「最近読んだ本」のページについて
大学院生のときに、僕は『綴葉』という京大生協の書評誌の編集委員をやっていました。月に何冊かの本の書評・紹介の記事を書く仕事です。給料も(本代ですぐ消えてしまう程度の額でしたが)いくらかもらっていました。しかし当時と今では、書くときの気分が全然ちがいます。その違いは、人のために書くか、自分のために書くか、の違いだと思います。仕事として書いていた「書評」は、他人に読んでもらい、本を選ぶ参考にしてもらうために書くものでした。その本が紹介に値するかをまず考えなければならないし、ユニークな自己の見解を押し出すよりも、より普遍性のある評を書くことを意識しなければなりません。そういう見地からすると、「最近読んだ本」のページに載せたコメントは、ほとんどが「書評」としては失格でしょう。でも前記のように、自己紹介であり、近況報告であり、自分の身にするための「読書感想文」(<学校で押し付けられたことによるこの語の否定的イメージはともかくとして)であると考えれば、より自分の主観を押し出していくスタイルの方が良いと思っています。そういう意味で、このページは今後もこういう路線で行こう、と考えています。広範な人に読んでもらおうとは思いません。限られた奇特な人だけが見てくれれば、それで良いと思っています。
僕の主要な関心はやはり生物学にあるので、読んだ本も多かれ少なかれ生物学に関連するものが多くなっている。その中でも、関心は大きく2つに分けられるようだ。1つは「生物の形 /その個体発生と系統発生 /それを捉える方法論」の問題。もう一つは「『生物学』の学問状況 /生物学者の語る言葉・感じるリアリティ /なかでもとくに『遺伝子』という言葉」の問題。この二つは密接に関連してもいる。
年の初めに読んだ『動物の形態学と進化』は、今年読んだ本の中で最も面白かったものの一つだ。
昨年の発生生物学における最も重要なトピックの一つは、「前口動物と後口動物の背腹は逆転している」という古い学説が、分子発生学的な証拠をもとに再度浮上してきたことだった。これはすでに一昨年、K. Nubler-Jung, D. Arendt (1994)の "Is ventral in insects dorsal in vertebrates ?" という論文でも提起されていた問題だったが、カエルの背側形成にはたらくchordinという分子とショウジョウバエの腹側形成に働くshort gastrulationという分子が相同であるという発見(V. Francois, E. Bier (1995)参照)によって、その真実味を増した。最近発見された、ショウジョウバエの眼の形成に働く「マスター遺伝子」eyelessが、哺乳類の眼の形成に関与しているPax-6と相同である、という知見もあいまって、「今まで前口動物と後口動物で相同ではないと思われていた形質も、実は相同なのではないか?」という議論が起こった。(たとえばW.J. Dickinson and J. Seger (1996), W.J. Gehring (1996))
ここで僕が疑問に思ったのは、「分子レベルの『相同性』が形態レベルの『相同性』の根拠になるのか」ということだった。この疑問を抱きつつ、昨年末『現代思想』12月号(特集:思考するDNA)を読み、今年初めに『動物の形態学と進化』を読んで僕が理解したことは、「相同」という概念が歴史的に大きな変遷をたどってきたこと、そして現在でも決着のついていない(『Evolutionary Developmental Biology』も参照)、一筋縄ではいかない概念だということだった。それは単なる「由来の共通性」には解消できないし、たとえ単純に「由来の共通性」を「相同」の定義としたところで、W.J. Dickinson (1995)が言うように、様々なレベルの「相同性」が現われてきてしまう。
「形態」にしろ「機能」にしろ生物の属性の最も根本は遺伝子(あるいはゲノム)のレベルにあるとする「遺伝子作用の言説」(『機械の身体』参照)によれば、遺伝子レベルの相同性(由来の一致)が真の相同性を意味するのかもしれない。しかし生物の形態と個体発生の多様性を進化という観点から見れば、そのような見方は進化のダイナミズムを矮小化する見方に思える。
分子メカニズムの相同性が形態の相同性と一致しない例はたくさんある。あるメカニズムが別の発生プロセスに流用され、あるいは形態レベルの相同性を保ったままその背後のメカニズムが他のものに置換されてしまう。そのような各レベルの「相同性」の一貫性をむしろ撹乱し破壊するような出来事が高次分類群レベルの大進化の原動力ではなかったのか。
今、分子発生学は、これまで「進化学」のどの領域もまともに手がつけられなかった大規模な進化のイベントに切り込んで行こうとしている。これはとてもエキサイティングなことだ。発生学はまもなく進化学の主流に復帰するだろうと僕は思う。そのとき、「分子レベルで相同だから形態レベルでも相同」というような単純な図式では、形態学や古生物学が蓄積してきた知見に対してあまりに無邪気すぎる気がする。
