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知的社会研究所

Institute for Studies on the Intellect-based Society

(ISIS)

 

6. ヒトの社会システムの進化─アメリカ合衆国のかたち(1. への追加)

6.7. アメリカ建国の要因(5)アメリカ合衆国憲法の制定

1)はじめに

2)「市民」の概念の形成

 (1)身分制度のない国

 (2)絶えず変化する、社会で広まった平等の概念

 (3)必要になった「シティズン」や「パブリック」という新語

 (4)国の教育がめざした道徳の向上と公徳心の習慣

3)合衆国憲法制定に至るアメリカ第二次革命を生んだ要因

 (1)独立したアメリカの緊急の課題となった共和制の再編成

 (2)憲法をめぐるアメリカ第二次革命を推進した財政問題

 (3)強力な中央集権政府を目指すアレグザンダー・ハミルトンの登場

 (4)連合政府による西部地域の開発と管理

 (5)開拓地における新州の創設

 (6)アメリカ合衆国政府の枠組みを決定したジェイムズ・マディソンの登場

4)多くの失敗と偶然による成功の積み重ねで出来たアメリカ合衆国憲法の制定

 (1)意外にも国の統一へと事態を進展させることになった州間の争い

 (2)連邦体制の再編で互いに補完する働きをしたハミルトンとマディソン

 (3)法律家による国家の統治

 (4)連邦憲法の制定を加速させた農民の反乱、560回もの賛否投票

 (5)妥協(二院制、奴隷制、大統領選挙制度)と偶然(強大な大統領制)

 (6)他の国が学ぶべき最重要課題は、アメリカ合衆国憲法制定の手法である

5)各州による合衆国憲法批准という難問の解決

 (1)憲法の批准過程に導入された民主主義の原理

 (2)大衆の間に巻き起こった広範な憲法論議

 (3)「ビッグ・ガヴァメント(大きな政府)」に対する反連邦主義者の懸念

 (4)各州による批准と憲法の成立

6)民主主義の拡大と公共の利益や個人の権利の保護

 (1)個人の権利を法制化した権利章典の批准

 (2)議員の歳費と選挙費用の問題

 (3)25年で倍増する人口を反映する新州の誕生と下院の議席の再配分

 (4)市民権と参政権

 (5)民主主義と政治的平等の拡大

 (6)司法についての最も重要な憲法条項が偶然に生まれたいきさつ

 (7)公共の利益やあらゆる個人の権利の究極の保護者となる連邦判事の誕生

7)独立戦争後のアメリカの極度の財政的混乱を収拾したワシントン政権

 (1)満場一致で選出されたワシントン大統領

 (2)連邦政府にのしかかる独立戦争のつけ

 (3)合衆国の財政破綻を救ったハミルトン財務長官

 (4)政府の「信用と力」を勝ち取ったハミルトン財務長官

 (5)ハミルトン財務長官による国立銀行の設立と工業重視の金融政策

8)ハミルトン財務長官とジェファソン国務長官の対立が生んだもの

 (1)望ましい対立─チェック・アンド・バランス

 (2)ワシントン内閣における二人の立場

 (3)ジェファソンと対照的なハミルトンの生い立ち

 (4)ジェファソンとハミルトンが生んだ二大政党制─民主党と共和党

 (5)政府の腐敗のはじまり

9)アメリカ建国の6人の父祖のリーダーであるワシントンの政治

 (1)連立内閣から出発したワシントン政権

 (2)第二期政権でのジェファソン国務長官の更迭とワシントン引退の決意

 (3)大成功を納めたワシントンの外交・通商政策

 (4)ワシントン政権のもとで自立した工業発展に向かって離陸したアメリカ

 (5)アメリカ国民に対するワシントンの告別の辞

 

文献

【文献27】Paul Johnson, A History of the American People, HarperCollins Publishers, Inc. (1997)、ポール・ジョンソン「アメリカ人の歴史」(I、II、III)(別宮貞徳、べっく さだのり、訳)共同通信社(2001);6.3., 6.4., 6.5., 6.6., 6.7., 6.9., 7.2., 7.3., 7.6., 7.11.

 

1)はじめに

1.7.で説明しましたが、「文明の進歩を支える基本原則」を、「文明の進歩を支えるものは、さまざまの異なる才能をもつ個体がさまざまの形で相互作用をすることである」と定義しました。この基本原則にもかかわらず、国家が機能するには、「事実上一人の人間に国家権力を与え政治をゆだねなければならない」という現実があります。これを「人間社会のパラドックス」と呼びました。さらに、ある国家の「社会成熟度」を判定する基準として、「人間社会のパラドックスが解決されている程度」、言い換えれば「市民ひとりひとりの個性がが尊重されている程度」と定義しました。

さて、6.5.6.6.で述べてきましたように、アメリカの連邦国家の形成には、独立戦争を戦ってアメリカ革命を達成する必要が引き金になりました。イギリスとの戦争に勝利し独立を達成すると、今度は戦争によるダメージから連邦の経済を建て直すために国の権力をさらに集中強化する必要が出てきました。そこでつぎのような疑問が出てきます。

(1)国家権力が個人の権利を侵害し社会成熟度を下げてしまう危険をアメリカはどのように回避したのか。

(2)個人から出発したアメリカは、州ができ、国家が形成される過程で、個人の基本的人権をどのようにして守ったのか。

(3)強大な権限をもつアメリカの大統領は、合衆国憲法を制定する過程でどのようにして誕生したのか。

(4)イギリスが生んだアメリカは、親のイギリスとどう違うのか。

連邦国家が形成される前に個人を基礎にしたアメリカ民主主義が社会に根づいていたことが基本的に重要で、逆ではありませんでした。もちろん、建国の父祖たちの間には「権力の集中対権力の分散」の論争があり、それが民主党と共和党という二大政党に発展していきました。この論争はアメリカで永久に続けられ、個人の優位性が保たれていくに違いありません。一方、日本を含めアメリカ以外のすべての国々では逆で、すでに形成されている国家のアメリカ民主主義化を後から行なっているのであり、アメリカの憲法制定以後200年以上たった今でもなお権力の分散に悩んでいるのです。アメリカを生んだイギリスでさえ、今なお階級社会の弊害から抜け出せずにいます。まったく、アメリカという國はヒトの社会システムの進化の系統樹の中で先頭を走る運命を背負っているのです。

 

2)「市民」の概念の形成

まず、イギリスの王制から離脱したアメリカで「市民」の概念が形成されていく様子をみてみましょう。特に注意して記憶しなければいけないことは、独立したアメリカが「教育権を意識的に国家の優先課題の筆頭においた」のは「新しい平等精神の確立」のためであること、それは、近年の各国がめざす教育改革の「国際的経済競争に勝ち抜くための知的能力への期待」というような目的とは全く関係がないことである。アメリカとそれ以外の後追い諸国のめざす教育との大きな違い、さらには、第二次大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、イラク戦争に出向いて血を流さずにはおれないアメリカの本質が理解できる筈です。以下の(1)〜(4)です。(【文献27】(I)p.272-6)

(1)身分制度のない国

イギリスが去り、ワシントンはマウントヴァーノンに帰郷した。その後、アメリカはこの國をどう統治したのだろうか。この國は王制がなくなったのを惜しみはしなかった。イギリス国王は、ともかく議会政治体制下の君主にすぎなかったのである。十八世紀、イギリスは多くの点で準共和国だった。ジェファソンが書いている。「アメリカ人は、古い衣をそっくり脱ぎ捨てて新しい衣装に着替えるかのように、気楽に君主制を捨てた」。貴族社会のない國では、君主制は実際的な意味を持たなかった。

ある種の支配階級は存在した。故国イギリス流の大地主「ジェントルマン」である。彼らはヴァージニアでは25人に1人、人口の8パーセントが土地の3分の1を支配し富によって階級が分かれていた。身分の違いは何気ない言葉の端々に表われた。ワシントンでさえ一般の農民を「草を食む民」と言っている。その副官で、アメリカ建国の父祖の一人であるアレグザンダー・ハミルトンは、「考えのない民衆」と呼んだ。ジョン・アダムズは、「人類の下層民」と言う。しかしこれは仲間うちの話にすぎない。身分のちがいはあまり問題にならなかったのである。イギリスと違う点は、アメリカの土地所有者全員が商業にかかわっていたことである。そして、ニューヨークの商人は、繁盛していれば住所録に「ジェントルマン」として自分の名前を登録した。商人と名乗るのにイギリスでは5000ポンドかかるのに比べ、ニューヨークではわずか400ポンドですむ(これがあれほど移民が多かった理由である)。このため、マンハッタンには大勢の「ジェントルマン」ができた。

地方では現金が不足し、信用貸しはむずかしく、金融手段も未発達。そこで、裕福な土地所有者は余裕があれば金を貸していた。これがある種の疑似封建主義の役目を果たし、家族の繋がりのかわりとなり、金持ち、特にメリ−ランドや南部の大富豪は家来を抱えていた。イギリスでは公爵の領地には領民がつきものと考えられていた。しかし、アメリカでは富豪一家がいるだけで、そんな「身分」の者は存在しなかった。白人社会には、最上層の貴族はない。よって最下層の民もいなかったのである。

(2)絶えず変化する、社会で広まった平等の概念

ここでまたしても、アメリカ統治の方策を決定する者は、この國でおそらく最も普遍的な特性、「変化を求める心」、を考慮に入れなければならなかった。同じところに長くとどまっている人は少ない。たいていは社会的に上の階層に上昇し、また膨大な数の人々が地理的にも移動していた。あるイギリス人は、この状況を観察して不思議そうに述べている─アメリカ人は、「おのれの欲望と変化を求める心に駆り立てられるままに移動する。特定の場所に執着せず、さすらう習慣が本性に植えつけられているように思われる。そして、はるかな土地は定住した場所よりさらに豊かだろうと果てしなく夢見つづけるという弱点がそれについてまわる」。実は、この移動性が経済の原動力の役目を果たした。変化を求める心はアメリカ経済を急激に発展させる一因となった。新しく、またより肥沃な土地が実りをもたらし、辺境の地にほとんど一夜にして経済成長の拠点を誕生させたのである。絶えず移動することで定住地社会が崩壊し、社会階層や「敬意」が失われ、平等の観念が広まった。

同じことがイギリスでも起こったが、アメリカでは変化がさらに下の社会経済階層から始まっている。イギリスには、贅沢品が庶民に広まるのを嘆いたような道徳家がいた。アメリカではむしろ反対で、一所懸命に働いている人にはみな最高のものを手にする資格があり、望みを高くかかげることは道徳にかなうだけでなく尊敬に値する、という考えがすでに育くまれていた。

(3)必要になった「シティズン」や「パブリック」という新語

ふつうの人にも最高のものを求める権利があると認めることから、政治への全面的参加を(不承不承ではなくすすんで)認めるまでは、ほんのひと足だった。「ハズバンドマン(農夫)」「ヨーマン(独立自営農)」「エスクワイア(郷士)」といった言葉は急速にすたれ、「シティズン(市民)」におき換えられる。フランス革命がこの言葉を取り上げる十年も前のことである。集団としての市民の呼称は「パブリック」という新語で、この言葉は流行の兆しをみせていた。次のように述べられている─「物事がパブリック(民衆)にとってうまく進んでいるかどうかを判断するのは、ふつうの人においてしかない」、「あらゆる農夫が、よい政府と悪い政府の区別を知っている」。ジェファソンも言う。「問題を農民と教授に話すと、農民の方が教授よりも適切に決断を下すことが多い。人為的な規則によって方向を誤ることがないからである」。ジョン・アダムズは、田舎の農夫の原型ハンフリー・プラウジョガーを創作し、新聞記事で農民の感覚と賢さを賞賛した。ハンフリーは「世界のいわゆる偉人たちと同じちゃんとした材料でできている」し、「お偉方のいう、いわゆる大衆、群衆、貧乏人」は、「神と自然の不変の法によって、貴族や国王と同様、吸い込む空気、物を見る光、口に運ぶ食べ物、身にまとう衣服の恩恵に浴する資格がある」と主張している。必要なのは、農民を教育し生来の機知に知識を加味することだった。

(4)国の教育がめざした道徳の向上と公徳心の習慣

教育権を意識的に国家の優先課題の筆頭においたのは、アメリカの新しい平等精神の大きな長所といえる。ジョン・アダムズが感動的に述べている。アメリカ植民は、まずアメリカ、次いで全世界で、「無知な者を啓発し、抑圧された人を解放するための」神の摂理に一端である、と。プリンストン大学学長、スタンホープ・スミスは、「共和主義の習慣」と教育が結びついて、道徳を全般的に向上させ、公徳心が社会的な慣わしとなる効果をあげる、と信じていた。エズラ・スタイルスは、「善行は、他の芸術と同様、教えることができる」と語る。紳士をつくるのは教育で、生まれや特権ではない、というのはジョン・アダムズ。当の本人をはじめとして、アメリカ革命の重要人物はジェントルマン(紳士)の第一世代で、読書し書物から学んだことを活用する能力と熟練した文章力によってみずからをつくり上げた。アダムズのいとこサム・アダムズ、ジェファソン、ラッシュ、ジョン・マーシャル、ジェイムズ・マディソン、デイヴィッド・ラムゼイ、ジョン・ジェイ、ジェイムズ・ウィルソン、ベンジャミン・フランクリン等々がそうである。アダムズの父親は「素朴な農夫」で、アダムズ本人はハーヴァードに行ってジェントルマンとなった。ジェファソンは、社会的にはかなり上層の出身だが、一族の中で大学に進学したのは初めてだった。「最終的にはみんながそうなれば、アメリカは趣味、礼儀作法、とりわけ道徳の面で、真の共和国となれるだろう」。このように、教育は、共和政体を生み出し平和的発展をめざす新しいアメリカ連合機構に民主的内容を与える役目を担っていた。1830年代のイギリスで、「民主主義の出番を前に、教育界が競って教化に励んでいる」、とマコーレーが発言している。しかしアメリカのエリートは、その半世紀も前に問題の核心をとらえ、またそれに対応していたのである。

 

3)合衆国憲法制定に至るアメリカ第二次革命を生んだ要因

さて、ここでアメリカ建国の父祖の一人、アレグザンダー・ハミルトンが登場します。

ワシントンとフランクリン(これらの人物については6.5.参照)、アダムズとジェファソン(6.6.参照)に続いて5人目です。独立したアメリカの経済基盤を築き、経済発展と急速な成長を可能にした人物です。強力な中央集権論者でありながら決して個人の権利をないがしろにした訳ではありませんでした。そして合衆国憲法の制定において大きな役割を果たしました。そのあたりを注意して考えてみましょう。この時期に、また別の6人目の建国の父祖でありアメリカ革命の憲法学者でもあるジェイムズ・マディソンが暗闇からまばゆい光の中に現われ、全国に名を馳せることになります。以下の(1)〜(6)です。(【文献27】(I)p.276-82)

(1)独立したアメリカの緊急の課題となった共和制の再編成

独立戦争後、共和体制の再編が緊急の課題になっていた。戦時の組織は即断即決で次々とつくられたため誰が見ても十分機能していなかった。合衆国の当初の発想は、主権をもつ州が連合して包括的な国家をつくり、各州が一定の事柄について國に権限を委任する、というものである。国民は、州の立法府を選ぶということでしかこの過程に参加していない。

ここで把握しておくべき重要な点は、第一次アメリカ革命は軍事および政治革命であり、大陸会議による連合政府という臨時の形態を生み出したこと、つづく第二次革命は憲法をめぐるもので、今日知られている通りのアメリカ合衆国憲法が制定されたこと、である。この第二次革命はすでに独立戦争中に始まり、(イギリスの古い伝統に則り)必要に応じて組織的に発展していった。

