12.目次にもどる   トップページにもどる

 

知的社会研究所

Institute for Studies on the Intellect-based Society

(ISIS)

 

12. 首相の靖国参拝問題

 

12.8. 太平洋戦争への入り口で日本人に猛省をうながしていた朝河貫一(1)

 

1)36年後の祖国・日本の破局を予言し忠告していた朝河貫一の愛国心

2)朝河貫一の略歴と時代的背景

3)日本の運命を予言した在外憂国の士

 (1)歴史家・朝河の信念「人類史を貫く倫理が存在する」

 (2)日露戦争における日本の正義を世界各国に力説してまわった朝河

 (3)世界を背に日本を叱る朝河

4)『日本の禍機』で朝河貫一が日本に対して叫んでいる悲痛な警告

 (1)重要なキーワード

 (2)世界の思想的潮流であった「機会均等」と「清国主権」の「二大原則」

 (3)二大原則を破ったロシアに対する批判

 (4)二大原則を掲げて日露戦争を戦った日本の正義

 (5)日露戦争に勝利するやたちまちロシアになり替わった日本の偽善

5)太平洋戦争へつき進む道と不正をはたらく者の敗北の予言

 (1)日露戦争を戦った日本の正義を世界は支持し勝利を祝福した

 (2)日露戦争の勝利の後で暴露された日本の正義の正体

 (3)東洋における日本の覇権主義は世界的孤立を招く

 (4)日米開戦すれば大義名分は米国にある

 (5)日本の破局を前にして日本人の愛国心に訴える

 

文献総一覧

 

1)36年後の祖国・日本の破局を予言し忠告していた朝河貫一の愛国心

 

私は、朝河貫一の著書「日本の禍機」(講談社学術文庫、【文献65】)を読んで深く感動しました。朝河貫一という偉大な予言者の存在をはじめて知ったからです。これほど興奮した書物に出会ったのは、バートランド・ラッセルの「ロシア共産主義」【文献12】を読んだとき以来のことです(1.8.参照)。バートランド・ラッセルがこの著書で70年後のソ連の崩壊を予言したのは1920年、彼が48歳のときでした。朝河貫一が「日本の禍機」を書いて36年後の1945年の日本の敗戦を予言したのは1908年、朝河が36歳のときでした。日露戦争のポーツマス講和条約が結ばれたのは1905年、そのわずか3年後のことです。彼は日本の敗戦を自分の目で見てその3年後にアメリカで亡くなっています。

朝河がアメリカから送った忠告にもし当時の日本人が耳を傾けていたら、数千万の人命が失われずに救われただけでなく、日本が世界のリーダーに加えられていたことは間違いありません。勿論、歴史は水の流れのように自然なものであって、250年の鎖国の夢から醒めたあと明治維新から40年しかたっていない日本には無理なことでした。当時の日本では国中で「鬼畜米英」が声高に叫ばれていたのです。

一方今日の日本ですが、日本の現代史において特別な重要性をもつ朝河貫一の存在さえ一般に知られていないのが実情です。この著書の最後で、朝河は結論として「日本国民の愛国心」について述べています。倫理に関する言葉は、現在よりむしろ当時のひとの方が豊富に知っており日常的に使っていました。鎖国の夢からさめた独立国の日本は、東洋で植民地主義が横行するなかで国民全体が必死に考えたからでしょう。しかし、世界恐慌後の深刻な経済大不況の中で国民全体の多数を占める農民の生活は疲弊し、国民は「貧すれば鈍する」になってしまいました。

私が最も衝撃を受けたことは、100年前に書かれた彼の忠告が今日の日本でもまったくそのまま当てはまることです。それだけではありません。現在の日本では「美しい国」とか「命の大切さ」とか内容のない少数の空虚なことばだけが氾濫し、倫理に関する語彙の貧弱さでは今日の方がもっと危機的な状況にあるのです。アメリカの冷戦戦略の一環であった「日本の安定と再建」が戦後60年の長きにわたって今日まで維持され、独立国とはいえ外交をアメリカに丸投げした親方アメリカでは精神が弱体化するのは当然です。国に依存してきた地方自治体財政の破綻、教育の荒廃、など例をあげればきりがないほどです。

朝河の指摘の中で現在の日本にとって特に重要なことは、「倫理を公的な教育に任せることには限界がある」、「国の外交において政府が倫理を実践することが国民の教育には最も有効である」、という点です。元首相の中曽根康弘や小泉純一郎、現在の安倍晋三や安倍政権を支える自民党の保守派はしっかりと勉強して国民に訴える愛国心の中味を再検討すべきです。皆さんも是非一緒に考えてください。参考までに、朝河の結論の全文を12.10.に引用しました。

 

2)朝河貫一の略歴と時代的背景

 

エール大学教授・朝河貫一のことを私が初めて知ったのは、日本経済新聞社・編集委員の伊奈久喜が日経に書いていた「米国動かすエール人脈」という見出しのついた記事によってでした(「風見鶏」日経8/6/06)。日本経済新聞は本当に素晴しい新聞です。紙面から紹介しましょう。

忘れてならないのは戦前、日本人で初めて米国で大学教授になった歴史学者、朝河貫一(1873ー1948年)である。エール大学のあるコネティカット州ニューヘイブンの墓地には石板一枚の質素な墓がある。「K ASAKAWA エール大学歴史学教授」とあり、福島県二本松に生まれ、早大、米ダートマス大、エール大に学び、1902年に博士号を得たなどと経歴が刻まれている。

著書「日本の禍機」(講談社学術文庫)は、米東部ニューイングランドの地で日本を思い、日露戦争に勝った祖国の隆盛を喜び、それが高慢に変わる兆しを憂う。国際主義者であり、愛国者でもある朝河の孤独な影が映る。特に「日本人の米国に関する思想の浅薄」の指摘は今日に通じる。

