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知的社会研究所

Institute for Studies on the Intellect-based Society

(ISIS)

 

12. 首相の靖国参拝問題

 

12.7. 戦犯に対する「二重基準」の形成

 

1)安倍晋三らの語る「A級戦犯を戦争犯罪人と認めない国内法」は存在しない

2)米国政府の対日「二重封じ込め」政策で日本の政治がたどった「逆コース」

3)東京裁判の不当性を言いつのるナルシシズム

4)すべては1952年に始まった─「A級戦犯に対する二重基準」の形成

5)真摯な反省をした獄中の戦犯たち

6)尾辻秀久・自民党参議院議員(日本遺族会副会長)が語る軍人遺族の苦悩

 

文献総一覧

 

 

1)安倍晋三らの語る「A級戦犯を戦争犯罪人と認めない国内法」は存在しない

 

安倍晋三首相は首相就任後の最初の外国訪問先として中国を選び、06年10月8日に胡錦濤国家主席と会談しました(日経10/09/06)。注目の靖国参拝問題についてはつぎのように述べています。「靖国神社に行くか行かないかについて言及しない。双方が政治的な困難を克服し両国の健全な発展を促進する観点から適切に対処していきたい」。

この発言は、国内ではあいまい戦術、従来の主張を封印した「君子豹変」と受取られました。何故なら、首相の靖国参拝について幹事長代理時代におこなった講演で「命をささげた人のためにお参りするのは当然のことであり、責務だと思う。次の首相も、その次の首相も当然お参りしてほしい」(毎日新聞6/11/05)と発言しているように、過激なナショナリストだったからです。しかし、安倍晋三の「君子豹変」が首相の立場に立ってみてあらためて自らの責任を問い直した結果であるなら、「君子豹変」は何ら非難されることではありません。また自らの歴史認識については「我が国がかってアジア諸国の人々に多大な損害と苦痛を与え、傷跡を残したとの深い反省に上にある」と表明しました。戦後50年の村山談話や従軍慰安婦問題に関する河野談話を敬承する考えも表明しています。

これに対して中国外務省の劉建超報道官は「安倍首相の積極的な態度は賞賛すべき」と異例の賞賛をしました。小泉純一郎前首相の靖国参拝などで険悪化した日中関係は一挙に解決したのです。日中首脳会談の実現は国内でも高く評価され、日経の客員コラムニストである早稲田大教授の田勢康弘は「安倍外交で始まった日本ゼロ年」「この政権は期待された使命の半分は果したと評価してもいいのではいか」とまで言って手放しの喜びようです(コラム「核心」日経11/20/06)。この点ではわたしも同感です。

しかし人間「安倍」が急に変わるはずはありません。首相として初めて臨んだ衆院予算委員会の二日目、06年10月6日におこなわれた基本的質疑で、岡田克也・民主党副代表の戦争責任に関する質問に対し、安倍晋三はつぎのように答弁しています。「いわゆるA級戦犯は東京裁判で戦争犯罪人として裁かれたが、国内法的には戦争犯罪人ではない」、「戦争の責任の主体がどこにあったかを政府として判断する立場にない」(日経10/07/06)。

ここで皆さんに注目してほしいことは、「A級戦犯は国内法的には戦争犯罪人ではない」という発言です。この発言は麻生太郎外相をはじめ安倍内閣の閣僚がよく口にすることですが、気になるのはこの「国内法」なるものが何を指すのかということです。マスメディアが問題として取り上げないことも理解できません。「国内法」なるものが何かをはっきりしておく必要があります。事実は、「国内法」などは存在しないのです。そのことは、小泉純一郎が首相在任中の2005年6月2日に衆院予算委員会で東京裁判への見解を問われ「A級戦犯は戦争犯罪人と認識している」と答弁していることが証明しています(毎日新聞4/30/06)。つまり、「国内法」は安倍晋三の個人的見解にすぎません。「国」を隠れ蓑にしているとも言えますし、彼は「愛国心」を唱えることによって「国民」が「国内法」と解釈することを期待しているとも言えます。

 

2)米国政府の対日「二重封じ込め」政策で日本の政治がたどった「逆コース」

 

12.6.で説明したことをもう一度復習しておきます。アジアでは中国が内戦を経て共産主義国家になったことで冷戦は顕在化し、1950年の朝鮮戦争勃発によって熱い戦いにかわりました。米国政府は、対冷戦戦略の一環として日本を「二重に封じ込める」方針を採用し、その目的にむかって「日本の安定と再建」政策が計画され直ちに実行されました。具体化された主な政策は、(1)サンフランシスコ対日講和条約の締結による日本の独立、(2)日米安全保障条約の締結による極東軍事基地の確保、(3)手薄になった日本の国土防衛のための警察予備隊の創設、(4)長期にわたり為替レートを異常な円安水準へ固定することによる日本の経済復興、などです。

この流れに沿って、鳩山一郎や河野一郎のように公職追放処分となっていた戦前の政治家が追放解除となって政治に復帰し政権党を支配しました。岸信介や中曽根康弘のような東大卒の戦前の官僚出身者たちもその中にいました。