1777年10月、大陸会議は問題に対処するため専門家を集めて陸軍部、財務部、海事部の創設を決める。これが行政政府の始まりとなった。次いで州裁判所から海事裁判を分離するため法廷開設の必要に迫られ、これが連邦裁判所の起原となる。1779年9月にはアメリカ市民権という意識が生まれる。軍隊への補給品が底をつくと、軍費の分担を嫌って非協力的な州に大陸会議が支払いを強制する権限を認める最初の提案が行なわれた。この方針によって、やがてリンカーン大統領が合法的に連邦を動かすことが可能となる。

(2)憲法をめぐるアメリカ第二次革命を推進した財政問題

アメリカ第二次革命のいちばんの推進力となったのは、財政的な必要性だった。間に合わせの通貨制度は戦争の圧力を受けて崩壊し、インフレが加速しはじめる。ラテンアメリカでは次の時代に戦争がつづき、若者たちが通貨いじりに毒されて、スペイン語圈の共和国の成熟をゆがめることになる。ニューヨークの一派は、すでに学識や財政の「動き」の中心に頭角を現わし、アメリカでこのような問題が発生するのを許さない決意を固めていた。ガヴァニーア・モリス、フィリップ・スカイラー、アレグザンダー・ハミルトン、ジェイムズ・ドウェインらが結束して、後に「フェデラリスト(連邦主義者)案」と呼ばれるもの、すなわち正貨に担保された強力な政府を提案する。政府が計画的に枠組みをつくって、すすんだ銀行制度を創設し、公債を管理し、財政の運用を円滑にして、経済発展と急速な成長をはかろうと考えたのである。その発想はイギリスとアダム・スミスに源を発しており、確信に満ちてこれを発展させたのがアレグザンダー・ハミルトンで、1781〜2年にかけて出版された「大陸主義者の書簡集」の中で、初めてこの構想をあきらかにしている。これが憲法論争の発端となった。

(3)強力な中央集権政府を目指すアレグザンダー・ハミルトンの登場

憲法論争の口火を切ったハミルトンとは何者か。1755年、西インド諸島の小島ネヴィス島生まれ。養子縁組をしなければアメリカ人にはなれず、大統領になれない境遇だったことを忘れないでほしい(後述)。しかし、ハミルトンはいくつかの点で、合衆国憲法制定にかかわった人々の中で誰よりも大統領に向いていた。ある意味で、独立独行の男というアメリカ神話中の典型的な人物で、婚外子として生まれ、非情な父親にすてられ、13歳のとき母親を亡くして孤児となった。その後、友人と親戚の援助でニューヨークに渡り、17歳でキングズ・カレッジ(コロンビア大学の前身)に入学。好成績を収めて政治、歴史、憲法、司法の知識を広範にわたって身につけ、同世代の法律家中で最高の敏腕弁護士となる。そしてほどなく独立革命運動の渦中に弁士として登場し、またペインやフランクリンをしのぐ、この時代には並ぶ者のない速筆の文才を生かしてパンフレットを次々と大量に出版する。

独立戦争では陸軍に加わり、砲兵隊に配属されるとたちまち砲術に熟達して大尉に昇進する。たびたび実戦に参加して総司令官ワシントンの注目を引き、総司令官付き副官に取り立てられて、最も優秀で親密な参謀として5年間ワシントンに仕えた。ハミルトンにとってワシントンは英雄的存在で、また本人の言葉によれば「後ろ楯」でもあった。一方、ワシントンは、ハミルトンを大陸軍きっての有能な高級将校であり参謀として最も困難な任務も効果的かつ迅速になしとげる信頼のおける人材、アイディアが豊かで間違いをおかすことを恐れず絶対に忠誠をつくす男、と見ていた。

やがてハミルトンは、ワシントンの副官を辞してヨークタウン攻囲戦で砲兵隊の指揮をとる(コーンウォーリスを降伏に追い込んだのは大砲だった)。ハミルトンは、まちがいなくアメリカ合衆国憲法制定メンバーの誰よりも数多く軍事作戦を経験している。それにもかかわらず、他人には典型的なアメリカ人とも並はずれたアメリカ人とも感じさせなかった。本人は、おそらくイギリス下院や1780年代のピット内閣にいる方が性に合っていたかもしれない。王権などには恐れを持たず、もしそれが機能しているなら利用すればいいと考えていた。イギリス型の経験主義者、実利主義者で、本能的にいつもイギリスではどうだったかを調べ、ほかの事情が同じならばアメリカがその先例に倣うのが賢明かどうかを検討した。ロックよりもホッブズの影響を受けている。トマス・ホッブズは、社会は本質的に混沌としており、「他人に畏敬の念をいだきつづけさせる」ために、(人物であれ組織であれ)強力なリヴァイアサン(巨大な海獣)のような存在を必要としているという。

1780年、ハミルトンは、エリザベス・スカイラーと結婚する。花嫁の父は少将で、ハドソン・ヴァレーの大地主だった。ハミルトンは退役後ニューヨークで弁護士を開業して成功を収める。1781〜2年には連合会議代表となり、強力な中央集権政府を要求する陣営の最前線に立った。

(4)連合政府による西部地域の開発と管理

政府内部にあって改革を急いだのは、ハミルトンの同志で財務官のロバート・モリスである。1781〜2年にかけて、モリスは歳入増と安定通貨の設定をめざす再建策を提案し、外部に支援を求めて大陸会議や実業界、軍隊にまで足を運ぶ。モリスとハミルトンは、西部への拡張を妨げてきたイギリスの障壁がすっかり取り除かれた今、西部開拓を切望する農民に土地を売却することによって、いわゆる総政府、つまり連合政府の資金調達ができることに気がついていた。ただし、それには各州が西部の土地を連邦の中央集権的管理にゆだねることが必要である。革命戦争が始まるまでは、西部地域に対する各州の要求は無制限だった。しかし諸州は1780年、「西部の全領土に植民を行ない、別個の共和政の州を形成すること、それらの州は連合会議に加盟し、他州と同様、主権、自由、独立の権利を有すること」を原則として承認した。

1783年のパリ講和条約でアメリカ合衆国の版図は2倍に広がり、大西洋側の諸州に加えて西部地域が新たな領土となる。しかし、そこに新設する各州の広さ、数、境界線を確定しなければならず、それを連邦に編入する法的手続きも必要だった。このため、連合会議にジェファソンを議長とする委員会が設けられ、1784年、委員会は西部領土は14の州(アッセニシピア、チェルネサス、メトロポタミア、ミオシガニア、ワシントンほか)に分割すべきだ、と答申する。連合会議はこの異様な名前を嫌って却下した。しかし、1784年には条例で西部各地に(連合会議の管理する)准州政府が置かれ、准州の自由人口が既存の13州のうち最も人口の少ない州と同数に達すれば、その時点で州の地位を求めることができる、と規定する。これは、既存の各州が正式に西部地域の保有請求権を連合政府に譲渡したのち初めて実行に移された。

(5)開拓地における新州の創設

1785年、連合会議は公有地条例を制定し、所有地の測量と売却の方法を定めた。最後に、1787年の北西部条例で当時の北西部領地の取り扱いにふれ、州の創設手順の詳細をあきらかにする。

まず第一に、連合会議が准州の知事、長官、判事を任命する。第二段階は、その地域の男子自由民が5000人に達したとき、准州は議員を選出して議会を組織し、連合会議が行政委員会を選定するための候補者名簿を作成する。ただし、連合会議はなお准州の立法に拒否権を行使でき、知事の任命も行なう。第三段階は、自由人口が6万人を超えたとき、准州は州への昇格を申請することができる、というものだった。

この条例や法は「連合規約」のもとで可決された最後の法令だった。しかし、西部の新開拓地を占有、定住している者よりも、東部の政治家や土地投機会社に権限をゆだねてしまい中央集権的で民主的でない、という理由で多くの人が反対する。たしかにそのとおりだった。しかし、ハミルトンが見抜いていたように、西部の土地にまつわるあらゆる問題が必然的に連合政府の権力を強化する傾向があった。というのは、これまでの諸州と同じくらい広大な(もっと広いということがわかる)領地に対する直接的な権限をにぎり、それを帝国のように統治し、区分した土地を入植者に売却して財政を支えることができるからである。それは地理的な事実で、中央政府が時を経るにつれて力を増してくるのは避けがたいことだった。西部領地の保有請求権を放棄して連合政府に引き渡し、州の主権に関する地位を譲ったのはほかならぬ諸州である。

(6)アメリカ合衆国政府の枠組みを決定したジェイムズ・マディソンの登場

しかし実際には、各州はしばらくの間、論理的には中央政府に属するあらゆる種類の主権行為を行なっていたのである。対外条約と連邦の法律を犯してインディアンと戦い、独自に海軍を設立し、ときには連合会議に代表を送る労をとろうともしなかった。各州は相互の通商に課税する一方、連合政府に約束した分担金を支払わなかった。これが、当然ながら国庫の財政破綻と暴走するインフレの原因となった。そして、全員の意見が一致していた。こんなことはつづけられるわけがない。

この時期に、また別の建国の父祖が暗闇からまばゆい光の中に現われ、全国に名を馳せる。ジェイムズ・マディソンである。かれは、1751年、ヴァージニアのかなり裕福な農園主の家庭に生まれ、父親の方針で個人教授による教育を受けた。その後、1771年にプリンストン大学に送られる。同級生となったフィリップ・フレノーは、注目すべき作品「アメリカの栄光をたたえる詩」を発表する。それは同世代の教養あるエリートの考え方を反映し、文化の主導権はヨーロッパからアメリカへと西に移っていて、アメリカは「高度の創造と、どんな残酷な時の流れも破壊できない驚くべき芸術の・・・最終段階の劇場」であるとしている。フレノーは「アメリカ革命の詩人」と呼ばれることが多いが、これは当を得ている。マディソンも同じ伝でアメリカ革命の憲法学者と呼ばれる資格がある。ジェファソンやハミルトン以上に、アメリカ合衆国が効率の良い政府組織を確立できるように尽力した。

マディソンは、フランシス・ベーコンの有名なエッセイ「名誉と名声」を読んでいた。この本は「さまざまな名声と名誉」の序列を論じて、その頂点に「ロムルス、キュロス、カエサルといった国家や連邦の創設者」をおいている。ジョン・クインジー・アダムズがその二、三年後に次のように記している。マディソンが、選ばれた仲間のひとりとして、「古代の偉大な立法者も生きたいと願ったような時代に送り出された」ことは幸運だった。「人類の中で、自分の世代と子孫のために、空気や大地や気候を選ぶよりも重大な、政体を選定する機会を享受したことのある人がいったいどれだけいるだろうか。いまだかって、300万人もの人があらゆる権力と公平な機会を手にして、人知のおよぶかぎり最も優れた適切な政府を組織し確立した時代があっただろうか」

マディソンも喜びをのべている。「わが国にとって栄光のときであり、過去のどの時代にも増して、人々の生活が改善に向かうときを迎えている」。それゆえ、憲法を起草する特権を与えられることは「リュクルゴスがスパルタにもたらしたような不朽の名声をいざなう絶好の機会」である、と。

マディソンは虚弱体質で体格が貧弱なため、軍務に服することができなかった。1776年、ヴァージニア植民地議会議員に選出されて新しい州憲法の起草に携わり、アメリカ憲法の文言に初めての貢献をする。「宗教に対する寛容」を積極的な意味合いに転換して「信教の自由」とするよう提案したのだった。これは重大な改正で波及効果は大きい。この年、州の行政委員会の一員として初めてジェファソンと会い、生涯の友情のきずなを結んでジェファソンが世を去るまで書簡を交わすことになる。そのうち1250通以上が現存しており、歴史上最高の往復書簡、ふたりの指導的政治家の手になる前例のない重要な連続書簡となっている。その半世紀の間にどう歴史がつくられていったか、この手紙をまとめた分厚い書簡集三巻を拾い読みする以上に楽しくそれを勉強する方法はほかにないだろう。このふたりの偉人の功績を評価する場合、お互いの生涯にわたる影響の度合いを考慮に入れるのを忘れてはならない。

 

4)多くの失敗と偶然による成功の積み重ねで出来たアメリカ合衆国憲法の制定

各州の利害の対立、州から連邦への権限移譲、奴隷制の問題、等々、統合よりも分裂へ向かわせる要素をたくさんかかえながら、アメリカ合衆国の憲法が制定されていく過程は今日でもなお世界の模範となるものです。ここでも、多くの失敗と偶然による成功の積み重ねがありました。そのことを学んでいれば、それ以後多くの國で繰り返された失敗が回避されたはずだとジョンソンは言います。ギヴ・アンド・テイクの精神や妥協の力学が発揮されたことは、憲法制定に関わった偉人たちが憲法制定をすべてのことに優先する最重要事項であると正しく認識していたからでしょう。それは、強大な大統領制という偶然の産物までもたらしました。私的利益と公共的利益が論じられ、中立的立場をとることができる法律家が政治において重要な役割を演ずるアメリカの伝統がきずかれました。以下の(1)〜(6)です。(【文献27】(I)p.283-90)

(1)意外にも国の統一へと事態を進展させることになった州間の争い

アメリカ合衆国憲法の制定の歩みも、多くの失敗と偶然による成功の積み重ねである。財務官のモリスとハミルトンの財政再建の努力は、基本的には何の実りももたらさなかった。1783年、マディソンが問題の解決に乗り出し、三カ条の改革案を出す。これは、初めて普通選挙の考え方を導入していた(州人口のうち奴隷については、一人につき白人の三分の二の比率で計算。最終的にこの方式が採用される)。しかし、この案もさしたる結果は出せなかった。

その後、歴史上の大事件によくあるように思いがけない邪魔が入るが、これが意外にも事態を進展させる結果をもたらす。州の間の争いである。ヴァージニアとメリーランドがポトマック川の航行をめぐって争い、双方が合理的管理権を主張した。この混乱に乗じて輸入業者が関税逃れをし、1783年末に事態は危機的状況に陥った。ヴァージニア政府で国内問題を担当していたマディソンは、ヴァージニアとメリーランドの両州に交渉委員の選任を提案する。ここで再びワシントンが登場し、生まれながらの調停役を発揮する。1785年3月25日、この交渉団は快くマウントヴァーノンに迎えられ、議題は委任された範囲をはるかに超え、二州の航行と海軍をめぐる対立だけでなく、関税、通貨、債権の規制、その他多くの課題に決着がついた。

会議が大きな成果をあげたため、あらたにペンシルヴェニア州もポトマック問題の論議に枠をはめられた。マディソンは、合意事項に巧みに連合会議の注意をひきつけ、承認をとりつける。次いで、ヴァージニアが全州の代表に呼びかけて「共通の利害と永続的な協調のために必要な通商政策」を討議する会議を開くことを提案し実現させる。この会議は1786年9月、アナポリスで三日間にわたって開かれた。実際に代表を送ってきたのは5州だけだったが、しかし重要な準備活動とロビー工作の場となり、マディソンはハミルトンと知り合ってその後の運動の進め方について一緒に智恵を出し合うことができた。

(2)連邦体制の再編で互いに補完する働きをしたハミルトンとマディソン

マディソンは慎重で思慮深い男だったが、ハミルトンは向こう見ずの大胆な冒険者だった。ここでも二人の役割は相補的、補完的であった。ハミルトンは、経済問題だけにしぼったマディソンの連邦体制改革案を広範に拡充し、1787年5月、「連邦政府の体制を国家の急務に対応できるようなものにするには、どのような法規を増補したらよいかを検討するために」各州代表をフィラデルフィアに召集する。議題には何の制限も設けなかった。かくてハミルトンが連邦体制の再編に大きなはずみをつけた。

