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149 続 ヲシテをしって
2017/7/24(月)15:31 - 上領達之(管理人) - 202-229-165-247.ap-p34.canvas.ne.jp - 230 hit(s)

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 前稿『ヲシテをしって』(【135】)の冒頭ちかくで触れた「アワウタ」から続きを始める。アワウタは、子供らにヲシテ発音を教える手立てであった(松本善之助『ホツマツタヱ発見物語』展望社、平成28年)。オシテの基本となる四十八文字を五七調の四行に連ねて、二行(二十四文字)ずつ上(カミ)のウタと下(シモ)のウタに分けられている。上二行の頭の音である「ア」から、下二行の末尾の「ワ」までを琴などの伴奏で旋律をつけて唱えさせたから、「アワウタ(歌)」なのだ。ヲシテ文字を仮に片仮名で表し、縦書きを横書きに変えたうえで、カミとシモとに分けて示すと、
 アカハマナ/イキヒニミウク、フヌムエケ/ヘネメオコホノ (上)
 モトロソヨ/ヲテレセヱツル、スユンチリ/シヰタラサヤワ (下) となる。

 このヲシテ文字をよく理解するためには、横に十列、縦に五行が入る枠を使って四十八音表を自作してみるのが一番だ。枠の左横に上からa、i、u、e、oと記し、枠の上には左から・、k、h、n、m、t、r、s、y、wと書いておく。まずカミのウタを第一行の左端から右へ、・a、ka、ha、na、maの枡目に入れはじめる。ア、カ、ハ、ナ、マまで書いてから後が少し複雑だ。イキヒニミウクのはじめの五音を二行目の左端から右へ・i、ki、hi、ni、miの枡に入れて、残ったウ、クを三行目の左端から・u、kuの枡目に納める。十列ある枠の右側半分は空けたままにしておくところが重要である。この方針を続けると最後の「ノ」は、最下行四列目にある、noの桝に入るだろう。ここで文字の入った桝と空白の桝との境目に目立つ線を引いておくと、カミとシモの区切りとなって都合がよい。

 シモに移って頭の六音(モトロソヨ/ヲ)は、最下行の残り六桝に左詰めで入れる。続くテレセヱツルは第四行の「メ」の右のte桝から入れるのだけれど、「ヱ」を書き込んだら、続くツ、ルはもう一行上げて第三行の「ム」の右二つの桝に書く。これでwe桝は最終的な空桝になった。以下もこれに準じて処理すると、wu桝に「ン」、wi桝は空白になり、wo桝に「ワ」が収まって音列表が完成する。we桝を空白とした際に、ただ「ツ」をtu桝に送るだけなら、ye桝を空けてwe桝に「ヱ」を入れてもよいけれど、一桝とぶのは不自然だ。それくらいならy列とw列を入れ替えて、「モトロソを/よテレセゑツル、スんゆチリ/シゐタラサわや」としていただろう。もしそうしたら、「ゐ」と「ゑ」はワ行(w列)の音になる。

 ヲシテには現代五十音のwi(ゐ)やwe(ゑ)に対応する音がなく、代わりにyiとyeがあるのだ。本稿ではこのyiとyeを、「ヰ」と「ヱ」を使って書き表す。いずれにしてもこの作表作業で、子音と母音(より適切な表現としては父音と母韻)から生みだされるヲシテ(これこそが子音)の成り立ちが理解できる(青木純雄・斯波克幸の『よみがえる日本語U――助詞のみなもと「ヲシテ」』、明治書院、平成27年)。