日本経済新聞社の論説副主幹・安藤俊裕は、東洋英和女学院大教授・楠精一郎の著書「大政翼賛会に抗した40人—自民党源流の代議士たち」(朝日新聞社)を紹介し、「変わりゆく保守本流」という見出しでつぎのように書いています(コラム「中外時評」日経10/01/06

戦前の政党が相次いで解散し、軍部に協力する大政翼賛会が結成された際、これに加わらない鳩山一郎、芦田均、植原悦二郎、安藤正純、大野伴睦、川崎克、星島二郎らは独自の会派「同友会」を結成した。この人たちは1942年の翼賛選挙では「非推薦」となり、官憲の弾圧を受けて大野伴睦ら落選する者も少なくなかった。

この翼賛選挙を非推薦で勝ち抜いた三木武吉、河野一郎も鳩山グループに加わる。鳩山一郎を中心としたこうした人々は戦後、いち早く日本自由党を立ち上げ、「帝国議会開設以来蓄積されてきた議会政治と民主主義の伝統を戦後にリレーした」だけでなく、1955年の自民党結成でも主導的役割を果した。その際に掲げられた理念が憲法改正と教育刷新を柱とした「占領体制からの脱却」だった。鳩山一郎、三木武吉に協力して自民党結成の理念・政策に大きな影響を与えたのが安倍晋三首相の祖父・岸信介である。・・・

安倍首相は「美しい国、日本」を掲げ、憲法改正と教育改革を柱とする「戦後体制からの脱却」の理念を打ち出した。自民党結成の原点に立ち返り、伝統や文化に価値を置く保守主義の旗をもう一度高く掲げようとする試みである。それは安倍首相にとって祖父・岸信介がめざした政治路線にほかならない。

首相時代に「戦後政治の総決算」を掲げた中曽根康弘氏は「鳩山一郎先生、河野一郎先生の流れをくむわれわれこそが自民党の中心である」と語ったことがある。安倍首相も「岸信介の流れをくむわれわれこそが」と思っているにちがいない。・・・

戦前の挙国一致の官吏制度は戦後も生き残りましたが、「日本の安定と再建」で威力を発揮し経済復興を推進しました。対冷戦のあおりを受けてレッドパージの嵐も吹き荒れ、政治は一気に右傾化し、日本の戦後社会は占領初期の民主主義の理想の追求から一転して「復古調」一色に染められ、「逆コース」をたどったのです。政権党を支配した保守本流の連中が「民主主義の伝統を戦後にリレーした」などと言いながら、マッカーサーが追求した民主主義の理想を理解しようとせず、「占領体制からの脱却」を掲げる矛盾が噴出したわけです。安倍晋三は戦後生まれでありながら、わざわざこの矛盾まで受け継いでしまいました。その背景にあるのが新国家主義的色彩の濃い「戦後レジームからの脱却」です。

 

3)東京裁判の不当性を言いつのるナルシシズム

 

戦後の占領状態を終わらせ日本が再び独立を回復するには、日本の戦争責任を何らかのかたちで清算する必要があるのは戦後処理として世界の常識です。連合国はこのことに時間をかける余裕はありませんでした。さしせまった現実の問題である冷戦への対処に精力を集中する必要があったからです。その清算は、すでに終了していた極東国際軍事裁判(東京裁判)の「判決」を日本政府が受諾するというかたちでおこなわれました。すでに過去となったアジア・太平洋、そこでの日本の戦争責任の問題を東京裁判をもって全て終了させようと考えたわけです。そのことが1951年のサンフランシスコ講和条約に明記されました。

サンフランシスコ講和条約に書かれている戦犯裁判の規定について、林博史の著書「BC級戦犯裁判」から引用します(【文献63】p.189)。

平和条約第11条に「日本國は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の判決を受諾し、且つ、日本國で拘禁されている日本国民にこれらの法廷が課した刑を執行するものとする」と規定され、戦犯の赦免や減刑、仮出所は裁判をおこなった連合国の決定によることも定められた(一般の日本語訳では「裁判を受諾」となっているが、英文はjudgments“判決”である)。日本政府はすべての戦犯裁判の判決を承認し、刑の執行の義務を負うことになった。ただ、赦免、減刑、仮出所について「勧告」をおこなえることになった。なお朝鮮人と台湾人は日本国民ではなくなったとして援護の対象から外しながら、刑の執行だけはおこなうという差別扱いをしたことはすでに述べたとおりである。