一方、マディソンは、フィラデルフィア会議にヴァージニア案を提出して論議の基調を設定した。この案の新しい、基本的に重要な点は、ナショナル(統一国家的)政府は各州による仲介を排して人民に直接はたらきかけるべきで、また政府は(各州ではなく)人民から直接に権力を与えられなければならない、としたことにある。「われわれ合衆国の人民は・・・」という威厳に満ちた言葉を生み出したのはマディソンである。言い換えれば、主権を持つ国民が連邦政府と各州に権力を付託し、それによって國はその活動領域で独自に権力を行使するとともに各州の活動を規制する。これは、独立宣言以来もっとも重要な憲政上の変革といえる。マディソンは、連邦は州法に拒否権を持ち、州政府の権力行使は限定的に行なわれるべきだと提案したが、これはいにしえの国王拒否権の臭いがするとしてしりぞけられた。しかし、その原理は受け入れられて、連邦憲法によって各州の権限が制限されることは、連邦制度の基本的構造として今も認められている。マディソン案では、そのような力は連邦政府が国民の投票によって直接権力を託されることで合法化される、となっている。州の権限を制限するという否定的な部分に比べて、この肯定的な部分がかなり重要な意味を持っている。というのは、つづいて起こった州権擁護論の「州政府のみが連邦政府に権力を依託し、またそれを全面的に解除することができる」という論議の基盤をたたきつぶしたからである。そうではなくて人民も権限を付託する。リンカーン大統領がのちに連邦の一体性を守るために戦うにあたり、道義上法律上の論拠を示すことができたのもこれを基盤にしてのことである。こうしたことはすべてマディソンの業績である。

(3)法律家による国家の統治

会議はふたたびフィラデルフィアで開かれて4カ月にわたってつづき、1787年9月17日、みごとな成果をあげて解散した。全州がそれまでに州憲法の制定や修正を終え、会議に出席した代表の多くはこの問題に関する専門家だったことが会議の成功を大いに助けている。出席者のうち42人が大陸会議や連合会議の代表経験者だった。大半は大農園主、土地所有者、あるいは商人で、軍関係者も多く大学出身者も26人(プリンストン大学だけで9人)いたが、おそらく最も重要なグループは法律家である。憲法の意義を指摘したのはハミルトンで、当時は言うまでもなく、その後も一連の新聞評論『ザ・フェデラリスト』でこれを強調している。

憲法制定に携わった者はみな、私的利益と、共同体の公共的利益つまり共和主義の理想─公共善─とを区別していた。ワシントンは会議の議長を務める。賢明にも活動を秩序と礼儀の維持だけにとどめていたものの、大半の人間は自分の個人的な利益に動かされているという見解にこだわってこう発言している。「ふつうの人に、個人の利益以外の原理に従うように期待することは、いまだ前例のないことを求めるもので、残念ながら今後も実現しないだろう。・・・それゆえ、公平無私の原則に立って行動する人は、割合で言えばほんの大海の一滴にすぎない」。

ハミルトンは「その通り」と認めながら、それにもかかわらず、社会には「知的職業」の一員として私欲にとらわれない階層、法律家、がいると述べる。農民、農場主、商人とは異なり、法律家は擁護推進すべき経済的な既得権を持たず、したがって自然の流れとしてエリート支配層を形成しており、当然公務の基盤となるべきであると言う。この考え方は現在まで継承されており、政治家に占める法律家の割合は一番多い。マディソンは、各州は地域の利益を代表する一方、連邦政府と議会は国家または公共の利益を代表し、地域と國の関係を調整すると主張して議論を補足した。

かくて、ハミルトンは、州議会では農園主、商人、その他の利益団体が優勢なのは当然だし正しいが、連邦議会では法律家が優位を占めるべきだと結論を下した。アメリカの支配階級エリートは1780年代にはまだ存在しており、新憲法によってジェントルマン(紳士階級)が統治することをねらっていたが、実際に出てきたものは法律家による統治、法治主義政治だった。

(4)連邦憲法の制定を加速させた農民の反乱、560回もの賛否投票

会議では、かなり幅広い意見が出された。イギリスなどヨーロッパの國に近い中央集権をもくろむ過激なフェデラリスト(連邦主義者)がいるかと思えば、極端な州権擁護論者もいる。この対立するふたつのグループのおかげで、ハミルトン(連邦主義支持)やマディソン(ジェファソンに近い)は穏健と見られるようになり、影響力を強めたようである。しかし、会議の雰囲気は終始前向きかつ建設的で、道理をわきまえていた。野党のように反対派を組織し、憲法に署名するのを拒んだ人々でさえ審議を妨害せず、むしろ協力的だった。真面目で、分別があり、空論家でない男たちが、一堂に会して、イギリスから受け継いだ何千年にわたる政治的伝統をふまえて、実用主義の精神で実務に取り組んだのである。常に妥協とギヴ・アンド・テイク(互譲の精神)を重んじるのがその伝統だった。議事は速やかに進む。

実務家の男たちは、できるだけ急いで連邦の権利を正当なものとしなくてはならないと思っていた。前年の秋には、負債を抱えた農民の大反乱がマサチューセッツの農村部に広がっていた。暴徒の多くは独立戦争に参加した大陸軍の復員兵で、ありあわせの武器ながらがっしりと武装していた。反乱は最終的には、マサチュ−セッツ州議会に直接税をやめさせ、法廷費用の値下げ、その他、財政的譲歩を引き出す成果をあげた。この反乱で、フィラデルフィア会議の出席者はみな、連合会議は、このままでは大規模な内戦から連邦や州を守るには無力だとあらためて実感し、マサチューセッツj議会の屈辱的な譲歩が示すとおり、中央集権が欠如しているからこそ州政府の主権も制限されているのだと考えた。こうして連邦憲法を作成し採択する方向に圧力がかかった。

ここから本格的な論戦が始まる。投票の分析結果によると、一貫して妥協の力学がはたらいていた。560回の賛否投票で常に敗者の側にいた州はなく、それぞれの州が折々に勝者と連合を組んでいる。大まかに見れば、ヴァージニア案が採択され、この意味ではマディソンはアメリカ合衆国憲法の起草者と呼ぶことができる。中央権力を弱めるニュージャージー案は退けられた。その一方で、ハミルトンのひきいるフェデラリスト(連邦主義者)は、ヨーロッパ式の強力な中央集権政府を提案したものの、実質的な進展は得られなかった。

(5)妥協(二院制、奴隷制、大統領選挙制度)と偶然(強大な大統領制)

多くの妥協案が出された中で、特に重要なものが三つある。

一つ目は、7月初め、議会制度に関していわゆるコネティカット妥協案が採択されたことである。この案では、地域住民の直接選挙で下院議員を選び、下院では財政関連法案を主に検討する。一方、上院では州議会が選出した各州2人の州代表が外交政策などを扱うという内容である。

8月に入ると代表は奴隷制という難問に目を向け、二つめの大きな妥協をする。討論は複雑きわまるとは言わないまでも込み入っていた。出席者の中で最大の奴隷所有者ジョージ・メイソンが、奴隷制度、とくに奴隷貿易を攻撃したからである。第1条第9節では、1808年1月1日から議会に奴隷貿易を規制または禁止する権限が認められる。奴隷制度自体については北部人は妥協する気持ちがあった。ほかに道がないことを知っていたのである。事実、ある奴隷制度史研究者が述べているように、「奴隷制度を何らかの方法で認めなければ、アメリカで十八世紀に統一国家的政府を確立することは、不可能だったろう」。会議は三点で妥協した。まず、奴隷制についていっさいの非難を避けたこと。ついでマディソンの5分の3ルールを採用し、奴隷州が奴隷ひとりにつき自由民の5分の3の割合で投票者として加算するのを認めたこと。これは、その一方で、奴隷の投票そのものはいっさい拒否するという巧妙なまやかしを含むものだった。最後に「奴隷」や「奴隷制度」といった言葉が、意図的に案文から排除されたこと。マディソン自身が「人間を資産にすることができるという思想を憲法で認めるのは」誤りであると語っている。

9月初めに行なわれた第三の妥協は、長い目で見ればおそらく最も重要なもので、実は大統領選挙の問題にかかわっていた。ハミルトンなど連邦主義者は、国家の性格をめぐる全面戦争に敗れて中央集権はならず、権力は各州に分散されたままとなったが、大統領問題では大きな勝利をあげる。ハミルトンは、選挙手続きでは妥協するという巧みな戦術でこれを勝ち取った。即ち、どの候補者も一般有権者による投票で過半数を得られなかった場合、下院が上位三人の候補者の中から議員個人ではなく各州の投票によって一人を選出する、としたのである。さらに各州は、大統領選挙人団の選び方を決める権利を与えられる。これは、大統領が選挙人によって直接選挙される事実と均衡をとるための、諸州に対するジェスチュアのように見える。しかし一般有権者が参加する可能性も残していた。こうして、事実上、大統領は立法府から独立して選出される。

さらに大統領は、議会の法案に対する拒否権(ただし、拒否した法案が両院で三分の二の多数で再可決されれば、優先条項によって拒否権は相殺される)と、非常に広範な行政権を与えられることになる。ただし、上院の「忠告と同意」を得なければならないという規定で、ある程度抑制される。かくしてほとんど偶然に、アメリカは強大な大統領制、あるいは大統領が望むなら権力を集中できる行政府を手にした。大統領の権力は当時のおおかたの国王をしのいでおり、それに匹敵するか優っていたのは帝政ロシアの専制君主「ツァーリ(大帝)」だけだった(実際問題として大統領の力は、大半のツァーリより上だった)。大統領は、当時も今も國全体で選出する唯一の政府高官で、このことが大統領が憲法上の職掌に隠された巨大な権力を行使するための道義的正当性の根拠となっている。こうした大統領の権限を初めて追求するのは、半世紀後のアンドルー・ジャクソンの時代で、その権力は多くの人を驚かせ怯えさせるにいたる。ジョージ・ワシントンが自制心と常識をはたらかせて、1790年代にこの権力を誇示しなかったのは幸運といえるだろう。抗議や憲法修正の動きが起こったにちがいないからである。新しい共和国は、國と政府の長を兼ね、恐るべき潜在的権力を託された元首をいだくことになった。

(6)他の国が学ぶべき最重要課題は、アメリカ合衆国憲法制定の手法である

フィラデルフィア会議はかなりの速さで進んでいた。それは必要かつ望ましい事態で、熟慮の結果だった。長すぎる憲法論議は問題が細分化し混乱するもとになる。アメリカ合衆国憲法の制定過程は、連邦制度の創設をめざす國、政体を変革する國、新たに建国する國、すべての模範となるはずである。しかし、その憲法誕生以来200年以上にわたって条文自体は(多くは表面的に)研究されてきたものの、残念ながら最も重要な、制定をなしとげた手法は無視されている。つづく10年間に登場するフランスの革命家は、アメリカがどう憲法制定に着手したかなどはほとんど眼中になかった。この半未開人の国民が伝統あるヨーロッパに教えられるものがあるのか、という態度であった。また30年後のラテンアメリカ諸国は、新しい国家の建設に大わらわで、近隣の歴史から学ぶいとまがなかった。

この状態はさらにつづく。旧ソヴィエト連邦(1921)と旧ユーゴースラヴィア(1919)の連邦憲法は、実質的にアメリカの経験に学ぶことなく制定され、両者とも最終的には悲惨な大失敗に終わっている。中央アフリカ連邦、マレーシア連邦、西インド連邦も同じで、その全部が憲法をすてなければならなかった。欧州連合(EU)の連合機構もしかり。大成功したアメリカの先例を精査し消化することなく設立しており、ヨーロッパ憲章の作成者には1780年代のできごとを見直すべきだとのはたらきかけがなされたのに、その意見は鼻であしらわれ葬り去られている。

ひるがえって、自民党の右派や石原東京都知事が盛んに主張している改憲論議は、ナショナリズムから発した情緒的なものであり、憲法そのものの具体的な中味が全く議論されておらず、真面目に考える気にもなりません。野党の対応も適切とはいえません。

 

5)各州による合衆国憲法批准という難問の解決

このように、フィラデルフィア会議は、ワシントン、マディソン、ハミルトンをはじめ優れた代表によって見事に合衆国憲法をまとめることができました。しかし、見方によればこれは単に州の代表がまとめたものにすぎず、あとに続く各州の批准の過程の方がはるかに重要であり困難も大きいでしょう。たとえば、連邦主義者と反連邦主義者が州の批准の議論で鋭く対立し、憲法の批准が否決され論議がむしかえされる可能性もありました。アメリカはこの難問をどのようにして解決したのでしょうか。以下の(1)〜(4)です。(【文献27】(I)p.290-7)

(1)憲法の批准過程に導入された民主主義の原理

憲法制定過程と同じように重要なのは、その批准過程だった。國に民主主義の原理を導入し根づかせるための歩みとなったという点では、こちらの方がさらに大きな意味を持っている。

合衆国憲法第7条は憲法発効の方法を定めており、4段階の批准手続きが始まった。まず第一に、旧連合会議に報告書が提出される(9月25日)。三日間の激しい討論のあと、フェデラリスト(連邦主義者、批准支持派)、反連邦主義者(批准反対派)とも、憲法案文をその是非は問わず各州に送ることに同意した。これが第二段階である。第三段階では、憲法案を検討するため各州で代表を選出する。第四段階は、その代表者による会議で、13州のうち少なくとも9つの州の承認を得ること。9番目の州が批准の署名をした時点で、その他の州の意向にかかわりなく、この憲法は承認した諸州の基本法となる。全州一致によらず、対照的に多数決の原則を採用したのは、それ自体、強くたくましい政府を作りたいという連邦主義者の決意の表われだった。多数決の規定で迅速な動きができるようになる。これは批准手続きを促進したいという思いや、主な州の早期批准をきっかけに他州もあとを追ってわれ先に承認に応じてほしい、という期待を反映していた。あきらかに危険な戦術ではある。もしヴァージニア、マサチューセッツ、ニューヨーク、ペンシルヴェニアの四大州全部が拒否すればもちろん、その一州でも憲法を認めなければ、他の全州が批准しても意味がない。しかし、連邦主義者は四大州の承認に確信を持っていた。

また、批准を各州の議会ではなく、特別に選出される州民の代表者会議で行なうことに固執したため、憲法はさらに大きな危険にさらされる。人民に報復手段─これぞ民主主義─を与えかねない。しかし州議会議員の承認だけでは不十分の感があった。ことは全人民、そしてその子孫代々に影響する基本法である。ひとりの人民として憲法を承認するかどうかの決定に加わるのは当然で、その結果、批准の過程で属する州にとらわれずに物事を判断し、州益だけでなく国益も考えるようになるだろう。このやり方は賢明で、社会的意義が大きかった。ひとたび人民を政治の舞台に上げて意見を求める以上、もう袖に追いやるわけにはいかないからである。

(2)大衆の間に巻き起こった広範な憲法論議

代表者会議での批准は、大衆の間に広範な憲法論議を巻き起こすという効果もあった。これが批准過程で最も重要な局面だったかもしれない。ジェファソンやマディソンやアダムズが、教育と道徳と立派な政府は一体と信じていたのは正しかったが、州議会議員だけでなく州民にも憲法論議をさせたことにもまちがいなく価値があった。論争が広がり、参加者がふえるほどよい。大衆の政治論議それ自体が教育の一形態で、それもきわめて重要なものだったからである。

