研究方法論-教育現象にどのようにアプローチするか-

■ 地理教育の科学的研究

教科教育学,社会科教育学を専門に研究してます。社会科教育全体をトータルに扱うのは,私には余りに荷が重過ぎるので,これまでは特に地理的領域を中心に,そのカリキュラム編成や授業構成の在り方を考えてきました。
「在り方を考える」とは言いましても,別に地理教育のスローガンやキャッチフレーズをひねり出したり,指導効果を上げるための教授テクニックや教材開発のヒントを紹介している訳ではありません。
あくまで社会科教育学研究=子どもの社会認識形成についての学問的研究として,これまでに構想された地理カリキュラムやこれまでに実践されてきた地理授業を一度対象化し,専門科学者・ 教育行政官・現場教師によって為されてきた優れた「実践的な研究」を,「分析的に研究する」というスタンスでやってきました。
具体的には,こういうものです。まずは,きっちりと地理教育の現状や課題を確定し,その背後にある理論=地理教育に対する考え方を摘出する。そして,地理教育の原理的問題を克服してゆくことを可能にする,旧来のものに代わる新たな理論を提示し,その理論を具体的な教育の事実(単元構成の実際など)に即して説明してゆく。さらには,その理論の妥当性を論理的に実証したり,特質や限界,教育的意義を評価する作業をしてきました。

■ 研究対象を世界に求める

それでは,どこの,どのような地理教育の理論を取り上げてきたかといいますと,実はアメリカの地理教育なんです。なんでわざわざ外国なんだ?日本でもいいじゃないか,研究者って,何で役に立ちそうもない横文字の理屈をこねくりまわすんだ,って声も聞こええてきそうですね。
確かに,日本にも優れた地理教育実践は数多くありうるし,事実存在するのですが,総体的にみますと,やはり一定の拘束力をもった指導要領の枠の中での実践が少なくありません。教育の自由が制度的に保障され,多様な地理教育論が展開されている諸外国の理論・実践に学び,それを私たちが直面する教科指導の問題の解決に還元してゆくという方法論は,わが国の教科教育研究を今以上に発展,成長させてゆく上で欠かすことのできないアプローチなのです。別に外国の教育事情をただなんとなく知りたくて,紹介したくて,素材を海外に求めいるんじゃないんです。
実は,諸外国の理論・実践に学ぶということには,もう1つの重要な意味があります。私たちが普段生活していても気づくことですが,身近な友人や自分の家族,自分が所属しているグループのことっとて,意外とその事実や問題を直視しにくいものですよね。まして批判的な言説を述べることは,はばかれることもあるでしょう。だいたいにおいて,対象を内側から見ているだけで,その本質を見極めることは難しいものです。一度その枠から外に踏み出し,他人の視点から自分自身のこと,友達のこと,グループのことを客観的に指摘してもらうとき,それまで自分の目にはとまらなかった真の(別の)姿に気づかされることって多いんじゃないでしょうか。そして,彼ら彼女らの指摘を踏まえて,自分の生き方・考え方を問い直したってことも,これまでに幾度となく経験されているんじゃないでしょうか。
教科教育研究にも同じことが言えます。とくに,研究と運動が直結する傾向にある日本では,教育実践を客観的に捉えようとしても,既存の言説や思想,イデオロギーに左右されたり,それらに没入してしまう可能性が大です。このような状況からは,批判的な議論も,革新的な理論もなかなか生まれてこないことはご理解いただけるでしょう。研究対象を諸外国に求めようとする,より積極的な根拠が,ここにあります。
①視野を世界に広げ,これまでに思いもつかなかったような教科論・教育実践に出会い,それを出発点にして私たちが普段から接している教科論・教育実践を醒めた目で捉えなおす。②そして,その過程で得られた研究成果(現状の改善に資すると考えられる,より優れた地理教育論)を学界に還元し,実践家には,日々の実践をいつもよりも突き放して再考してゆく機会を提供する。③提案された複数の理論のなかから,最終的にどの理論を選択し,明日からの授業に活かしてゆくかは,実践者個人の主体的な判断に委ねる。このような方法論で研究に取り組んでいます。

