最近 読んだ本(1996年 1月〜)

最終更新日 1996.12.28


1996年 今年の読書を振りかえって


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空飛び猫 / 帰ってきた空飛び猫(アーシュラ・K・ル=グウィン)
「自分の四匹の子猫たちみんなに、どうして翼がはえているのか、ジェーン・タビーお母さんにはさっぱりわけがわかりませんでした。」
『空飛び猫』はこんな書き出しで始まるル=グウィンの童話。猫ずきの人はきっと気にいると思います。ふんだんに折り込まれた挿絵も可愛いし。続編の『帰ってきた空飛び猫』もあわせてどうぞ。
<講談社文庫:1996年4, 11月刊:620円, 640円>
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知性はどこに生まれるか - ダーウィンとアフォーダンス -(佐々木正人)
「アフォーダンス」に関する本。といっても耳慣れない言葉だと感じる人が多い(僕もそうだ)と思う。僕が理解した範囲で、簡単に紹介してみる。
「アフォーダンス」は我々動物を取り囲んでいる場所に潜在している意味、我々の行為のリソースである。たとえば「水」は人間にとっては「喉の乾きをいやす」とか「汚れを落とす」という行為のリソースとなる「アフォーダンス」であり、魚にとってはエラ呼吸の「アフォーダンス」である。我々の周囲は「アフォーダンス」に満ちており、我々の「行為」はその意味を探り当てる活動である。この「アフォーダンス」という観点から認知と行為を眺めることによって、従来の理論を越える新しい認知理論が生まれてくる----ということらしい。著者はミミズの穴ふさぎ行動の詳細な観察によってミミズの「知能」を見てしまったダーウィンに、「アフォーダンス」理論の先駆者の姿を見ている。
読みながら、2つのことを感じた。
一つは、たとえば「遺伝 対 環境」あるいは「遺伝と環境の『相互作用』」という見方や、「独立した感覚諸器官があってそれを知能が『統合』する」という考えかたのような、「分けられないものを分けて認識する」ことへの批判、というお馴染みのモチーフがここでも現われているということ。まぁ、僕がそういう本を好んで読んでいるということかもしれない。
もう一つは「アフォーダンス」は「身体」と「行為」を重視した認知理論だということ。「人間の認知機構」や「人工知能」の話を読むと(それほど読んでいるわけではないが)、「脳の情報処理」という側面が強調されていて、「身体」やそれを使った「行為」「実践」という観点が弱いような気がしていた。『文学を科学する』へのコメントにも同じようなことを書いたのだが、人間の意識や認知の仕組が作られ、主体として組織され、機能する上で、「身体」と「実践」が本質的に重要なのではないかというイメージが僕にはあるので、「アフォーダンス」理論の見方には期待を感じた。
<講談社現代新書:1996年12月刊:650円>
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不夜城(馳星周)
今年の『このミステリーがすごい!』(宝島社)で一位になった作品。歌舞伎町を舞台に、台湾系、上海系、北京系、香港系、入り乱れたチャイニーズ・マフィアの抗争を描く。
面白かったのは面白かったけど、言われるほど衝撃的で新しいんだろうか?「新宿の路地裏のリアリティ」とか言われても、僕には分からないしね…。
なんてことを考えながら、今『本の雑誌』をめくっていたら、この作者、実は(『本の雑誌』などで書評を書いてる)「坂東齢人」氏なのだ、と北上次郎氏が書いているのを発見。何か、書評のイメージと違うので、ちょっとびっくりしました。こんなハードな小説を書く人だとは思わなかったので。
<角川書店:1996年8月刊:1500円>
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自然の中に隠された数学(イアン・スチュアート)
『遺伝子の川』などと同じ、草思社『サイエンス・マスターズ』の一冊。
雪の結晶、砂丘の波模様、シマウマの縞、水面に落ちた石が作る波紋、バイオリンの弦の振動、等々。自然は「パターン」に満ちあふれている。パターンが、なぜ、いかにして生じるのかを知りたいと思い、あるいはこのような自然のふるまいを予測し、制御したいと望むとき、数学は強力な道具になる。数学は「パターンの科学」であり、自然の中にパターンをとらえる方法なのだ。本書は、数学者の目から見ると世界はどのように見えるのかを、分かりやすく伝えてくれる。
たいへん面白い本だった。「自然界で見られる対称性は、私たちの大量生産された宇宙における、壮大かつ普遍的な対称性が破れた痕跡である。……その残った対称性こそ私たちがパターンとして観測している当のものなのだ。」と論じる第六章。時間的な対称性の破れによって生じる「振動」から、動物の走行や歩行のパターンを論じていく第七章など、難しい専門用語や数式を使わず、平易な例を用いながら、この世界の本質にせまるような物の見方を読者に与えてくれる。
