研究テーマ-教育現象の何を問題と捉え,何を論ずるか-

■ 思想統制の危険を秘めた地理教育

しばしば,「地理教育には,歴史教育ほどイデオロギー性がないからいいですね」と言われることがあります。この指摘は,地理教育の特質をかなり的確に捉えていますが,残念ながら「おっしゃる通りです」と全肯定できないところがあります。なぜなら,地理教育も子どもの思想統制の手段となりうるし,事実そのように利用されてきた経緯があるからです。
例えば,かつて地理教育が,皇国意識の形成や八紘一宇の世界観形成のために利用されたのが,最も典型的な事例でしょう。そしてこのような,子どもの態度形成を目指した地理教育論は,価値の看板を付け替えることで今日でも広く受容されています(この点については拙稿をご覧いただくことにして,ここではこれ以上踏み込みません)。
目にみえない,当事者に意識させない思想統制ほど,個々人の価値観を尊重し,それを積極的に保障しようとする民主主義社会にとって恐ろしいものはありません。
身近なところでは,政府・企業の宣伝やマスメディアの報道,地縁・血縁のしがらみや共同体の慣習,宗教団体の布教活動がそうですし,広い意味では親のしつけも,それにあたるでしょう。これらのなかでも,とりわけ影響力が強く,そのインパクトも広く深く及ぶのが,国家による国民形成の作用です。私たちの日常的な社会認識や価値判断の基準は,否応なく,これらの様々な社会的働きかけ(=「社会化(socialization)」の機能)に規制されながら成立しているわけです。

■ 自主的自立的な思想形成のための地理教育

しかし,外部による個人精神のコントロールを野放しにしていては,民主主義社会の維持・発展はおぼつきません。なぜなら,民主主義社会は,価値の多元性と思想の自由を社会発展の原動力としているから……。それゆえ子どもには,社会の現実から目をそむけさせることなく,社会化のメカニズムに積極的に対峙させること,そして一個人としての社会の見方の確立を促すことが,教育機関にとって重要な課題となってきましょう。
子どもは放って置いても,地域や家庭生活のなかで,社会生活を営む上で必要な常識的知識を身に付けてゆきますし,メディアを通じて注ぎ込まれる多様な価値観をスポンジのごとく吸収し─時には無批判に─それを内面化する傾向にあります。情報化社会の今日では,益々その傾向が顕著です。このような社会的状況を踏まえますと,学校は,地域や家庭とは異なる,第三の教育機能を担わざるを得ません。
すなわち,それが,イデオロギーの注入に知をもって対抗し,子どもの精神を解き放つことをねらいとした学校教育です。生き方や世界観を子どもに押し付けることなく,子どもが自らの思想,判断の基準を自主的自立的に形成してゆくことをサポートする社会科教育です。世界各地の動きをつぶさにみつめつつ,自分自身を養い育て拘束もする帰属社会の有り様を,その構造や課題を醒めた目で探求してゆける力を育てる地理教育です。   
「社会化」の働きかけに「ちょっとまった!」をかけ,自分なりの社会の見方を構築してゆける子どもを育てようとすれば,①科学的知性と②批判的合理的精神を養うしかないのではないか。①②の資質を意図的計画的に育成してゆく場こそ,「学校」の,「社会科(Social Studies=社会研究のための教科)」の,「地理(地理を手段にした社会研究)」ではないか。このような意味での「社会科地理」の確立が求められているのではないか。以上のような問題意識にたって研究を進めています。

■ 当面の課題─社会科地理の解明─

そこで当面は,
1) 「知による自己解放」を提起するカール・ポパーの社会思想,科学哲学,教育理論に立脚し,
2) 個人の自主的自立的な思想形成を援助するという,「開かれた社会」の人間形成の原点に立ち返り,
3) 上述の点に多くの示唆を与えてくれるであろう,諸外国の「地理カリキュラム」「地理授業」 に学びながら,
 当面のところ,以下の①~③を体系的に解明することを課題にしています。

① いったい,なぜ地理を教えるのか?教える必然性はないのではないか  → 教科(目)原理に関する研究
② 仮に地理教育が必要ならば,何をどういう順序で取り上げるのか? → 教科内容編成に関する研究
③ 授業において地理を教授する・学習するとはどういうことか? → 教科指導方法に関する研究
④ 子どもは,地理を学習することで現実社会をどのように理解しているのか → 教科学習の意義に関する研究