エール大学図書館は朝河が集めた日本の古文書を数多く保管する。来年は朝河がエールに奉職して百年の記念の年であり、大学当局は三月に国際会議を開くほか、朝河平和庭園の造成を計画している。

いま米国の大学の関心は中国やインドに向かいがちだ。4月に胡錦濤主席を迎えたエールにも中国傾斜の印象があった。ワシントンに影響力のあるエール大学が朝河の顕彰をきっかけに日本への関心を取り戻すとすれば、日本側の対応も重要になる。

この記事で伊奈久喜が『特に「日本人の米国に関する思想の浅薄」の指摘は今日に通じる。』と指摘していることの証拠は簡単に見つかります。たとえば、中西輝政は、昨年秋に出版された著書「日本人としてこれだけは知っておきたいこと」(PHP新書)のなかで日露戦争についてつぎのように書いています(同書p.112)。

『また、「帝国主義利権を日本がロシアから奪って大陸に進出していったのが間違いのもとだった」という意見がありますが─朝鮮併合や満州経営を指すのでしょうが─、当時の日本は、むしろ平和的な経済発展の道を南洋にも求めています。いまでいえばマレーシア、インドネシア、インド、中東といった地域との貿易が、1920〜1930年代にかけて非常に盛んになるのです。交易額も、大陸より多い』。彼は、日露戦争の終了とアジア・太平洋戦争の開始の間には40年近い開きがあり、しかもその間の大正中頃には、議会主義が定着した大正デモクラシーと国際協調主義という大きな「歴史の切れ目」、断絶がある、したがって日露戦争は切り離して考えるべきだと主張しているのです(同書p.109-112)。

中西輝政が朝河貫一の「日本の禍機」を勉強していないことはあきらかです。しかし、彼のもっと基本的な問題は、「科学者の創造的思考」(1.6.参照)が不足していることです。例えば上の文章ですが、「南洋にも求めています」では反論になりません。満州だけでなく南洋でもやってたんだ、では満州を否定したことにはならないからです。

中西輝政は戦後の1947年生まれで京都大法学部卒業、ケンブリッジ大学大学院終了、京都大教授です。彼はこの本を若い人に向けて書いたと言っていますが、現在のWeb2.0のネット世代の若い人は立派な経歴や地位といった権威の危うさを十分知っているはずです。とにかくお互いに注意しましょう。ちなみに中西輝政は八木秀次・高崎経済大教授とともに安倍晋三の外交・教育政策のブレーンである5人組のメンバーです。八木秀次は扶桑社の歴史教科書を執筆する「新しい歴史教科書をつくる会」の会長です。中西と八木は保守系シンクタンク「日本教育再生機構」の設立準備室の代表発起人にもなっています(毎日新聞08/29/06)。このような背景があるので、安倍晋三と中西輝政が使う言葉には共通するものがたくさんあります。中西の著書につては別の章であらためてもう少し詳しく検討します。

閑話休題、朝河貫一(1873ー1948年)はどんな時代を生きた人なのか、年表で整理しておきましょう。明治の歴年から6年を差し引けば彼の年齢になります。この本が日本で出版されたのは1909年、朝河が36歳のとき、ポーツマス講和会議後わずか4年のことです。

1868(明治元年) 明治維新、五箇条の御誓文

1885(明治18年) 内閣制度制定、初代総理大臣・伊藤博文

1889(明治22年) 大日本帝国憲法発布

1894(明治27年) 日清戦争始まる(伊藤博文内閣)

1895(明治28年) 下関条約、露独仏の三国干渉、遼東半島を返還

1899(明治32年) ジョン・ヘイ米国務長官の中国に関する宣言

1900(明治33年) 義和団事件(北清事変)

1902(明治35年) 日英同盟締結(桂太郎内閣)

1904(明治37年) 日露戦争始まる(桂太郎内閣)

1905(明治38年) ポーツマス講和条約締結

1906(明治39年) 南満州鉄道会社(満鉄)設立

1910(明治43年) 日韓併合、朝鮮総督府設置(桂太郎内閣)

1914(大正3年) 第一次世界大戦始まる

1919(大正8年) ベルサイユ条約締結

1922(大正11年) ワシントン軍縮条約調印、日英同盟破棄

1931(昭和6年) 満州事変起こる

1937(昭和12年) 日中戦争始まる

1941(昭和16年) 太平洋戦争始まる

1945(昭和20年) ポツダム宣言受諾、降伏文書調印

「日本の禍機」が書かれたのは明治41年(1908年)、その時代を反映して現代文では書かれていません。また表題の「禍機」(わざわいが生じるきざし)のように現在ではあまり使われない漢字も沢山含まれています。固有名詞も、ポ−ツマス条約はポーツマウス条約、リンカーンはリンコルンなどとなっています。そのため【文献65】では、解説を書いている由良君美(きみよし)が読みやすいように原本に手をいれています(旧漢字を簡体または常用漢字に改め、難字へふりかなや割注を付す、送り仮名も当用に従って加えるなど)。それでも、私にはすらすら読めるものではありませんでした。現代文に書き替えて出版されるのが待たれます。

さて、最初に準備として、巻末の由良君美の解説で最小限の予備知識を仕入れておく必要があります。

故イェール大学名誉教授朝河貫一博士の名は、少なくとも比較法制史を専攻する世界の学界人のあいだでは、いまだに轟く名声であり、また朝河の故郷福島県では郷土の生んだ偉人として知れわたった名であるといえよう。しかし、ひとたびこの二つの狭い枠の外にでてみれば、朝河の知名度はあまりにも低い。とりわけ現代日本においては。それでよいのであろうか?