「エピローグ」の中で著者は「形の学問」としての「モルフォマティックス」の夢を語る。著者は発生生物学の現状にも触れながら、DNAプログラミングを生物の形とパターンの唯一の答と考えられているような状況は「不幸なこと」であり、この「不幸」を解消するためにも「モルフォマティックス」が必要なのだ、と言う。発生生物学においてそのような見解が必ずしも支配的だとは僕は思わないのだが、それはともかく、僕にとっては、夏に読んだ『物理と対称性』『形態と構造』と合わせて、発生学に力学や数学の手法を取り入れることの必要性について考えさせられる本だった。
<草思社:1996年10月刊:1800円>
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生物の複雑さを読む - 階層性の生物学 -(団まりな)
生物の世界には、原核生物から、真核生物、多細胞生物、高等動植物へと至る様々な「複雑さ」のレベルがある。著者はこれを「階層性」という見地から捉えようと試みる。「階層構造」を見い出す基準は、下位の階層単位が上位の階層単位に含まれているという「包含関係」と、上位の階層単位が下位の階層単位には無かった「新しく、より高度な機能」をもっている、という2つの基準である。著者はこの見地から、生物の体制、栄養摂取法、生殖法、個体発生などに見られる「階層性」を説き明かしていく。
「自然の階層性」というのも言い古された感のある言葉だが、ともすれば単なる空間的包含関係や「要素--システム」関係として捉えられがちな「階層関係」を、「機能」のレベルという観点から捉え直している点が面白い。「ハプロイド細胞」と「ディプロイド細胞」が異なる階層レベルである、というような観点は、この捉え方によってはじめて可能になるものだろう。池田清彦氏が、ある「構造」が実現している「限定空間」に「上位構造」が定立する、という進化の捉え方(『構造主義生物学とは何か』)を示したことを想起させる。もっとも、理論的枠組みの提出を重視する池田氏にくらべて、団氏は具体例に基づいて議論を展開しており、こちらのほうがずっと読みやすい。
進化の過程で増していく複雑性の諸レベルをとらえることは、我々の大きな関心であるが、これをうまく議論できるような概念や枠組みを、我々はまだ十分に開発しきれていないように思う。たとえば「高等--下等」のような言葉を使うことも可能なのだが、これを使うと、あたかも人間中心的な価値観を表明しているかのように誤解されがちで、使いにくい。ある時には「共有派生形質」、ある時には高次分類群を特徴づける「体制」「ボディプラン」、あるときには「進化的新奇性」、ある時には「高等--下等」、あるいは「複雑性」や「精巧さ」といった概念で論じられるような進化の様相を、より統一的に論じられる枠組み。それを用意する試みが団氏の「階層性」であり、池田氏の「構造」ではないかと、僕は感じる。
最後に、読みながら考えたことをいくつか書いておく。
1. 団氏が本書で「階層」として示しているのは、生物界に見られる大きなギャップ(たとえば原核細胞--真核細胞)である。しかし、「新しく、より高度な機能」ということであれば、その評価基準(これは団氏も指摘しているとおり、ある程度主観的にならざるを得ない)を細かくとれば、様々な生物の系統で、より小さなレベルの「準階層」のようなものが多数設定できるのではないか。2. これと関連して、「飛躍的に改良された」「高度な」「機能」という言葉のあいまいさがひっかかる。このような主観的な用語よりも、客観的に発見しうる系統の大分岐や小分岐に付随するものとして「階層」の上昇をとらえた方が良いのではないか。つまり様々な「飛躍」の度合を、その「階層」の成立によって実現可能になった進化の幅に結び付けて評価するのが良いのではないか。3. 「ハプロイド細胞」と「ディプロイド細胞」が異なる階層レベルだとしても、「ディプロイド細胞」が生活環の中で一時的にとるステージとしての「ハプロイド細胞」と、終生の「ハプロイド細胞」を「階層」として同一視して良いものだろうか。同じことは動物の個体発生の時に経る(系統発生と「平行性」があると言われる)諸体制の「階層」についても言える。

本当は発売当時に読んでおくべき本だったんだけど、つい先延ばしにしてしまった。すみませんでした>団先生。
<平凡社:1996年2月刊:2400円>
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だから教授は辞められない(川成洋 ほか)
続編の『だけど教授は辞めたくない』を読んだので、ついでにと思って読んだ。11人の著者による、大学と大学教授の実態の曝露と、大学改革への提言、という内容だ。
特に印象に残ったのは『使い捨てられる非常勤講師たち』という章(竹添敦子著)。常勤の職があれば、非常勤はちょっとしたアルバイトていどのものだ。しかし非常勤講師だけで生活している者たちは、安い賃金で、いくつものクラスを持たねば生活もままならず、研究条件も悪く、保障もなく、大学の都合で一方的に切り捨てられる。それでも研究と教育への思いは断ち切れず、他の道を選ぶ決心もできない。そんな非常勤講師の実態を、自作の詩を交えながら描いている。『だけど教授は辞めたくない』でも非常勤講師の実態が明らかにされていた。最近では非常勤講師の組合も組織されて、色々な要求も行っているようだ。そのような交渉が少しでも実り多いものになって欲しいと思う。