 『ヲシテをしって』では煩雑を避けるために、「ンの問題」に触れなかった。ヲシテで「ン」に相当するwu桝の図形は、wを表わす菱型に似た図形要素と、他では使われていないバツ(×)型の要素との組み合わせで作られている。u行にあるのに、u行文字を示す三角形は使われていないのだ。もっとも話者がいない現在、このヲシテ文字がどう発声されていたのかは不明である(青木純雄・平岡憲人『よみがえる日本語――ことばのみなもと「ヲシテ」』明治書院、平成21年)。正統派の国語学者たちには、こういう点まで、ヲシテ全体が後世(国学の勃興した江戸時代)の捏造物であることの証拠にみえるらしい。彼らは「上代日本語は完全な開音節(音声の単位が母音で終わる)言語だから「ン」はなく、少なくとも十三の音(エ、キ、ケ、コ、ソ、ト、ノ、ヒ、ヘ、ミ、メ、ヨ、ロ)には甲類と乙類の区別があった(上代特殊仮名遣い)」、という「定説」を疑わない。

 「以呂波耳本へ止」ではじまる「いろは歌」にも「ン」はない。いろは四十七文字は平安時代、藤原氏の全盛期に書かれた経文の解説書にはじめて出てくるそうだ。作者は不詳ながら、柿本人麻呂や弘法大師との説がある。しかしこれらは「俗説」として棄てられている。その理由は、「彼らは上代特殊仮名遣い時代の人だから最低六十文字(甲類を含んだ四十七文字と乙類の十三文字)を使っていたはずなのに、後世風の四十七字で済ませているから」、とのことだった。

 他にも「ン」のない体系があった。ハングルで書き表される朝鮮の言語である。この文字体系では子音要素の右側(または下方)に二重母音を含む母音要素を並べて一対にする。またこの左右の対の下(上下対なら右)に第二の子音要素を加える場合も多い。日本語で「テヨン」、「スヨン」と仮名書きされる人名はどちらも二文字のハングルで表されて、「ン」は二字目の左右対の下に置かれる第二の子音要素で示される。しかもその要素が一種類ではなかった。テヨンの場合はL字型(発音としてはnに相当)で、スヨンの場合はO字型(ng)となる。「ン」に対応する固有のハングルがないのだから、そもそも朝鮮の言語には「ン」の独立した発音がないのだろう。

     *   *   *
 上代特殊仮名遣い(甲類乙類説、八母音説)にしても、上代には「ン」がないという話にしても、これらの説は決して上代日本語を母語とする話者の発音を聴き集めて得られた結果ではない。万葉集と、数は少ないながら古事記や日本書紀その他に書かれている万葉仮名(漢字)の音韻を基礎にしているのだ。これらの古典に出てくる歌謡や固有名詞は、ヲシテ文字の真偽についての議論とは関係なく上代日本語で表されていたのだから、漢文の文章中に取り込むためには――万葉集でも「詞書(コトバガキ)」は漢文である――その日本語の音を漢字で表現しなくてはならない。その作業を行ったものは一体どういう人であったのだろうか。そこへ行く前に、柿本朝臣人麻呂の一首(巻一、四十八番)を挙げておく。

 原文の万葉仮名では「東野炎立所見而反見為者月西渡」とある。玉葉和歌集(鎌倉時代後期の成立)では「あづま野の/けぶりの立てる/所見て/かへり見すれば/月かたぶきぬ」と訓じられていた。それを江戸時代中期に賀茂真淵が「東(ひむがし)の/野にかぎろひの/立つ見えて/かへり見すれば/月かたぶきぬ」と改め、平成期に入っては伊藤博が「東(ひむがし)の/野にはかぎろひ/立つ見えて/かへり見すれば/月西渡(つきにしわた)る」とよみ直したそうだ(宮地伸一による)。誰の訓にせよ文書で遺されていた漢字原文の表記(万葉仮名)から、それぞれが三十一文字へ書き直した二次創作物である。作者が口ずさんだ音と異なっている可能性は高い。この一首は極端な例かもしれないけれど、とにかく万葉仮名の字面から上代日本語の「音」を推量する試みには虚しさがつきまとう。