つまり戦後の日本が独立を回復する道程の出発点は、A級戦犯を「戦争犯罪者」であると対外的に認め、これらの法廷が課した刑を執行することを約束することでした。ところが、日本が独立を回復した途端に東京裁判に異を唱える政治家が現れました。中曽根康弘元首相です。彼は、「私は(東京裁判の正当性を)認めない。A級戦犯と言われる方々が、犯罪とか罪という考えは毛頭ない」と発言したのです。その後自民党保守派の多くのものがこれに同調するようになりました。森岡正宏元厚生労働政務官の「東京裁判が正しかったのかを世界にも発信すべきだ」などという発言がそれです(毎日新聞7/13/05)。全国会議員に対して毎日新聞が実施した東京裁判についてのアンケートでは、「不当だが受け入れざるを得ず」がいずれの政党でも多数(自民67%、民主63%、公明68%)を占め、不当な裁判だ(受け入れない)という回答(自民14%、公明6%)さえありました。

「東京裁判は正当ではない」と主張する人はノーテンキ(能天気)であるとしか言えません。思慮も知性も足りません。これらの多くの人々は、一方では「A級戦犯は日本人に対しては責任がある」と主張しているのです。そのような人は「A級戦犯は外国人に対しては責任がない」と主張できるかどうか考えてみればよい。「東京裁判は正当ではない」という気持ちは、被害を受けた連合国やアジアの人たちの方がずっと強いだろう、と想像することさえできないのです。日本軍から甚大な被害を受けたアジアの人々の心情を察することもできないという倫理的貧困は明白です。「愛国心」があれば自己中心的な考えが許されるというナルシシズムに原因があります。この地球上に生まれた人間は「国民」である前に共通の先祖をもつ「市民」であることを考えなければなりません。グローバル化の現代、日本人は東アジアの人々によって生かされているのです。

京都大教授・大嶽秀夫は、立教大教授・粟屋憲太郎の著書「東京裁判への道(上・下)」(講談社)を日経で紹介していますが、そのなかでつぎのように述べています(日経09/17/06)。

今日でも「東京裁判史観」というレッテルで、日本がアジア・太平洋の開始に全面的に責任があるとする立場を批判する議論は後を断たない。それどころか、昨今の伝統的な保守主義の台頭によって、(著者がいうように)「東京裁判の弁護側の議論の枠を出ない」、一方的な「東京裁判批判」が論壇を賑わしている。

にもかかわらず、専門の研究者が少ないため裁判の実相に迫る本格的研究は、他の占領政策の研究と比べてはるかに遅れている。その欠落を埋める優れた研究の一つが本書である。

本書の特徴は、証言や史料、とりわけ検察側訊問調書を使って東京裁判への経緯を明らかにしたことである。そして同時に戦時中の隠された政治過程を照らし出している。本書が扱うのは、裁判過程そのものではなく、検察局による起訴のための情報収集、被告選定の過程である。並行して、裁判前に背後で展開された様々な陰謀めいた動きも明らかにしている。「東京裁判への道」というタイトルの意味である。

ところで検察側調書が明らかにしているのは、検察局に対して毅然とした態度をとったと後に豪語した笹川良一を筆頭に、ほとんどすべての戦犯容疑者が取り調べに対して卑屈な弁明と自己弁護、さらには連合国に対する媚態ともいうべき態度を示したことである。そして、知人、友人、とりわけライバルに開戦の責任を転嫁したことが、豊富な新史料によって暴露されている。・・・

早稲田大学教授の天児慧は毎日新聞のコラム「新聞時評」で粟屋憲太郎・立教大教授の発言をつぎのように紹介しています(毎日新聞08/09/05)。

「『平和に対する罪』によって個人を裁くことには問題がある」と指摘しながらも「国際法の発展の中で東京裁判の意義は否定できない」「東京裁判の欠陥を指摘することで日本の戦争犯罪や戦争責任を直視しないでいいという社会的錯覚を生んできた。このような安易なごまかしは国際的な説得力を持っていない」と厳しく批判している。

粟屋憲太郎自身は、毎日新聞に掲載された談話でつぎのように述べています(毎日新聞04/30/06)。

彼ら(A級戦犯)は、国民に向けて申し訳ないということは語っているが、それはあくまで「敗戦責任だ」。戦犯に対する多くの尋問調書を読んでも他民族への「加害責任」を省みる言葉は驚くほど見当たらない。戦前の支配的な思考様式で、見過ごせない点だ。・・・

裁判では、陸海軍の作戦立案を担当する参謀級の責任がまったく問われなかった。実は彼らが進路を決め、上(層部)は手直しする程度で追認していたのが実情。そして責任者が不明確なまま日本全体が時代状況に流されていった。

「事後法による裁きだ」などと東京裁判を全否定するのはどうかと思う。50年代に入り、戦犯の減刑釈放運動が国民的な広がりをみせ、日本人全体が戦争責任について忘れ去っていった。・・・