もし1760年代から70年代初めにかけて、アメリカ人代表がイギリス人代表と両国民のあるべき関係について討議するのを許されていれば、アメリカ革命は避けられたかもしれない。言葉は武器にかわる手段、よりよい選択肢となり得る。しかし話し合いは拒絶され、問題は武力解決にゆだねられた。アメリカ人はこれを教訓として、言葉にしっかりと務めを果たさせなければならないという気持ちを強く持った。イギリス人ものちに学ぶ。つづく1780年代には、フランス人がこの教訓を無視して多数の生命を犠牲にする。そのイデオロギー抗争の憎しみは、今日までつづいている。

こうして批准の手続きは言葉による戦争となった。そして何とたくさんの言葉が語られたことか!それまで先例のない、史上最大の大衆討論だった。広場で、町の集会で、小さな町や大都会の路上で、遠く離れたアパラチアの山村で、辺境の森林地帯や僻地で、論争が巻き起こった。論戦はとりわけ印刷物で展開される。1783年、アメリカ初の日刊紙「フィラデルフィア・イヴニング・ポスト」紙が登場し、日刊新聞(短命に終わることもしばしば)や週刊新聞が激増する。印刷と紙は無税で安かった。パンフレットをつくる費用は格安で、駅馬車が刷り上がった束を運んで沿岸地帯を行き交った。アメリカ人はすでに有能な著名人の原稿を入手する仕掛け(のちに「シンディケイテッド・コラム」とよばれる配信契約つきの定期寄稿欄)を開発ずみで、こうしたコラムは、自由に使えるようにあらゆる新聞の編集者たちに流された。

このため、憲法批准をめぐって文字どおり何千という論文が印刷されて出回り、個人的に読まれたり選挙人の集まりで読み上げられたりして議論の応酬がなされる。これは、かってない大規模な政治教育の実習である。重大な課題が問われていると受け止められ、論議は憲法自体の枠を超えて広がる。ハミルトンは「プブリウス」の筆名でこう述べている。「批准の手続きで決まるのは、人間社会は熟慮と選択によって現実に優れた政府を確立することができるのか、あるいは、永遠に偶然や武力に頼って政治機構を求める運命に陥るのか、である」。

連邦主義者側は、活発なアレグザンダー・ハミルトンを筆頭に、それに次ぐジェイムズ・マディソンやジョン・ジェイ、ジョン・マーシャル、ジェイムズ・ウィルソン、ジョン・ディキンソン、ロジャー・シャーマンなどの面々。このグループにはもともと強みがあった。ジョージ・ワシントンが批准賛成で知られ、その名があまねく影響力を持っていたからである。フランクリンも批准支持派を名乗り、アメリカ最大の都市フィラデルフィアで大いに貢献した。ハミルトン、マディソン、ジェイは、共同で新聞連載の論文を執筆し、これが多くの新聞に転載されたあと、1788年に本にまとめられた。主な執筆者はハミルトンだったが、このグループの政治論はアメリカで生み出された初の重要論文となった。そこでは、中央と地方、政府と人民の権力の配分、政治システムをかたちづくる行政、立法、司法はどの程度まで分離すべきか、といった政治に関する基本的な問題が明快に説得力をもって論じられている。この本は激論の産物で、今なお広く読みつがれているが、当時どれだけの範囲の人が読み理解したかについては議論の余地がある。しかし、憲法批准会議前や会議中に、連邦主義者側の発言者の手引きとして役立ったことは確実である。その意味で、この本は非常に重要だった。

連邦主義者の陣営で最も好評を博した出版物は、ジョン・ジェイの『ニューヨーク州民に宛てた演説』で、何度も版を重ねている。もうひとつのベストセラーは、1787年11月24日、ジェイムズ・ウィルソンがフィラデルフィア会議で行なった名演説のパンフレットだった。憲法の核心として選挙と代議制を強調したのはウィルソンである。これこそが、アテネやローマの古代政治体制、あるいは投票と世襲権の奇妙に並立するイギリス憲法体制と新しい政体とを区別する特徴である、と説く。「世界はアメリカに、代議制がただちに國の思想の基盤となり結びつきを強めるような政府を組織する光栄と幸福をゆだねた。なぜなら、代議制は、民衆と民衆が行政を託した者をつなぐ真の絆なのである」。ウィルソンは憲法制定にあたっては、マディソンに次ぐ最もだいじな働き手、憲法批准運動ではハミルトンに次いで最も重要な意見を述べた人物だった。

(3)「ビッグ・ガヴァメント(大きな政府)」に対する反連邦主義者の懸念

パトリック・ヘンリー、リチャード・ヘンリー・リー、ジョージ・メイソン、ジョン・ハンコック、ジェイムズ・モンロー、エルブリッジ・ゲリー、ジョージ・クリントン、ウィリー・ジョーンズ、メランクトン・スミス、サム・アダムズといった反連邦主義者は、個人としては手ごわい存在だったが連邦主義者のような団結力はなかった。反対意見はさまざまで、拒否した憲法案に代わる代案をまとめることはできそうになかった。ロバート・イェーツが書いたと思われる『ブルートゥスの手紙』、オーティス・ウォーレンの『新憲法に関する考察』、匿名の『連邦主義者の農夫から共和主義者への手紙』、そしてルーサー・マーティンの『一般的観察』は、それぞれ互いに矛盾しており、むしろ足を引っ張った感じがする。

『共和主義的連邦主義』と名乗るパンフレット執筆者は、提案された議会をイギリスに相当するものと見ている。「革命はアメリカ連邦を大英帝国から引き離したが、アメリカの自由にとっては、新しい制度を採用した結果起こることの方が重大である。革命はわれわれを外国の統治から解放したが、今度は新しい体制が人々を連邦の支配下に追いやるだろうと心配する理由があり余るほどある」。この「ビッグ・ガヴァメント(大きな政府)」に対する不安は、反連邦主義者が広く信じ込ませた懸念、すなわち新しい連邦議会と連邦政府は特定の利害関係者や人民を抑圧する団体の手ににぎられるだろう、という考え方と同類である。法律家は、本来、中枢を動かすように形成された利害にとらわれない集団である、というハミルトンの主張は感心できない。マサチューセッツのエイモス・シンゲルタリが述べている。「こういった法律家や教養人や金持ちはたいそう話がうまく、物事をなめらかに解説し、われわれ無学な貧乏人に苦いくすりを無理やり飲ませて、自分たちが議会に出ようとする。そしてアメリカ憲法の管理者となり、すべての権力と金をその手中に収めようとしており、やがては巨大な海獣(リヴァイアサン)のように、われわれ小人を残らず飲みつくしてしまうだろう」

しかし、一部の反連邦主義者が提案したスイス連邦の州制の流れをくむ「小さな政府」は人気がなかった。なんといってもアメリカはすでに独立戦争中から小さな政府を体験してきて、ほとんどの人がそれがうまく機能しなかったのを知っていた。もしワシントンがいなければまったく動かなかった。独立戦争このかた、問題は政府の力が大きすぎることではなく、その影が薄すぎることにある。これが全州の一般的な見解だった。大きな政府に対する不安はさらに薄らぐ。新憲法が施行されたあかつきには、ふたたびワシントンが公職に呼び戻され、かって権限の不足を補って成果をあげたように、こんどは権力の乱用を阻むだろう、という下馬評でもちきりだったからである。

反連邦主義者が期待どおりの効果をあげたのは、権利の問題、とりわけ個人の権利については新憲法はほとんど、あるいは何も言及していない、と強調した点である。けれども、連邦主義者はこの欠点を認め、ひとたび憲法が批准されれば真っ先に「権利章典」を憲法修正条項として起草し、議会を通過させるとした。これには3分の2の州の合意が必要で、大多数の人が満足するのはまちがいなかった。

(4)各州による批准と憲法の成立

このような制約を考慮に入れながら批准手続きが始まる。最初の5州の批准は、1787年12月から翌年1月にかけて行なわれた。デラウェア(満場一致)、ペンシルヴェニア(46対23)、ニュージャージーおよびジョージア(満場一致)、コネティカット(128対40)である。マサチューセッツでは、著名な反連邦主義者サム・アダムズとジョン・ハンコックのふたりが、批准の条件として権利章典を憲法に修正条項として追加する付帯決議をつけるよう交渉し、これが1788年2月に通過する(187対168)。他州もみな憲法承認に向けて大事をとりこの方式に倣った。この結果、諸権利の条項を早急に採択することが必要となる。メリーランドが4月に承認(63対11)。5月にサウスカロライナ(149対73)とニューハンプシャー(57対47)、6月にヴァージニア(89対79)、7月にニューヨーク(30対27)、と批准は11州に達し憲法の成立は確実となった。

ノースカロライナの憲法批准会議は、投票を行なわないまま1788年8月まで延期になり、ロードアイランドは会議の召集を拒否した。しかし実際上、諸権利を保障する修正がなされるのは確実なことから、この2州も決心を変えるにいたる。ノースカロライナの批准は、1789年11月(195対77)、ロードアイランドは、1790年5月(34対32)。こうして最終的に各州の批准は満票で達成され、憲法は成立した。

ベンジャミン・フランクリンは、下院は人民を、上院は各州を代表すべきだという考えの生みの親だが、憲法制定会議に一度も休まず出席し、ヨーロッパの友人宛ての手紙で憲法の採択を記憶に残る言葉で歓迎している。「われわれの憲法は現実にもとづく作業です。そして、何もかもが憲法の永続を約束しているように見えます。しかしこの世には、死と税金以外、確実なものはありません」

 

6)民主主義の拡大と公共の利益や個人の権利の保護

反連邦主義者は憲法の批准に極めて慎重でした。そのことはマサチューセッツの批准結果(187対168)にも表われています。賢明にも批准が早期にできたのは、個人の諸権利を法制化する権利章典が憲法修正条項として盛り込むことが約束されていたからです。しかし、それが一般市民を連邦のもつ負の因子、派閥支配や人民を抑圧する衆愚政治(浮動的な大衆に迎合することによって私利を追求する劣悪政治家による無方向・無政策の政治)から守れるか否かは、裁判所の強制力次第です。市民権や選挙権などの基本的な問題が待っています。司法について最も重要な憲法条項は、連邦政府の高官に対して法的義務の遂行を命じる執行権を最高裁判所に与えたことです。この権限を与えることが本来の目的ではなく、またその重要性も具体的に意識されたことではないのに、結果として偶然生まれたものでした。まことに興味深く、また不思議なことです。アメリカ民主主義はどんどん進んでいきました。以下の(1)〜(7)です。(【文献27】(I)p.297-310)

(1)個人の権利を法制化した権利章典の批准

議会は、こんどは諸権利を法制化しなければならなかった。一部の州はすでに権利章典を持っていて先例はある。憲法を起草したフェデラリスト(連邦主義者)は、この問題に関しては慎重だった。その理由は、個人の権利は生まれながらにして存在すると推定されるもので(これを基盤として独立宣言が書かれた)それについて公式に法的声明を行なうことは、政府の関与しない、あるいは関与すべきでない範疇にまで政府の権限を拡大する可能性をはらむからである。「実をいうと憲法は、理論的な意味でも有用性という点でも、『権利章典』そのものである」と、ハミルトンが『ザ・フェデラリスト』で述べている。これは鋭い指摘で、個人の権利を公に法制化することが、とりわけ二十世紀には安心より不和の大きな源となっているかもしれない。しかし、ハミルトンのグループは権利は列挙し明記すべきだという一般的感情、とくに一部の州や辺境、農村地帯で強かった考え方に同調した。

マディソンは、元来、派閥支配や衆愚政治に対していわゆる「文書による防壁」を設けることには反対で、三権分立やチェック・アンド・バランス(抑制と均衡)、といった構造的な調整に信頼をおいていた。しかし、いろいろないきさつで、憲法批准会議で提起された諸権利を求める修正条項や州憲法に盛り込まれた権利章典を調べてまとめる、という難しい仕事にとりかかる。反連邦主義者のジョージ・メイソンが執筆したヴァージニア州権利宣言(1776)なる完璧な手本もあった。

1789年の第一回連邦議会の冒頭、マディソンは10条からなる憲法修正条項案を提出する。修正第一条は最も重要で、信教、集会、言論、出版の自由および請願の権利を侵す法律の制定を禁じている。つづく七つの条項では、財産権を保護し、刑事被告人の権利を保証した。第九条は、特に列挙されなかった権利を擁護する条項。第十条はこれを補強して、「本憲法によって合衆国に委任されず、また各州に対して禁止されなかった権限は、各州それぞれに、あるいは人民に留保される」と規定している。批准は順調に進み、1791年12月15日、ヴァージニアが批准を終えて、「権利章典」が、憲法の一部となった。

(2)議員の歳費と選挙費用の問題

さらに二つの問題が未解決のままだった。第一は、議員は有給とすべきか、という問題。イギリスでは、ときに地域的な例外はあったものの給料が支払われたことはない。アメリカではさまざまだった。フランクリンは金持ちで、1787年のフィラデルフィア会議に先立って報酬を支払うべきではないと論じた。独立独行の人らしく、州を代表する権利は野心あるものが勝ち取り、その代価を支払うべきだと考えたのだった。しかしこの案は退けられる。ペンシルヴェニア州議会さえ、議員の収入の減少に対して「補償金」を支払っていた。

この問題を扱ったときほど、建国の父祖の意見が割れたことはない。法律家をはじめ大勢の「ジェントルマン(紳士)」たちが、事務所を運営して生計を立てることができないのに気づいて俸給を要求し、ついでその額が低すぎると不平をこぼした。ハミルトンは裕福だったが、この人々を弁護している。ジョン・アダムズは、公職にある者の権威を高く評価していた。大臣として初めてイギリスに派遣されたとき、誰もがやる船のあか汲みに手を貸そうとせず、「公職にある者にふさわしくない仕事だと言い張った」。まるでアメリカ人らしくない(と思われる)この主張からすると、アダムズは議員報酬に反対だったと思うかもしれない。しかし、そうではなかった。公人を悪に誘うのは、役得や特権だと考えていた。給与がなければ役所は金持ちが独占してしまう。ワシントンが総司令官を無給で務めさせられていたのは不名誉だ、とアダムズは思っていた。ジェファソンはワシントンと共通した見方で、自分で「ローマ主義」と名ずけた原則に固執していた。「高潔な政治に公職はついて回る。任命されたものは、重く厳しい仕事や大きな個人的損失が予想されようとも、断るのは誤りである」

全般的に南部人は有給に反対、北部人は賛成だった。北部が勝利を収め、上院議員も有給と決まった。その額は議会にまかされ、1日あたり6ドルとなる。批判者には高いと思われたが、やがてニューヨークで第一回連邦議会が開かれると「途方もない」生活費がかかった。どんな催しの席でも下院議員は手当てが安すぎるとこぼし、上院議員も同じで下院議員よりも多額の報酬を受けるのが当然だと考えていた。

第二の問題である選挙運動費のことは誰も大して気にかけていなかった。十八世紀のイギリスでは、1回の選挙で10万ポンド、ときにはそれ以上かかることがあった。これはイギリスだけの問題ではない。1758年、ジョージ・ワシントンがヴァージニア植民地の下院議員に初当選したときは、ビール178リットル、ワイン159リットル、シードル7.6リットル、ブランデー0.28リットル、ラムパンチ3樽などに、合計40ポンドがかかっている。こうした選挙費用は両国とも絶えずふえつづけた。イギリスでは徐々にこの問題に取り組むようになり、選挙民を酒や金で買収した議員は失格とした。アメリカ合衆国を建設した紳士階級の政治家が、選挙費用の問題に当初から対処して後継者の大きな悩み(と現金)を取り除かなかったのは不思議だし残念なことである。