 さて、誰が上代日本語を万葉仮名に写しはじめたのか。これを考えるには古代東北アジア史の知識が必要になる。前漢の中葉、武帝は朝鮮半島の大部分(韓の領域である半島の南東部を除く)を制圧してそこを四つの郡に分けた。その一つが楽浪郡で、現在のピョンヤン付近を郡都とする黄海二道のあたりと思えばよさそうだ。これらの四郡の公用文は漢字で書かれていたはずだから、地元出身の官吏たちが漢字や漢文に馴染んでいたことは確実である。後漢が滅ぶと、中国大陸は魏、呉、蜀の三国時代になる。この機に上代日本の一国家である邪馬台国(ヤマタイコク)の「卑弥呼(ヒミコ)」は華北の覇者となった魏へ遣使した(238)。

 当時の半島南部は言語や風俗の異なる三つの地域(西側から馬韓、弁韓、辰韓)に分かれている。卑弥呼の使者になった難斗米(ナトメ)は、帯方郡(楽浪郡よりも南の魏の直轄地)の太守の保護を受けて洛陽に着いたのだから、朝鮮半島の南東岸(マサンとかプサン)から帯方郡(郡都の位置は未確定。ソウルは候補の一つ)に入るまで、敵対勢力の妨害を受けることなく陸行できたことは確かである。これは弁韓(馬韓と辰韓に挟まれた地域)が倭と親密な関係にあったことを示している。当然、弁韓を経由して半島から多くの渡来人が倭にやってきたはずだ。漢代から漢字文化に接してきた韓人たちが渡来したのなら、馬や水稲耕作技術も列島に入ってきたに違いない。

 ここで、万葉仮名の創始者は朝鮮からの渡来人ではないかという発想が生まれる。ハングルが公布される以前の朝鮮では、「吏読(リトウ/リト)文」という書式体系が作られていた。これを大まかにいえば漢字を利用した朝鮮語の表記法である。吏読文は動詞などの語幹や名詞には漢語を直接使い、活用語尾や日本語の助詞に相当する部分には漢字の音だけを利用して当て嵌める表現方法であって、語順は朝鮮語の文法に従っている。漢字だけで組み立てられていながら漢文ではないという点で、万葉仮名と吏読はとてもよく似ている。朝鮮語も日本語もともに膠着言語だからであろう。ここでまた一首を引く。額田王の作とされる歌(巻一、八番)だ。

 「熟田津尓船乗世武登月待者潮毛可奈比沼今者許藝乞菜」が漢字原文であって、「熱田津(にきたづ)に/船乗せむと/月待てば/潮(しほ)もかないぬ/今はこぎい出な」と訓じられている(寛永版本)。先に示した人麻呂の歌の場合と違って、膠着語の特徴になる助詞や活用語尾がきちんと漢字で表されている。ただし「今者許藝乞菜」のところは難しい。「今」は表意文字だとして、植芝宏の「試作 万葉仮名一覧」(2011)に頼っても「いまはこぎ乞な」で止まってしまった。「乞」の音はコツ、キツ、コチで、訓読みにしても表意文字だと考えても納得がいかない。吏読でなら通じるのではあるまいか、と勘ぐってしまう。

 万葉集などの編纂目的が何であれ、漢字文化を誇る古代中華の知識人ならば夷狄の歌謡を漢字で表すような外道に手を貸しはすまい。漢字の音に通じていない土着の日本人にも困難である。この作業を行ったのは朝鮮半島からの渡来人だろう。まず「吏読」という変換技術に慣れ親しんでいた。異国で自分の価値を示せる仕事には積極的に関わったと思われる。中国語にも日本語にも深い思いはないから、正確を期さねばならぬという精神的な負担もなかったはずだ。

 上代に「ワランベイネテ」と謡われている箇所(ホツマツタヱ 18-23)を、韓半島からの渡来人が書き取る場面を想像しよう。「ワランベ」が幼児のことだと知らされた韓人が「童率宿而」とすることはあり得る。ここを後世の日本人が「童(ワラベ)は居寝て」と訓じてもこれまた不思議でない。「ン」という独立音を知らない朝鮮語の話者が「ン」に対応する漢字を使わないで万葉歌を書き取ったのだ。その万葉仮名を見た後世が、上代日本語では「ン」を使っていないという仮説を立てて、それが積極的には否定されないまま「定説」になったかもしれない。

