(アクサンが出ません。適宜補ってお読みください。)

『仏蘭西学研究』28号(1998年),pp.30-39.

広島のフランス人墓地

原 野  昇

北清事変 1900年(明治33)

 西暦1900年(明治33)に,中国において義和団の乱が起こった。これをフランス語ではLa Revolte(またはl'Insurrection)des Boxeursと呼ぶ。 義和団(団匪,拳匪とも)が元の時代以来の伝統をもつ拳法を駆使したため,こう呼ばれている。彼らは排外主義を呼号して在外公館や教会を襲い,大公使をはじめ多数の外国人を殺傷し,その破壊活動は猛烈を極めた。これに対し,日本,イギリス,アメリカ,フランス,ロシア,ドイツ,イタリア,オーストリアの諸外国は連合して(8カ国連合軍)鎮圧に当たった。これを日本では北清事変と呼んでいる。

 このときの戦線での戦病傷者が,病院船「博愛丸」で広島に送還され(7月21日宇品港到着),当時広島市基町にあった陸軍衛戍病院・第三予備病院で加療された。

軍都廣島

 広島は今日,世界初の原子爆弾が投下された町として,世界中にその名が知れわたっているが,戦前は,明治・大正・昭和を通して重要な軍事拠点でもあった。1871年(明治4)に鎮西鎮台第一分営が広島城域内に設置されたのをはじめ,1873年(明治6)には第五軍管広島鎮台が(これは1886年〔明治19〕に第五師団司令部に昇格)その跡に設置された。1888年(明治21)には海軍兵学校が東京から安芸郡江田島に移設され,1894年(明治27)には大本営が広島城域内に設置され,1897年(明治30)には陸軍幼年学校が市内に開設された。

 他方1894年(明治27)に山陽鉄道(現在のJR)が広島まで敷設され,その後しばらくの間は広島が本土における鉄道の最西端であったのである。広島駅と広島湾に面する宇品港(「空も港も夜は晴れて,月に数増す船の影,はしけの通いにぎやかに,寄せ来る波も黄金かな」と歌われた童謡「港」の舞台)を結ぶ宇品線(5.9km)も軍用鉄道として,同年中に非常に短期間で敷設された。広島は大陸や東南アジアに向けて侵攻していった日本軍の発進拠点であった。

 このような関係で,広島には陸軍糧秣廠,被服廠(赤レンガのこの建物は被爆に耐えて現在も残っている)など軍関係の施設が多数建設されており,そのうちの一つが上記の陸軍病院である。このように広島は日本軍の発進基地であると同時に,戦い終えて帰国する兵士たちの凱旋上陸地であり,傷病兵の治療地,戦没者の埋葬地でもあったのである。地元では,戦後の平和都市広島を「ヒロシマ」,戦前の軍都広島を「廣島」と表記し分けている。

負傷フランス兵

 広島に移送された戦病傷者の中にかなりの数のフランス人将兵が含まれていた。その数については,百数十人,100余名,100名ばかり,としているものもあるが,『新修広島市史』は,死亡した7名のほか,全治して広島駅から鉄道で東上,帰国した者の数が,当時の広島市長伴資健(ばん・すけゆき,幼名は十郎兵衛,1835年11月12日ー1913年1月28日,1889年から1906年まで3期にわたり広島市長)の日記により,同年の8月18日から12月22日までで,54名となるとしている。さらに12月27日には海軍大尉マルチニーが帰国しているので,少なくとも62名はいたことになる。

 そのうちの7名の者は,この広島の地で永遠に帰らぬ人となった。この者たちの氏名,身分,所属部隊,出生地,生年月日,死亡地,死亡年月日は,墓碑銘によると,以下のとおりである。

