/2/05)

冷戦時代に米国は韓国や台湾などの独裁政権と戦略的な同盟関係を結んだ。より大きな的との戦いでは戦略的な妥協は正当化され得る。現在でもテロとの戦いで、米国は民主主義国家とはいえないウズベキスタンやタジキスタンに軍事基地を設けている。

この結果、日本の戦後社会は占領初期の民主主義の理想の追求から一転して「復古調」一色に染められた。鳩山一郎や河野一郎のように公職追放処分となっていた戦前の政治家が「逆コース」をたどって追放解除となって政治に復帰した。また、岸信介や中曽根康弘のような東大卒の戦前の官僚出身者が政権党を支配した。レッドパージの嵐も吹き荒れ、政治は一気に右傾化した(「風見鶏」、日経8/6/06)。

 

 (3)変わり行く世界

世界では、ベルリンの壁崩壊、ソ連崩壊に象徴されるロシア共産主義の崩壊により冷戦はとっくに終結し、共産主義圏諸国も市場主義への移行をほぼ完了した。欧州連合は成熟を続け、中東欧経済はユーロ圏の恩恵を受けて発展を続けている。新たな国を組み込みながら欧州連合は一大経済圈に成長した。中国やインド、ASEAN諸国も例外ではない(「戦後60年」シリーズ、日経8/7/05)。ソ連と違って中国やベトナムが共産党の一党支配体制を維持したまま大きな混乱もなく市場経済に移行したことはアジアが成し遂げた素晴しい成果である。市場経済が民主主義を基本とする以上、自由主義と社会主義が同じ目標に向かって進んでいくのは自然な成り行きであった。そこに至る歴史が違うだけで本質的な相違はない。

2006年4月20にワシントンで行われた米中首脳会談でブッシュ大統領は米中関係について次のように述べている(胡錦濤中国国家主席歓迎式典での発言要旨、日経4/21/06)

米国と中国は大きな海で隔てられているが世界経済でつながっている。米国は中国の新興を歓迎する。国際システムの中のステークホルダー(STAKEHOLDER=利害関係者)として、米国と中国は多くの戦略的利害を共有している。米中がどのように責任を持ちながら他国と協力できるか話し合いたい。二国間関係が成熟すれば、意見が違うことについて率直に話すことができるようになうだろう。

世界がこのように新たな深化を遂げている一方で、アメリカは世界に先駆けてIT革命を行った。この革命は、経済だけでなく人間の文化の全ての面で根本的な変革をひき起こす力を持っており、それがどこまで及んでいくかは今なお予見することさえできない。世界で唯一「下から上」(7.)にでき上がった国、アメリカの底力である。

 

 (4)日本のリベラル派

中曽根康弘が「経済中心主義」とよんでいる人たちは、吉田茂、池田勇人、佐藤栄作、田中角栄、福田赳夫、宮沢喜一の面々である(「戦後60年」シリーズ、日経8/15/05)。彼らは、上の2)で紹介したマイケル・シャラー教授の表現を借りれば「保守派」に対する「リベラル派」で、『占領を肯定的に見ており、その遺産を除外するより包み込む機会だと考えている』人たちである。私に言わせれば、彼らは決して「経済中心主義」ではなく、むしろ現実的な自主独立派である。若月秀和著『「全方位外交」の時代』(日本経済評論社)に対する五百旗頭真の書評(毎日新聞8/20/06)から引用する。

ニクソン政権による「米中頭越し接近」の衝撃が、日本外交に新しいページを開くことになった。沖縄返還の約束は得たものの、まだ実施を得ていない状況にあって、佐藤栄作政権は対米反発や報復を自制し、国連の場で台湾を米国とともに守る努力を続けた。それでいて佐藤首相、福田赳夫外相のコンビは「多面的外交」に転じたとする。それは日米関係を基礎としつつも対米一辺倒を改め、日中国交正常化と日ソ平和条約を並行して追求するものであった。72年にはアジアの親ソ社会主義国モンゴルとバングラデシュとの国交を結び、外交地平を拡大した。これが後の福田内閣の「全方位外交」の萌芽であるとする。