欧米の学界におけるゆるぎない名声に比べ、朝河の母国日本においては、学界においてさえ、その価値にふさわしい評価を得ているとはまだ言い難いのが、悲しい現実であろう。朝河の生涯の大半がアメリカで過ごされたこと、また朝河の業績の過半が流麗だが精緻な英文によっていることを考えれば、あながち無理とばかりはいえないことであったろう。われわれは学究朝河貫一の生涯をここに概観しておかねばならない。

1873年(明治6年)福島県安達郡二本松に生まれた朝河は、故郷の安積中学校、ついで東京専門学校(のちの早稲田大学文学部)をいずれも首席で卒業。1895年(明治28年)23歳で渡米して以来、二度の短い帰日をのぞけば実に50年以上もアメリカの史学界に雄飛し、イェール大学歴史学正教授停年後1948年(昭和23年)ウェスト・ワーズバラに74歳で死去するまで、謹厳なキリスト者の学究として終始した。(p.243-4

 

3)日本の運命を予言した在外憂国の士

 

再び巻末の由良君美の解説から『日本の禍機』の著者としての朝河の生涯を考えておきましょう。

こういう象牙の塔のなかのたゆまぬ学者朝河とならんで、実はもう一つの朝河貫一の側面があったのであり、それは本書『日本の禍機』の著者としての朝河の生涯を一貫して変えなかった在外憂国者としての側面であった。

朝河の七十余歳の生涯は、ちょうど幕末明治維新の激動期に生をうけ、日清日露の二つの戦いを経て、満州国建設、日中紛争、太平洋戦争、第二次大戦敗戦を目撃し、戦後日本の再建復興を目前にして死ぬという、日本現代史の重要画期のほとんどを経過せざるを得ない一生であった。そのうちでも特に日露戦争とそれ以後とは、朝河の識見が成熟期に達し、とりわけ日韓併合、日中紛争、太平洋戦争にいたる時期は、遅れた帝国主義の道をひたすら驀進して国際的孤立の果てに破局への道を選んだかに見える祖国日本の姿を、憂国の心情のうちに客観視しようとする史家朝河の試練の時であったといえよう。(p.245-6

 

(1)歴史家・朝河の信念「人類史を貫く倫理が存在する」

上で紹介されているように、歴史学者・朝河貫一は日本人として初めて米国で大学教授になりました。反日感情が激しかった当時のアメリカで、どうしてそんなことが可能だったのかをよく考えておく必要があります。それだけではありません。彼はアメリカ史学会をリードし、比較法制史を専攻する世界の学界人のあいだではエール大学名誉教授・朝河貫一博士の名がいまだに轟く名声を博しているのです。今年は朝河がエール大学に奉職してから百年目の節目にあたり、大学当局はそれを記念して三月に国際会議を開き朝河平和庭園の造成を計画しています。

在米の日本人である朝河が日本の外交について発言しても米国人の心にうったえることはないでしょう。当然のことと受取られ特別の関心をよぶことはないでしょう。日本人である朝河貫一は、実は当時の困難な東アジア情勢のなかでアメリカだけでなく世界が進むべき道を正しく示していたのです。ここに彼の偉大さがあります。それはキリスト教の倫理に基づくものでした。

朝河の史家としてのゆるぎない信念の一つに、世界史ないし人類史を貫く道義または倫理性の存在があった。史家朝河にとって世界史を究明しようとすることは人類史を究めようとすることに他ならず、人類の一員である日本は、いかに世界史の舞台に遅く現れたにせよ世界史の軌道に正しく貢献すべきであり、日本を離れアメリカの地から客観的な眼で見得ればこそ、己れだけに見える事柄も、それが日本の危機存亡にかかわることであれば、手をつくし身を賭してでも直言することが在米日本人としての己れの義務でもあり、ひいては人類のためでもあるとする信念は生涯を通じて変わっていない。したがって、世界史を貫くこの道義に貢献するかぎり、日本の歩みを世界の前に弁じ、また一転してこの道義に違反するかぎり、日本の選択を批判し叱咤する朝河の態度が生れ、それらの態度の著書における代表的形体が、前者は英文による「日露紛争─その諸原因と諸争点」(1904)であり、後者が邦文による「日本の禍機」(1909)であると考えることができる。(p.246-7

狭い日本の視野を離れて人類史のなかで日本を見ようとする客観性の態度と、日本の比較法制史家として、単なる東洋史の通弁ではなく人類史とその運命の真相にたいして組織的貢献をなそうとする態度とが、キリスト者としての愛の追求の願いのなかに抱合されているのである。とりわけダートマス大学からイェール大学に進むことで、より多数の日本人留学生を身辺に実見したことから、日本人にありがちな狭量な物の見方を離れて、世界史のなかに客観視してゆこうとする自戒の言葉が右に引用した部分のあとに続いていることは見逃すことができない。(p.248

 

(2)日露戦争における日本の正義を世界各国に力説してまわった朝河

『日露紛争』は日露戦争中の発刊であり、時あたかも203高地で乃木第三軍が苦戦中、バルチック艦隊は日本海めざして北アフリカにようやく到着していた頃のこと。日露戦争の帰結がどうなるか、誰にも分からなかった頃なのである。その頃朝河はこの戦争が世界史上の日本の運命を決するものであることを洞察し、あるいは数十回にのぼるアメリカでの講演に、また「イェール評論」誌上に「日露衝突─その若干の原因」(1904年5月)を発表し、精力的な活躍も行っていたのである。『日露紛争』のなかで朝河は383ページを費やして、世界史上における日本の抬頭と東アジア経済との関係、歴史的なロシア南下の志向、満州をめぐる日満朝の共通問題を冷徹に論じ、清国をめぐるヨーロッパ諸国の植民政策の史実を追い、清国の中立および朝鮮の領土保全にたいして日本が果しうる立場を、(また)ロシアの領土的野望に抗する日本の、清国主権・満朝機会均等を護る旗手としての役割を説得し、以てアメリカはもとよりヨーロッパの汎中国大陸にたいする政治経済上の妥当な解決として説いたのである。