中曽根康弘のような政治家が「私は(東京裁判の正当性を)認めない。A級戦犯と言われる方々が、犯罪とか罪という考えは毛頭ない」などと発言することの責任はもっと大きいでしょう。当時は世界中で多くの人々が戦争の被害にあい経済的な苦境の中で喘いでいたのです。その混乱の中で行なわれた東京裁判の目的は早く政治的な決着をつけることです。その動機は、戦争で生き残ったものが未来に向かって手を組んで前進することでした。侵略された側は怨みを乗りこえる努力、侵略した側は真摯に反省する努力を重ねていく出発の儀式です。戦後を生きていく者にとって、このことは「裁判を正しくおこなう」ことよりはるかに重要な動機であり、それを国民に納得させることこそ政治家の任務ではありませんか。周恩来は「遺訓」を遺すことでその任務を見事に果したではありませんか。そもそも最初に侵略をしかけて甚大な被害を与え大混乱を招くという不正を働いた側が、「裁判だけは正しくしろ」と要求する権利があるとでもいうのでしょうか。そもそも、人が人を裁く裁判で完全な正義を実現することなど不可能です。

 

4)すべては1952年に始まった─「A級戦犯に対する二重基準」の形成

 

独立を回復してからの日本の政治の復古調に合わせるように、戦犯は国内で権利や名誉を徐々に回復していきました。その辺の事情を解説した毎日新聞の記事(毎日新聞7/13/05、毎日新聞4/30/06)から主なできごとを整理しておきましょう。この記事では「戦犯の復権」とか「国内外で二重基準の政府」という見出しが使われています。

(1)1945年、GHQ(連合国軍総司令部)は神道指令を通達、国家神道が廃止され靖国神社は一宗教法人となる。

(2)1950年、法務総裁は「軍事裁判により刑に処せられた者」を国内刑法犯と同様の扱いとすると通知した。

(3)1952年、この通知は講和条約発効直後に撤回され、戦犯は選挙権などを回復する。

(4)1953年、「戦傷病者戦没者遺族等援護法」が改正され、拘禁中に死亡した戦犯の遺族にも遺族年金などを支給するようになった。

(5)1952年〜1955年、衆参両院の本会議で戦犯釈放・赦免を要請する決議が5度にわたり行なわれた。冷戦を背景に連合国は徐々に押し切られ、A級戦犯は1956年までに釈放され、重光葵(まもる)元外相らは閣僚も務めた。

(6)1956年、旧厚生省引揚援護局長が「なし得る限り好意的な配慮をもって、靖国神社合祀事務の推進に協力する」と各都道府県に通達。靖国神社の照会を受けた都道府県は、旧陸軍関係の情報を調査し神社側が用意した祭神名票に結果を記入、これを引揚援護局が取りまとめて神社側に送った。援護法の対象となる戦死者のリストを祭神名票として靖国神社に送付したのは、旧厚生省引揚援護局長だったのである。A級戦犯は1966年に送付された。

(7)1959年、一宗教法人である靖国神社は名票を元にして戦犯の合祀をBC級戦犯から始めた。しかし、A級戦犯14人の合祀は長年にわたり筑波藤麿宮司が預かり実施しなかった。

(8)1966年、政府は「極東国際軍事裁判に際し、被告全員の無罪を主張した功績」によりパール判事(インド代表)に勳一等瑞宝章を授与した。

(9)1969〜1973年、自民党は5回にわたって靖国神社の国家管理を求める「靖国神社法」を提出したが世論の反発が大きくすべて廃案となった。

(10)1978年、松平永芳宮司が「国家機関の決定」と強調してA級戦犯を密かに合祀した。公になったのは翌1979年の報道によってである。合祀された14人の東京裁判での判決は、絞首刑7名(東条英機、板垣征四郎、土肥原賢二、木村兵太郎、松井石根、武藤章、広田弘毅)、終身禁固刑4名(平沼麒一郎、小磯国昭、白鳥敏夫、梅津美治郎)、禁固20年(東郷茂徳)、公判中に死亡2名(松岡洋右、永野修身)である。

東京裁判では、政府の指導的立場にいたA級戦犯28人が平和に対する罪で裁かれました(毎日新聞4/30/06)。上記以外の者に対する判決は、終身禁固刑12名(荒木貞夫、橋本欣五郎、畑俊六、星野直樹、賀屋興宣、木戸幸一、南次郎、岡敬純、大島浩、佐藤賢了、島田繁太郎、鈴木貞一)、禁固7年(重光葵)、精神障害を理由に免訴(大川周明)、などの14名です。ちなみに、東条内閣の商工大臣をつとめた岸信介はA級戦犯容疑者として逮捕され巣鴨拘置所に収監されましたが、不起訴となり釈放されています。安倍晋三首相の父である安倍晋太郎は岸信介の娘婿です。岸信介とその実弟である佐藤栄作も首相を務めました。安倍晋三首相は、祖父である岸信介が東条内閣の一員として日米開戦の詔書に署名したことについて「判断の誤りであった」と国会の答弁で認めています(日経10/06/06

靖国神社は一宗教法人にすぎないので、国が公的に戦犯の合祀を依頼することはできません。実際には一部のものがひそかにおこなったことです。旧厚生省引揚援護局長が靖国神社合祀事務の推進に協力して旧陸軍関係の情報を集め、神社側が用意した祭神名票に結果を記入したものを神社側に送っただけのことです。松平永芳宮司が「国家機関の決定」などと言っているのは正しくない。