「全方位外交」はすべての国々との関係を濃淡なく重視する「等距離外交」ではない。日米基軸は自前の安全保障能力を欠く日本にとって与件たらざるを得ない。とりわけ危機を迎えると、対米関係を深化させる以外に術はない。70年後半、ソ連の脅威が強まる中で、福田首相は日中平和友好条約を結び、事実上の反ソ・米中日提携に与した。それでいて首相が反ソ協商ではないと説き続け、対ソ関係再構築のための微妙な努力を怠らなかったことを本書はたどる。

本書のきめ細やかな実証分析は、たとえば日中平和条約をめぐる解釈上の対立にも光を投じている。福田首相の決断にとってトウ小平路線の確立とその柔軟な対日方針が主要因であった。米国政府からの外圧は、その後の補強要因であった。そう的確に弁明している。

大平正芳内閣は、イラン革命やソ連のアフガン侵攻という危機の中で「西側の一員」へと回帰した。そこに至るまでの五つの政権の外交路線の微妙な相違を看取しつつ、危機をこなした70年代日本外交を描きあげた本書である。

佐藤栄作内閣は1965年6月に日韓基本条約を調印しており、田中角栄内閣は1972年8月に日中共同声明で国交正常化のレールを敷いている。

 

7)「日本の保守層」

 

ところで、対冷戦戦略の一貫として日米安保条約が締結されたことは、政治の最も重要な仕事である外交がアメリカに丸投げされたことを意味する。今日まで日本が外交で独立するチャンスはなかった。東アジアには北朝鮮という共産党独裁国家が歴史の遺物のように残されており、核開発やミサイル発射という騒がしい事件により日米安全保障条約が冷戦時代と同様の重要性をもっているような状況にあるからである。拉致問題も国民感情を刺激する。政治の最重要課題である「外交」をこのようにアメリカが背負っている状況で、いったい日本の政治家に残された役割が何かあるのか。

 

 (1)「日本の保守層」が抱く欲求不満

独立国でありながら外交を丸投げしている日本では、マイケル・シャラー教授がいうところの「日本の保守層」のフラストレ−ションは溜まるばかりである。その代表が中曽根康弘である。中曽根は「統治中心主義」を自称し、鳩山一郎、岸信介、中曽根康弘の流れを「保守本流」であると自慢している(「戦後60年」シリーズ、日経8/15/05)。

上の2)で紹介したマイケル・シャラー教授の表現を借りれば、彼らは

『占領が「弱さ」と「服従」を象徴する苦い記憶となっている日本の保守層』

『真の独立のために占領以降の流れを断ち切ることを求める考えがさらに強まっている。彼らは、占領と再建の代償となった断固たるナショナリズムの再興を求めているようにみえる』。

日本国憲法や教育基本法は、「弱さ」と「服従」を象徴する占領の苦い記憶と結びついており、自身のプライドは占領と再建の代償にされたと思っているのである。中曽根康弘首相は1983年1月に「日本は不沈空母」という発言をしている。

しかし現実を冷静にみれば、日本はサンフランシスコ講和条約と日米安全保障条約に象徴されるアメリカの「日本の安定と再建」政策によって「安定と繁栄」を維持してきたのは明らかである。それは良いとか悪いとかという次元の問題ではない。冷戦に対処することが世界にとって最優先課題であったことは客観的事実であり、日本の独立はそのような条件の下で成立していることをはっきりと認識し納得すべきことである。このことを日本の保守層、とりわけ政治家は自覚していない。

中曽根康弘のいう真の独立は、現実を直視しない観念的なナショナリズムにすぎない。中曽根康弘の単純なナショナリズムを感情的に支持する日本人も少なくない。そのはけ口は、一方では日本国憲法や教育基本法の改正、他方では靖国参拝と戦犯の復権に向かわざるをえない。しかし、フラストレ−ションやナショナリズムは日本国憲法や教育基本法のような国の基本法を考える正しい動機とはならないから絶対に良い結果にはつながらない。この点でリベラル派を中心とする国民の良識は健全であり、世論調査で支持しているのは少数派である。