1 BOURGEADE Jean sergent au 9e Regiment d'Infanterie de marine

ne a BORDEAUX (Gironde) le 20 aout 1874

decede a Hiroshima le 23 juillet 1900

2 POSTIC Corentin quartier-maitre de timonerie dut[sic] JEAN-BART

ne a LANVEOC Finistere le 13 octobre 1869

deced en rade d'Ujina le 21 juillet 1900

3 CAROUR Louis-Marie canonnier au 1er Regiment d'Artillerie de marine

ne a KERVIGNAC Morbihan le 15 aout 1878

decede en rade d'Ujina le 21 juillet 1900

4 DOREL Joseph clairon au 11e Regiment de marine

ne a GRENOBLE Isere le 18 fevrier 1868

decede a Hiroshima le 22 juillet 1900

5 LEBEAU Jules soldat au 9e Regiment d'Infanterie de marine

ne a ARTONGES Aisne le 10 juillet 1871

decede a Hiroshima le 15 aout 1900

6 COHENDY Francois soldat au 11e Regiment d'Infanterie de marine

ne a AYDAT Puy-de-Dome le 2 fevrier 1870

decede a Hiroshima le 8 septembre 1900

7 LELIEVRE Francois sergent au 11e Regiment d'Infanterie de marine

ne a ANGERS Maine-et-Loire le 9 mars 1870

decede a Hiroshima le 19 septembre 1900

 彼らの年齢は21才〜32才である。死亡地と死亡年月日を見ると,同年の7月21日,宇品港に碇泊中に2名(上記2と3),翌22日に1名(同4),その翌日の23日に1名(同1),8月15日に1名(同5),9月8日に1名(同6),9月19日に1名(同7)で,最初の2名以外の死亡地は「広島」となっているので,上記の予備病院において死亡したものと思われる。

 

葬儀および墓地

 広島で死亡した7名のフランス兵の葬儀が,当時広島市研屋(とぎや)町にあった天主教会堂で挙行された。当時広島地区はパリ外国宣教会La Societe des Missions Etrangeres de Parisが布教を担当していた。翌1901年(明治34)には,フランス兵も含めた北清事変の戦死者の合同葬が盛大に行われ,これには県知事および,広島市長も参列した。

 そして彼らを葬るための墓地として,広島市民は市内の東に位置する小高い丘,比治山(ひじやま,標高約70m,東西約0.5km,南北約1.1km)の南端の絶景の地を提供した。そこから広島湾が見晴らせ,その海は遠くフランスまで続いているのである。墓と記念碑建設は1900年(明治33)10月に天主教会のシャロン神父,マロン神父らの発起により,日本在留のフランス人が中心となり,予備病院で加療中のフランス兵や広島市民有志の拠金,およびフランス本国のSouvenir fran?aisという団体の協力によったものである。1)このおりフランス兵士たちはタバコ代を節約して浄財を出したと伝えられている。除幕式は1900年(明治33)12月25日に挙行された。

 死亡した7名のフランス兵たちの墓地建設のために提供された土地は,陸軍墓地内としているもの(『新修広島市史』)と,「陸軍墓地のかたわら」(『毎日グラフ』1956年3月4日号)というものがある。2)

比治山陸軍墓地

 比治山陸軍墓地というのは,戦死した鎮台将兵を埋葬するために,1872年(明治5)に広島市の比治山に「共同墓地」として設置されたものがその始まりであり,後に陸軍共同墓地となったものである。西南の役,日清戦争,北清事変,日露戦争,満州事変,太平洋戦争の戦没者を埋葬していた。現在,NHKのテレビ塔があるあたりから,放射能影響研究所のあたりにかけての広大な土地に,1943年(昭和18)時点で,沖縄県を除く46都道府県の出身者4500余名の墓が,一基一基整然と建てられていた。

 1941年(昭和16)9月,戦争が拡大し戦死者が多くなったため,陸軍省達により,各地の陸軍墓地は忠霊塔による合葬方式に改められ,個人墓はできなくなった。一方,戦争が激しくなり,軍部はこの比治山の高台に高射砲陣地を築く計画を立て,1943年(昭和18)に軍と広島市が協議して,比治山陸軍墓地を整理統合し合葬墓にすることにした。その結果1944年(昭和19)1月からすべての墓を掘り起こし,大きな穴を掘って墓石をその中に埋め,遺骨を掘り出して,同年4月にはバラック建ての仮安置所に移していた。しかし,何分にも大がかりな墓地掘り起こし作業であり,正式の合葬墓も忠霊塔も完成しておらず,墓石もしかるべき処置がなされていないままに,1945年(昭和20)8月6日の原爆投下に会ったのである。さらに敗戦直後の同年9月に広島を直撃した枕崎台風と,10月の豪雨のため,仮安置所が半壊して遺骨が露出したり,雨水が流れ込んだりし,墓石も散乱し,一部は土砂とともに斜面を流され逸失した。

 この惨状を見かねた岩田日出子らを中心とする比治山陸軍墓地奉賛会が,1956年(昭和31)に再建に向けて募金活動を開始し,1961年(昭和36)現在の場所,すなわちフランス人兵士の墓地のすぐ北側に再建されたのである。再建されたその場所は,戦後しばらくは,掘り出された遺骨が大きな穴に入りきらず,積み上げられ,その上を土で覆って小山のようになっていた所である。

