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臨床研ニュース(平成12年8 月号) | |||
びゅうぽいんと |
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目からウロコ <カリフォルニア大 アーバイン校での生活> | |||
分子制御 斎藤祐見子 |
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このたび、カリフォルニアにおける3年間の生活を終了して、6月1日に復職致しました。日本に戻ったのは5月27日夕方、小雨降る中です。帰国直後は咳 をしながら、論文のリバイスにちょっと悩み、"humid, crowded, homogeneous"と呟いていました。しかし、帰国以来、3週間以上経過した今、ようやく社会復帰できそうなエネルギーを内側から感じます。本稿か ら私の3年間を少しでも読み取っていただければ嬉しく思います。 (アーバインIrvineとは?) アーバインはロスアンジェルスとサンジエゴの中間にあり、ラボから海岸まで車で10分、自然に囲まれた青空の非常に美しい街です。ここは犯罪率の少なさ でも全米10指に入るほどの安全なところです。ホームレスの数は1999年度は10人!でも、アーバインのポリスは、ホームレスを見かけると、パトカーで 隣の町Santa Anaに連れて行ってしまうらしい、、、。自分のところさえ良ければいい、そういう自分勝手な人工的なところともいえます。しかし、私の場合、実験が12 時過ぎに終わっても、自転車で無事に帰ることが出来たので、その安全さの恩恵を十分預かりました。その深夜帰宅時には犯罪者には会いませんが、野生動物 (アライグマ、オポッサム、コヨーテ、そしてシッポふさふさのスカンク)に遭遇することがたまにありました。ドイツ人の同僚は"ガラガラヘビに会って戦っ ちゃたよ"なんて自慢していましたが。 (なぜアーバインへ?) かつて、新規の神経ペプチド遺伝子を同時期に偶然に全く異なる方法で単離したことがそもそもの始まりでした。アメリカの学会でそのグループに初めて会 い、それ以来、抗体のやりとり等で連絡を保っていました。そのグループのリーダーのOlivierが製薬会社をやめて、アーバインに新しいラボを構える 時、またもや偶然に私に留学の機会が与えられました。紆余曲折はあったものの、結局はアーバインに行くことに決めました。プロジェクトは、無謀なことに日 本で長年親しんでいた神経分化関係の仕事ではありません。ハイリスクと当時から(現在も)喧伝されていたorphan G protein-coupled receptor に対する内在性のリガンド取り、という仕事です。なんだかんだ嘆きながら,働きつづけるうちに、幸いにも単離できました。詳細は9月の私の臨床研セミナー で報告させていただくことになっています。別の分野で研究したことにより,研究者としての幅が少しだけ広がったと思っています。 (こんなラボ) 上記の事情により、アメリカに到着した途端から、私はラボの立ち上げに参加することになってしまいました。しかし、臨床研には必ずある機械が無い、薬品 の質が良くない、業者はお返事は大変良いのですが(“No problem” “Don't worry”は聞き飽きた)、やることは大変いい加減、ということで、当初はショックの連続でした。いろいろなものが無い、とは例えばどういうことかとい うと、オートクレーブがデパートメントに一台しかないし(しかも1ヶ月に1回は壊れる)、乾熱滅菌器が存在しない、の類です。勿論、4度でエッペンドルフ チューブが遠心できる遠心機なんて最高の贅沢品で、最後まで存在しませんでした。そんな清貧な生活の中、ラボ全体の引っ越しは2回しました。しかし、"ぶ つぶつぶつぶつ"言ううちに、なんとなくそんな状況にも適応したようです。ゴミ用のオートクレーブで滅菌したって、理論的には、オートクレーブはオートク レーブ。培養細胞のコンタミなんてしないし、mRNAが壊れたこともありません。カリフォルニアは空気が乾燥していますしね。 次に、ラボの人間的構成です。初めはボスの Olivier、彼とともに製薬会社か らやってきたドイツ人ポスドクHans-Peterと私、テクニシャンで出発しました。その後、テクニシャンは数え切れないほど入れ替わり、私が去るころ には、ポスドク4人、テクニシャン3人、院生2人、アルバイト学生3人、秘書1人の中所帯になりました。なぜか、全員、アメリカ生まれではありません。