次に「形」を捉える方法論について。『恐龍が飛んだ日』の副題は「尺度不変性と自己相似」となっている。前記『現代思想』でも扱われていた問題だが、これは、「形」というものがどのように作られ、維持されるのか、というよりgeneralな問題に重要な示唆を与えているように思える。
遺伝子操作(ノックアウト・マウスなど)や胚操作(解離実験など)によって発生のプロセスが変化しても最終的にできる「形」が一致するという問題(「冗長性」や「調節性」などの言葉で解釈される)。近縁種が異なる発生プロセスをたどって最終的にきわめてよく似た「形」を作る、という問題。メダカからクジラまで、サイズと細胞数が何桁も違うにもかかわらず維持される「基本形」の問題。もちろんこれらは微視的な細胞の運動(増殖、移動、分化、接着、分化等々)に基礎を置いているに違いないが、それらを統合して「形」を作り出す統合の法則は、微視的過程の解析だけでは見えてこないだろうと思われる。
『形態と構造』、『生物学にとって構造主義とは何か』などを読んで感じるのは、「形」に関する力学、数学を発生学者はもっと意識するべきではないか、ということだ。たとえば『自然の中に隠された数学』でも、「形」に課せられた制約が遺伝子よりもむしろ力学の法則に規定されている例を挙げている。「発生上の制約」は進化発生学上の重要な問題の一つだが、個々の「制約」を規定しているものは何だろうか?発生のメカニズムだろうか、自然選択だろうか、それとも力学だろうか。このような問題一つ取ってみても、力学と数学の方法論は重要だと思われる。(と人ごとの様に言うけど、僕が一番苦手かもしれん>数学。)
つぎに、「『生物学』の学問状況 /生物学者の語る言葉・感じるリアリティ /なかでもとくに『遺伝子』という言葉」の問題。これはもう『機械の身体』と『生命とフェミニズム』に述べられていることにつきるのだが、それだけでは芸がないので、僕なりにまとめて考えてみたい。
20世紀後半の生物学の最重要単語が「遺伝子」であることに誰も異論はないだろう。「遺伝子」を中心に生物を考えるにせよ、それに反発するにせよ、生物学はこの語を中心に周り、爆発的な発展を遂げてきた。遺伝子は生命の第一原因とみなされ、生命の本質とみなされ、生命をあやつる支配者とみなされた。ドーキンスの『遺伝子の川』はもちろん、『心は遺伝子をこえるか』、『ゲノムの見る夢』もこの延長にある。
このような遺伝子中心観の批判者に池田清彦氏(『科学教の迷信』参照)がいる。「遺伝」するのは細胞のシステム全体であって、(遺伝子と同一視されるところの)DNA配列だけではない。あくまでもある全体的システムが前提にあって、DNAはその上に乗って、様々な形質の発現に関与している。
たしかにあるDNA断片をある「形質」に結び付けることは可能で、それがDNAが遺伝子とされる一つの根拠になっている。しかし生物はそのような「形質」の集合ではない。「DNA断片:形質」を寄せ集めれば生物ができるわけではない。「分析」という手法は、本来、連続的・全体的で分割できないものを、あたかも分解可能なように取り扱う。本来動的なものを制止させて取り扱う(『哲学入門・変化の知覚』参照)。それは生物のある側面を明晰に示してくれる手法だが、それが「手法」であることを忘れて、生物がそのようなものだと思い込んでしまうのは錯誤だろう。
中村桂子氏(『ゲノムの見る夢』)は「遺伝子」ではなく「ゲノム」を見なければいけない、という。しかしそれにどれほどの意味があるのだろう。「ゲノム」をとりあげて強調することも、またその前提となる生命の「全体」と「歴史」を忘れた議論だと思う(中村氏にその意図はないとしても)。ゲノムは当然「全体」ではない。不可分なあるシステムから人為的に切り出してきたものがはじめて「ゲノム」と呼ばれる。歴史を刻んでいるのもゲノムだけではない。「ゲノムに刻まれた歴史」を論じるのは、一国の歴史を「支配者の歴史」と「民衆の歴史」に切り分けて論じるようなものだと思う。文書に残っているのが主に支配者の歴史だからと言って、「民衆の歴史」はそれに付随するだけのものではない。それらは相互に切り離せないものであり、様々な形で現代に作用しているのだから。切り出すのが悪いと言っているのではない。切り出してきて、それをことさらに強調し、その視点があたかも生命を捉えるための新しい視点であるかのように宣伝するのに疑問を感じるのだ。それは新しい生命観ではなく、研究の方便(方便としての威力は十分に認める)でしかないと、僕は思う。
これに関連して、2つの事を考えた。一つは、ゲノムのポテンシャルについて。同じゲノムが環境からの影響で異なる形態を作るという現象は「表現形模写」として知られている(『科学教の迷信』、『生物学にとって構造主義とは何か』、『Evolutionary Developmental Biology』)。これはゲノムが複数の形態を作るポテンシャルを持っていることを意味している。個体の「内部」と「外部」もまた不可分であって、両者が形態を作り上げる。一卵性双生児は良く似ている。それを我々はゲノムの共通性のためだと考えがちだが、果たして細胞質の共通性、母体からの影響の共通性は無視できるファクターなのだろうか?