日本経済新聞社の井上亮記者がスクープした富田メモの報道は新聞協会賞を受賞しました(日経10/15/06)。昭和天皇が松平永芳宮司のおこなったA級戦犯合祀に強い不快感を示されたことを当時の宮内庁長官・富田朝彦が記録したメモを報じたものです(日経7/20/06)。

以上のことからわかるように1952年以降にすべてがはじまりました。林博史が著書「BC級戦犯裁判」で語っていることを引用します。まず戦犯釈放運動について(【文献63】p.190-191)。

1952年8月に法務府が法務省に改編されると同時に、中央更生保護委員会は中央更生保護審査会と改組され、この審査会が個々の戦犯の赦免、減刑、仮出所を当該国政府に勧告すると同時に、BC級戦犯の全面赦免を求めた。衆参両院も52年6月の戦犯釈放に関する決議をはじめ、幾度も釈放を求める決議をおこなった。共産党だけは「アジア諸国人民に対して犯した重大なる犯罪に対する真剣な反省心を鈍らせ」、復活しつつある軍国主義的支配者への憎悪心を麻痺させるとして釈放決議に反対した。

戦犯釈放運動も広く展開された。52年5月には戦争中の政財界や軍の指導者たちを幹部とする戦争受刑者世話人会が設立され、戦犯は「等しく国家の為め戦争に従事し、戦敗という現実によって生じた一種の犠牲者」であるとして、戦犯釈放やその家族支援を目的として活動を開始した。巣鴨法務委員会が編集した「戦犯裁判の実相」という謄写版刷の大著が52年3月に刊行され、この中でBC級戦犯裁判が不公平でひどい裁判であったことが受刑者たちによって強調された。

戦犯を戦争犠牲者と見る見方は国民のなかにも広がり、さまざまな宗教団体や日本赤十字社、日本弁護士連合会、青年団体などによって戦犯釈放運動がおこなわれた。53年11月の「抑留同胞完全救出巣鴨戦犯全面釈放貫徹国民大会」には約3千万人の署名が集められたという。同年12月に巣鴨遺書編纂会によってまとめられた「世紀の遺書」は刑死者の遺書遺稿を収録し、初めてかれらの生の声が人々に伝わるものとなった。

しかしこうした戦犯釈放運動は、戦犯を戦争被害者と見ることによって、あたかも日本人全体(国家や軍の指導者も含めて)が戦争被害者であるかのように扱い、日本のおこなった戦争によって被害を受けたアジアの人々を視野の外に置くものであった。戦犯の釈放を通じて、一握りの戦犯に押し付けていた日本人全体の戦争責任、特に免罪された上級指導者の責任を問い直そうとする志向はきわめて弱かった。

さて中国国民政府は日華平和条約の発効にともない、残っていた戦犯91人全員を釈放した。フィリピンも53年末に大統領特赦をおこなって全員を釈放した。日本政府はこうした事例を持ち出して、各國に赦免、釈放を促した。アメリカの場合、52年9月に国務省内に日本人戦犯赦免仮釈放委員会を設置し、個々のケースごとに赦免や仮出所について検討した。イギリスも53年より減刑による刑期満了=釈放を進めた。オランダの場合、元抑留者への補償問題と絡んでいた。ようやく56年に日本が1000万ドル(36億円)を支払う議定書がオランダと交され、その後、仮出所、釈放が増えていった(法務大臣官房司法法制調査部「戦犯釈放史要」)。

中央更生保護審査会が個々の戦犯の仮出所や赦免の勧告をおこなっていたが、その内容を見ると、服役中の善行や家族の困窮などの理由だけでなく、戦争犯罪の事実そのものを否定するような内容が含まれていた。たとえばシンガポール華僑粛清事件で終身刑になった大西覚憲兵中尉のケースでは、「報復裁判」だったと裁判そのものを否定するような勧告がイギリスに提出されている。連合国は戦犯裁判は正当であったという認識であっただけに、こうした日本政府の姿勢に反発していたが、徐々に押し切られていった。

つぎに戦犯釈放にむけた日本政府のうごきについて(【文献63】p.196-198)。

日本政府は冷戦状況を利用して赦免・釈放を求めた。たとえば53年10月に当時の吉田内閣の与党自由党の政務調査会長池田勇人が、首相の特使としてロバートソン米国務次官補と会談した。そこでアメリカ政府が30数万人の軍隊を求めたのに対し、結局18万人の陸軍創設で合意するなど、この会議は日本の再軍備にとって重要なものとなった。この協議のなかで池田は、「防衛問題の解決もこの問題の解決がないとむつかしい」と述べて、再軍備のためには戦犯釈放が必要であることを示唆した。また外務省もアメリカへの働きかけのなかで、「ソ連が平和攻勢の一環として日本人戦犯を帰国」させると「日本人の一部がこれに幻惑」され、「米国が不利益な立場に立たされることを憂慮」すると半ば脅すようなことを述べて釈放を促した(外務省文書)。