ド イツ、中国、台湾、韓国、ラオス、アルゼンチン、スエーデン、カナダ、そしてOlivierはスイス系フランス人です(そう,見事なまでの hetero)。時々,皆でつぶやいたものです、"本当のアメリカ英語って、習いたいよね"。そんなわけで私の英語発音はやっぱり日本風のままです、ごめ んなさい。さて、ご多分に漏れず、ラボのポスドクと院生は皆、自己主張が強く、エスキモーに氷を売ることができる位、弁が立ちます。"デパートメントで一 番働き者で親切"(あれ、誰が言ったんだっけ)だったはずの私も次第に変貌を遂げ、Hans-Peterとゴミ箱を蹴飛ばしながら言い争ったことがありま す。でも言いたいことがあったらはっきり言う、そのあとは助け合ってデータを出す、という態度は結果的には良かったと思います。また、Olivierは無 類の行事好き冗談好きで、"年1回の屋外キャンプ、年1回のスキーツアー、年1回の海釣りツアー(私は酔ってこの世の地獄を見た)、そして、年4回以上の ホームパーティ"により、ラボの人間模様をまとめあげています。更に、彼はオフィスからラボにしょっちゅう来て、ホワイトボードの前で皆を巻き込んでは discussionしたがります。"へい、どう思う?""今、実験中なの""実験もいいけどimaginationを養おうよ"。そして底なしの discussionに引き込まれてしまうのです。こんな日頃のOlivierのフランクな姿勢もラボのチームプレイに一役買っているに違いありません。 (3大出来事 in the lab) 1.製薬会社からのグラント突如停止のため、ラボ崩壊危機(行って1年と3ヶ月め)。私とHans-Peterは,真剣に片道航空券買おうかと思いまし た。その後、大きなグラントが取れて持ち直しました。おや,3大出来事のはずですが、何と言っても2,3が無くてこれに尽きます。 (3大出来事in private) えっ、こんなことって起こるものなんだ、ということを手短に紹介します。 1.アパートを1年間に3回変わる。 1軒め:アメリカ到着後10日め、大家の愛猫のノミに感染。鼻の粘膜が広範囲にただれて死ぬかと思いました。ボス宅に超緊急避難。2軒め:天井が上の階 のバスタブの形に陥没しているのをパーティ帰りの金曜日深夜に発見。翌日から水漏れ。その修理のあと、カリフォルニアに稀な大雨が続き、アパートのキッチ ンの壁から連日連夜大量の水漏れ。修理依頼20回、来たのは1回。結局完全には直らず。言い訳"カリフォルニアって普通は雨降らないし"。3軒め:大学管 理の新しいアパートについに入居許可、その後2年間問題なく定住。平和の味を噛みしめました。 2.愛用の自転車もろとも車に衝突される。 ドライバーの連絡先を聞いて、電話したら、その番号は嘘でした。そういうときはdriver licenseの提示を求めるのが常識と後から知りました。甘ちゃんだった私、ひとを簡単に信用してはいけないという教訓をこの年になって、知ったもので す。 3.日頃の実験の息抜きは、頻繁な映画及び音楽(ミュージカル含)コンサート鑑賞です。映画館は自転車で7分のところにあるので、暇さえあれば映画を見て いました。週に多いときで4回。時々金庫番のマネージャーが遅刻するので、そのときは只で入場できます。おおらかです。 以上、育った文化が異なる人たちだらけに囲ま れた生活を綴りました。この3年間、 良いことも苦しかったこともたくさんありましたが、こんな環境のもと、私の中で何かが変わったのは確かです。ラボの皆はじめ,他の友人たちは科学の他にも 話題の幅が広く,多くの社会政治問題に関心を持っていました。ビルマから政治亡命した他のラボの院生のお父上はスーチーさんの支持者で、未だ本国に留ま り、闘争しているそうです。また、コソボ爆撃については何回ランチの時に話題になったことか。更に日本が引き起こしてきた諸問題、天皇制のあり方及びその 戦争責任、部落問題、女性の地位についても聞かれ、この滅茶苦茶の英語で答えたことも思い出します。よく政治や宗教の話はタブーと言われますが、心を皆と 通わせるには必要なときもあると感じました。でもいつもいつもこんな硬い話をしていたのではありません。私は"正しいハラキリのお作法""カミカゼスモウ ゲイシャに会う方法"などなどなどの話題を提供していました。 最後に、3年間にも及ぶ留学の機会を与えて下さった川島先生、宇井所 長及びこの制度の存在に深く感謝致します。 |
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