もう一つは遺伝子なき生命、遺伝子なき「遺伝」について。『生命の本質と起源』、『人工生命』、『オートポイエーシス』、そして『プロトバイオロジー』を読んで考えたのは、生命の誕生において「遺伝子」が必要だったのだろうか、という事だ。核酸のように相補性によって自己の配列を複製しなくても、複数の分子とそれを産出する触媒反応が連鎖し、それがあるサイクルとして閉じたとすれば、そのサイクル内の分子はグループとして増殖していく。そのようなサイクルに物理的境界はないので、そのようなサイクルが複数あれば共役することもできるし、同じ分子をめぐって競争することもできる。そしてより複雑で精緻な「自己」増殖サイクルができる。これらの本を読んで僕が描いた生命の起源のイメージはこのようなものだった。もしそうだとすれば、「遺伝子」は生命の起源において重要ではなく、せいぜいシステムの安定化のための記憶媒体として後から利用されたものになる。もちろん、このようなイメージはナンセンスである可能性もあるが、「遺伝子中心主義」へのアンチテーゼとして、僕には魅力的なイメージだ。
それにしても、「遺伝子」は生物学の研究において強力な力を発揮する。化学的にも扱いやすく、他の諸形質に比べればデータ処理もはるかに容易である。「現象」を「モノ」に落として議論できるし、場合によっては「モノ」を「現象」にフィードバックできる(いつもうまく行くとは限らないが)。しかし、その強力さによって、「遺伝子」を生命の本質と考えてしまうのは短慮だと思う。
すべてに共通する問題は、自然科学者・生物学者の使う方法が、自然観・生命観を規定していることだと思う。本来連続的、全体的、歴史的、動的な自然を、切り取り、停止させ、分析し、再度つなぎ合わせるのは人為だ。人為は確かに自然の一部だが、一部でしかない。方法の泥沼に足をとられないように、あちこちと動き回り、色々な角度、距離から自然を眺め回し、いじくり回すことが(特に科学がタコツボ化している現在では)大事で、そのために僕はもっと色々な本を読み、色々な自然・生物現象に触れてみなければ、と思う。
References
来年にむけて
来年は、数学、物理学関連の本を読むことに力を入れたい。買ったは良いがつん読状態にあるたくさんの本の中から、
『協同現象の数理』(H.ハーケン)
『自然と遊戯』(M.アイゲン&R.ヴィンクラー)
『代数的構造』(遠山啓)
『How The Leopardo Changed Its Spots』(B.Goodwin)
『実体概念と関数概念』(E.カッシーラー)
『ファインマン物理学』
『Homology』(B.K.Hall)
といった本を、まあ、のんびりと読んで行きたいと思う。
あとは、今年の読書の流れからいって、読み残してしまったという感のある本として、
『創造的進化』(ベルクソン)
『名指しと必然性』(S.A.クリプキ)
『このクラスにテクストはありますか』(S.フィッシュ)
『記号論』(エーコ)
などがあるので、この辺も読みたい。
謝辞
今年もNet上、Net外で色々な方から示唆をうけました。ありがとうございました。
特に、森山@NHKさんの独断と偏見のSF&科学書評からは非常に有益な情報を多数得ることができました。特に記して、感謝いたします。
エンジェルのいるメッセージボードで議論や雑談を交してくださった皆様、「構造主義生物学ML」など各種メイリングリストの皆様は僕の興味と読書の幅を広げてくれました。ありがとうございました。
狭い店舗でも本の品揃えを充実させようとがんばって下さっている広島大学生協の書籍担当の皆様。いつもお世話になっています。(って、こんなとこ読んでないか。)
いつも本に関する雑談につきあってくれ、また『WHY CATS PAINT』という妙な本を見つけて教えてくれた片山智恵嬢、ありがとうございました。
来年もまたよろしくお願いいたします。