(3)25年で倍増する人口を反映する新州の誕生と下院の議席の再配分

建国の父祖たちは、各州2名ずつの上院議員を議会に送ることに同意し、州の権利を代議制度に組み入れた。一方、下院は住民の代表として各州が最低1人の議員を選出する。議員の比率は人口3万人(納税義務のない先住民は除外し、奴隷は5分の3と計算する)に対して1人を超えないこととした。このため国勢調査を10年ごとに実施し、人口を算定し、下院議員の定数と議席配分を決める。1787年の第一回連邦議会では、下院議員は65人。ロードアイランドとデラウェアが1人ずつ、ジョージアとニューハンプシャーが各3人、ニュージャージーが4人、コネティカット、ノースカロライナ、サウスカロライナが5人ずつ、メリーランドとニューヨークが各6人、マサチューセッツとペンシルヴェニアがそれぞれ7人、そしてヴァージニアが10人である。しかしアメリカは急速に変化し膨張中で、議席配分は1、2年のうちに時代遅れとなる。ひとつには、州の地位を得ようとやかましく要求する準州がふえていた。

ヴァーモントは1777年、以前ニューコネティカットと呼ばれていた地域の代表が独立を宣言し、ニューハンプシャーとニューヨークの一部をつまみとって合併した。しかし、両州ともその土地を譲渡するつもりはなかった。入植者は合法的に土地所有権を得ようとしても、どの州に申請してよいかわからない。革命戦争中、ヴァーモントは事実上中立を守った。しかしイギリスがいっさいの領土要求を取り下げていたので、ヴァーモントはイギリスと単独講和を結び、スイス流の中立国となることを考えていた。ニューハンプシャー(1782)とニューヨーク(1790)が土地の返還要求を撤回するまでヴァーモントの孤立はつづく。その後、連邦に加盟を申請して1791年に承認される。こうして1793年、議会構成が再編成されたとき、ヴァーモントには1790年の国勢調査の結果をふまえて2議席が与えられた。

ヴァージニアの辺境地帯(「あの暗黒の血塗られた土地」とおそらく不当に呼ばれていた)をめぐっても、長く激しい口論がつづいていた。最終的にはヴァージニアが要求を取り下げて解決し、1792年、ケンタッキー州が誕生、2議席が配分される。ペンシルヴェニアの奥地は、フランクリンが独立州を組織し、ノースカロライナがこれを反逆的で非合法な土地横領としていた場所である。これが1788年に瓦解し、1790年、議会により南西部準州として再編された。ここに入植者がどっと流入してたちまち6万人の州昇格基準を超え、1796年になってようやくテネシー州として承認される。

1793年の議席再編以来15州が議会に議員を送り、下院の議席数は105に達していた。ヴァージニアは9、マサチューセッツは14、ペンシルヴェニアは13、ニューヨークは10議席となった。1790年の国勢調査で、アメリカ合衆国の人口は、フランクリンのような楽観主義者の予想さえ上回る速度でふえていることがあきらかになり、今や392万9827人にのぼっていた。10年後の十八世紀末には、総人口は530万8843人に跳ね上がる。これは、10年間に35パーセントの成長率で、1775年の推計からみると倍増していた。つまり倍増するのに25年間しかかかっていない。

(4)市民権と参政権

この急激な人口成長は多くの人を満足させたが、一方、エリートをはじめ一部の人を不安にもした。フランクリンは、イギリス人入植者の子孫が急速にふえるのには反対しないくせに、非イギリス系や非白人の移民が新たに流入してアメリカのイギリス的要素が薄められていくのではないかと心を悩ませていた。これが奴隷貿易や奴隷制度に反対したひとつの理由である。フランクリンは白色人種、とりわけイギリス人が圧倒されるような世界の到来を恐れていた。また、フランクリンは、アメリカにドイツ人が大勢やってくるのを決して喜んではいなかった。とりわけペンシルヴェニアではまとまって投票し、初めて政治に民族性を持ち込む傾向を見せていたからである。こうした見方は、建国の父祖の間では決してめずらしくなかった。ワシントンもハミルトンも、無制限の移民はもちろん大規模な移民も望んでいなかった。

アメリカ市民とは何か、を定義するのはたやすくはなかった。実のところ、当時「市民権」は新しい言葉で、ほとんど理解されていなかったのである。仮説では、各人は特定の州に属し、そこからアメリカ連邦の市民権が発生するとされていた。この説が整理されて、「各州の市民は、そのこと自体によってアメリカ合衆国の市民である」と規定する。ほとんどの州には市民権について何らかの法規があった。しかし移民についてはどうだったのか。1787年の憲法は、法令により帰化についての國の基準を定めているが、その後改正されている。主な改正点は申請者が国籍を得るまでに必要な居住期間で、最初の2年という基準は短すぎ、次の14年は長すぎるとされ、最終的に5年が適当という判断に落ち着いた。合衆国憲法も州憲法も市民権の対象を白人のみに制限し、たとえ自由民でも黒人や部族単位のインディアンは暗黙のうちに排除して外国に帰属するとみなした。

白人女性は選挙権行使を除いては市民と認められたが、初めて女性参政権が実現するのは1920年のことである。黒人が無条件に市民権を与えられるのは1868年、インディアンには1924年までそれが認められなかった。しかし最も重要な点は、新しいアメリカも植民地時代と同様、事実上無制限に移民を受入れていることで、移住者の流入はつづきその数はふえる一方だった。

(5)民主主義と政治的平等の拡大

革命の結果、アメリカの民主化は急速に進んでいた。憲法制定者たちが派閥支配や衆愚政治を警戒しチェック・アンド・バランス(抑制と均衡)を強調したのはもっともである。しかし、憲法は高学歴のエリートによってつくられたが、通常、現実のできごとはふつうの人の意志で決まる。市民および納税者としての大衆は、「代表なければ課税なし」という革命のスローガンを逆手にとって投票権を要求していた。イギリス国王がアメリカ人に代表権を与えないで課税することを許されないのなら、なぜ州はどう使うかについて投票する権利も与えずにアメリカ市民に課税するのか。大半の州はすぐにこの異議を認める。

ニューヨークには「デモクラシーの悪しき側面」を排斥し、少なくとも上院議員の選挙人については自由保有不動産による資格制限を維持しようとする頑強な抵抗があった。彼らは主張する。誰もかれも「普通選挙権という偶像」を崇拝するのに対し、ニューヨーク州は手本となって財産制限を守るべきである。なぜなら、これは「選挙人が道徳的で自立しているかどうかを判断する材料である」し、また健全な人格の選挙人のみが社会を「猛進する下層階級」から防衛することができる、と。しかし反発が巻き起こる。アメリカ人を、とりわけ土地を所有しているかどうかによってふたつに区別するのは、「憎むべき貴族制度の遺物」である「特権的」制度であり、ほんとうの共和国には「身分はひとつしかない、人民のみ」という原理とは正反対の方向に向かっている、と。かくて1790年には、5州がすべての男性納税者(一部の州は、白人男性のみ)に対して一部またはすべての選挙権を認めている。この5州もその他の諸州も、州への「帰属」資格を土地所有権ではなく居住で認定するようになり、ほとんどの州はその居住期間を2年(一部の州では1年)とした。

これはヨーロッパ人にとっては驚きだった。先祖代々千年もその土地に住んで、どんなに裕福になっても投票権をいっさい与えられない國から、一文無しで到着してニューヨークで下船し、ハドソン川を渡ってニュージャージーに行く。すると、翌年には投票権を行使し5年以内には大統領を選べるのである。ニュージャージーはとくに自由で寛大だった。1776年以降、1年間居住して50ポンドの財産がある者には全員に投票権が与えられ、女性も同じ資格があれば投票を許された(1809年まで)。どのみち戦争によるインフレで、古い財産資格はかなり無意味になっていたし、ノースカロライナやニューハンプシャーなどの州は、人頭税と納税者資格によって男性に事実上普通選挙権に近いものを適用していた。1783年には、諸州の有権者は60パーセントから90パーセントに達し、大半の州が100パーセントに向かってじりじりと上昇していた。

ケンタッキーのような新しい州は、それ以前はともあれ、連邦に編入を認められたさいに自動的に白人成人男性の普通選挙権を採用する。しかし、州は白人男性には迅速に参政権を与える一方、自由黒人には公民権を認めないのがふつうだった。ロードアイランドは一匹狼の伝統に忠実に、ただ一州、民主主義の奔流に抵抗する。134ドル相当の自由保有不動産という資格(ドルは1792年に法律で固定された)が次第に厳格に適用されるようになり、男性市民の半分が公民権を剥奪されたままとなった。

ある聡明なアメリカ人が、民主主義の誕生をどう見ていたかを示す注目すべき書簡が残っている。1806年、ベンジャミン・ラトロープが、イタリア人の民族主義者フィリップ・マッツェイに宛てたものである。ラトロープは、その十年前にフィラデルフィアに移住したイギリス人でアメリカ初の職業建築家となったのだが、次のように書いている。

連邦憲法が成立したあと、あらゆる州で男性市民の大多数に選挙権が拡大されて・・・実質をともなう民主主義と政治的平等が連邦全体に広がっています。・・・大衆の学識と科学に対する欲求は、ここを訪れる外国人に強い印象を与えています。國や州のあらゆる立法機関の代表は、学歴のない大衆によって選出されます。たとえばフィラデルフィアとその周辺では、ひとりの学者も連邦下院に送っていません。実は下院議員のひとりは法律家です。無名の人、優秀な数学者もいますが、選挙のときには銀行に勤めていました。ほかの議員は、ただの農民です。隣の郡では鍛冶屋を、川向こうの地域では肉屋を議会に出しました。ずばぬけた才能を持つ人物はいません。実のところ、卓越した人物はかえって疑惑を呼ぶのです。

しかしラトロープは落胆しなかった。アメリカは「何とかやっていこう」としていたし、ラトロープ自身もなかなかうまくやっていた。「教養人、学者、芸術愛好家にとって、アメリカははなはだ不快な面を見せているかもしれない」と、ラトロープは認めている。しかし「堅実で多方面にわたる長所があるのは、はっきりしています」。そして「いずれにせよ民主主義が、おそらくまだどんな國も享受していない最大多数の人間的幸福を生み出していることは、まちがいありません」と結んでいる。

(6)司法についての最も重要な憲法条項が偶然に生まれたいきさつ

民主主義の実現で、ジェファソンやマディソンが恐れていた派閥支配や衆愚政治が現実の脅威となったのであれば、少数者、あるいは連邦というリヴァイアサン(巨大な海獣)にぶつかった一般市民は誰が守っていくのか。「権利章典」がいくらか役に立つけれども、それは裁判所の強制力次第である。憲法制定者たちは権力の分離を重視し、司法を行政や立法とともに政治が拠って立つ三本の脚のひとつと重視していた。しかし、フィラデルフィア会議は司法には大した注意を払っていなかった。

実は、司法についての最も重要な憲法条項は偶然に生まれている。カールポッパーのいう「意図せざる効果を持つ法則」の典型である。

州権擁護派の闘士ルーサー・マーティンは、連邦の州法拒否権のかわりに、連邦法および条約を「各州の最高法」と位置づけ、州裁判所は「これにもとづいて、万一、各州の個別の法律が連邦法に反するさいは、判決で裁定する」ことを提案した。このあいまいな方式は満場一致で承認され、それぞれの州で州裁判所が連邦法の問題について権限を持つことになりそうだった。そうなれば州が決定的に勝利を収め、ひょっとしたらアメリカ史の方向が変わっていたかもしれない。しかしつづいて起こった司法、とりわけ弱体の連邦裁判所の規定をめぐる論争でこの案が修正される。州憲法と州法は、連邦議会の制定した合衆国憲法、連邦法および条約に従うとされたのである。これによって状況は一変するが、当時はその重要性が理解されていた様子はない。

憲法の司法条項の細目は第一回連邦議会まで積み残され、1789年に裁判所法が制定される。この法律を主として執筆したのはコネティカットの敏腕法律家オリヴァー・エルズワースで、実質的に無修正のまま二世紀以上も用いられることになる。この法律では、司法の基盤として、通常、州の方針に沿って連邦地方裁判所と3つの中級巡回裁判所が創設される。巡回裁判所は、最高裁判所判事2人と地方裁判所判事1人で構成され、1年に2回、訴訟の審問を行なうために巡回する。巡回判事は地方裁判所の上申を受け、複数の州にまたがる訴訟の第一回聴取を行なう。この制度は1891年までつづいた。この法によって最高裁判所も開設された。最高裁は、合衆国憲法に記されているように、大統領が指名し上院で承認された長官と、5人の陪席判事で構成される(その規模は何度も改正されたが他の点では変わりなく機能していた)。

しかしエルズワース法は、はからずも、最高裁判所に、本来の目的にはないきわめて重要な権限を与える。連邦政府の高官に対して法的義務の遂行を命じる執行権である。

(7)公共の利益やあらゆる個人の権利の究極の保護者となる連邦判事の誕生

しかし、当時は司法の任務のこうした側面は、ほとんど考慮に入っていなかった。憲法制定者は、裁判官が成文憲法を解釈するにあたりどういう役割を果たすべきかについてあまり考慮しなかったし、裁判を通じて法の見直しを積極的に行なうのか行なわないのかについても踏み込まなかった。これは強く批判される点である。実は憲法制定者の面々はイギリス的慣習法の伝統の中で育った。新しい問題が発生するたびに解決をはかろうとし、裁判官が頻繁に法律を修正するのがあたりまえの風土である。このため、イギリスには存在しない成文憲法にともなう問題を正しく認識できなかった。つまり、裁判官がつくる判例法はほとんど無限の可能性を含み、その意義は成文憲法よりはるかに大きいこと、そして法の修正は当然憲法の中で扱うべきことがわかっていなかった。

当時も今も、アメリカの連邦司法部は、ある意味でみずからが法律そのもので、英知に照らしてふさわしいと思う方向に有機的に発展してきている。その歩みは、憲法の施行直後から始まる。イギリスでは法と政治は密接にからみあっており、アメリカもその形式を踏襲したのである。十六世紀後半までイギリス政府は常に法律を司る大法官の統括下にあり、司法と行政は徐々に分離したものの完璧とはいかなかった。大法官は閣僚の椅子に座りつづけていたし、そして今も内閣の一員である。アメリカの憲法制定にかかわった人々は、権力を完全に分離して分立の形式をとろうと決めていたが、論理はこの方向には深まらず、個人レベルで司法の番人と辣腕政治家を区別すべきだと主張する。このため初期の最高裁判所長官は、職業法律家と政治家を兼ねる傾向があり、裁判所の指揮をとるのは、あらゆる政治的誘惑を超越して司法職の最高峰に立つというより、さらに高い地位に登るための単なる出世の階段と見られていた。

初代最高裁判所長官ジョン・ジェイは本来政治家で、1795年、ニューヨーク州知事選挙に出馬するため辞職する。二代目のジョン・ラトレッジは、上院の承認を待たず辞任。当時、最高裁長官より上とされていたサウスカロライナ最高裁判所のポストにつくためだった。第三代はオリヴァー・エルズワースで、1796年から1800年まで長官を務め、パリに外交官として赴任するため辞任する。最高裁判事だったサミュエル・チェイスは、在職中に公然と政治にかかわった。こうした傾向は、下級裁判所にもあてはまる。1790年代の連邦地方裁判所の判事28人のうち、上級裁判所に昇進したのは8人だけ。一方、政治家としては全員が有名だった。