■ 研究対象をアメリカに求める

素材を世界に求めることは理解できた。それならイギリスやドイツでもいいじゃないの?なぜアメリカなのさ?そんな批判をしたくなる人もいるかもしれませんね。そう思われたかたは,相当の「通」であります。確かにヨーロッパの国々では,近代的な教育制度が確立されて以来,地理は教育課程の中で相応の扱いを受け,独立教科として教授されてきた経緯があります。この点からすれば,確かにイギリスやドイツの地理教育論を検討することのほうに意義がありそうです。
それでは何故アメリカか?日本の場合もそうですが,地理は独立教科ではなく,「社会科(Social Studies)」と称する教科の1科目・1領域,あるいは1アプローチとして確立されてきました。社会科の起源をたどると,アメリカの世紀転換期に遡ることができます。社会科は,1916年に,社会についての科学的な認識と,社会の一員としての資質・態度や能力を培う教科として成立しました。その教育理念と精神は,日本の社会科教育にも基本的には引き継がれていると言っていいでしょう(アメリカの影響を受けて戦後日本に社会科が成立する経緯や,戦前の日本における社会科的教科の萌芽については諸説ありますので,ここではこれ以上踏み込みません)。
個人の自由と自立を標榜する社会での地理教育の在り方を,その本質を,また,市民性(citizenship)の育成と地理教育の関わりの問題を考えてゆく上で,アメリカは格好の素材を提供してくれるのです。

■ 埋もれ隠れた地理教育を発掘し,評価する

ここまでくると,さぞやアメリカには,イギリスやドイツとは違って斬新な教育実践が数多くあるんでしょう,と言われそうですね。事実そうなのですが,一見するとそうではありません(と,これまでは言われてきました)。
まわりくどい表現になりました。一般に社会科といいますと,地理・歴史・公民の3すくみ体制というイメージをもたれがちですが,必ずしもそのイメージはアメリカの場合は通用しません。アメリカ社会科のメインストリームは歴史教育と公民教育にあって,教育課程における地理の位置付けは実に曖昧です。最近でこそ少し変化しているようですが,80年代までは,ほとんど無視されてきた,と言っても過言ではないでしょう。少し古い報告では,地理を履修したことのある生徒は,全体の僅か数パーセントに過ぎなかった,というデータもあります。
社会科発祥の地であるアメリカでは,どうしてこんなにも地理の地位が低いのでしょうか?そもそも,社会について学び知ることを目的とする社会科は,自然科学的な側面を強く帯びた地理を,どのように受け入れてきたのでしょうか?両者は果たして理論的に整合するのでしょうか。地理を含んだ社会科は,教科として成立するのでしょうか?地理は,社会科の一科目として存立するのでしょうか?私の研究の出発点がここにあります(実は今思い起こすと,卒論のテーマがこれでした)。
たとえ数パーセントとは言っても,地理教育が行われていることに変わりないのですから,そこで為されている,または為されてきた地理教育とは一体どういうものか?たとえGeographyと明示されてはいなくても,事実上,地理教育の代わりを果たしている内容領域が存在するのではないか,そういう視点から見ていくと,これまでの「地理教育低調の国=アメリカ」というステレオタイプには再考の余地があるのではないかと……。
アメリカには,地理を社会科学教育または市民性教育の一環とみなし,確立しようとする底流が少なからずあるために,その過程で生まれてきた「地理」は,我々が一般に思い浮かべるような地理教育のスタイルとは若干のズレがあるかもしれません。それゆえ,これまでに見逃されてきた地理カリキュラムも,かなりの数あると予想されます(カリキュラム開発に携わった研究者自身,自分たちが作ったプログラムに斬新な地理教育論が組み込まれているなんて気付いていないのではないでしょうか。なぜなら,開発の当事者からみても,それは伝統的な地理カリキュラムとは余りにスタイルや性格を異にするから。しかし,アメリカの教育界には,現実に,そのようなカリキュラムに対する潜在的ニーズがある。結果的にGeographyとは命名されない,いわば「隠れた」地理カリキュラムが,私たちの知らぬ間に再生産されているし,それを背景にして「地理教育低調の国=アメリカ」というラベリングもまた再生産されていった……まだこの点は仮説に過ぎませんが)。

■ そろそろまとめに入ります

話が少しそれました。つまり,私に言わせれば,アメリカというフィールドには地理教育論の宝庫が手付かずのまま残されているように思えてならないのです。幅広く丹念に資料を狩猟し,地下深く眠る優れた教育プログラムを発掘し,その意義を再評価してゆけば,社会科本来の姿に則った地理教育の理論と実際に辿り着くのではないか?それらの考え方は,わが国の地理教育の実態を解き明かし,問題解決の方向性を探ってゆく上で相当の示唆が得られるのではないか,と考えています。

以上のような研究仮説のもとで,社会科教育における地理教育の在り方を,その存在理由を明らかにしてゆくのが,当面の課題です。