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135 ヲシテをしって
2017/3/4(土)21:16 - 上領達之(管理人) - 202-229-165-247.ap-p34.canvas.ne.jp - 1182 hit(s)

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 齢七十四にして「ヲシテ」というものを知った。 もっと早くに知っておきたかったけれど、この方面に関心をもつ機会がなかったから仕方ない。ご存知の方は多いのだろう。しかし高等学校では教えていないようだから、これを肯定する立場の書物から得た知識を基に説明するのも無駄ではあるまい。この言い回しからお分かりのように、関連分野の専門家たちのあいだではまだヲシテの評価が定まっていない。

 「ヲシテ」は表記法をもつ言語のひとつである。しかも上代で使われていた日本語だという。その表記に用いられる文字(図形)を「ヲシテ文字」といい、これによって残された文書を「ヲシテ文献」とよぶ。ただし原本はすべて失われていて、現代に残っているのは江戸時代に筆写された写本である。したがって考察の対象はいくつかの写本に限られる。もっとも、これは「古事記」や「日本書紀」にもあて嵌まることで、違いは写本の歴史でしかない。
 
 ヲシテの基本字体は四十八種類である。それ以外の字体もあるけれどそのすべてが原初の形であるとは限らない。基本の文字は「イロハ四十七文字」に「ン」を加えた現代の仮名に対応する音(話者がいないから推定である)を表わすとともに、縦書きしたときにだけそのイメージが湧くような意義をもつ(青木純雄・平岡憲人『よみがえる日本語――ことばのみなもと「ヲシテ」』明治書院、平成21年)。個々の文字は日本語を訓令式ローマ字で表記する場合とよく似た表にまとめられる。横向きの各行はそれぞれ、a、i、u、e、o、に対応する五つの母音を表す図形要素を含んでおり、また縦に並ぶ各列はそれぞれ、無子音と、k、h、n、m、t、r、s、y、w、に関連づけられる九つの子音とを指定する合計十個の要素を含んでいる。これらを母音の要素と組み合わせた複合形がヲシテ文字である。現代の五十音表と異なる点は、「ヰ」と「ヱ」が「w列」ではなく「y列」に入ること、そして「ン」が「w列のu行」にくることである。無論このような四十八音表など写本には載っていない。しかし「アワウタ」という五七調で四行の歌に従って文字を並べるとこうなってしまう。
 
 本来ならここでその四十八音表を示すべきなのだけれど、ヲシテ文字にはまだユニコードが割り当てられていないから難しい。そこで少しだけ言葉で説明する。a、u、o、はそれぞれ、丸、三角、四角、に近い図形要素で表され、無子音、k、n、s、は、点、縦棒、十字、横棒で示される。したがって「ア」は点を丸で囲み、「カ」は縦棒を丸で囲む。「ク」なら縦棒が三角形の頂点と底辺をつなぎ、「ス」では横棒が三角形を真横から刺し貫く。「オ」が四角の中に点を一つ入れることや、「ナ」が丸に十字の島津宗家の紋所に似ていることなどが予想されるだろう。それでよい。

 さて、ここまでくると正統派の国語学者や日本史学者からの嘲笑と反論が聴こえてきそうだ。彼らは多様な論点を挙げて、ヲシテが真正な言語ではあり得ず後代の捏造物であると主張してきた。多様ながらそこには通底するなにかがある。「朝鮮半島や中国大陸からの文物が渡来する前の上代日本には、およそ文明とよべるようなものはなく、文字も存在しなかった。四大文明発祥の地から離れた列島の民が、今から千数百年前であれ独自の文字を生むはずはない」という劣等意識だ。中国の歴史書には「上古の日本人は文字をもたない」と書いてあるから漢字の渡来以前の日本に文字があるはずはない、上代特殊仮名遣いでは母音が八種類ある、などの批判がこれである。しかし現在では上代特殊仮名遣い説(八母音説)が崩れかけていている。上代日本語の専門家なら否定しないだろうけれど、学会では少数派ながら五母音説が主張されているのだ。八母音説とは、渡来人がヲシテ語(原日本語)を漢字表記した際に誤って母国語の母音を混ぜ込んだ、その漢字に幻惑された結果らしい。