しかし、アレグザンダー・ハミルトンの発言をきっかけに、こうした風潮の是正を求める気運が高まる。つまり連邦判事は政治的抗争を超越した立場に立ち、まず法律の専門家であるべきで、政治家として立法のごたごたにかかわるよりも市民の権利の究極の保護者として法律の運用に専念すべきだ、というわけである。判事の間にもこれと響き合う思いがあった。裁判官は憲法の新たな司祭となり、憲法を現世の「契約の箱」とみなして司法の場で聖典に準じる役割を担うべきだという気持ちである。これは政治から手を引き、ある種の社会的成層圏に身をおくことを意味している。

この聖職者のような意識は1790年代に徐々に広まり、「共和制のもとで市民は誰でも、選出されればいつでも、どんな公務の責任も果たすことができる」という、革命期の民主主義者の力強い見解にとって代わる。連邦判事は「特別」の人、手の届かない神のごとき存在で、神の住む天空に身を置き公共の利益やあらゆる個人の権利を擁護する、という説が議論にのぼりはじめた。しかし、この見解が一般的に認められるようになるには、1801年の最高裁長官ジョン・マーシャルの着任を待たねばならなかった。実際のできごとがその証拠である。

 

7)独立戦争後のアメリカの極度の財政的混乱を収拾したワシントン政権

さて、活力あふれる市民を背景にして民主主義が共和制社会の土壌となり、州の憲法の基礎の上に連邦の憲法が制定されました。その結果誕生したワシントン大統領の政権が、ハミルトン財務長官を中心に、独立戦争後のアメリカの極度の財政的混乱を収拾するという難問に対決していく様子を見てみましょう。連邦財政の立て直し、州に対する金融支援、債務償還、納税拒否の反乱の鎮圧、金融と財政のための国立銀行の設立、工業化に対する連邦の支援などです。

社会が困難に立ち向かい次の発展への足場を築いているとき、そこには必ず偉大な指導者が必要なのです。國(連邦)の果たす役割の大きさが如実に分ります。だからこそ、國に集中される権力が個人の権利より先に出ることが多く、従って、個人の権利が常に國の権力の前に(上に)置かれるように適切に制御され抑制されていることが重要なのです。その逆では駄目なのです。アメリカは、建国の前提条件がそこから出発している希有の國です。日本も含め、他のすべての國はその逆なのです。ハミルトン財務長官の独走がジェファソン国務長官によってチェックされ、バランスがとれていく様子を見てみましょう。以下の(1)〜(5)です。(【文献27】(I)p.320-5)

(1)満場一致で選出されたワシントン大統領

憲法制定の歩みは権利章典の成立をもって完結し、いまや憲法が機能するのを待つのみとなった。1789年1月の第一水曜日、各州で大統領選挙人が選出され、憲法が発効するにいたる。選挙人団は2月の第一水曜日に選挙のために参集し、3月の第一水曜日が「件の新憲法による初代大統領の就任する日」と決まった。ニューヨークがその地に選ばれ、新しい国家の永続的政府が第一歩を踏み出した。選挙人はワシントンに投票するという前提で選ばれ、ワシントンは喜んでその職務を引き受ける、と了解されていた。

競争があったのは連邦議会の議席の方で、反連邦主義者もワシントンを大統領とすることに反対せず、ワシントンは満場一致で選出される。副大統領にはジョージ・クリントンの名前があがっていたが、結局はあっさりとジョン・アダムズが選ばれた。

ワシントンは4月になって公式に選挙結果の通知を受け、ただちにニューヨークに向かう。それに先立ってある友人に打ち明けている。「(大統領を引き受ける)必要がはっきりしてきて、いわば避けられない運命となったその瞬間から、不安な思いでこんなふうに予測していた・・・公務のためにもうあらかた使い果たした人生の夕暮れに、またもや困惑や苦難にわが身をさらさなければならなくなる・・・しかし、実際に指名に応じたために起こった悩みに比べれば一切が取るに足りない・・・。懸念はもうじゅうぶんに適中している」

実際のところこれは文句の言いすぎである。ワシントンは、職務に対する心構えもじゅうぶんだったし、現に優れた大統領となった。副大統領アダムズは忠実どころか辛辣で、大統領を「鈍い親父」呼ばわりしたかもしれないが、ワシントンは自分の任務をよく心得ていた。最初になすべきことは国家財政の再建で、このためハミルトンを財務長官に任命し、仕事がうまくいくよう自由に腕をふるわせた。

(2)連邦政府にのしかかる独立戦争のつけ

1775年、大陸会議は独立戦争の費用にあてるため、コンティネンタルズと呼ばれる戦債の発行を許可する。1779年12月には総発行額は2億4160万ドルに達していた。これは債務のほんの一部で、その上に連邦公債、対外債務、諸州の州債、その他の負債が加わる。こうしたものがアメリカ史上最悪のインフレーションを招いた。1780年には、コンティネンタルズは事実上無価値になっていた。1782年、戦争が終結すると、連合会議は、政府と大陸軍に対する請求を調査するために委員を各地に巡回させ、債務を正貨で再評価する。その額は2700万ドルに上った。連合規約の下では、連合会議には課税権がなかった。諸州には課税権はあったものの、連合会議に支援の手をさしのべる気持ちは薄かった。このため、1780年代にはさらに公債を増発して負債の利息償還にあてるしかなかった。

1787年の新憲法は言うまでもなく議会に課税権を認めたが、1790年初めには連邦政府の負債額は、対内債務4070万ドル、対外債務1320万ドルに上る。政府証券(つまり、負債の証拠)の市場価格は、額面1ドルあたり15ー30セントまで下落していた。インフレと先見の明のなさが相まったこれと同じ事態が、次の時代に全ラテンアメリカ諸国を襲うことになる。ラテンアメリカのいくつかの國は、この時の打撃から現在もまだ回復できないでいる。いずれにせよ合衆国は、信用格付けが全世界の模範となっているイギリスという幹から派生した國として、破産の淵から這い上がらねばならなかった。

(3)合衆国の財政破綻を救ったハミルトン財務長官

ハミルトンはこれを処理し国家の創設に貢献する。問題が国家の一大事だったため、ハミルトンは、ワシントンをはじめフランクリン、ジェファソン、マディソン、アダムズと並んで建国を担ったエリート集団の一員に位置付けられる。この人々は、みな、私有財産の保障が人間の自由と密接にかかわっているという考えをジョン・ロックから受け継いでいた。インフレは、連邦と州の紙幣を無価値にする点で財産に対する直接的攻撃であり、それゆえ自由にとっても脅威だった。ジョン・アダムズが述べている、「財産は保障されなければならない。さもなくば自由は存在し得ない」。ハミルトンも同様の主張をしている、「財産の保障に別れを告げることは、自由に別れを告げること」。

この信念のもと、ハミルトンは迅速に行動する。1790年1月、「公的信用に関する報告」を議会に提出、報告書は激論ののちに承認された。この話し合いは奇妙な副産物を生む。政府は、ジェファソン派がハミルトン提案を支持する見返りに、ジェファソン派の「新しい首都をポトマック河畔に」という主張を認めたのである。

ハミルトンは無価値になった連合政府の公債コンティネンタルズに対し、額面100ドルごとに1ドルを支払うことによって問題を解決した。苦々しい思いでコンティネンタルズを持っていた人々は、何がしかでも手にした自分は幸福だと思い直した。残りの内債と外債の全部は兌換できる長期公債に借り換えた。

ハミルトンは、計画の一環として、同じ条件で諸州の債務の重荷を連邦に肩代わりさせる。これは不公平との非難を受けた。何故なら、一部の州ではすでに債務を返済しており、先見性のない州が債務を遅延したためにとくをしていると思われたのである。しかしやむを得なかった。最重要の目標は、債務の重圧からきっぱりと抜け出し、健全な信用を得て再出発することだった。これは、ハミルトンの計画は金がかかりすぎると言う人々への答えでもあった。長い目でみればそうではない。合衆国はすでに富める國になっていた。イギリスが世界初の大工業国として台頭していたとはいえ、ひとりあたりの収入ではおそらくアメリカが世界最高だった。豊かになれば、債務を支払い信用貸しを受けられる地位も回復できる。つまり、アメリカはやがて世界市場で拡張資金を安く容易に調達できるということである。

議会はハミルトンの言葉をそのまま信じて財政計画を承認した。その後のできごとからハミルトンの正しさが証明される。1791年、計画が実行に移されたとき、アメリカの債務は国民ひとりあたり(1980年のドルに換算して)197ドル。ふたたびこの金額にふくらむのは南北戦争のときである。1804年には120ドルに、1811年には49ドルまで減っていた。その結果、1803年、アメリカがルイジアナを購入し国土の規模を倍増する資金1125万ドルを調達しようとしたさいにも、特別の優遇レートで融資を受けるのに何の問題もなかった。しかしその頃、あわれにもハミルトンは過去の人になっていた(1804年に殺害される、後述)。しかし、この人物が、合衆国を支払い能力のある財政的に安心できる國にし、歴史の成長曲線にのせたのである。

(4)政府の「信用と力」を勝ち取ったハミルトン財務長官

上にのべたように、債務償還がハミルトンのまず取り組んだ施策で最も急を要する事態だった。ハミルトンは、先の報告につづいて租税、国立銀行、製造に関する三つの報告書を議会に提出する。負債の償還にあてる資金を調達し、連邦政府の経費を支払うため、1789年、ハミルトンはすでに輸入関税として30品目に平均8パーセント、その他の商品に5パーセントの従価税を課していた。

1791年、これに加えて主としてウイスキーに物品税をかけることを提案し議会も承認する。これが危機を招く。辺境の男たちはみな一様にウイスキーを造り、一種の通貨(ほとんど唯一の現金)としており、課税を自分たちそのものに対する攻撃とみた。ともかく、なぜ税金を納めねばならないのか理解できなかった。彼らは辺境の先住民と断続的に戦っていたが、これはアメリカ国民を代表する戦いと意識しており、国家に対する義務はじゅうぶんに果たしていると考えていたのである。辺境の男たちは武装し、父親の世代が印紙法を憎んだのと同じくらい物品税を嫌った。暴力行為と納税拒否は1791年に始まり、習慣的に繰り返される。

1791年7月、裁判官は、60人の悪名高い脱税者をフィラデルフィア連邦裁判所の審理に召還しようとする。その結果は暴動となった。暴徒は主任徴税官の自宅を焼き払い、合衆国軍の兵士1人を殺害する。連合から離脱するという公然たる脅しもあった。ペンシルヴェニアのミフリン知事は、ハミルトンの要請に反して民兵軍を派遣しなかった。財務長官は、大統領の支持のもと、この暴動を国家に対する反逆・反乱とみなし、ミフリンの態度を、連邦の法律に反抗し新憲法の秩序に挑戦するものとして扱うことにした。

ハミルトンは、大統領の承認を得て、1万5000人の民兵をペンシルヴェニアのみならずメリーランド、ヴァージニア、ニュージャージーから召集して配備する。暴徒はそれほどの大軍と対面すると自発的に解散してしまい、ハミルトンは処罰のために20人の暴徒を検挙するのにも苦労するほどだった。ふたりの「首謀者」が反逆罪を宣告されたが、ワシントンは絞首刑を免除した。ハミルトンは、自分の主張の正しさを示すとともに、政府も「信用と力」を勝ち得たと考えた。

(5)ハミルトン財務長官による国立銀行の設立と工業重視の金融政策

ハミルトンは、債務と租税に関する報告書につづいて、1791年、さらに国立銀行と製造業について二つの報告書を提出する。

銀行は別に新しい発想ではない。イギリスでは1690年代にすでに国立銀行が設立され、最後の拠りどころとなる金融業者として、あるいは國の通貨供給者として実績をあげていた。1781年、議会は北アメリカ銀行をこの國初の民間銀行として特許状で認可し、連邦政府が初の法人格を与えている。これは、財政監督官でハミルトンの前任者だったロバート・モリスの施策だった。フランクリン、ジェファソン、ハミルトン、ジェームズ・モンロー、ジェイの名が当初の株主および預金者に含まれている。ワシントンの大陸軍の軍費を支払い、政府の脆弱な財政を支えたのはこの銀行だった。ハミルトンの計画はさらに野心的である。その案によると、合衆国銀行はもっとイングランド銀行に近かった。イングランド銀行は真の中央銀行で、特許を受けて21年間つづいており、25人で構成する役員会と本店および25の支店があり、政府の財政機関として機能していた。株の大部分は政府が保有し、筆頭顧客も政府である。

ジェファソンは、憲法には中央銀行についての規定がない上に、そのような連邦機関を創設することは政府の権限外の行為だと抗議する。また、ハミルトンの製造業に関する第四報告書にはいっそう激しく抵抗した。実は、ハミルトンは、アダム・スミスの『国富論』を基盤としていたものの、それをはるかに超えて、連邦政府は意図的かつ組織的に合衆国の工業化を促進すべきだと提案したのである。スミスは、自由企業制の資本主義経済に対するそうした国家の干渉は重商主義への逆行だと反対している。ハミルトンは、総論としてはその説に異議はなかったが、大英帝国という元宗主国だった大工業国に比べて見劣りする新しい小国アメリカでは、「産業に資金を導入して活性化する」ことが必要と考えていた。こうした支援は、アメリカの工業が自立できるまでの一時的措置のつもりだった。

 

8)ハミルトン財務長官とジェファソン国務長官の対立が生んだもの

ハミルトン財務長官とジェファソン国務長官の対立はますます激しくなりました。ただし、これは単にハミルトンとジェファソンの個人的対立ではないし、対立だからといって望ましくないことに分類すべきでもないのです。対立というよりも近代国家の政治に不可欠な緊張関係、あるいはチェック・アンド・バランスというべきものです。それは、州権擁護対中央集権、権力分散と権力集中、保守派対革新派、農業対製造業、南部と北部、ヴァージニア対マサチュセッツ、というキーワードで表現できます。さらに重要なことは、民主党と共和党という二大政党を生んだことです。アメリカという國には、建国の最初から既でにこの好ましい緊張関係を内部にもつ必然性があったのです。議会の二院制にしろ二大政党制にしろ、それが必要な論理的理由が誰にでもはっきりと理解できるのは素晴しいことです。日本の現状と比べてみてください。しかし、アメリカでも政府の腐敗は早くから起こりました。ただし、ハミルトンやジェファソンといった中核は腐敗とは無縁でした。以下の(1)〜(5)です。(【文献27】(I)p.326-32)

(1)望ましい対立─チェック・アンド・バランス

ジェファソン派は、ハミルトンの案に、経済理論の面からではなく、もっと基本的な理由で反対する。ジェファソンは、新生共和国の繁栄は、アメリカの農民と農園主、つまり土地を所有し大地によって暮らしを立てている者の力の均衡によってのみ実現すると信じていた。その論理はまったく情緒的、感傷的なもので、古代ローマ帝国に由来する。キケロが同じことを主張していたのである。農民は何はともあれ他の者より公徳心があり、自由を守る気持ちが固く、共和国の運営に向いている、とジェファソンは考えていた。意図的に巨大な製造業「利益集団」をつくり、何千人という金の亡者、すなわち特権や関税の特典をやかましく要求する製造業者や商人を保護するのは、道徳的退廃にいたる道と思えた。ハミルトンはそのような論理をたわいもないと考え冷笑した。

しかし少なからぬ数の大物政治家、とくに南部人、がジェファソンの意見に賛成する。たとえば、パトリック・ヘンリーは、憲法に内在する中央集権思想にはともかく反対で、中央銀行創設の提案をみずから「財界」と名づけたものと結びつけてこう発言している。「わが国のような農業国で、大規模な財界を創出し、集中的に強化し、永続させれば、まちがいなくアメリカの自由の命取りになるだろう」。これは、「合衆国憲法につぶされるか、さもなければまちがいなくそれをつぶす精神の最初の兆候である」、と。