もうひとつ、おかしかった(と言っては失礼かもしれないが)話は、原田浩二氏の『研究テーマより大切な指導教官』という章。院生の頃に「東大閥」の指導教官の"栄転"によって院生たちは「捨てられ」てしまい、新しくやって来た「京大閥」の有名教授が大学の「京大化」を進める中で、多くの院生が喪失感を味わった、というストーリーだ。指導教官と「ウマがあわない」というような話はどこにでも転がっているけれど、「東大閥」とか「京大閥」とか言うのがあって、それを院生が真剣に意識せざるを得ない、というのは、僕から見れば別世界の話だ。たかが日本国内の「東大」と「京大」で対抗しているなんて、せせこましい話だと思うのだけど、当人たちにとっては重要な問題なんでしょうね、きっと。今でもそういう世界が残っているのだろうか。僕がのんき過ぎて知らないだけなのかなぁ(笑)。
<The Japan Times:1995年10月刊:1400円>
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紅玉宮の惨劇(グイン・サーガ 54巻)(栗本薫)
ながらく鬱々とした日々を送っていたイシュトヴァーンにも、ようやく転機が訪れそうな『グイン・サーガ』54巻。クムの内紛を利用してクム、ユラニアに乱をひきおこし、イシュトヴァーンは「モンゴールの将軍」から「ゴーラ王」への道を進み始める。
ここにきて話は急展開を見せているが、目標の100巻も半ばをすぎて、そろそろイシュトヴァーンにも「ゴーラの僭王」になってもらわないと、「三国時代」が始まらないしね。栗本さんも「あとがき」で来年からは少しペースを早めるような事を言っているので、楽しみ。
<ハヤカワ文庫JA:1996年12月刊:500円>
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だけど教授は辞めたくない(川成洋 ほか)
『だから教授は辞められない』という本の続編にあたる。(僕は前の本は読んでいない。)本書では特に最近話題の「大学教員任期制」に関する論が中心になっている。現状を変えないといけないという問題意識は共通しているが、執筆者によって「任期制」へのスタンスは異なっている。
僕自身も大学で働いている当事者であるし、この問題は難しくて簡単に立場を決めかねるのだが、とりあえず、この本を読み終えた時点での考えを書いてみたい。もっとよく考えれば、意見はまた変わるかもしれない。
「大学の教官は一度採用されればクビになることもなく、競争もなく、評価にさらされることもなく、働かなくても年功序列で出世することができる。実際、何年も論文の1本も書かずに平気でいる教授がたくさんいる。これが大学の研究と教育の荒廃を招いている。この現状を打破するためには、大学にも競争原理を持ち込むべきである。そのためには任期制の導入が必要である。」---「任期制」導入の論理はおおむねこのようなものだろう。この基本的な筋書に幾つかの疑問がある。以下、箇条書的に:
・話の前提として、「働かない」「無能」な教授が多い、というのはどの程度本当のことなのか。たしかにそのような人はどこの社会にも一定数いるだろう。しかし、このような大学実態曝露本に出てくるような事態がはたしてどこまで一般的なのか。学問分野による違い、大学・学部による違いは有るのか無いのか。個別的な経験を一般化するのではなく、きちんとした調査が必要だと思うのだが、どこかにまともな調査結果があるのだろうか?
・大学が必ずしも十分な研究・教育成果をあげられていない理由は、「教官の怠慢」が主要な原因なのか。日本の大学の研究・教育条件の劣悪さは昔から繰り返し指摘されている。設備は老朽化し、金はない、雑用は多い、という状況は改善されない。その中で、土曜はもちろん、時には日曜休日も返上して、深夜まで研究している研究者はたくさんいる。それでも欧米の研究レベルには達しないととしたら、それは研究者の能力やモラール(士気、道義)の問題ではなく、研究をささえるシステム、有り体に言って金のかけ方が違うからではないのか。研究の意欲をそぐような状況は放置したままで任期制だけを導入しても、飛躍的に成果があがるとは思えない。
・大学の教官は本当に「競争」や「評価」にさらされていないのか。少なくとも理系の実験系でまともな研究をしようと思えば、「科研費」等の研究費に(何年かに一度であっても)「当たる」ことは不可欠だ。研究費を申請すれば「評価」にかけられる。もっと緩やかな「評価」もある。研究内容に対する同じ分野の研究者からの評価である。多くの研究者にとって、研究の価値を理解してくれる同業者に認められることが、何よりも励みであり、研究の motivation になっていると思う。逆に、長いあいだ成果が上がらなければ「あいつは何をやっているんだ」という有言/無言の圧力になる。体制化されてはいなくても、このような研究者社会による評価が有効に機能している分野では、おおむね研究者のモラールが保たれるのではないか。もしそうだとすると、今言われているような問題があるとすれば、それは大学の問題であると同時に、特定の学問分野の学問状況の問題ではないのか?