 ほかにもある。本居宣長は漢文の『古事記』を拠り所にしている、国粋主義者の平田篤胤がヲシテを偽字としている、子音と母音の組み合わせる文字は世界的に稀だ、ハングルとよく似している、などである。これらは虚言でこそないけれど、ヲシテが江戸時代に作られたという根拠にはなり得ない。ある事物を稀だという理由でニセモノ扱いする態度は学術的でない。なお、神代文字の中でハングルとよく似ている字体は平田が真正だとみなした阿比留(アヒル)文字である。

 本州に地名を遺したアイヌが文字をもたないことも否定の材料にされる。確かに現代アイヌを東アジアの諸集団と遺伝子(Y染色体の二か所)で比べると、東日本の住人は琉球の集団に次ぐ近縁性を示す。だから北海道アイヌの先祖が本州以南の縄文人と同族であった可能性は高い。本州以南が弥生時代に移ったとき、稲作に適さない北海道では青銅器や鉄器を使った「続縄文時代」に入る。しかし津軽海峡をはさんだ両地域の交流が途絶える時期はそれ以前であってもよい。ヲシテ文字が北海道には持ち込まれなかったのか、持ち込まれてから消えたのかは不明である。しかし、この不明を理由にヲシテ全体を否定するのは軽率だろう。

 縄文土器に(弥生土器にも)ヲシテが印されていないと詰難する論者もいた。しかし、上代のヲシテは「書く」という行為ではなく、「染める」という作業で記録されてきたと思われる。ホツマツタヱは、「ツツシミテソム」で終わっている。染めるのであれば、複製を作ることが筆写するよりもはるかに困難だから、ヒエログリフの書記官のような特別な役職にある者以外、ヲシテ文字を知る者は少なかったであろう。土器の製作者がヲシテを作品に刻まなくても不自然ではない。

    *   *   *
 ヲシテの現代的な発見は、出版社に勤めていた松本善之助が神田の古書店で『真秀伝(ホツマツタエ)』を入手した昭和四十一年の夏に始まる。この経緯とその後の本格的な研究の足跡は同氏の『ホツマツタヱ発見物語』(展望社、平成28年)に詳しい。なお、この書物の書名にある「ホツマツタヱ」はヲシテで書かれていてそれに片仮名のルビが振られている。彼とその後継者たちの著作では、ヲシテ文献由来のことばをすべてこの原則に従って表記している。しかしそのフォントが自由に使えないので、ここでは振られたルビだけで記述する。

 『真秀伝』にはホツマツタヱ全四十アヤ(章)中の三アヤしかなかった。完本(小笠原長弘本)が発見されたのは翌四十二年である。前掲書によると、ホツマツタヱが日本書紀や古事記の原典であること確信した松本は、写本を携えてこの見解を国文学や国語学の専門家に示したそうだ。しかし彼らからは完全に無視されたという。そうだろう。その学者たちは漢字で書かれた日本書紀や古事記に一家言があっても、記紀の元になった文書の写本があるとは思ってもいない。日本書紀は「一云(アルニイワク」」とか「一書曰(アルフミニイワク)」とは書いてもその出所を示さないからである。ヲシテ文字を偽字としか考えない者には猫に小判だった。学者は己の専門に属する意外な対象を縄張りの外から持ち込まれると拒絶反応を起こしやすい。その傾向は権威ある地位にいる者ほど著しく、またその害も大きい。

 職を捨ててヲシテに打ち込んだ松本は、アカデミズムの府に棲んでいる学者たちの頑迷と小心にさぞ幻滅したことだろう。彼らの存在価値の一部はその講座を守って先代からの学説を引き継ぐことにある。新学説が個人の閃きに大きく依存するような分野では、伝統の説を変えることがとりわけ難しい。とにかく調べた限りヲシテ学を正規の講座に取り入れている大学はなかった。その研究はすべて在野の研究者に委ねられている。現在ヲシテ文献としては、平成四年発見の和仁古安聡(ワニコヤストシ)本を含めた四種類のホツマツタヱの完本ほかに、平成二十四年に発見された一アヤを含む十一アヤの「ミカサフミ」(残り五十三アヤは未発見)と、一冊の「フトマニ」とがある。フトマニは上代日本人の宇宙観や言語哲学を理解するうえでの重要な鍵であるらしいというのに、ヲシテに手を染めようとする大学人はまだ出てきていないようだ。