 ちなみに岩田日出子らは,1925年(大正14)以来,墓地の清掃,献花などを行っており,戦後の混乱期にも,フランス人墓地も含めて,これを欠かすことなく黙々と続けていたのである。岩田日出子らの活動に共鳴した有志の奉仕によって,埋められていた墓石も掘り出され,洗浄され,名前が刻まれていた墓柱石に墨を入れられ,十分な場所がないため,墓柱石のみを県別に並べ,遺骨はその最上段に埋葬しなおしたものが,今日の再建比治山陸軍墓地である。3)

 終戦後の軍の解体にともない,陸軍墓地は国有地となり,この墓地を含んだ比治山一帯は「墓地」ではなく「公園」に指定され,広島市に管理が委任されて,今日に至っている。すなわち他県にある陸軍墓地は,終戦にともない, 墓地として所在地の都府県に移管され,「墓地」として認知されているが,比治山陸軍墓地に関しては上記のような経緯から,終戦時に墓地としては廃棄され消滅していたとみなされ,公園とされたのである。

 フランス人墓地が歴として存在しており,その隣に仮の納骨堂と大型の墓碑(「忠魂墓碑」と彫られていた)が存在していたにもかかわらず,墓地と認定されなかった経緯には, アメリカ政府がABCC(原爆障害調査委員会,現在の放射能影響研究所の前身)建設を決め,その建設地として比治山の高台を強く希望したことと無関係ではないのではないかと思われるかも知れない。しかし比治山が「公園」に指定されたのは1945年(昭和20)であり,ABCCの建設候補地として比治山が示されたのは1947年(昭和22)である。

 フランス人墓地が陸軍墓地の敷地内の一角に土地を提供されて建設され,戦時中の陸軍墓地掘り起こし工事に際しても,手をつけられずに保持された,という記述もあるが(『新修広島市史』),1945年(昭和20)8月当時,遺骨の仮安置所が建っていた場所,すなわち現在の再建比治山陸軍墓地の場所(元のフランス人墓地の一部)は,旧陸軍墓地の敷地の外側であった可能性もあり,今後詳細な究明が待たれるところである。

日仏の友好親善

 フランス人傷病兵の広島での治療,および死没者の葬儀・埋葬,墓碑建設を機に,広島では日仏両国民の友好親善が非常に深まった。具体的には,フランス公使館付武官陸軍騎兵少佐コルウヰザールが来広し,各方面に謝辞を述べたし,入院中のフランス将校の夫人来広もあり,1900年(明治33)8月10日には,両国の盛大な交歓会が開かれた。同年12月27日にマルチニー海軍大尉が帰国するときには,双方により謝礼晩餐会および送別会が開催された。4)

 さらに翌1901年(明治34)には,フランス東洋艦隊第二分隊の旗艦ダントル・カスドル号(8000トン,第二分隊司令官ベール少将以下630余名乗組)が広島を答礼訪問した(12月12日,宇品港入港)。その際フランスは,前年の広島市民の好意に謝意を表するため,100余名の日本人にフランスの勲章を贈り,授与式が翌12月13日に同艦上において行われた。5)上記の伴資健広島市長もレジョン・ドヌール勲章を授与されている。なおこのとき上記のマルチニー大尉も再度来広している。

記念碑

 比治山の7基の土葬個人墓の中心に建立されている記念碑には次のような銘文が刻まれている。

 正面

A LA MEMOIRE

DES SOLDATS ET MARINS

FRANCAIS

DU CORPS EXPEDITIONRE DE CHINE

DECEDES A HIROSHIMA

EN 1900

ET EN RECONNAISSANCE

DU DEVOUEMENT AVEC LEQUEL

LES JAPONAIS

ONT SOIGNE LEURS COMPATRIOTES

LES RESIDENTS FRANXCAIS AU JAPON

ET LE “SOUVENIR FRANCAIS”

ONT CONSACRE CE MONUMENT

 

側面

HONNEUR AUX BRAVES

MORTS

POUR LA PATRIE

背面

殉國忠士之碑

一千九百年北清之役我陸海軍兵傷

痍疾病託諸廣島病院病院甘諾醫治

看護備極懇篤 獲痊瘉矣而其遂不

起者若干則皆 于此焉因与本國崇

武仁児協會謀茲建斯碑以表我兵殉

國之忠併紀日本帝國人敦于友誼云

大日本帝國在留佛國人識

(一千九百年北清ノ役ニ、我ガ陸海軍ノ兵、傷痍疾病セシモノ、諸(これ)ヲ廣島病院ニ託ス。病院甘諾シテ、醫治看護備極懇篤ニシテ概(おおむね)痊瘉ヲ獲タリ。而ルニ其ノ遂ニ起(た)タザル者若干ハ、則チ皆此ニ葬ル。因リテ本國ノ崇武仁児(すーぶにーる)協會ト謀リ、茲ニ斯ノ碑ヲ建テテ、以ッテ我ガ兵ノ殉國ノ忠ヲ表ス。併セテ日本帝國人ノ友誼ニ敦キヲ紀スト云フ。)6)