・そもそも学問に「競争」というシステムがなじむのか。日本の企業の論理と男女分業社会(妻は家庭を守り、夫は企業戦士として必死にはたらく)に支えられた、仕事中毒的「競争」を大学にも持ち込むべきなのか。「競争」ではなく、研究者の内的なモラールをひきだしつつ「改革」を進めていくというのは、非現実的な理想論なのだろうか?
・「任期制」を導入するとしても、まず「若手研究者から」という今の論調は、納得できない。批判にさらされているのは多くの場合、年配の「教授」層である。若手の研究者が働かなくて困るというような話は寡聞にして聞いたことが無い。むしろ、劣悪な条件に耐えながら情熱をもって研究しているのが若手研究者一般の姿だろう。ならば「任期制」を導入するならまず上の層から、というのが筋ではないのか。
・「任期制」の前に、人事のありかたを何とかするべきではないか。具体的には、公募を徹底すること。政治的思惑や情実による人事を排すること。閉ざされた密室で人事を進めるのではなく、場合によっては人事の場に外部の、学問的評価のできる見識をもった人々を参加させるなどして、「自治」の名による人事の不透明さ、不公正さをなくす努力をすること。京大理学部では、院生にも(たしか事務職員にも)人事に意見を述べる権利があったと記憶している。(一度、院生会議でそういう話し合いをした覚えがある。)このような制度も積極的に取り入れるべきだと思う。
一般論として、研究者の世界がより流動化するのは歓迎すべきことだと思う。しかし現状では「任期制」以前に改善すべきことがたくさんある。色々な問題を放置して、単に身分を不安定化して尻を叩くだけでは、「合格点クリア」的な、萎縮した、小粒の研究が増えるだけだと思うのだが、どうだろうか。
<The Japan Times:1996年11月刊:1442円>
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蝕みの果実(船戸与一)
船戸与一の短編集。86年から96年に書かれた7本が収録されている。
「蝕みの果実」というタイトルは、収録された短編のタイトルではない。たぶん、共通の舞台であるアメリカ合衆国を象徴した言葉なのだろう。船戸がくりかえし取り上げている、多民族国家アメリカにおける諸民族間のきしみは、本書でもメインテーマの一つになっている。
『蟹喰い猿フーガ』『かくも短き眠り』と、今年は3冊、船戸の本を読んだが、これが一番面白かった。
<講談社:1996年10月刊:1800円>
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テクノスタルジア - 死とメディアの精神医学 -(香山リカ)
「テクノスタルジア」=未来への郷愁。
未来的な都市の風景、最新のテクノロジー。それらは、初めて触れるもののはずなのに、なぜかふと感じてしまう「懐かしさ」。その感情を著者は「テクノスタルジア」となづける。本書は「テクノスタルジア」の分析をはじめとして、「ポストモダン」論、80年代論、プロレスと関連させた身体論、メディア論、女性論、などなど多岐にわたる論考を収めている。
ドゥルーズとかゴダールとか浅田彰とか坂本龍一とか、「80年代日本」を象徴するような固有名詞がいろいろ並んでいる。著者は僕より数年早く生まれて、こういう80年代の"カルチャー"をもろに体験した世代なんだろうね。僕は80年代は嫌いだから、(一人一人については何の恨みもないけど)こういう名前が並んでいるのを今さら読まされると、ためいきが出てしまいます。
…下らない感想ですみません。
<青土社:1996年11月刊:1800円>
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現代文学理論 - テクスト・読み・世界 - (土田知則、神郡悦子、伊藤直哉)
『情報と生命』と同じ『ワードマップ』シリーズの新刊。これから現代文学理論を学ぼうとしている人のための、手がかりとなるような本を意図して書かれている。パース、ソシュールの記号論から始まって、いわゆる「現代思想」の主役たちの理論が紹介されていく。
『文学を科学する』の一つのテーマだった「テクスト」の「読み」という問題について、もう少し知りたいと思った矢先にこの本を見つけたので、これ幸いと読んでみた。伊藤氏が分担して書いている部分、とくに「読者論」のあたりが、たいへん面白かった。巻末の読書案内が充実しているのもうれしい。
こういうのを読むと、ついつい生物学とのアナロジーを考えてしまう。「DNA→テクスト」の比喩とか。けど、まぁ、止めといた方が無難かもしれない :-) 。
<新曜社ワードマップ:1996年11月刊:2472円>
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科学を計る - ガーフィールドとインパクト・ファクター - (窪田輝蔵)