当時は<黄禍論>が激しく渦巻き、またおなじキリスト教国としてのロシアに同情する傾向の自然であった欧米に、朝河のこの明晰な論旨は大きな説得力をもった。その後も、203高地陥落、バルチック艦隊撃滅のあと、ポーツマス会議に臨むアメリカ側の基調を定めたと考えられるイェール大学での日露平和シンポジウムをめぐる影の立役者としての朝河の活躍はめざましいものがあった。さらにポーツマス講和会議そのものにも、朝河はオブザーバーの資格で出席し、1805年8月24日の「ヘラルド」紙には朝河の論考が掲載された。(p.249-50

 

(3)世界を背に日本を叱る朝河

アメリカの仲裁によって辛くも勝期のうちにロシアと和平を結びえたというのがポーツマス条約の真相であったが、国内の新聞報道によって連戦連勝の夢に酔っていた日本国民は条約の成果に落胆し、これを屈辱外交として、憤激の眼を以て迎えた。事実、日本人ジャーナリストたちから<親米派>的策動の徒として非難さえされた朝河だったのである。

『日本の禍機』は、『日露紛争』のあと僅か5年にして世に現れることになる。「序」にも明らかなとおり、朝河はあくまで『日本の禍機』を『日露紛争』の一種の続編─<同一問題の継続>として見ている。同一問題とはいえ、また僅か5年の歳月とはいえ、この間の日本の変質は全くめまぐるしいものとなり、かって日本を世界を前にして弁護した朝河の筆は、世界を背に日本を叱るものに変わっている。これは朝河が変わったのではなく、日本の対外政策が変わったのである。(p.250-1

 

4)『日本の禍機』で朝河貫一が日本に対して叫んでいる悲痛な警告

 

(1)重要なキーワード

本書「日本の禍機」は四部からなっています。「序」、「前扁 日本に関する世情の変遷」(世情とは世界の世論のことです)、「後扁 日本国運の危機」、「結論 日本国民の愛国心」の順です。

まず、『日本の禍機』を理解する上で重要なキーワードを正確に理解しておきましょう。最初は「門戸解放」と「機会均等」、それと「清国主権」です。

世界の事情が東洋において要求する二大事の一は、この地ことに支那において列国の経済的競争の公平なるべきことにあり。いわゆる「門戸開放」と称するものこれなり。ただし門戸解放とは、一国の門戸を開け放して自由自在に列国民の競争跋扈を許すとの意にあらずして、解放の広狭いかんにかかわらず、諸外国に対して一様に広くあるいは一様に狭かるべきの義なるは云うまでもなし。米国にはこの意義を誤る論者少なからず。要するに門戸解放は列国の強慾をほしいままにせしむる所以にあらずして、列国をして相等しき機会を得て実業的競争をなさしむる所以なり。ゆえにこれを称して各国民の「機会均等」または均等待遇ともいえり。(p.26-7

世界が東洋において要求する第二の大事は、すなわち支那が独立国たるの体面を保ち、その主権を行い、その領土を保全することこれなり。今仮にこれを略して「清国主権」と称せんと欲す。列国がこれを要求するに至りたる由来を尋ぬれば、その機会均等要求由来とすこぶる密接なるものあるを悟るべし。今これを詳説するに能わざれども、前に略説したる史的発達を玩味(意味を深く味わうこと)せば、思い半ば過ぐるものあらんか。(p.32

外交政策に関する重要なキーワードが、つぎの(2)に出てくる「旧外交」(列国が支那を苦しめつつ相争いて自利を計るの政策)と「新外交」(「清国主権」を尊重しつつ諸国民の経済的競争の「機会均等」なるべきを謀る)です。さらに、日露戦争終結後の日本に対して繰り返している非難のキーワードが(5)にでてくる「私曲」(よこしまで不正な態度)です。そして、日本人が米国に学び自国の反省をうながす忠告のキーワードの「愛国心」(国を愛するとはどういうことか)が詳しく説明されています。

 

(2)世界の思想的潮流であった「機会均等」と「清国主権」の「二大原則」

朝河の定義した最も重要なキーワードは「旧外交」(列国が支那を苦しめつつ相争いて自利を計るの政策)と「新外交」(「清国主権」を尊重しつつ諸国民の経済的競争の「機会均等」なるべきを謀る)です(p.40)。「旧外交」から「新外交」への流れを明確にしたのはジョン・ヘイ米国務長官の中国に関する宣言(1899年)でした。しかし、朝河が指摘するところでは、この宣言は「機会均等」の一原則を掲げただけで、「機会均等」と「清国主権」の「二大原則」の発展に最も功績があったのはすでに支那において経済的優位を得ていた英国でした。朝河の優れているところは、周りで起こっていることを知識として漫然と紹介するのではなく、「科学者の創造的思考」(1.6.)を駆使し、「IN THEIR SHOES」というイエスの倫理の教え(「相手の身になって考えなさい」というキリスト教の黄金律のことでイエスの山上の垂訓の中に出てくる基本的な教えの一つです(マタイ伝7:12)。別の章で詳しく説明します)を基礎にした自分自身の確固たる思想がベースにあり、それに基づいて発言していることです。朝河の説明を引用します。

前説のごとく、彼(か)の二大原則は1899年にいたりて米国の始めて唱えたるにはあらず、その以前ようやく発生したるものにして、これが発達に最も功ありしはかえって英国なりき、またヘー氏の提議はこれを二つながら掲げしにあらずして、ただ機会均等の一原則を論ぜしのみ、これに加えて提議の結果ははなはだ要領を得たるものというを得ざりき。ただこれがために米国といえる強国がこの原則に対する誠意を世に表明し、また列国をしてますますこの原則の軽んずべからざるを知らしめるの功は断じて没すべからざるなり。