今後の課題

 以上は限られた史・資料による,中間報告である。今後さらに以下の点をはじめとし,多くの解明すべき問題が残されている。

ーフランス人傷病兵を日本(広島)で治療することになった経緯

その他の外国人傷病兵の治療地

ー墓地提供の経緯

誰と誰が交渉し,比治山のあの地が提供されることになったのか

ーフランス人墓地と陸軍墓地との関係

ー墓および記念碑建設の経緯

Souvenir fran?aisという団体について

墓石および記念碑の設計と制作者・制作地

参考文献

広島市役所『新修広島市史』第二巻,政治史編,1958年3月1日

同,第七巻,資料編その二,1960年3月31日

山口茂昭編集『比治山陸軍墓地略誌』(広島比治山陸軍墓地奉賛会事務局発行) 改訂第四版,1998年4月

中村義男「広島とフランス」,『基礎フランス語』(三修社),1978年12月 号,pp.12-13.

中村義男「広島日仏協会沿革略記(2)」『広島日仏協会報』(広島日仏協会) No. 72, 1979年3月1日

伊東隆夫「比治山のフランス軍人墓地」『広島日仏協会報』No. 120,1993年3

月15日

『毎日グラフ』1956年3月4日号

『広島県大百科事典』(中国新聞社)1982年10月25日

『朝日新聞』1998年(平成10)2月20日「臨時帝都」

『中国新聞』1987年(昭和62)6月23日「石のかたち」

写真(1)

比治山フランス人墓地(正面,筆者撮影)

写真(2)

同,西側より(筆者撮影)

1)伊東隆夫によると,この記念碑は,最初基町の西練兵場に建造され,その後比治山の現在地に移設されたとしている。(『広島日仏協会報』No.120,

1993年3月)しかし,そのような記述は他には見当たらない。なお,『新修広島市史』530ページに掲載されている,「旧西練兵場の東端にあった」と注釈されている「北清事変記念碑」〔第105図〕は,フランス人墓地にある記念碑とは別のものである。

2)『比治山陸軍墓地略史』改訂第四版〔1998年4月発行〕232頁にも,「比治山陸軍墓地〔再建された現在の墓地のこと〕は,元々はフランス兵を埋葬したフランス人墓地であった」とある。

3)岩田日出子は1966年(昭和41)11月3日に85年の生涯を終える。現在飛子大郎(とびす・だいろう,広島比治山陸軍墓地奉賛会事務局副会長,90歳)は,毎日1日も欠かさず墓地の清掃,水やり,供花を続けている。

 なお同墓地には,1914年(大正3)日独戦役において広島市で病没したドイツ軍人の墓,および日清戦争中広島市に収容されて,1895年(明治28)に没した中華民国人四名の墓もある。

4)1900年(明治33)12月15日,フランス側(ギヨーム少佐,マルチニー大尉ほか)主催の晩餐会。大手町三丁目の長沼旅館にて。マルチニー大尉の謝辞,児玉陸軍教授通訳。同年12月20日広島側(伴広島市長ほか4名)主催による送別会。同旅館にて。「伴資健日記」(『新修広島市史』第七巻,資料編その二,p.420)

5)勲章授与は従来,外国政府から在日公使館を経て日本政府に送達し,日本政府がこれを本人に授与するのが通例であるのに対し,このときはフランス政府がその将官を特に広島に派遣し,自らの手で直接,しかも広島の地で授与したことは非常に異例のことである。その理由を尋ねて返って来た答が「植木新之介日記」に次のように記されている。「抑モ仏国政府カ特ニ其将官ヲ当地ニ派シテ勲章ヲ授与セルハ,今回叙勲ヲ行フ目的ノ発動点ハ即チ当地ニシテ,当地ハ自国ノ軍事上ニ取リテモ将タ其将士ノ身ニ取リテモ永久ノ記念ヲ留ムルノ地ナレハ,此名誉アル記念地ニ於テ之ヲナスヲ適当ナリトシ,且栄誉ナリトナスニ由ルト云フ」(『新修広島市史』第七巻,資料編その二,p.421,漢字は新漢字に書き直してある)

6)この碑文判読に際しては,富永一登広島大学文学部教授のご教示を乞うた。

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