 さらに「イネテ」が「居寝て」になるところにも問題がある。ヲシテにはヤ行のyi(ヰ)はあってもワ行のwiはなく、事実ホツマツタヱの四写本ともここでは・i(イ)を使っている。しかし寝るという意味で「イネ」とある箇所の「イ」の万葉仮名は、ワ行のwiとみなされる訓読みの率、謂、そして・iとwiの音がある葦、韋(謂も)であった。普通にア行の・iと訓じられる漢字は、伊、射、以などである。「歴史的(旧)仮名遣い」は庶民には関係がなく、「いぬ(犬、・inu」と「ゐど(井戸、wido)」に発音の区別などなかったのではないかと妄想する。

 上代特殊仮名遣いについて、「試作 万葉仮名一覧」を作った植芝は、「岩波書店日本古典文学大系『万葉集四』の校注の覚え書四によると、奈良時代の発音体系にあった甲類と乙類の発音上の区別は奈良時代の末頃から混乱しはじめ、平安時代になると合併して一つになっていった。平安時代のごく初期には『コ』の甲類乙類の区別と、ア行の・eとヤ行のyeとの区別を残すだけになった」、と書いている。この覚え書四は、「上代特殊仮名遣い」なるモノがあったとしても、日本人の身につくほどには至らずに消えてしまった「特殊な」仮名遣いだ、と語っているように思われる。

     *   *   *
 ここで仮名から離れ、ヲシテ自体の話題に転じる。先に挙げた人麻呂の一首を思い出してほしい。あの漢字の羅列から玉葉和歌集の訓を引き出すためには、上代日本の歌の最短の形が五・七・五・七・七の音列から成り立つことを知っておらねばならない。この短歌形式については、ソサノヲ(素戔嗚)の「八雲立つ/出雲八重垣/妻ごみに/八重垣つくる/その八重垣を」から始まる、という説がある。古事記と日本書紀でそう説明しているからだ。ただしこの説では、長歌(五・七を三回以上続けて、七を加えて結ぶ)の起源がわからない。短歌は反歌であって長歌に添えて詠まれていた。長歌を詠み終えてから、その内容を振り返ってまとめたり、別な視点で補ったりする歌である。長歌なしには存在しない道理なのだ。

 では長歌は何に由来するのかといえば、それはヲシテの本文そのものである。ヲシテ文は厳格に「五・七を繰り返して、最後に七を加えて結ぶ」という形式を守っている。その中に「ウタ」が挟まれる場合があって、そこでは「字余り」の例を見たけれど、本文ではまだこれに気付いたことがない。そしてこの「ウタ」の多くが、五・七・五・七・七の短歌形式であった。

 いや、ヲシテ文献で最も高度な内容を秘める「フトマニ」に書かれている百二十八首の「ウタ」がすべてこの形式なのである。その三番目にある「アキニ」と題された「アキニトハ/コチニヒモトケ/ツミノガル/ツグミココロノ/ハルゾキニケル」には、「優れた兄(アマテル)に対して屈折した気持ちをもつ弟(ソサノヲ)が犯したような罪であっても、誠心誠意の対応がなされれば氷解する」というような哲理が込められているそうだ(池田満『ミカサフミ・フトマニ――校合と注釈』、展望社、2012)。ソサノヲの行為が短歌形式のウタの題材にされているのだから、ソサノヲ説には分が悪い。長歌も短歌も、起源はヲシテに求めるのが自然である。