学術雑誌の目次を集めた『カレント・コンテンツ』、学術論文の「引用」を索引化した『サイテーション・インデックス』などを出版する会社を起こしたユージン・ガーフィールドの活動と、科学研究という営みを研究し評価する上で、このようなデータベースがどのような役割を果たしうるのかを論じている。
こういうデータベースは情報の検索には非常に便利である。科学の諸研究分野の関連や歴史を調べる、というような科学社会学的、科学史的研究にもこのようなデータベースは有用である。しかし、「引用数」のようなものを研究の「評価」の基準に使うことには疑問を感じる。ごく狭い分野内での比較ならまだ良いが、異なる分野間で科学上の業績の価値を計る基準として使うには、論文数にしろ、論文の引用数にしろ、雑誌のインパクトファクターにしろ、「他に手段がないなら仕方がない」という程度のものだと思う。つまり論文を読んで評価することのできる見識と時間のある評価者がいないために止むを得ず使わざるをえない、ぐらいのものだろう、ということだ。(箸にも棒にもかからないのを排除する基準ぐらいにはなるかもしれないけど。)
たとえば、こういう(定量的な)評価の仕方をすれば、流行の分野、研究者が多くて競争が激しい分野は高い値を出し、そうでない分野では低い値しか出ないだろう。しかし本当のオリジナリティや、人の気付かないところに物事の本質を見い出すような洞察力というものは、流行からはずれた所にこそあるのだと、僕は思う。そのような研究を「評価」する定量的基準などありえない。玉と石を見分けるのは、ただ評価者の見識によるしかない。
著者ももちろん、このような情報の使い方には注意が必要だと述べている。結局、どのような評価法にも問題はあるし、かといって何らかの手段で評価しないわけにもいかないというジレンマは、解消できないで残るだろう。そして評価される側の不満も残り続けるのだろう。
<インターメディカル:1996年10月刊:2000円>
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WHY CATS PAINT - キャットアートの理論 - (ヘザー・ブッシュ、バートン・シルヴァー)
「ネコはなぜ絵を描くか」と題されたこの本は、前半をネコによる「芸術作品」の理論の解説、後半を作家(もちろんネコ)と作品の紹介にあてている。「キャットアート」の入門書として手頃だろう。
まえに触れた「テキスト」と「解釈」の問題とかとからめて何か書こうかとも思ったが、それも野暮な気がするし、まあ、興味のある人は読んでみて、とだけ書いておきます。僕自身はとても面白く読んだ。「創作」に打ち込むネコたちの姿が、微笑ましい。
<Benedikt Taschen:1995年刊:2000円>
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心は遺伝子をこえるか(木下清一郎)
著者は、われわれは遺伝子に隷属する機械にすぎないのか、という問いから始める。そして「遺伝子をこえる」可能性を「心」に見い出そうと試みる。この考察のために動物の発生、そして神経系の進化が概説される。結論として著者は、脳・神経系は遺伝子の指示に基づいて作られているとしても、その機能としての「心」は、遺伝子の束縛から我々を「自由」にしてくれる可能性をもつ、と言う。
事実関係の上で疑問に思う点もいくつかあった(たとえば個体発生の最初に生殖細胞と体細胞が分離すると書いてあるが、それは一般にはなりたたないのじゃないか、とか)が、それは細かいことなので、置いておく。それよりも、「遺伝子をこえるか」というような問題設定自体が果たしてどれほどの意味をもつのか、というところから、まずは始めなければならないのではないかと思う。
「生命を『設計する』もの、『支配する』ものとしての『遺伝子』(=DNA)」というメタファーは、強力に我々を支配している。実際、あるDNAの部分配列をある機能や形質に結び付けることができる、という知見がどんどん蓄積され、DNAを扱う「分子生物学」が生物学のあらゆる分野に浸透していくことによって、このメタファーのもつリアリティはますます強力なものになっている。これは殊にドーキンスの巧みなレトリック以降、生物学者の外へも広がりを見せ、「バイオ」や「遺伝子治療」の話題性ともあいまって、いまや「常識」に属すると言っても良いだろう。
『機械の身体』(E・F・ケラー)へのコメントの中で、僕は「メタファーが我々の自由な思考を縛っていることはないのか」と書いた。言うまでもないことだが、DNAは何かを「設計」したり「支配」することはない。具体的には細胞のなかである化学反応に関与しているだけである。それを「設計」とか「支配」とか言うのは人間がそのようなメタファーによる理解を好むというだけのことだ。しかしいったん「支配」と言ってしまうことによって、言葉はそれ以上の力を発揮してしまう。まるでDNAが意志をもち、目的をもち、計画をもっているかのようなイメージが形成される。さすがに生物学者の多くはそこまで極端な影響はうけないだろうが、「遺伝子に隷属する」ぐらいのことはうっかり言ってしまいかねない。(もちろん、自分が言っている内容を分かった上で、分かった相手に対して言うのは、全然かまわないのだが。)DNAを「生命の設計図」とするメタファーも、「レシピ」や「プログラム」のメタファーも、同じ危険性をもっている。逆に言うと、新奇なメタファーを開発することによって、新しい視座で物事をみることができるという効用もある。これは表裏一体のものだろう。