 松本善之助がヲシテの文献的な意義を確かめるために始めたことは、ホツマツタヱと日本書紀、古事記の三書を並べて厳密に比較することであった。はじめに選ばれた部分は、記紀も触れている神武天皇(タケヒト、初代スヘラギ)の記述を含む二十九アヤ、三十アヤ、三十一アヤである。この研究は後継者に引き継がれ、池田滿『定本ホツマツタヱ――日本書紀・古事記との対比』(展望社、平成14年)として完成している。ここに至ると初期の三つのアヤから得られた確信はもう不動のものとなり、日本書紀、古事記のいずれもがホツマツタヱを下敷にしており、それ以降の時代の記述をそれぞれ別個に書き足していることが明白になった。記紀はホツマツタヱよりも後の時代に造り上げられた特殊資料なのだ。古事記を「稗田阿礼が誦習していた伝承を書き起こした日本最古の歴史書」だ、と軽信してはいけない。

 再び多くの(全てでないことを祈る)国語学や国文学、日本史学の「専門家」たちが激しく非難してくることだろう。結構だ。こう反問しよう。
 一、諸賢は、『定本ホツマツタヱ』の三書比較に目を通したことがあるか?
 二、ヲシテを偽字とする証拠を、中立的な第三者に提示できるか?
 三、日本語の助詞の用法を、体系的に説明できるか?

 ヲシテ研究が貢献する分野の一つに国語学がある。漢文で書かれた文献をいくら研究しても、日本語の助詞を理解することはできない。青木純雄・斯波克幸の『よみがえる日本語U――助詞のみなもと「ヲシテ」』(明治書院、平成27年)には、ヲシテが各地を統括する有力氏族の秘蔵文書であることのほか、家系間や時代の前後で助詞(てにをは)の使い方に違いのあることが書かれていた。その部分から二つの句を写させてもらう(現代語は上領)。
 (一)コレアヤマレル/テニヲハソ/スヘテナナヤノ/シルシフミ:これは間違った/「てにをは」(助詞、その用法)だ/すべて七家系の/徴となる文書
 (二)コレモロイエノ/ツタエフミ/イマノテニハニ/ナツラエテ:これは諸家系の/伝来の文書だ/現今の「てには」(助詞)に/準えて
 すでに上代人は助詞の重要性を知っている。

 ヲシテの文字(図形)要素は単なる子音と母音の表音記号ではかった。冒頭で紹介した青木・平岡の『――ことばのみなもと』では、この二種類の文字要素がイメージを掻き立てるように選ばれており、両者を組み合わせたヲシテ文字は「ことば」を、さらには「文」を生み出す素材のようなものだと解説している。文字を縦書きにすれば――横書きではいけない。例えば「つなぐ」というイメージで選ばれた縦棒(k音)の働きが失われる――、ことばが生まれる。逆にそれを分解していけば、そのことばの意義を思い描ける。

 助詞の働きはヲシテの文字要素で考えていくと理解できる。「沖へ出る」と「港に着く」の「へ」と「に」について、これを「沖に出る」と「港へ着く」としたら誤りか。国語の先生でも答えに詰まるだろう。しかし上代では「コレアヤマレル/テニヲハソ」となる。「へ」の子音要素hは「ひらく」という動きの表出を託された平行な縦棒二本であり、母音要素のeは蛇行する川のような図形で示される。現在地から離れて流れる水のように彼方を目指すイメージである。一方、「に」の子音要素nは縦書きすれば「とめる」の印象を与える横棒一本であり、母音要素のiは冷たく下りてくる風のような図形だ。他所からやってきて到着したこの現在地からはもう動かないというイメージになる。だから「沖へ出る」と「港に着く」でなければならない。今は曖昧な「へ」と「に」の用法も、ヲシテを使えば本来の形が分かってくる。

    *   *   *
 青森県の三内(サンナイ)丸山の縄文時代遺跡で巨大な建物跡が見つかったのは平成六年である。建物の支柱の跡と想定される穴が二本の平行線上に三つずつ、合わせて六つあった。柱穴の間隔と幅と深さはそれぞれ四・二メートル、二メートル、二メートルに統一されているそうだ。柱は木質の堅いことで知られる栗材で、直径はおよそ一メートル、高さの推定値は十四・七メートルだという。現地に建てられた復元物は偉容を誇っている。当時の技術力の高さを評価して、約三十五センチを基礎とする「縄文尺」という術語まで作られていた。ただし今、ヲシテを「縄文文字」と言い切れるのかどうか、そこは判断を保留する。