中曽根康弘は、世界の戦後政治について次のようにのべている(「戦後60年」、日経8/15/05)。

世界の戦後政治は冷戦時代とそれ以後、特に9・11テロ以後に分かれる。冷戦時は米ソの対立陣営の中で温室にいた。冷戦以後は散乱の世界、自主独立のナショナリズムの世界となり、日本もようやく憲法改正の流れができた。今までは米国の設計で、米国のペンキを塗ったトタン屋根の家に住んでいた。やはり本当の自分の家を持とう、ということだ。瓦屋根で檜造りの土台がしっかりした家を持って、21世紀の日本を基礎からしっかりさせようという気分がある。

まさに、マイケル・シャラー教授の言う『占領が「弱さ」と「服従」を象徴する苦い記憶となっている日本の保守層』にぴったりした発言である。そもそも、9・11の同時多発テロはパレスチナ紛争が中心にある中東問題に原因がある。大国が線引きをし、大国が軍事的支配力を背景にしてパレスチナ人を平然と抑圧状態に置いていることに原因がある。パレスチナ人の「怨み」は、「自主独立のナショナリズム」などと軽々しく表現できるものではない。

アメリカの外交における「行動の限定合理性」(10.7.)はベトナム戦争で崩壊したが、パレスチナ紛争でも説得力を失いつつある。日本政府が外交においてアメリカから独立したいと言うのなら、パレスチナ問題をどう解決するか、説得力のある提案を一つでも二つでも世界に提示することを自らの課題として考えるがよい。その前提としてまず、テロの標的になる覚悟ができているのかどうか聞きたい。まして、日本の憲法改正問題を同じ流れにおくなどは許されない錯誤である。

国の基本法を改正しなければならない動機は山ほどある。早い話が、三権分立と言うが、現在の日本の政治では立法と行政は融合してともに官僚に支配されており、独立して相互に監視し合うシステムは建前にすぎない。教育委員会は形骸化したまま長年にわたって放置されている。それが占領によって与えられたものであるというなら、機能する仕組みはどのように作れば良いのか考えたことがあるのか。何度も強調したいが、「自主独立のナショナリズム」は国の基本法である憲法を改正する動機としては軽くて薄い。国を超える方向に世界は向かっているのに「自主独立のナショナリズム」に何の意味があろうか。

もう一つのはけ口が靖国神社参拝である。中曽根康弘は1985年8月に首相としてはじめてA級戦犯が合祀された靖国神社に公式参拝した。

 

 (2)小泉・竹中改革

アメリカが後ろからバックアップして保護している環境では政治の成熟など望むべくもない。調整型政治家がリーダーとなり、利益分配型政治家が派閥を形成した。既得権を擁護する族議員による派閥政治は、自民党の調査会・部会を通じて総務会へとボトムアップ方式で展開される民主主義ゴッコである。日本の議会制民主主義なるものの実態は、自民党の派閥政治や省庁の審議会政治であり、その潤滑油となったのは「族議員・業界・関係省庁」の「政官財」の「鉄のトライアングル」であった。自民党の中で党内野党が形成され、現実の野党の影は薄くなった。

幸いにして、このような統治システムは平成大不況という失敗で経済主導で修正された。

それに筋道をつけたのは小泉純一郎が竹中平蔵と一緒にやり始めた政治の統治改革である。しかしよく考えて欲しい。例えば「中央から地方へ」のかけ声で始められた三位一体改革、道州制の導入などにしても、「上から下」にできあがった日本を「下から上」の国に作り替える作業である(7.参照)。これにはいったん形成された秩序と既得権益をいちいち壊していくことが不可欠であり、改革の障害は大きく速度は遅い。アメリカは「下から上」にできあがった国であるから、日本はいつまでたっても追いつくことは難しい。日本の保守層は占領の苦い記憶だけを抱き締め、学ぶべきものを何も学んでいない。

中曽根康弘は、小泉純一郎も「統治中心主義」と称する自分の仲間に加えたいらしいが、これは明らかに誤りである。早い話が、小泉純一郎は中曽根康弘にさっさと引退するように勧告している。中曽根はいいとこ取りをしたいのであろう。小泉は日本国憲法や教育基本法の改正に積極的ではなかったし、中曽根が中心になって作った憲法全文草案にも反対した。自衛隊のイラク派遣も現行の日本国憲法の枠内で行なおうと考えている。

靖国神社参拝について小泉純一郎は心の問題と説明している。自民党主流派の遺伝子のなせる技であるとしかいいようがない(12.1.12.2.参照)。

 