 ところで、古事記に採られた上代歌謡での万葉仮名の使い分けに気づいた本居宣長も、これを『仮字(仮名とも)遣奥山路』にまとめた石塚龍磨も安永年間の人だった。その時代とは杉田玄白が『解体新書』を刊行した時代であって、和仁估安聡(ワニコヤストシ)が現存する最古のヲシテ文献(ホツマツタヱ)を筆写した時期とも、また奈良にいた律宗の僧溥泉(フセン)が「ホツマツタヱ」と「ミカサフミ」に接して『朝日神紀』や『春日山紀』を著した時期とも重なる。現存する資料では近世までしか遡ることができないという点では、上代日本語の音声研究にも上代ヲシテ文献の研究にも、同程度の歴史しかないということだ。

 敢えて細かいことをいうなら、溥泉の『神嶺山伝記歳中行事紋(ミカサフミ・トシノウチニナスコトノアヤ)』が宝暦十五年(1764)で、和仁估安聡の筆写が安永四年(1775)である。この当時にはその基になった古い写本があったのだ。本居が『古事記伝』を脱稿したのは寛政十年(1798)、石塚が『仮字遣奥山路』を刊行したのもその頃らしい。近世になってからのヲシテ研究は、万葉仮名の分析に先行していたといえるだろう。とにかく万葉(上代)仮名とヲシテとを並べて安易な軽重はつけられないのだ。ところがその「安易な軽重」の判断へと人を導く「メフィストフェレス」がいるから困る。その和名を「権威主義」という。

 本居は国学の大人(ウシ)として生前すでに権威があったし、その権威は神道の国教化政策をとった明治政府によって高められもした。石塚は著作の『仮字遣奥山路』が明治期の国語学者、橋本進吉の目に留まってから知られるようになった。この橋本は東京帝国大学の文学部を「銀時計組」として卒業した秀才である。そのまま母校の教授にまで栄進して敗戦に至る直前まで昭和期の国語学、日本語学の学会長を務め続けた。この橋本が「上代八母音仮説(甲類乙類仮説)」を主張したのだから、彼の生前に八母音説へ異を唱えた者は少ない。その死後三十年を経て(1975)、松本克己(三母音から六母音を経て五母音へ)と森重敏(上代から五母音。渡来人関与説も)が、それぞれ独自に八母音説を否定したのだ。

 ヲシテを研究した溥泉も、写本を遺した和仁估(和邇估容聡とも)も、松本善之助の著作に親しんでいなければ名を知る機会さえない。善之助がヲシテ文献を再発見したことは前稿に書いた。彼は「自由国民社」の編集長も勤めた人だからそれなりの学歴があろうけれど、それは明かされていない。ただ「恩賜の時計」には縁がなかったと想像する。同出版社を退職した後は一庶民として、「ホツマツタヱ研究会」を主宰しヲシテ研究に専心している。権威にはほど遠い。メフィストフェレスに魂を委ねた人々とから「酔狂人」と評されれば上々である。

 ヲシテ文献は、その内容が神武天皇以来の皇統の「権威」を傷つけるから、宮内庁にとっても容認できない存在だろう。何の影響かはともかく、日本人も間違いなく権威には弱い。松本が小笠原長弘本ホツマツタヱの復刻版を刊行(1971)したのは橋本進吉が没した後であるから、上代日本語の研究で万葉仮名に頼った橋本を責めはしない。今なら池田満の『定本ホツマツタヱ――日本書紀・古事記との比較』(展望社、平成14年)もあるのだけれど、頭が固まっている現今の老大家にこれを薦めたところで詮なかろう。心の若い方々に期待するばかりである。

 この三書比較と向き合う前に、『ホツマツタヱ発見物語』の「日本古代学・事始め」の項を読んでおけばツボを押さえやすい。皇統や万葉集に関しては園田豪が多くの文献の解読と古寺旧跡の実地調査に基づいて、定説に縛られずかつ説得力のある仮説を展開している(『太安万侶の暗号』、郁朋社、平成22〜28年)。小説の形をとっているけれど、類書に勝る論考である。共謀罪法(テロ等準備罪法)が成立して施行されるに至った。ますます権威が嵩にかかってくる。だからこそ、既成観念に盲従しないという覚悟が、これまでにも増して必要なのだ。

 平成二十九年七月二十一日     上領 達之





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