 「復元」は歴史的な情報を理解するうえでの重要な手段である。しかし復元の過程では、操作を行う個人や時代の思想あるいは先入観がどうしても入ってくる。百年ほど前にマルセラン・ブールはネアンデルタール人像を復元した。しかしブールが準拠した骨が関節炎を患っていた高齢な個体に由来していたため、はじめて視覚化されたネアンデルタール人は半人半獣の怪物になってしまった。フランス人ブールの美意識が当代の欧州人に似た化石人類を嫌ったのだろう。これに邪心が加わるとオランウータンの下顎にヒトの頭骨などを組み合わせたピルトダウン人になったり、「神の手」でしか掘り出せない日本の旧石器になったりする。遺物からの復元には危険も伴う。物ではなく文書であれば、それを書いた(書かせた)人物の思惑が入っていることを前提にして向き合わねばならない。

 歴史は勝者によって遺される。記紀は天武天皇の命令で編纂が始まり、今からおよそ千三百年前に古事記、日本書紀の順で完成したことになっている。園田豪という東北に縁をもつ在野の研究者は、『太安万侶の暗号』(全八巻、郁朋社、平成22年〜28年)という長編小説を著した。本州北端の黒曜石を使う旧石器時代の集団から説き起こし、稲作の導入、倭の五王や厩戸の皇子の時代を経て、天武天皇が中国の北魏王家の純血の後裔であったという仮説へと導いていく。小説なのだから何が書かれていても騒ぎ立てることはない。けれど付録としてつけられている八本の論考と一冊の論考書(園田豪『人麻呂の暗号と偽史「日本書紀」』郁朋社、平成28年)を読めば、調査研究と古書精読の積み重ねに基づくその仮説を安易に退けることができない。

 情報の伝達に制限のあった古代、征服者が奪った土地の民を完璧に支配しようとしたら、在来民族には誇るべき何ものもなかったと信じ込ませておくに如くはない。彼らの過去の栄光は征服者への反逆の火種になるからだ。列島に存在していたヒタカミ国の政権を奪取した者が漢字文化に通暁していたら、ヲシテ文化の抹消は彼らの支配を固めるうえで有用な政策だったであろう。まずヒタカミ国の偉人や歴史を記したヲシテ文書を各地から収集して漢語に訳してしまう。翻訳版は新政権の機密文書として保管し、原本は返さない。もっとも文書のすべてを取り上げることも民衆の伝承を封じることも不可能だ。そこでヒタカミ国の地上の歴史を、国権奪取の過程が隠された天上の神話にすり替えてしまう――民衆は染めて記されたヲシテ文書など見る機会がなかったから文盲のはずだ。断片的な文書が残っても伝承が絶やされなくとも、系統だった歴史は抹消できる――。天武天皇と血統を同じくする者たちがこういう意図をもって記紀を作らせたのだ、と園田は書いている。

 ヲシテ文字を疑う理由として残しておいた議論がある。ヲシテ文字があったのなら仮名を創る必要はないという理屈だ。しかし片仮名は奈良仏教の学僧たちが使い始めたものだし平仮名は平安時代の女手だ。古墳時代から数えても五百年ほどあとのことだから、識字者の少なかったヲシテ文字の伝統は絶えていて当然だ。そうでなくても支配者(朝廷)の周辺で被征服民族(ヱミシ)の文字が使われるだろうか。

 ホツマツタヱに歴史の創作はないのか。あるに決まっている。ホツマツタヱでさえ「カミヨ」とする大昔、最初の東北地方(ヒタカミの国)の統率者になった人物がクニトコタチで、その地位(職名)をアマカミとよぶ。クニトコタチの息子の一人であるキノトコタチは早くも近江地方の長(職名はタカミムスビ)になる。そのキノトコタチは勢力を伸ばして筑紫を支配するアメカガミカミ(職名)の系統も作った。東北地方から九州までをたった三代で治めてしまう神業は、確かにカミヨでなければ不可能だ。七代目のアマカミが国産みのイサナギとイサナミである。彼らが作った大八洲(オオヤシマ)には近江以北が含まれていない。すでにあったから改めて創る必要がなかったのだ。淡路島や筑紫島(九州)などはこのときにできたとされる。アメカガミカミの話とは整合させにくいけれどそこが神話なのだ。八代目アマカミは天照大神のアマテルである。「アマテラスオオミカミ」といえば女神が想像されるだろう。しかしアマテルはワカヒコの名をもつ男神(男性)である(『ホツマツタヱ発見物語』、および池田滿『ホツマ辞典』展望社、平成24年)。