 (3)直系の保守遺伝子をもつ安倍晋三首相

中曽根康弘が引きずってきた自民党の「保守本流」が抱くフラストレ−ションのはけ口は(1)憲法改正・教育基本法改正、(2)戦犯復権・靖国神社参拝、に向けられている。靖国参拝問題は、日中および日韓の外交をそこないアジアだけでなく広く国際的に緊張をもたらした。安倍晋三は、首相就任後の国会における所信表明演説で、戦犯の戦争責任について従来の二重基準(極東軍事裁判に異議を申し立てないが日本の国内法では犯罪人ではない)を表明していた(毎日10/03/06)。しかし、日中首脳会談では、中国側の気持ちに配慮して発言をつつしむことを約束して国交を回復することに成功した(日経10/09/06)。「君子豹変」とやゆされたほどであった(毎日10/14/06)。実際、彼は本音と建前を使いわけているのであり、被害を受けた中国やアジアの人たちに対して誠実ではない。

ところが国内的には何も豹変していない。安倍政権の再重要課題と位置づけている教育基本法の改正では「やらせ」のタウンミーティングを繰り返した上、11月15日の衆議院の教育基本法特別委員会および16日の衆議院本会議において野党欠席のまま自民党と公明党の与党で単独採決して強行可決した。国民にとっては「何のために改正するのか、原点が見えない」ままの不可解な強行であった(毎日新聞「社説」11/16/06)。祖父の岸信介が60年安保で強行採決したことを思いださせる。

 

8)教育基本法改正案の衆院における与党強行採決に思う

 

最重要課題の認識において、一国の総理大臣の考えと民意がこれほど乖離している現状は異常であり不健康です。現在、自民党の主流派を占めている日本の保守層が心に抱いている「弱さ」と「服従」という過去の占領の苦い記憶、その欲求不満は、日本の前向きの力を大きく妨げています。日中・日韓の首脳会談の再開がどれほど日本やアジア、ひいては世界を明るくしたかを考えれば、その障害の大きさが分かるでしょう。対立を生みエネルギーを消耗させるだけで何の成果も生まないのです。人間は、悪かったことは悪かったと潔く男らしく反省しないと前進できません。

安倍晋三は岸信介の孫であり麻生太郎は吉田茂の孫です。小泉純一郎をはじめ自民党の主流派は世襲議員ばかりですが、この集団が保守層の中核と重なっていることは注目に値します。何代にもわたる政界、官界、経済界を網羅する人脈が強大な権力構造を形成し、政治家のリーダーを生み出しているのです。このグループの権力構造はは戦前から引き継がれたものであり、過去の「弱さ」と「服従」のDNAを受け継いでいます。ブッシュ大統領を見てもわかるように、このような構造は一国の政治を左右する重要な要素として深く考えていく必要があります。

安倍晋三の政権構想は「美しい国、日本」であり、それは自民党総裁選に向けて出版された著書「美しい国へ」でも語られているようです。キーワードは「国」ですが、この発想はまちがっています。ためしに、「国」を「心」に入れ替えてみればすぐわかります。われわれに感動を与える普遍的な価値基準は美しい心であって美しい国ではありません。

今回の教育基本法改正案でも「我が国を愛する態度」(つまり愛国)とか「教育は国の法律が定めるところにより行なわれる」という「国」中心の表現がおどっています(毎日新聞11/11/06)。これはあくまで「上から下」の国(7.参照)での発想です。国の束縛を逃れて自由を求めた人たちがアメリカを「下から上」に建国したこと(7.参照)、その歴史の背後にある哲学を理解していません。

私は安倍晋三より30年も年長です。私が昭和16年(1941年)に入学したときから国民学校が始まりました。校庭には奉安殿という特別の建物があり教育勅語が納められていました。国旗掲揚、国家斉唱、挺身愛国、挺身報国、すべて「国」ばかりです。それらは空襲や飢えの悲惨な記憶と直結しており絶対拒否します。わたしは「国民」という言葉もきらいですから、できるだけ「市民」を使うようにしています。

次の章では戦犯の戦争責任に対する二重基準が生れたいきさつについて考察します。

 

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