話をもどそう。以上のように考えれば、「遺伝子をこえるか」も何も、「遺伝子に隷属する」というイメージ自体が、ある片寄った見方による偏見かもしれない。だとしたら、そのような問題設定自体が成り立たない。あるいはせいぜい相対的な問題設定でしかない。メタファーとしては、例えば「細胞がDNAを(フロッピーディスクのような)情報記憶媒体として隷属させている」というような言い方だって可能なのだから。(もちろんこれも片寄ったメタファーです、念のため。)
僕も「物質」と「心」の問題、あるいは「心」の「自由」の問題が、科学上も哲学上も重要な問題であることは認めるが、「遺伝子」云々をその間に持ち込むのは、どうもずれた問題設定ではないかという気がしてならない。
<東京大学出版会:1996年6月刊:2472円>
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マザーネイチャーズ・トーク(立花隆)
立花隆と科学者の対話集。相手は、河合雅雄(サル学)、日高敏隆(動物行動学)、松井孝典(惑星科学)、多田富雄(免疫学)、河合隼雄(精神分析学)、古谷雅樹(植物学)、服部勉(微生物学)の7人。いずれもその道の権威だ。(松井氏はこの中では若手だけど。)
こういう本には「こんな面白いことがあるんだけど、これについてはまだほとんど何も分かっていません」という情報があふれかえっていて、面白い。
ぼく個人は、最後の服部氏の微生物の話が一番面白かった。現在の方法論ではつかまえ切れない無数の未知の微生物(それは微生物の圧倒的多数を占めるということなのだが)のことを思うとわくわくする。服部氏が「微生物ウォッチング」を提案しているのも面白い。海や山に遠出しなくても、顕微鏡一台あれば、水たまりや土のなかの多様な生物に触れることができるわけだ。でも昆虫や鳥や植物には愛好家が多くても、微生物愛好家というのはあまり聞かないよね(大昔には好事家の間で流行したという話はきいたことがあるけど)。考えてみれば不思議なことだ。
本の内容とは関係ない余談になるが、「微生物ウォッチング」のような博物学的研究がないと「本当の意味で生命を理解することにならないんじゃないか」という服部氏の言葉について、「解説」で佐倉統氏が「見ようによっては、分子とか遺伝子とか言っている現代生命科学の根本を、完璧に否定することにもなりかねない」と言い、「過激な発想」と言っているのは、なんか違うぞ、と思う。そういう「博物学」と「生命科学」を対立させて考えるような発想のほうが、ある特殊な一時代の片寄った「過激な」発想なのではないかと思う。そしてそのような発想はすでに過去のものとなりつつあるのではないかとも思う。そういう意味で服部氏の発言は、今の時代において、きわめて穏当な主張だと、ぼくは感じるのだが。
<新潮文庫:1996年12月刊:520円>
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バイオスフィア実験生活(アビゲイル・アリング、マーク・ネルソン)
副題には「史上最大の人工閉鎖生態系での2年間」とある。「バイオスフィア」とは「生命圏」の意味で、この地球のように、生物が太陽光を利用しながら大気、水、その他の資源を繰り返し循環して利用している閉鎖生態系を指す言葉だ。この閉鎖生態系のミニチュアを人工的に作り上げたのが「バイオスフィア2」という実験施設だ(「バイオスフィア1」はこの地球自体をさす)。本書は「バイオスフィア2」で8人の科学者が2年間、水、空気、食料をリサイクルしながら生活する、という壮大な実験の記録である。著者は二人ともこの実験に参加した科学者だ。
このような小さな閉鎖システムでは、ほんの些細なことが、外界とは比べ物にならないほどの大きな影響を及ぼす。ごく微量の有害物質が排水にまじっただけでも、致命的な結果になりかねない。事象どうしの影響が拡大し、自然現象がスピードアップする。著者いわく「時間の顕微鏡」であり、生態学的サイクルをスピードアップする「生態学のサイクロトロン」なのだ。
本書には「バイオスフィア2」での日常生活の様子や様々なエピソードももりだくさんだ。特に面白かったのは、予定していなかった生物が施設の中に入り込んで色々と問題を起こした、というとこエピソード。作物の害虫やゴキブリはまだしも、ネズミやツグミ、スズメまで入り込んでいたというから驚く。
それにしても、こういう壮大なことを民間の資金でやってしまう、というところに、アメリカという国の底力というのが現われているなあ、と思った。
<講談社ブルーバックス:1996年11月刊:840円>
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ラブ・イズ・ザ・ベスト(佐野洋子)