 アマテルの弟である暴れ者のソサノヲ(素戔嗚)は稔り豊かな出雲を任される。しかしその子のオホナムチ(初代モノヌシ)が謀反を起こしてアマカミから追討の軍を向けられた。このとき二代目モノヌシになるオホクニタマ(大國魂)が父に出雲から出るよう勧めている。これが国譲りだ。そのオホナムチは津軽に遷された。ところでホツマツタヱの三十九アヤから「朝廷」に逆らうヱミシ(蝦夷)という東北の集団が出てくる。これが津軽のモノヌシ系なら分かりやすいけれど、クニトコタチから続くヒタカミ一族だから混乱する。「カミヨ」から「ヒトノヨ」に移り、アマカミに替わってスヘラギが国を治める時代になったからだろう。縄文(ヲシテ)文明発祥の地もヱミシの国にされてしまった。ホツマツタヱもまた「朝廷の万世一系」を語る文学作品なのだ。なお、北海道のアイヌには「蝦夷(エゾ)」という漢字があてられていた。しかしこの「ヱゾ」は上代の「ヱミシ」から切り離して考えねばならない。

    *   *   *
 ヱミシとアイヌの関係に劣らず、本州以南の歴史も不分明である。「邪馬台国」の所在さえ定まっていない。この時期の事情をもう少しスッキリさせたかったら、遺物や遺跡、国内外の文献、自然科学からの情報を総合的に調べるしかないだろう。特に中国や朝鮮の文献で言及されていない百余年間については国内で得られる事物を精査するよりほかはない。埼玉県稲荷山古墳出土の鉄剣に象嵌された金文字が解読されていて(昭和53年)、それが江上波夫の「騎馬民族征服王朝説」を支持しているという話を仄聞したことがある。けれどこの江上説が日本史の「空白の百年」の解明に役立つのか、現在まで命脈を保っているのか、園田豪の仮説とどう係わるのか、などにはとても判断がつかない。

 「空白の百年」は古墳時代のごくはじめの時期に相当して、一般には「ヤマト王権が倭の統一政権として確立した」時期だとされる。日本史のうえでは重要な時代だ。それを「外国の文献に記載がないから」といって手を拱いているとしたら、ずいぶんと情けない話である。日本史学者は、「統一」を果たした者が渡来人であるという可能性を恐れて、「空白」を口実に祟りを避けているわけではあるまい。「ヲシテ文献などは研究するに値しないと口裏を合わせている」などと疑われては心外だろう。景行天皇(十二代、ヲシロワケ)に献じられたホツマツタヱは卑弥呼の時代の記述を含むから、「邪馬台国」の情報は得られるはずだ。しかも最近は古墳時代の始まりを百年近く早める考えが強いので、「空白の百年」に届くかもしれない。

 真摯な研究の結果、仮に皇統の渡来人仮説を支持する結果が出てきたとしても、それはそれでいいではないか。その後二千年近く、同族の公家の娘を選んで代を重ねてきたとしても、現天皇のゲノム(遺伝子の総体、究極の個人情報)は諸賢のゲノムの多様性の中に埋没してしまっていて、決してそれを特定することはできないはずだ。今日だれかが「清和源氏の流れを汲んでいる」などと自慢したなら馬鹿にされるのが落ちである。血統だの系図など所詮はその程度のものなのだ。結果の如何にかかわらず、適切な史料や試料に基づく研究を望まない者がいるとすれば、それは明治期に急いで作られた「神代から続く天皇」の再登場を願う宗教団体だけだろう。

 ともあれ、ホツマツタヱは国内文献の一つではある。これを捏造物と疑う者でも、せめてその確証をつかむまでは正面から――ヲシテ文字の写本そのものに――向き合うべきだ。現在アイヌ語と日本語はともに孤立した言語とされているけれど、これも話者の系統と同様、放置してはおけない。宮内庁が公開を拒んでいる陵墓の開示もまた積極的に求めていく必要がある。日本古代史は断じて国家機密でも国家の安全にかかわる情報でもない。各研究分野が協力して可能な限りの解明に力を注ぐべきだ。上代の歴史をいい加減にしておくと戦前の国家神道の復権を許してしまう。日本の上代に光を当てることは、学問の府をもって任ずる組織に身を置く研究者の務めである。学知の害は宗教の害より小さい。

 平成二十九年二月九日  上領 達之



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