しかるにその翌年、団匪事件がにわかに北清に起りしにあたりては、かねて東洋を悩ましたる(1)清国の虚弱、(2)列国の競争、の二つの事情のうち、清国の虚弱が急性の病患となりて現れたれば、列国は余儀なくも最初より協心同力して争乱の鎮定および善後を謀(はか)らざるべからざるを見たり。何となれば、支那の領土を全うし列国の機会を均うして、いずれの一国にも特別の私利を握らざらしむるにあらざれば、支那の分割を防ぎ東洋の平和を保つことはなはだ難かるべきを列国皆看破したればなり。かく申しあわしてだに列国間の調和のいかに困難なりしかは、当時の幾百の外交文書の上に手に取るごとくこれを見るを得べし。もし不幸にして列国の協同全く失敗せしなば、あるいはおのおの相競いて単独に支那に干渉し、その利権および領土を分割せんとせしならん。またかの公平なる二大原則のごときは萌芽のままに蹂躙せられしならん。

祝しても余りあるは、事のここに出でずして、列国がともかくも最後まで和衷(心を同じくすること)の態度を全くは破らざりしのみならず、実に始めより終りまでこの二大原則をもってその協同の基礎となししことこれなり。これにいたりては二則は単に漠然たる理論にあらず、曖昧なる約束にもあらずして、少なくとも一時は列国連合の実際外交の根本義となりしものというべし。たといそのただ一時に過ぎざりしにもせよ、これによりて将来支那の危機における列国の行為を照らすに足る輝ける先例をつくり得たるのみならず、また二大原則の擁護が東洋平和の根本なるを立証し得たり。これ豈(あに)、近世史上特に記載すべきことならずや。(p.37-8

 

(3)二大原則を破ったロシアに対する批判

さて、朝河貫一は日露戦争の一方の当事者であるロシアをどう考えていたのでしょうか。彼の答えは実に明快です。

測(はか)らざりき、列国が暫時協同して二大原則を護れる傍(かたわら)に、これが死命を制するに足る病毒のすでに早く支那の一方に種植せられんとは。露国は満州における動乱を鎮定して自己の鉄道財産を保護するを名とし、兵を送りて東三省を占領したり。しかる後に、北清と満州とは事情は全く相異なれば、露国は北清において列国と協同せんも、満州においては単独に処理せざるべからずと主張し、この論を貫かんがために表裏種々の手段を用いたり。これより三、四年間は、恐らくは前に例なく後に類なかるべき奇異の外交を東洋の記録に留めたり。すなわち、露国は満州につきて単独に支那と交渉することを主張しながらも、すでに列国の対清外交の基礎とみなされたる二大原則を満州にて公然背くこと能わざるがゆえに、表はこれを遵守すべきを宣言しつつ、実に全然これと相反する幾多の要求を清国に提議すること再三に及べり。

これを換言せば、二則の仮面の下にこれと正反対の結果を得んと努めたり。これがためにはるかに韓国に手を伸べて、言語に絶する虚偽、狡猾、前後撞着(前後が一致しないこと、むじゅん)の手段を頻(しき)りに用いてその志を貫かんとせり。その行為のかくも暗愚にしてしかもかくまで大胆なりしは、実に露国当局の奇妙なる事情によるものにして、他国の学び得るところにあらず。ただ事情かくのごときにあたりては、正理の声も力なく、二大原則の主張もこれを標榜(看板にかかげる)せる露国に向いては何の節制をも加うる能わず。1902年(明治35年)における日英同盟の締約すらもただかえって露国仏国をして、共にその原理に至極同感なることを声言せしむるに止まりき。かつこの危機にあたりて、清国は自己の主権および機会均等を強行するの微力だになかりしかば、二大原則はほとんど地に委せられんとするに至れり。(p.39-40

 

(4)二大原則を掲げて日露戦争を戦った日本の正義

朝河貫一は日露戦争のもう一方の当事者である日本の外交や、日本の勝利という戦争の結末をどう考えていたのでしょうか。彼の答えはここでも明快です。

全段に述べたるがごとく、露国が満韓における挙動のために新外交の二大原則はほとんど蹂躙せられんとするに至りしかば、これがために自国の前途を危うくせられたる日本は、もはや弱き清国および韓国の政府を経るの益なきを知り、直接に露国と交渉を開かざるべからずに至りき。而(しこう)してこの交渉の根本義は、実にかの二大原則なりき。不幸にして調停整わず日露は戦陣に相見ざるべからざるに至りしかども、これ新外交にとりてはこの上もなき僥倖(思いがけない幸運)なりき。何となれば日本勝利の結果は、ポーツマウス条約となりて満州における二大原則を主義として確立し得たればなり。これ実に近世最大の戦争をもってかの原則の最大敵を屈服し、これをして余儀なく原則を遵奉すべきを誓わしめたるものにして、その他の方法の能く奏し得べき効果にあらざりき。

特に記するまでもなく、ポーツマウス条約に明言せられたる新外交の原理は下のごとし。曰く、露国は満州において二大原則に違反せる特権を有せず。曰く、関東州および鉄道地帯を除きては日露ともに満州より全然撤兵すべし。曰く、両国は清国政府が満州においてその地発達のために執るところの列国共通の措置を妨げざるべし。曰く、関東州以外は日露共に鉄道を全く経済的目的のために使用すべく、決して軍事的経営に用うべからず。

日本は兵火を用いて新外交をその最勁敵(けいてき)に向って強行したるのみならず、講和談判の運命すら未だ定かならざる時、すでに英国との協約を改めて、かの二大原則の基礎の上に両国の同盟の範囲および効力を増進せしめたり。これに至りて新外交はその最勇敢なる味方および世界最大の海軍国の相共に保護するところとなれり。これに加えて、日露戦争の結果が根本より東洋の形勢を変化したるに際し、戦勝国の外交その時に適せしかば、日本は首尾よく前日の仇敵たる露国、およびその与国たる仏国をして、別々に我と協約せしめ得たり。而(しこう)してこの協約の基礎は実に彼等が嚮(さき)に表面は賛助しつつ、内実は破棄せんとしたる新外交の二大原則なりき。(これら諸協約のために、南亜に関して英露協約さえ締結せられ、かつこれがためにアジア全体の平和一層堅固となり、かつ欧州の国際関係にも浅からざる影響を及ぼしたり。これ皆日本の戦勝、犠牲、および外交によること多きがゆえにここに附言す)(p.41-44