佐野洋子が出会った、様々な人々(友人、家族、いきずりの人を含めて)を描いたエッセイ集。10年ほど前に出た本の文庫化。
佐野洋子は文章がうまくて、読むたびにほれぼれとしたり、ため息をついたり、ああ、こんな文章が書けたらなぁ、といつも思う。とても好きな作家の一人です。
<新潮文庫:1996年12月刊:360円>
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文学を科学する(井口時男、徃住彰文、岩山真)
「文学」を題材に、自然言語処理、認知科学、文芸批評の3分野の研究者が、それぞれの立場からアプローチを試みる。最後に3人の共同討議が収録されている。東京工業大学の「総合科目」の授業内容をもとにしている、とのこと。
自然言語処理の岩山氏は「自然言語による情報伝達モデル」というのを使ってコンピュータに「比喩」を「理解」させる方法を述べる。しかしこれはあくまでも自然言語「理解」を計算機にのせるためのモデルであって、実際に人間がこのモデルに沿って情報伝達をしているわけではない、とも言う。つまり人間の「比喩理解」のしくみ自体を知ろうというより、文学の解析に使えるツールを作ろうということなのだろう。3者のなかでは最も工学的な発想なのだと思う。
認知科学の徃住氏はより人間の認知に密着した形でアプローチを行なう。徃住氏は「徹底して機械論的な立場から分析を進め」ると最初に宣言し、人間の「感性」という思考過程をとりあげて、より基本的な心的諸過程に解体してこれを理解しようとする。「白昼夢」的思考をシミュレートする"DAYDREAMER"というプログラムの話は興味深い。
最後に井口氏は、テキストを読むあるいは語るとはどういうことか、を文芸批評の立場から述べる。テキストには唯一の解釈などというのは存在しない。テキストを読むということはむしろ自分自身を読むことなのだ、と井口氏は言う。
読み終えてみて、自分でも意外なことに、僕には井口氏の論がいちばんすっきりと胸に落ちてきたように思える。計算機をツールとして使うならば、解釈し批評する主体はやはり人間の感性という不明瞭なものとして残る。では、といって感性をシミュレートするような特定の(たとえば文芸批評をできるような)プログラムを書いて(それ自体きわめて困難だと思うが)、それがどれほどうまく走ったとしても、やはりそれはプログラムを書いた人の知識なり感性なり視点を反映したものにすぎないように思える。コンピュータが本当に何かを(見かけ上にしろ)「解釈」したり「感じ」たりできる「主体」になるためには、プリミティブな状態から出発して、「外界」の物事を経験し、「外界」に向かって実践し、学習し、その結果を主体の構築にフィードバックするような、つまり「生物的に」成長するコンピュータプログラムが必要なのではないかという気がする。気がするだけだけど。
<朝倉書店:1996年11月刊:2575円>
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セッション(綾辻行人 対談集)
推理作家、綾辻行人の対談集。対談相手は同業者が多いけど、養老孟司とか大槻ケンジ、楳図かずお、なんていう人たちも含まれている。
他の対談は、まあどうでも良かったのだけれど、京極夏彦との対談が読みたかったので買った。京極さんはやけに丁寧な言葉遣いがおかしい。作品の(あるいは"著者近影"の)イメージとはだいぶ違う。他には法月綸太郎との対談は、まあ面白かった。"『巨人の星』は「本格」だ"説(笑)とかね。
それはともかく、綾辻氏には『暗黒館』を早く書いてほしいものだ。
<集英社:1996年11月刊:1600円>
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イスラームのとらえ方(東長靖)
またまた「世界史リブレット」の一冊。(このシリーズ、結構気に入っている。)イスラームについてはシリーズの他の巻でもっと詳しい各論が出るようだ。本書は総論といったところで、イスラームの成立から発展、そして現代までの概史を描き、あわせて日本人がイスラームに対して抱きがちな偏見・誤解を解き、イスラームを見るための視点を提起する。
世界宗教ではあっても、イスラームは仏教、キリスト教にくらべて我々にはなじみが薄い。でも日本でもイスラーム圏の人達と接する機会はどんどん増えている。うちの大学にも留学生がたくさん来ているし。このくらいの基礎知識は必要になってくるんだろうね。
<山川出版社(世界史リブレット15):1996年11月刊:750円>
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山椒魚戦争(カレル・チャペック)
『星界の紋章』の口直し、というわけではないが、SFの古典的名作と言われる本書を読んだ。たしか岩波文庫からも訳が出ていたと思うが、こちらは『小学館地球人ライブラリー』の小林恭二/大森望による訳。