53年9月に欧米諸国を回った2人の衆議院議員は、イギリス政府に対しては、中国やフィリピンが戦犯を釈放したことなどとともに、「最近、ソビエットの平和攻勢及び中共引揚に鑑み、共産党を利用して抑留中の“戦犯”を帰すことも考えられ、かかる場合西欧関係の戦犯が未釈放で残されることは、国内政治及び対外関係から見ても面白くない結果になることを怖れる」と、中ソの姿勢を口実にして戦犯の全面釈放を求めた。アメリカ政府にも同様に「極左分子」が戦犯問題を利用して「反米宣伝」をおこなっているとして、戦犯の早期釈放が「肝要」だと訴えた(山下春江衆議院議員・改進党)。

吉田首相自身もアメリカ政府に対して「戦犯の拘禁を継続することは社会的政治的であるとともに日本の公衆にとって高度に感情的な問題である」として早期釈放を訴えたが、それに対してアメリカ政府内でも「日本人戦犯の拘禁を続けることは日米間の政治的心理的摩擦の重要な源泉になっており、日本と政治上軍事上で緊密な同盟を発展させるアメリカの政策と合致しない」という意見も出された(54年11月〜12月、米外交文書)。

アメリカは日本が中立主義に傾くことを恐れており、日本を西側陣営に引き付けておくために戦犯問題での譲歩を迫られた。英米など連合国は、戦犯裁判そのものを否認しかねない日本政府や国民の動向に苛立ちを示しながら、また戦犯釈放への国内の反発を考慮しながらも譲歩を重ね、順次、戦犯の赦免、釈放をおこなっていった。

戦犯釈放は再軍備の引き換え切符であるという批判はまさにその通りであった。戦犯釈放にあたってあらためて日本の戦争責任を自省しようとするような姿勢はまったくなかったのである。スガモプリズンのなかで真摯に戦争を自省しようとした戦犯たちは、侵略戦争に駆り出されて戦争責任を押し付けられ、さらに再軍備の取引材料にされ、二度にわたって日本の支配者に利用され裏切られたのである。

こうして赦免、釈放が進む中で巣鴨刑務所の服役者は56年に入ると急激に減り、58年5月には全員が仮出所して巣鴨刑務所には戦犯がいなくなり、同年12月29日アメリカが仮出所中の者を完全釈放、ここにすべての戦犯がいなくなった。

それを待っていたかのように、59年4月、刑死者46人の靖国神社への合祀がおこなわれ、その後、同年10月と66年10月の合祀によりBC級戦犯の刑死者全員が合祀されることになった(A級戦犯の合祀は78年)。

以上の記述で見るかぎり、1952年〜55年にかけて衆参両院の本会議でおこなわれたのは「戦犯釈放・赦免の要請」の決議であり、安倍晋三首相や麻生太郎外相が主張しているような「A級戦犯は犯罪人ではない」と定めた「国内法」などが存在する形跡はまったく無いのです。そもそも、講和条約の第11条で「日本國は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外でおこなわれた他の連合国戦争犯罪法廷の判決を受諾し、且つ、日本國で拘禁されている日本国民にこれらの法廷が課した刑を執行するものとする」と規定されているのですから、そのような法律を作ることなど不可能です。彼らは、A級戦犯として禁固刑7年の判決を受けた重光葵(まもる)が赦免、釈放を受け、その後外相になり勳一等を授けられたこと、あるいはA級戦犯で終身禁固刑を宣告された賀屋興宣は後に法相になったことなどを頭の中に描いているようですが、この経過を国内法で定めたとは言いません。

林博史が明快に解説しているように、そもそも戦犯の赦免、釈放は再軍備の引き換え切符として実現したのです。

 

5)真摯な反省をした獄中の戦犯たち

 

戦争責任を考えるとき、わたしの愛国心は東京裁判を否定する方向には働きません。むしろ、真摯な反省をしたひとが獄中の戦犯たちの中にいたことを知り、そのような日本人を誇りに思うことがわたしの愛国心につながります。その代表的なひとりは加藤哲太郎でしょう。林博史の著書「BC級戦犯裁判」から引用します(【文献63】p.192-195)。

戦犯釈放運動の展開は、同時に朝鮮戦争への日本の加担や朝鮮特需による経済の再生、日米安保条約による米軍駐留の継続、警察予備隊から保安隊、自衛隊へという再軍備の進展と並行していた。冷戦の下での日本の役割と戦犯釈放を結び付ける議論は、再軍備と引き換えに戦犯釈放をしようとするものであるという危惧を生み出した。そうした中で戦争責任に正面から向き合った思想的営みが巣鴨刑務所の中でおこなわれたのだった。

戦犯として服役していたとはいえ、日本に管理が移管されてからは比較的待遇もよくなり、上野図書館から本を借りて読むこともできるようになった。そして日本がおこなった戦争について、あるいはその中で日本軍や自らがおこなったことについてじっくりと自省する時間を持つことができた。戦犯たちの間に平和グループがつくられ、共産党の組織も作られた。