南部の農民と大農園主は、フィラデルフィアとその住民である裕福なクェーカー教徒を嫌い、ニューヨークとその街の金回りのよい弁護士を快く思わず、とりわけボストンと地元の豪商や船主、つまり、北部の諸教会と協力してすでにアメリカの奴隷制度廃止を求めていた人々を憎んでいた。そして、ボストンの長者(カボット家、ローウェル家、ジャクソン家、ヒギンソンズ家)がハミルトンのうしろに影のごとく寄り添っていることに注目している。こういった賢い紳士階級の面々は、公債を額面の15〜20パーセントで買っていたが、ハミルトンのお陰で額面で買い戻してもらった。農家には大小を問わず長年にわたる銀行嫌いの歴史があった。それは、正貨や通貨ではまったく資金調達ができず信用貸しを導入しようとした南部の動きをイギリス政府が妨害した時代にさかのぼる。

いまや、ハミルトンのほとんどあらゆる政策が、農民の憎しみをいっそう燃え上がらせていた。政府の債務は解消に向かっている、というハミルトンの勝利宣言も、この人々には感銘を与えなかった。それが金満家以外の誰の利益になるというのだろうか?また、北部とともに南部の工業化にも力を入れる、という連邦の公約も評価していなかった。1792年、イーライ・ホイットニーが綿繰り機を発明すると棉工業にたちまち大変革が起きた。しかし南部人の見方では、そのような変化は不必要で望ましからぬものだった。こうして二つの集団は新たな状況を形成しはじめる。南部と北部、農業関係者と製造業者、ヴァージニア州とマサチューセッツ州、州権擁護論者と連邦主義の中央集権論者、保守派と革新派の対立である。

(2)ワシントン内閣における二人の立場

厳密に言って、政府の序列ではジェファソンの方が財務長官より位は上だった。しかし、事実上ハミルトンの方が力を持っていた。政府がまだ成長期にあったこの段階では、格別に他省が扱わないことはすべて財務省が担当していた。たとえば郵便局の運営である。その職員は325人、連邦公務員の過半数を占めている。ハミルトンは、別の理由からも官僚王国を建設すべきだと常々考えていた。

ジェファソンはハミルトンを妬んでいた。まさにイギリスと同じ状況だった。ピットは強大な権力を持つ財政に強い政治家で、冷たく、厳しく、感情を表さず、効率を上げることが主な関心事で、ロンドンの金融街と株式市場に愛される人物。一方、チャールズ・ジェイムズ・フォックスは空想的な自由主義者で、コンソル公債の価格や英貨の信用度などつゆ知らず、みずからのおびただしい涙で自由の木に水をやる、といった人柄。いわばアメリカのピットであるハミルトンと、アメリカのフォックスであるジェファソンとは、政治的な気質では正反対の極にあった。ハミルトンがパリで起こった革命を嘆き、ジェファソンがそれを賞賛したのは、ふたりの特徴をよく表している。

(3)ジェファソンと対照的なハミルトンの生い立ち

ハミルトンとジェファソンは、気質も違えば学識も違っていた。ジェファソンは何代もさかのぼれる特権的土地所有者という堅実な家系の出身である。ハミルトンの家庭は非常に不安定で、それについては、本人も驚くくらいの詳細が知られている。ハミルトンは、自分では1757年生まれと信じていたが、実は1755年生まれ。母親のレイチェル・フォセットあるいはフォシット、またはフォウセット、フォウセ、フォウゼ(ヴァージニア植民地を開いたローリーの名前に96種類の綴り方があるように、20種類の違ったスペルがある)は、16歳のとき、年の離れたジョン・レウェイン、またはレヴィン、ラヴィン、ロウエン・・・と結婚した。夫は「小柄なユダヤ人」だったとされる。21歳で夫の家を出て、ジェイムズ・ハミルトンという旅のスコットランド人と所帯を持つ。この男は放浪癖のある人生の落伍者で、まもなく失踪してしまう。1759年、レヴィンは、妻が「非嫡出子を数人生んだ」として、裁判所に離婚を申し立てる。離婚は許されたが、当時ネヴィス島をふくむリーワード諸島の慣習法となっていたデンマーク法が適用されたため、レイチェルには再婚の権利はなかった。このためハミルトンは、嫡出子にはなれなかった。前に述べたように、独学独行のハミルトンの仕事ぶりは壮観だが(前述)、庶子という事実が心を蝕んでいた。ハミルトンは貧困を憎み、悪と同一視して、それを思い出させる貧乏人を避け、無視し、蔑視しようとした。

小柄で赤毛、青い目のハミルトンは激しい性格で、それゆえに尊敬もされ心の底から恐れられもした。率直に意見を述べたが、これは当時アメリカではすでに政治家の義務となっていた。「ひとはみな悪党で、その行為はすべて私的利益だけを目的としていると考えてしかるべきである。この関心事を利用して相手を支配し、飽くなき強慾や野望の主も公益に協力させなければならない」と、ハミルトンは記している。これは西インド諸島の貧民街の哲学である。そこは、海賊や陰謀家がごった煮スープ、ミネストローネのように混じり合って暮らす多民族社会で、男はそれぞれ他の男(あるいは女)を相手に闘っている土地柄だった。

あきらかに、アメリカとは異質の社会である。アメリカでは、ひとは本来善意に生まれ、人格は当然磨かれると考えられていた。ハミルトンはそれを「たわごと」と軽蔑する。裕福で生まれがよく安定した男に腹を立てていた。たとえば、ジェファソンのように貧乏人の機嫌をとり、人はみな平等だと言い、それを信条として、あるいはおそらくそんなふりをして振る舞う男を憎んでいた。ハミルトンにしてみれば、これは危険で愚かな考えだった。「不穏で御しがたい大衆」を服従させておくには、エリート層、貴族階級が必要だった。しかも、それは私利を求め現実的に目先がきく人でなければならなかった。国家は、イギリスのように、「定期的な栄誉と報酬の分配によって」これを懐柔しなければならない。つまり、エリート層に「政治の一角をはっきりと恒久的に」受け持たせて、「民主主義の軽率な動きを抑える」ようにするというわけである。

ハミルトンは、このような信念のもと、終身制の上院を望んだ。間接選挙で選ばれ、生涯にわたって議員を務める仕組みである。世襲貴族が構成するイギリス貴族院のようなものである。ほかにもイギリスの政治体制のさまざまな面に敬意を払い、イギリスの体制は「公共の力と個人の安寧を結びつけた」唯一のもの、と述べたこともある。こうして、ハミルトンは「反動的」というレッテルを貼られたが、ある意味ではそのとおりだった。しかし、先見の明のある人物だった。州制度はアメリカが「大帝国」になるのを妨げる馬鹿げた過去の遺物と考えていた。ロードアイランドやデラウェアのようなちっぽけな州は無意味と思っていた。ワシントンの右腕として戦った経験から、危急のさいにも諸州がどれほど利己的で愚かな行動に走るかも承知していた。

ハミルトンは、ジェファソンと同じく、矛盾のかたまりである。共和国のために戦ったが民主主義を嫌い、貧しい生まれの植民地人なのに貴族階級を愛し、ワシントンの忠実な従僕でありながら密かに主人の「間抜け」ぶりを軽蔑していた(前述)。真正直な男だが、友人の公金横領は片目をつぶって見逃し、王制主義者ながら共和国の創設を助け、家庭では愛情こまやかなのに恋の冒険(とその告白)もいとわなかった。内閣の同僚で陸軍大臣のヘンリー・ノックス将軍にこう語っている、「いつも自分の心の導くままに判断を下してきた」。ある意味でこれは真実である。ハミルトンは衝動的だった。そうでないとしたら、なぜ決闘を嫌った男が最終的にそのために命を落とすことがあろうか。

しかし、ハミルトンとジェファソンは心の色が違っていた。ハミルトンの胸には、極度に皮肉な人間観に反して温かい血が脈打っている。ジェファソンの心は、ばら色のほとんど無邪気といってよいほど理想化された人間像と調和している。ハミルトンは「右派のルソー」と呼ばれていた。ジェファソンは、ハミルトンを「独立独行の人」で、「理解力に優れ、私欲がなく、正直で、私的な面では名誉を重んじ、社会では人当たりが良く、そして私生活では非のうちどころのない人徳の人だった」と認めている。しかし、ジェファソンはこうもつけ加えている。「ハミルトンは、イギリスの先例にあまりにもとらわれすぎて、國の政府は必然的に腐敗するものだと確信していた」

(4)ジェファソンとハミルトンが生んだ二大政党制─民主党と共和党

実は、ハミルトンは天才(憲法制定にかかわったメンバーの中で、まちがいなくその名に値する唯一の人)で、そうした人物につきものの、名状しがたい性格の持ち主だった。どの範疇にもあてはまらなかった。ウッドロー・ウィルソンはのちに、「たいそう偉大な人物ではあったが、優れたアメリカ人ではなかった」と評価を下したが、当たっていなくもない。しかしたとえアメリカ的でなかったとしても、ハミルトンはアメリカの社会生活の中心となる装置(やがて共和党として実を結ぶ、広範な意見の集合体)を生み出すのに、あるいはその輪郭を示すのに、大きく歩みを進めたのである。

同様に、ジェファソン派は、ハミルトンの財政経済政策と憲法に盛り込まれた中央集権主義に反対する勢力を伸ばし、のちに民主党となる政党を誕生させる。といっても結成当初はリパブリカン党という紛らわしい名前だった。ジェファソンは政党をつくりたいとは思っていなかった。「もし政党といっしょでなければ天国に行けないというのなら、そんなところへ行くつもりはまるでない」という。しかし、結局1790年代に政党を結成する。ジェファソンは野党の指導者でも何でもない。ワシントン内閣の国務長官である。

(5)政府の腐敗のはじまり

繁栄する広大な國の政府が腐敗することなく発展できるだろうか。1790年代初め、アメリカはいわば無邪気な時代を過ぎて、自信がぐらついた時代だった。ハミルトンは、これにつてはいちども幻想を抱かず、ひとは堕落した生き物というのが持論だった。その意味では真の保守主義者である。一方、ジェファソン派はこの時代を衝撃をもって受け止めた。ジェファソンは、分裂した性格にふさわしく協定と妥協と取引きの人でもある。すでに述べたように、債務償還の連邦政府案に南部人の票をもらう見返りに、首都を南部のポトマック河畔に移す交渉をまとめたのはジェファソンである(上述)。しかし、本人はそれで個人的に得をしたわけではないと弁明するだろう。

初めて個人的な腐敗が発覚した衝撃は、ペンシルヴェニア選出の上院議員ウィリアム・マクレイの日記に記されている。マクレイは、「債務に関する報告書」が公表された1790年1月14日、政府の機密情報が特定の個人に意図的に漏洩された事件について書き残した。「きょう、いわゆる『予算案』が、下院に提出された。公債の異常な値上がりがしばらく前から目立っていたが、フィラデルフィアでも他の場所でもその理由がわからなかった。しかし、財務省の、公債を額面どおり満額支払うことを提案する報告書ですべてがあきらかになった」。翌週はこう記している。「ノースカロライナのホーキンズの話によると、こちらに来る途中、公債に投機しようとして多額の現金を満載してノースカロライナに向かう特急馬車2台とすれちがった。ウォッズワースは、公債を買い占めようとして2隻の小船を南部の州に送った。下院議員たちがこの公債投機に誰よりも深くかかわっているのではないかと、ほんとうに心配になる」

アメリカの政治家連、なかでも南部人にとって、これは破廉恥な「金権」が実在するという初めての確かな証拠だった。それは巨大で、姿の見えない海底の鮹のような不気味な生きもので、銀行(とくに中央銀行)、ニューヨーク、ボストン、北部、イギリス、ロンドンの金融街に棲息し、何から何まで共和政にそぐはない非アメリカ的態度を示している。この悪夢の陰謀は、その後何世代にもわたって民主的政治家を悩ますことになるが、初めてそれが表面に浮上したのが1790年代だった。

 

9)アメリカ建国の6人の父祖のリーダーであるワシントンの政治

ワシントンは、6人の建国の父祖のなかのリーダー格です。まだ國の形ができていないアメリカの総司令官として軍隊を組織して独立戦争を勝利に導き、よき調停役として大陸会議をまとめて憲法の制定を助け、アメリカ史上初の本格的内閣をひきいて大統領を二期勤めました。その政治手腕は、すでに総司令官の時代から発揮されていますが、大統領として誰もが認める立派な政治を行ないました。やがて起こるジェファソン国務長官の更迭という事態を乗り越え、ハミルトン財務長官を支持して巣立ったばかりのアメリカの経済活動を急激に発展させ、自立した工業発展に向かって離陸させたのです。ワシントンは初等教育しか受けていない(6.5.参照)のに、他のだれも代役のできない役割りをアメリカ建国の最も重要な時期に果したのです。最も必要としている時にこんな人物が新大陸に現れたこと、これこそ最大の奇跡というべきでしょう。そして、歴史的に重要な内容をもつ告別演説を国民に発表して別れを告げたのです。改憲論議のかまびすしい現在の日本の政治家、国民は全員これを読んで深く考えるべきです。以下の(1)〜(5)です。(【文献27】(I)p.332-47)

(1)連立内閣から出発したワシントン政権

アメリカ史上初の本格的内閣とはいえ、ワシントン政権の一期目は気性の合わない者の連立政権だった。当初ワシントンはこれに何の不都合も感じていない。政府の長であると同時に国家をひきいる者として、北部と南部、農業と商業および製造業、といった国内のあらゆる対立する大集団の利益をはかるべきだ、つまり、新しい国家を地理的に融合させるべきだと考えていた。当然対立はあるだろう。このような巨大な國がそうでないわけはない。ワシントンは、サウスカロライナのウィリアム・ラウトンの新国家観に賛成だった。「われわれは、善かれ悪しかれ、相手をそれぞれの悪習や罪悪もろとも受入れた。北部の州は南部の奴隷制を、南部は北部のクェーカーを認めた」

合衆国は結婚のようなものだった。ワシントンの見解によれば、イギリスのように政党同志、あるいは政府と野党が公に争うより、閣内で利害を調整し論争を仲裁するほうが好ましいのである。その上、アメリカは政治の仕組みが異なっている。権力の分立により、行政府のメンバーが議員を兼ねることはなく、イギリスの下院と同じように本人が答弁することができる。ワシントンは、実務面では権力は分離するほどよい、と悟った。政府内で自分が直接手がけたのは条約の策定だった。

権力の分立と並行してワシントンは主な派閥を全部政権内に取り込むのが得策と判断する。実際問題として、副大統領のアダムズがニューイングランドの利益を代弁するところから、均衡をとるためにハミルトン(ニューヨーク)や陸軍長官ヘンリー・ノックスを閣僚とした。ノックスは陽気な巨漢で、ボストンの本屋から身をおこし、ワシントンの最も信頼厚い将軍となった。ハミルトンとノックスはふたりとも熱心な連邦主義者。これに対して、国務長官のジェファソンとエドマンド・ランドルフはともにヴァージニアの出身で、「州権」擁護論者である。この6人が集まって、政府の政策を決めた。その会合は、イギリスと同様、閣議と呼ばれた。

アメリカの閣議はワシントンの住まいで開かれた。ワシントンは無から創造しなければならなかったが、これについては何も心配していなかった。まったく同じことを、1776年、陸軍を創設したさいにも経験していた。ワシントンは込み入った大統領府は持たず、職員は14人だけで事務局はささやかだった。そうした組織を発足させるために借金もしなければならなかった。