 

(5)日露戦争に勝利するやたちまちロシアになり替わった日本の偽善

さて本書で一番肝心なこと、朝河が日露戦争終結後数年にして日本に対して繰り返している忠告とは何でしょうか。ここで朝河が日本人に訴えているのは実に「愛国心」であり、日本人を諌めるために使っているキーワードは「私曲」(よこしまで不正な態度)です。

余は日本の大事につきて、あえて当路者(重要な地位にある人・当局)および国民の深慮を請わんと欲す。人生最大の難事は実に周囲の境遇と一時の感情および利害とを離れて考えかつ行うにあり。克己(こっき)とは、すなわちこれなり。しかるに、危機に際してはこの最大の難事こそかえって最大の必要事なる場合も少なからず。一人につきてしかり、一国につきてもまたしかり。ことに一国内の輿論は霊妙不可思議の圧力あるがゆえに、これがために思想行為を束縛せられざるものは賢者といえども稀なり。これをもって史上の国民が、危機に際して己に克ちて将来の国是を定むること能わざるがために、窮地に陥りたる恐るべき幾多の実例あり。実に吾人の胆を寒からしむ。

今や世人が日本国運の隆盛を謳歌せるにあたり、余ひそかにおもえらく、日本は一の危機を通過して他の危機に迫りたりと。ただ今日は日本国民がほとんど全身全力を振い、驚くべき伎倆をもって戦役の危機を通過して後、日浅きがゆえに、すでに早く別種の危機の眼前に来りたることを未だ意識せざるも無理ならず。かつ第二の危機は第一の危機と性質はなはだ相異なれり。戦争は壮烈にして一国の人心を鼓舞振作(はげまして勢いをふるいおこすこと)する力ありしも、今日の問題はすこぶる抽象的なり、はなはだ複雑なり、一見するところ平凡にして人を衝動するの力を欠く。これが解決に要するところは超然たる高明の先見と、未曾有の堅硬たる自制力とにありて、かの単純直接の戦闘および犠牲のみのよく処理し得べきところにあらず。ゆえにあるいは僅少の識者これを洞観せるものあるべしといえども、目前の利害以上を見るの余裕なき大多数の輿論に対しては、いかんともする能わず、問題の解決はおろか、問題の何たるかを国民に告ぐることすら難きならん。今日、日本の要するところは実に反省力ある愛国心なり。まず明快に国家前途の問題を意識して、次にこれに処するに非常なる猛省をもってするにあらざれば、国情は日に月に危(あやう)かるべし。(p.12-3

古来日本と親善の関係を有したる米国の態度はいかん。米国の人士が戦前および戦時日本に多大の同情を表したるは、実に日本の公言が支那主権および門戸解放を主張する堂々たる正義の声なるによること多かりしは、余が当時幾千の人に触れて証したるところなり。しかるに今や日々日本の私曲を耳にするに至りたれば、もし日本が背信と私曲とをもって東洋に雄視(威勢を張って他に対すること)せば、列国の公平競争はこれがために大いに妨害せらるべく、はたしてしからば、他日東洋の正義を擁護して列国競争の公平を主張するの任は勢い米国がこれを負わざるべからざらん。これがためにはあるいは日本と刃を交うるの大不幸をも冒さざるべからざるに至らんかと患うる識者少なからざるなり。(p.19-20

前後の事情をかえりみれば今日の形勢の奇異なるに驚かざるを得ず。清国の領土保全および機会均等は日本開戦の一大理由にして、ポーツマウスの談判および条約またこれを主眼とせり。実に日本は二百万の兵を動かし、二十億の金を費やし、ほとんど国運を賭けてこの二大原則を主張し、幸いにして勝利の力によりてこの主張を貫徹し得たりしなり。しかるにたちまち清国自ら日本をもって主権侵略の敵となし、世界また日本をもって機会均等を破る張本(人)となすに至れり。彼等往々おもえらく、日本は戦後の優勢をもって戦前の露国の志を遂行せんとするものにして、露国よりも一層偽善にして、一層強大なる平和撹乱者というべしと。かくも奇異なる現象、急速なる変化は古来の史上はたしてその例ありや。(p.21

しかれども人類進歩のためになお悲しむべきは、新外交が辛うじて主義として確立したるにもかかわらず、旧外交の結果の支那帝国各処に遺在してこれと撞着し、これを妨害せることこれなり。さらに痛嘆すべきは、戦勝の力によりて満州に新外交を強制し得たる日本が、同じ戦勝の功により、同じ満州において、自ら旧式の利権を作為し、また自ら請いて露国より旧外交の遺物を相続したることこれなり。(p.44

右に論じたるがごとく、世界が南満州における日本の地位を忌み懼(おそ)るるに至りたるは、尋常一様の理によるにあらずして、実に日本が驚天動地(世間をひどく驚かすこと)の手段もて新外交の二大原理を扶植しながら、一方にはこれと全然相和しがたき旧式の利権を早くも自ら作為し、また敵より獲取したるによるべしと信ず。しかれども日本の地位の困難を来たしたるは単にこれのみならず、なおその上に日本が南満州において新旧外交を並び施せる実施の行為、実にその主因中の主因に似たり。何となれば、世人はこれらの行為より推して、日本はただ行きがかり上止むを得ずして新旧外交を並び行えるのみならず、また断然旧外交を基とせる積極的一大方針を遂行せんと志せるものなりと信ずるにいたりたればなり。読者の猛省を乞わんとするは主としてこの点に存す。(p.58-9

朝河は、日本が南満州において行っている旧外交の大方針の証拠を、軍事的、政治的、経済的な面から具体的に詳細に指摘しています。以上は前扁「日本に関する世情の変遷」に述べられているものです。

 

5)太平洋戦争へつき進む道と不正をはたらく者の敗北の予言

 