独立を回復してまもなく、雑誌『世界』1952年10月号に掲載された「私達は再軍備の引き換え切符ではない—戦犯釈放運動の意味について」は大きな反響を巻き起こした。これは巣鴨刑務所のなかのある戦犯が投稿したものだった(のちにこの筆者は、死刑判決を受けながらも裁判がやり直しで30年の刑になった加藤哲太郎とわかった)。釈放運動について「一部の人々」が戦犯を「利用」していると批判し(ていたが)、(加藤は)再軍備や憲法「改正」のために「死の商人達の運動のおかげで釈放されること」は望まないと主張した。

戦犯たちによる手記が次々に刊行されていくが、そのなかでも「壁あつき部屋—巣鴨BC級戦犯の人生記」(1953年)は、日本がおこなった戦争犯罪をきちんと見据えた手記集だった。処刑命令を出したことを否定して部下に責任を押し付けた大隊長や、占領地で略奪した物で連合軍将校に取り入って不起訴になった上級将校のこと、敗戦後、住民から日本兵がば倒された経験を通じて聖戦の名の下に侵略と略奪をおこなったことを反省するようになったことなどが語られている。命令により搭乗員を処刑したある戦犯は『なぜあの時、その命令に従順でありすぎたのかという反省にせめられるのです。そしてこの独房では、「命令されたからだ」といういいわけが、かりそめのなぐさめごとであり、苦しみの逃避にしか役立たないことも知るのです』と記している。命令だったから仕方がなかったのだとそこで思考停止するのではなく、深く反省し、そのうえでかれはさらに下級の者を裁いて終わりにしてしまう戦犯裁判が「戦争そのものの残虐さをくらまし、ほんとうの戦争犯罪人の所在をくらます(ためだった)」と記している。BC級戦犯裁判が「ほんとうの戦争犯罪人」を隠してしまったという批判は重い。

この本以外にも『われ死ぬべしや』『あれから7年』『私は貝になりたい』など、戦犯裁判の問題点を批判しながらも、日本軍による加害の事実を見つめ、同時に再軍備に反対する思想的営みが生まれた。戦犯裁判の批判を、侵略戦争と残虐行為の責任者を追求し、二度とあのような戦争を繰り返さないという方向に発展させようとする努力が、スガモプリズンのなかでおこなわれていたのである(内海愛子『スガモプリズン』)。

「私は貝になりたい」という言葉は、先に紹介した加藤哲太郎がペンネームで『あれから七年』のなかに書いた「狂える戦犯死刑囚」のなかのある曹長の遺書として出てくる。加藤は戦犯裁判を痛烈に批判しながらも、同時に「侵略戦争」をおこなったことによってそうした戦犯が生み出されたと述べ、そのうえで、今後、「戦争だから、戦争の要求に従って行動したという自己弁護はなりたたぬであろう。その戦争に参加し協力したという根本的な事由によって、彼の道徳的責任そのものが追求されるかもしれない」と、日本とその国民の責任についても真摯に自省するのだった(加藤哲太郎『私は貝になりたい』)。曹長の遺書というのは創作であったが、これが1958年にテレビドラマとして映像化された(翌年映画化)。ドラマでは、捕らえられた米軍機の搭乗員を命令に従って処刑しようとしたが、臆病であったために腰が引けて傷つけただけの二等兵が死刑に処せられてしまったという筋書きに変えられ、しかも加藤が「思想的追求が不徹底である」と憤りを示したように日本がおこなった戦争への反省は薄められた。曹長と二等兵では軍の中での立場はまったく違うが、人々の同情を引くように二等兵に変えられたのである。戦犯裁判で死刑に処せられた二等兵はいなかったことはすでに見たとおりであるが、このドラマが戦犯裁判について日本人のなかに、あるステレオタイプ化されたイメージを作るのに大きく影響したように思える。

加藤哲太郎の妹の内海不二子は毎日新聞の記者につぎのように語っています(毎日新聞08/16/06

東条英機元首相らA級戦犯7人が処刑されたその日。横浜の軍事法廷で、兄の加藤哲太郎さんに死刑判決が言い渡された。・・・新潟捕虜収容所長を務めた兄は終戦後、「米軍捕虜を銃剣で刺し殺した」として、軍事裁判にかけられた。父は「トルストイ全集」の出版者。米国亡命中のトルストイの三女らが、助命嘆願書を寄せた。内海さんも収容所職員らから「所長は捕虜を殺していないし、命じてもいない」との証言を得た。49年5月、連合国軍総司令部に直訴し、異例の再審が決定した。再審で禁固30年となる。加藤さんは。獄中で戦争の非人間性を訴える小説などを次々に発表。ある小説で、絞首刑に処せられた戦犯の遺書を書く。「こんど生まれかわるならば(中略)私は貝になりたいと思います。貝ならば(中略)兵隊にとられることもない。戦争もない。妻や子供を心配することもない」・・・内海さんも思う。「戦争を起こしたのは国。その国に強制的にさせられたことで、なぜ国民が裁かれなくてはならないのか」