また、たびたびかんしゃく玉が破裂したふりをする。「怒ると猛烈だった」と、参ったジェファソンが書いている。閣議で自分の誠意を疑われると「神かけて」と言いはじめる。「心は温かそうに見えたが、相手の値うちをそれぞれ正確に計り、それに応じてしっかりした尊重の念を示した」。「当座の機転がきかない」ため「話すよりは」書く方が得意だった。ジェファソンはワシントンを悲観論者と見ていた─憲法は公正にためしてみるが、人間と人間が自由を使いこなす力をまるで信頼していない。だからアメリカは、イギリスの政治体制のような結果に終わるだろう、というのがワシントンの考えだった。

そして、大統領として二度にわたり北部と南部を公用旅行でめぐった。1790年代にでこぼこ道のアメリカを旅していれば、どんな大人物でも長い間威厳を保っていることはできない。ワシントンがすばらしいのは、旅のさなかでも、メリーランドの田舎の晩餐会で15回も続く乾杯(とスピーチ)につきあっているときでも、みんなの尊敬を失わなかったことである。部下のひとりが語っている。ワシントンは「親しい知人にもだらしない面を見せたりすることのない、唯一、高潔な人物だった」。

(2)第二期政権でのジェファソン国務長官の更迭とワシントン引退の決意

閣内には意見の不一致があったが、ワシントン大統領の政治は立派だと広く認められていた。それぞれ北部と南部を代表していたアダムズとジェファソンもワシントンに二期目の大統領に再出馬を勧める。しかし、それは決め手にはならなかった。1792年、ワシントンは気の毒なほど故郷のマウントヴァーノンに帰りたがっていた。しかし女性陣に説き伏せられる。ワシントンは賢くて察しのいい女性には弱かった。こうした女性には、ハミルトンのような頭がよくて有能な青年に対するときにも増して好意的だった。お気に入りのひとりは、ヘンリエッタ・リストン。優しい人柄で直観力に優れており、夫はイギリスの外交官でスコットランド人のロバート・リストンである。リストン夫人は、イギリスのおおかたの知識人と同じような見方をしていた─ワシントンは一部の革命家とはちがう「分別ある」男性で、その「感じのよさ」と「がまん強さ」があるからこそ、アメリカは交渉相手、あるいは将来の友人として「信用」を得ているのだ、と。

二期目の任期には、ワシントンは前よりも連邦主義者に頼り、他派の懐柔にはあまり気をつかわなかった。ジェファソンとの訣別はおそらく必然的で、ワシントンの比類のない忍耐力も限界に近づいていた。ジェファソン国務長官は更迭され、後任のエドマンド・ランドルフも長続きしなかった。これらの事態は、ますます過激になり血に飢えたフランス政府が関係している。パリの過激共和派が「世界のすべての王に対する戦いと、すべての國の人民に対する和平」を謳って革命宣言を発し、パリ急進派のエドモン・シャルル・ジュネがフランスの駐米公使として赴任する。イギリスがフランスと戦争状態に入ると、ワシントンは直ちにアメリカの中立を宣言する。ジュネはアメリカ人に対して「宮殿と玉座の廃虚の上に自由の殿堂を建てよ」と説教する。このまちがいは、いかにもフランス人の特徴そのままで、新しいことは何でも自分たちが最初に考えつくという思い込みが歴然としている。アメリカ人がすでに自由の殿堂を建設し、荒れるにまかせている宮殿も玉座もないことを失念していた。ジェファソンやランドルフの親フランス的態度がワシントンの怒りをかったのである。

もっとも、ランドルフの辞任にはワシントンの誤解もあった。ワシントンは、自分がまちがいを犯したことに気がついて、古くからの仲間に不当な扱いをしたことを悔やんだが時すでに遅し。この事件の一部始終が政治にいやけのさす原因となった。二期目の任期が終わりに近づく頃、大統領がこれを最後に引退する決意を固めていたことは疑いなかった。

(3)大成功を納めたワシントンの外交・通商政策

ワシントンの時代、とりわけその末期には、政党の発生は抑えられないこと、二大政党による政治が望ましいとしても簡単にはいかないこと、そしてユートピア的共和政の「喜ばしい自信に満ちた朝はもう二度とこない」こと、などがあらわになった。しかし、ワシントンの政治は全般的に大成功だった。この政権は国家の信用を回復し、債務を償還して効率的な財政組織をつくり、中央銀行を創設した。それだけでなく、油断ならない問題が山積するなか無事に連邦の舵をとった。

1789年、ヴァンクーヴァー島の毛皮取引権をめぐってイギリスとスペインが対立し、ヌートカ海峡協定(1790)が結ばれる頃、アメリカは初めて大平洋岸北西部での将来の役割に目ざめる。ワシントンは國として中立を守る一方、この地域について基本政策を策定する。やがて、これによって北西部は合衆国と英領カナダに平和裏に分割されることになり、一方、スペイン(とロシア)はこの地域から完全に排除される。

1793年以降、ヨーロッパの国王たちが革命フランスと戦争を始めると、ワシントンは慎重に中立政策を継続した。そして、この機をとらえて10年前パリ条約で積み残した問題に決着をつけるため、司法長官ジェイをロンドンに派遣する。ジェイ条約(1794年)は、ワシントンを批判するもの(ジェファソンを含む)からすればイギリス外交の不当な勝利とされたが、実態はまったく違っている。この条約によって、イギリス軍は北西部地方駐屯地からの撤退を約束した。イギリス駐屯軍がいたおかげで、カナダ商人が毛皮取引ルートを支配する一方、アメリカ人のオハイオ・ヴァレーへの定住は妨げられていたのである。また、ジェイ条約で、アメリカ船舶には限定的ながら西インド諸島と通商する機会が開かれ、対イギリス貿易では最恵国待遇を獲得する。全般的に見れば、この条約はアメリカの輸出と通商、イギリスの対米輸出、の双方を押し上げ、輸入関税によってハミルトンの歳入をふくらませる結果となった。これは両条約国に大きな利益をもたらす一方、弊害は何もないといったたぐいの通商条約である。野党が、議会で(主として親フランス的感情に刺激されて)抗議したのは現代の歴史家には理解しがたい。

ジェイ条約を基盤に、ワシントンは、駐英公使トマス・ピンクニーをマドリードに派遣してスペインとの協定交渉にあたらせた。ピンクニー条約では、スペインの大幅な譲歩を獲得する。アメリカの主張をいれて、ミシシッピ川東部とフロリダ西部および東部の境界線が確定する。これに劣らず重要なミシシッピ河口の軍港ニューオーリンズでも、物資貯蔵権と航行権が認められた。この二つの条約によって、事実上、アメリカのオハイオ川とミシシッピ川流域を対象とした西部の全面的開拓を阻む最後の障害が取り除かれたのである。

同時に、1780年代末には、海上貿易にめざましい伸びが見られた。アメリカの船舶が西インド諸島に大挙して進出し、オランダ領やフランス領の諸島との交易が始まる。ジェイ、ピンクニー両条約の締結後は、スペイン領やイギリス領の植民地との通商も開かれた。1785年には、アメリカの商船として初めて極東に航海したエンプレス・オヴ・チャイナ号が、中国の広東からニューヨークに帰港し、2年後にはセーレムを母港とするグランド・ターク号がこれにつづく。またこれと時を同じくして、ニューイングランド=西海岸北部(オレゴン)航路が開通した。新航路を開いたのは、ロバート・グレイ船長。アメリカの大貿易業者で、1787年から90年にかけて世界一周航海を達成しており、オレゴン開拓に先駆的役割を果たして、この地域にあらゆるアメリカ人の要求が集まる基礎を築いた。

こうして、経済価値の高い三角貿易が始まる。ニューイングランドの製造業者が北西部地方のインディアンに商品を売り、先住民の毛皮を中国に輸出し、さらに中国茶をボストンに輸出するのである。1789年、ワシントンが初代大統領に就任した当時、広東にいた464隻の船のうち18隻がアメリカ船だったという記録がある。再選をめざして立候補したときには対中国貿易は倍増しており、任期を終えて辞任したときには3倍に伸びていた。

(4)ワシントン政権のもとで自立した工業発展に向かって離陸したアメリカ

国内の経済活動も、これに呼応して、ワシントンの在任中に急激に発展している。ハミルトンの製造業振興政策はゆえなく立てられたわけではなかった。1785年、フランクリンがパリからフィラデルフィアに帰国したさい、アメリカの変貌ぶり(新しい駅馬車ルート、石炭や鉄、毛織物といった工業の繁栄、蔓延する投機熱)に大いに驚いている。諸州は主だった特許状を33の会社に与え、その結果巨大企業が生まれ、要衝の橋や幹線道路や運河を建設した。1787年、アメリカ初の綿布工場がマサチューセッツのビヴァリーに建てられる。翌年には、毛織物工場の第一号がハートフォードで創業し、額面10ポンドの株取引で自由市場から1280ポンドの資金を調達した。蒸気機関が登場し、1789年にはジョン・フィッチがフィラデルフィアですでに実用蒸気船の実験を行なっている。

ワシントンは、アメリカはイギリスのような工業国になってほしいとは望まなかった。それはジェファソンと同様で、その理由も同じだった。しかし現実主義者で、やがてそうなることは認めていた。軍人だったので、最新式の戦艦や大砲といった近代的軍備がどれほど重要で國の軍事力に密接にかかわってくるかを心得ていたのである。そこで、大統領は相当の不安を感じながらもハミルトンの産業政策支持にまわり、ワシントン政権のもとでアメリカは自立した工業発展に向かって首尾よく離陸した。

(5)アメリカ国民に対するワシントンの告別の辞

ワシントンは、アメリカ国民に告別演説を発表して別れを告げる。告別の辞の原文は1796年9月19日付けの「アメリカン・デイリー・アドヴァイザー」紙の1ページ全面を埋めた。この原稿には少々ふしぎな点がある。ワシントンは演説の草案をまとめ、政治的信念を表明して国家に助言を与えようと考え、5月、ハミルトンの承認を求めて草稿を届ける。ハミルトンはこれを書き直し、ふたりで原稿を練る。このため、告別の辞は20年間にわたり親密に協力し合い、互いの考えを知りつくしたふたりの男の共作となった。文言の一部はあきらかにハミルトンのもの、しかしその思想全般はワシントンのものだった。完成した演説は、アメリカの初代大統領がアメリカとは何か、どうあるべきか、あるいはアメリカについてどう考えていたかを簡約している。

その主な論点は三つ。まず第一に長文を割いて、情熱的に「派閥意識の悪影響」について論じている。それによれば、アメリカは伝統と自然によって結ばれた國で、「微妙な違いはあれ、おなじ宗教、風習、政治原理を共有している。北部と南部、東部海岸と北西内陸部の経済制度の違いは、國を分裂させるものではなく、補完しあうものである」。違いや意見の対立や論争は存在するだろう。しかし「集団、あるいは個人の幸福の源泉」である連邦に対して、万人が貢献することがまさに国家の基盤であり、その中心には憲法に対する尊敬の念がある。「全人民が明確に承認を与えて変更されないかぎり、憲法は恒久的であり、すべての人にとって神聖な義務である」。人民が「政府を樹立する権力と権利」をもつことは、「すべての人が政府に従う義務」を前提としている。それゆえに「法の執行に対する一切の妨害、あるいはいかなる口実のもとであれ任命された政府の審議および行為に対して実際に命令を下し、支配し、妨害し、脅威を与えるような計画をもって行なわれる団結と提携は、すべてこの基本原理を破壊し、破滅に向かうものである」。

これは、議会が憲法にもとづいて制定した法律を執行する合法的政府の決定には、全市民が道徳的義務として従うべきである、という力強い声明である。8年間の大統領経験から、アメリカが法治国家であることを思い出させるためのワシントンの厳粛な助言だった。法のもとにあればアメリカは万能だが、法がなければ無に等しい。ワシントンがこのように激しい言葉で宣言したのは賢明だった。未来の大統領は、甚だしい反抗的行為に対処するさい勇気を奮い起こすことができた。たとえば、アンドルー・ジャクソンがサウスカロライナ州から連邦法を無効とする権利をつきつけられたとき、あるいはエイブラハム・リンカーンが南部11州の連邦離脱という違憲行為に直面したときがそうだった。この演説は、アメリカ政府についてのワシントンの認識を象徴している。政府の力のおよぶ領域に厳しい制限こそあれ、権限の範囲内では(神におよばないまでも)その主張は絶対だった。

第二に、ワシントンは外国の紛争にかかわらない智恵を強調している。ヨーロッパをのみ込んだ大戦中、同盟を求める両陣営の圧力をはねのけて合衆国が戦いに巻き込まれるのを防いだことをワシントンは誇りにしていた。アメリカは、あらゆる國と「協調」し、「自由な外交」を追求して平等の立場で通商を行なわなければならない。また、「ふさわしい(軍事)施設」によって「相当の防衛体制」を維持しなければならない。アメリカが「緊急の一時的同盟」を結ぶことはあるかもしれない。しかし、一般には、あらゆる國との(できれば相互の)全方位外交の方針を追求すべきで、いかなる國とも敵対し、あるいは同盟すべきではない。孤立するのか?そうではない。独立するのである。

最後(第三)に、ワシントンは(革命期のフランスで起こった恐ろしい事件の数々を考慮して)、アメリカは世俗国家(宗教的原理を持たない国家)であるという考えを永久に排除したい、と望んだ。アメリカは法治国家だが道徳の國でもある。「政治を成功に導くあらゆる性向や習慣の中で、宗教と道徳は欠くことのできない支柱である」と述べている。「人間として市民としての義務という不変の基盤」を傷つけようとする者は、誰であれ愛国者とは正反対の極にいる。「法廷の捜査の手だて、宣誓、に宗教的義務感を持たなくなれば、財産や名誉や生活の保障」はあり得ない。そればかりか道徳も宗教抜きでは守れない。「高尚な教育」さえあれば「頭の構造が変わっている人」(まちがいなくジェファソンを念頭においている)には役立つかもしれないが、「宗教的原理抜きで」は「国民の公徳心」が広まらないことは、さまざまな経験から目に見えている。

要するに、ワシントンは、自由な共和国アメリカは秩序の維持を市民の善行に頼っており、宗教なしでは存続できない、と述べていた。それが当然の事実だった。ワシントンは、おおかたの国民と同じく、アメリカはある意味で神に選ばれ恩寵にあずかり祝福されている國だと感じていた。このため、「たゆまぬ祈願」を「死ぬまでつづける」つもりだった。つまり、「天の御恵みの妙なるしるしを、アメリカ国民にとこしえにお示しくださるよう、連邦とはらから(同胞)の愛がとわにつづき、人々の手になる自由の憲法が堅く守られんことを」と祈っていたのである。

ワシントンが任期中に力説しつづけ、告別演説でも強調したのは、絶対的に憲法に従うことである。多くの機会にみずから述べているように、ワシントンは憲法で与えられる以上の権力を求めようとはしなかった。しかし必要な場合には、それにわずかに欠けるところがあっても満足しなかった。憲法には、形式、精神ともに従わなければならないと考えていた。アメリカは成文憲法を導入した初めての國だった。この憲法が存続している一方では、これを模倣したものは世界各地で失敗に終わっている。それはアメリカの憲法が民主的に制定され、国民が自由に採択したためばかりではなく、(政府、国民双方とも)憲法に服従した、まさにそのためである。

ありとあらゆる成文憲法が作成され、その構想も細部も完璧だったのに、それが役に立たないのは、政府が憲法に従わず、国民がその現実に信頼を持たなくなったからにほかならない。ソヴィエト連邦の憲法がその古典的な例である。ワシントンは、行政官は何ごとにつけても憲法を守るべきだと説き、議会と国民にも同じことを期待した。とりわけこの点で初代大統領はアメリカを幸先よく船出させた。

 

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