これから引用するのは後扁「日本国運の危機」からです。もし日本が選択を誤れば、日本国史上最大の事件に発展するだけでなく、おそらく20世紀最大の問題になるだろうと予言しています。この予言は100%的中してしまいました。

 

(1)日露戦争を戦った日本の正義を世界は支持し勝利を祝福した

古来の史上、日露戦役以前と以後の日本のごとく国勢の激変したるものは多からざるべし。国民が外に対する態度も、世界が我に対する態度も、彼時と此時とを比ぶればほとんど隔世の感なき能わず。読者願わくは、まず戦前の日本を追想せられよ。当時露国が満韓における侵略主義および閉鎖主義成らば、日本はただに将来の発達を妨げられて次第に萎縮すべきのみならず、また実に我が国土の安全すら期し難かるべき有り様なりき。すなわち我が国運は彼の侵略主義および閉鎖主義と両立する能わざりき。ゆえに日本はこの二主義に正反対の支那主権ならびに機会均等の二大原則を標榜して、これもって露国に対し、ついにこれがために戦乱破裂し、かつ世を驚かす戦勝の効によりてこの二大原則を貫徹したりき。

而(しこう)してこの戦中日本は単に地勢、軍事等物資上の便利ありしのみならず、精神上にもまた敵の想像しがたき優勢を占めたりき。そのゆえ他なし。我は贅沢のために戦わず、生死を決せんがために戦い、その死戦の基礎たる根本の要求は正しく世界史の要求と相合致せり。これ精神上日本の地位の公明正大にして犯すべからず、大いに天下の同情を鼓吹するに余りありし所以なり。この浩然の気およびこれに伴う世の同情が無意識に日本の陸海軍を鼓舞し、全国民を奨励したること著しきものありしならん。

我が戦勝の原因は、ただ武人兵器の精鋭のみにあらず。武士道の発揮のみにあらず、はた全国一致の忠君愛国心のみにもあらず。これ皆重大の原因なりといえども、これと同時に実に絶対絶命止むを得ずして燃え上がりたる挙国の義心がそのままに東洋における天下の正義と運命を同じゅうすという霊妙なる観念が、五千万同胞を心底より感動せることを忘るべからず。たといかくのごとく意識せざるまでも、暗にこの無形の勢力に動かされざりし人は、おそらくは一人もあらざりしならん。されば露国の同盟なる仏国にてすらも、世の文明の進歩を希うがために、日本の勝利を祈りし識者多かりき。況(いわ)んや英国においてをや。また況んや二大原則の成立を望むこと最も切なる米国においておや。惟(おも)うに日本に対する世界正義の士の同情が、日本の勝利に貢献することの浅からざりしを忘却するは、公正の見解にあらざるもののごとし。(p.129-31

 

(2)日露戦争の勝利の後で暴露された日本の正義の正体

驚くべきは世情の激変なるや。余が当時ひそかに患(うれ)いて充分に意識することをすら忌みし事情、たちまち発生するに至れり。世がいかに嚮(さき)に同情せし日本をもって、今や清国の主権を犯し私曲の利権を営みて東洋の禍害を作るものなりと見なすの傾向にあるに至りたるかは、前扁に之を切論(しきりに論ずること)し尽くせり。

翻って考うれば、世情の激変には充分の理由あり。理由の幾分は他にありて、我が責任以外なれども、その大半は実に我にあるもののごとし。

余は前扁において、日本の方針および行為が我が困難の主因たることを論じたれども、さらに一歩を進みて論ずる時は、この方針この行為を生じたる根源は、実に日本国民の多数が世に対する態度にこれを認むるを得べきを察するなり。そもそも日本がさきに二大原則を宣言したるは、これをいかなる場合にも日本の国是となすの必要を感じたるによると云わんよりも、主として露国に反対し、世の同情に訴うるがためにはあらざりしか。極言せば、日本のいわゆる清国主権とは露国をしてこれを侵さざらしめんとするの意味多くして、我もし露国の地位に立たば、我はこれを侵さざるべしとの決断は少なかりしにあらざるか。また日本のいわゆる機会均等もまた満韓において露国をして日本の機会を奪い去らざらしめんためにして、我もし露国ならば我は徹頭徹尾他国民と同じく満州における一外国民たるを忘れず、法理の上にも精神においても厳に公平なる競争によりて我が商利を増進せんという覚悟は弱かりしにあらざるか。

すなわち日本が新外交二大原則の宣言は、列国と共にこれを実行せんための約束といわんよりも、むしろ世の口吻を仮りて露国に対抗せし一時の警語(人を驚かすような奇抜なことば)にして、必ずしもかの原則は世界が東洋においてますます切に要求すべきものなることを達観して、この基礎の上に固く国是を立てたりしにあらざるべしと難ずるものあらば、日本国民はいかにこれに答うべきか。もし難ずるものの言はたして真ならば、戦争終わるや否や、原則の必要は大方去れり、たとい前の宣言を全く忘れたるにあらず、これを棄てて顧みざるにもあらずといえども、熱心誠意これを実行してこの原則の最大擁護者たらんとするの覚悟は未だ深からざるべし。

意ここにあらざれば、言ここにありといえども、行これに副わず。これに加えて日本は不幸にもこれらの原則を行わんがために至難なる地位を自ら作為し、至難なる方針を自ら打ち立てたり。ゆえに世人が日本を疑うこと日にはなはだしきに至りたるも、決して偶然ならずというべし。けだし国民の多数が、日本暫時の小利に眩みて永遠の国運を思わずば、当局者もまた知らず識らず輿論に膝を屈して、一歩は一歩より困難に陥らんとすることなきにあらざるべし。今や日本は国運の分かれ目に立てるものなり。(p.133-5