中華人民共和国がおこなった日本人に対するBC級戦犯裁判で示された裁きの倫理については、12.4. 4(3)で述べました。不起訴となり56年8月に帰国した坂倉清さん(85)が毎日新聞の記者に語っていることを記事から引用します(毎日新聞05/01/06)。

被告たちはもともとシベリアに抑留されていた捕虜だ。50年7月にソ連と中国との間で結んだ条約に基づき、中国での戦犯行為を問われた約1000人が、遼寧省の撫順戦犯管理所などに移送された。当初は「戦犯」扱いに反感を持っていたが、手厚い処遇などもあり変化。「学習」(「認罪学習」のこと)という思想改造教育を受け残虐行為を反省する。54年になり、自らの罪状についての供述書を記し、起訴された45人が裁判を受けた。不起訴となった者はすぐに帰国した。被告45人は、判決に死刑はなく最高でも禁固20年、ほとんどが満期前に釈放され日本に帰国した。

全員の供述をまとめ昨年中国で出版された書籍には、本人が日本語で記した供述書があり、残虐行為が赤裸々に描かれている。東京裁判やほかのBC級戦犯裁判とはかけ離れた結末に、戦争裁判の矛盾が浮き彫りになる。

坂倉清さんは戦時中、中国の農民相手にガス実験をしたり、農民を殺害した。今、「自分たちの行為を考えると、日本は中国に対し真剣に謝罪しなければならない」と考える。戦友会などの集まりで経験も交えて話すと、反感をもたれることも多いという。

日本がおこなった侵略戦争を倫理的に反省し、その上に立って日本の再軍備に反対するのは自然な流れですが、米国政府の対冷戦戦略とは相容れないとして日米両側がそっぽを向き、この風潮に乗って、日本が遂行したアジア・太平洋を正当化する動きが横行するようになりました。

 

6)尾辻秀久・自民党参議院議員(日本遺族会副会長)が語る軍人遺族の苦悩

 

尾辻秀久(65)の生きた戦後を日本経済新聞の記事からかいつまんで紹介します(日経08/13/06

(1)父の記憶はない。鹿児島で生まれ育った尾辻が三歳のとき、海軍少佐だった父・秀一は、艦長として駆逐艦夕霧とともにソロモン海域に散った。その現実を理解できるようになったころには、すでに父を奪った戦争に負けていた。

(2)1945年12月、GHQ(連合国軍総司令部)は神道指令を通達。国家神道が廃止され、靖国神社も一宗教法人となる。太平洋は「悪」、尾辻も一転、「犯罪者の子」とみられた。追い討ちをかけたのは恩給停止。「国のためにと出征したのに、後は知らないでは話が違う」。困窮した遺族が助け合おうと、母・智(とも)は鹿児島県遺族会の設立に奔走するようになる。全国組織の日本遺族厚生連盟が発足したのは47年。連絡所は靖国神社内に置かれた。智も県遺族会の役員兼事務局員となった。尾辻は「遺族会は当初から遺族への経済支援と、英霊の顕彰という大義名分を国に求め、力を付けた」とみる。サンフランシスコ講和条約が発効した52年、ようやく国による遺族への経済支援の道が開く。

(3)「カネがかからないから」との本音をのみこんで「おやじの後を継ぐ」と防衛大学へ進学するも20歳のとき智が急逝。当時、妹は高校生、すぐに防衛大を中退して鹿児島に戻り、恩給だけで兄妹二人の生活は賄えず酒屋の配達などでしのぐ日々だった。親がいないと就職も難しかった。妹の身の振り方にメドをつけた尾辻は64年、東大に入学、在学中に計77カ国への放浪の旅に出る。その後79年に鹿児島県議、89年に参院議員となり政界を歩む間に遺族会との関係を深めた。

(4)78年に靖国神社がA級戦犯を合祀、その後は首相参拝への逆風も強まる。日本遺族会副会長について十年を超え、尾辻はいままたA級戦犯分祀の是非という難問に直面する。「遺族会の申し子としての本音は、そっとしておいてほしい」。父は多くの部下を死なせた。ひとは責任をどう取るべきなのか。そんな自分への問いから、厚生労働相時代、常に辞表を持ち歩いた。「国が一度でも戦争責任は東条英機にあると総括しただろうか。あるのは東京裁判の判決だけ。戦争責任の議論を押し付けられても、遺族会には荷が重い」。清算の済んでいない過去は、なお重くのしかかっている。

上で紹介したように、加藤徹太郎は「戦争だから、戦争の要求に従って行動したという自己弁護はなりたたぬであろう。その戦争に参加し協力したという根本的な事由によって、彼の道徳的責任そのものが追求されるかもしれない」という言葉は全ての日本人にあてはまるでしょう。したがって、敗戦後になって軍人の家族を「犯罪者」呼ばわりする一部の国民の卑劣さは許せません。軍人や戦犯の家族に向かって石を投げられるひとなど日本には一人として存在しない、これがわたしの抱く倫理観からの主張であり、愛国心のおもむくところです。

 

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