(3)東洋における日本の覇権主義は世界的孤立を招く

危難の何たるかは今に及びて問うまでもあらざるべし。東洋の平和と進歩とを担保して、人類の文明に貢献し、正当の優勢を持して永く世の畏敬を受くべき日本国が、かえって東洋の平和を撹乱し、世界憎悪の府となり、国勢頓(とみ)に逆運に陥るべきことこれなり。清国と相信じ相助けて列強をして侵略の余地なからしめ、また諸協約のために今なお蝕せられつつある主権の一部分をも、完全に清国に恢復するの時到らしめ、かつ厳に機会均等の原則を遵(まも)りて、満韓においてこれを破らんとする他の諸国を警(いまし)むべきの地位にある日本が、かえって自らこれらの原則を犯して世界史の命令に逆らい、ついに清国をして我に敵抗せしめ、米国等をして東洋の正理擁護者たらしむべきことこれなり。日本もし不幸にして清国と戦い、また米国と争うに至らば、その戦争は三十七、八年(日露戦争のこと)のごとく世の文明と自己の利害との合わせる点にて戦うにあらず、実に、世に孤立せる私曲の国、文明の敵として戦うものならざるべからず。日英同盟といえどもまたその時まで継続すべきものにあらざるべし。

欧米人の中には東洋に右のごとき大難の起らんこと、今後数年を出でじと断言するもの少なからず。しからざるまでも、日本は行く行くは必ず韓国を併せ、南満州を呑み、清帝国の運命を支配し、かつ手を伸べてインドを動かし、フィリピンおよび豪州を嚇(おど)かし、兼ねてあまねく東洋を威服せんと志せるものなりと信ずるもの比々(どれもこれも)然らざるはなきもののごとし。ただに欧米の人士が多くこれを信ずるのみならず、フィリピン、インドおよび豪州の民もまたこれを懼(おそ)るるのはなはだしきは間接にこれを知りうべきのみならず、余はしばしば直接にこれを証したり。(p.136-7

 

(4)日米開戦すれば大義名分は米国にある

ことに日本の識者の最も意を潜むべきは、万一不幸にして日米が東洋において衝突することあらば、裏面の真実の事情はいかにもあれ、また争乱の曲直はいずれにもせよ、表面の大義名分の必ず我にあらずして、彼にあるべきことこれなり。その理何ぞや。他なし、前に説けるがごとく、米国の「世界的強国」主義はすでに事実となりたるものにして、この主義が東洋における方面は実に清国の独立保全、機会均等の二大原則の実現と最も密接なる関係を有せるものなれば、米国がこの主義をもってその対清の大政策となさんことは明白なる事実なればなり。米国が仮初(かりそめ)にもこの二大原則を忘れ、または片時にてもこれに背かんことのごときは、想像だにすること能わざる現時の形勢なり。

ゆえにもし清国に関して、日米刃を交うることあらば、これ実に彼がこの原則を主張せるがためならざるべからず。これに至りては、日本いかに全然この原則に反せざる事実ありとするも、世は米国をもってこれが擁護者と看做すべきがゆえに、従ってまた日本をばこれが悪敵と看做すに至るべきは自然の情勢というべし。すなわち表面の大義は日本の側にあらずして、米国の側にあるべし。

はたしてしからば米国の識者は、正義の徒も不正の徒も共に等しくこの名分の正しきを極力意識し利用すべきがゆえに、国民の過半は全然正義のために戦えりと確信するに至るべし。余が前段において説けるがごとく、「万一清国問題に関して米国が敵の不正と自国の正義とを確信し、これを鼓吹するに彼が特有の愛国心をもってし、かつこれを遂行するに彼が強大なる富強の力をもってし、猛然として戦いに臨むことあらば、天下いかなる強国といえどもこれをもって侮るべき敵手となすものあらざるべし」。(p.213-5

 

(5)日本の破局を前にして日本人の愛国心に訴える

読者願わくは世界人類の大処より観察を下されよ。ここに興隆の日本あり、またここに世上最も富強なるべき米国あり。もしこの米国が日本に隣れる清国に関して正義を侮(あなど)り不義を主張し、この主張のためにその莫大の富強を傾くることあらばいかん。世界の進歩幸福のこれがために妨げられ、日本の前途のこれがために塞がるべきことは明らかなる結果ならずや。米国が文明を妨げ日本に禍するものの大なるは、露国が前述の志を達し得たらん時を想像するも、その幾分におよばざるべし。

しかるに事実の全くこれに反して、米国が清国における正義を主張するがためにその国力を用うるを辞せざるは、豈(あに)世界史上の一大慶事にあらずや。而(しこう)して自ら有史以来最大の犠牲によりて、右の正義の二大原則を宣言し弘布し扶植したる日本は、この偉大なる味方を得て自国の前途のため人類の進歩のために欣喜措く能わざるべきはずなり。これに反して過去の善人が急に兇漢と化して、天下富強の義者を我が敵となし、もって皇祖皇宗(天照大神に始まる天皇歴代の祖先)の偉業を垂れたまいたる我が興隆の帝国をして忽然卑劣の穢土(えど、けがれているこの国・現世)たらしむるがごときは、空想だに及び難き痴情なり、賊心なり、誰か懼れ慎まざらんや。

ゆえに余は章首の言を逆さまに転じて云わんと欲す。日本もし旧外交をもって支那に対する方針となさば、米国あるいは我が敵となることあるべく、また日本もし主位に立ちて新外交の二大原則を行わずば、米国必ず代りてその任にあたるべく、もしこれに反して、日本もし誠実にこれを遂行して東洋の進歩を謀らば、米国は必ず我が強大の与国なるべしと。而(しこう)して彼が方針は不動なるがゆえに、以上の大事を決するの自由と責任とは彼にあらずして我にあるなり。静かに此決の分かるる所の広大無辺なるを想像すれば、これ恐らくは第二十世紀の最大問題なるべく、少なくとも日本国史上の最大事件なるもののごとし。ゆえに余はあえて今日を指して日本の最危機となさざるを得ざるなり。(p.216-7

 

12.目次にもどる   トップページにもどる