人類の敵となる山椒魚たちがとても魅力的に描かれている。終末テーマといわれる分野に属するのだろうが、暗さはまったく無く、全編がユーモアにあふれている。面白くて、一気に読める。名作と言われるだけのことはあると思った。
<小学館:1994年11月刊:1500円>
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星界の紋章 I - 帝国の王女 -(森岡浩之)
SFを読むのは久しぶり。ずいぶん評判になった作品なので、試しに読んで見ようと思った。
…のだが、
読まなきゃ良かった、と思った。もう少し読んだら面白くなるのかなあ、と思いながらずるずる読んでしまったが…。なんでこれが好評なのだろう?次の巻は面白いのかなぁ…。もう読む気はないけど。
<ハヤカワ文庫JA:1996年4月刊:500円>
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暗黙知の次元 - 言語から非言語へ -(マイケル・ポラニー)
というわけで、現代思想11月号(特集=複雑系)を読んだ勢いで買ってしまったマイケル・ポラニーの著作を読んだ。
人間の認識や実践には、言語化も分析もできない包括的な知、「暗黙知」が働いている、とポラニーは言う。この知は日常の認識・実践のみならず、客観的で明晰に語ることができるかのように思われている科学の領域でも重要な働きをしているという。
さらにポラニーはこの「包括する」という行為は、包括される対象自体の包括的な存在様式と類似していると主張する。この対象の包括的存在様式は「創発」という運動によって根拠づけられる。当然、要素還元主義は批判される。生命の進化もまた創発の歴史であり、進化に上昇的な力を認めない進化論も批判される。
他のところはともかく、進化に関する主張にはうーん、と首をひねってしまった。進化において新しい質が創発的に付け加わってきたというのは良いとしても、「進化が上向きの自律的な前進力をもつ」とか「人間の位置を地球における生命の最高の形式として、そして、また進化の過程による人間の出現を進化の最も重要な問題として認めることを、科学的客観性の名においてこばむならば、それは知的倒錯の最たるものとなろう」とまで言われてしまうと、困ってしまう。「創発」という概念にそのような「価値」の次元をもちこむべきではないと思うんだけど…。
<紀伊国屋書店:1980年8月刊:1500円>
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消えたマンガ家(大泉実成)
雑誌の看板になるほどに実力も人気もあったマンガ家が、あるいは特異な才能でカルト的な人気を集めたマンガ家が、ある日ふと気付くとマンガ界から消えてしまっている。かれらはどこに消えてしまったのか、そして何故?--- 雑誌『Quick Japan』連載のルポ「消えたマンガ家」シリーズに、鴨川つばめ(『マカロニほうれん荘』の作者)のインタビューを加えて単行本化されたのが、本書。鴨川、ちばあきおなど五人の作家が取り上げられている。
子供のころファンだったこともあって、鴨川つばめのインタビューが一番印象的だった。『マカロニほうれん荘』がどのような状況の中で作られ、終わっていたのか。鴨川氏の話を読むと、作品から受けた印象とのあまりのギャップに唖然とする。
作家のマンガへの思いの強さが、出版システムの中で幸福に受け止められず、出版社や編集者との葛藤を極限に推し進めてしまったとき、マンガ家は筆を折る。しばらくの沈黙のあと復活できる者もいるが、そのまま消えていく者もまた多い。作家を消耗品のように消費していくシステムは、出版社の問題であると同時に、我々貪欲なマンガ消費者の問題でもあるのかなあ、と思った。
<太田出版:1996年8月刊:800円>
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絡新婦の理(京極夏彦
題は「じょろうぐものことわり」と読む。『鉄鼠の檻』につづく京極夏彦の長編第五作。
この人は、本当に話がうまい。830ページの長さにもかかわらず、まったく話がだれず、ぐいぐい引き込まれていく。読み終わってしまうのが惜しいと思わせる小説は多くないが、京極夏彦の作品はすべてそういう魅力がある。小説を読む愉しみを堪能しました。
<講談社:1996年11月刊:1500円>
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現代思想:11月号:特集=複雑系
去年の12月号(「特集=思考するDNA」)以来、久しぶりに『現代思想』の特集を通読した。5月号(「特集=科学者とは誰か」)や9月号(「特集=観測のパラドックス」)にも面白い論文は色々あったのだけど、興味のないものまで読むのはつらくて、通読はできなかった。今回は僕でも読める論文が割と多かったということになる。
僕にとっては、やはり生物関係の人の論文が面白かった。去年の12月号で『分子ゲームとしての「再生」』を書いていた大和雅之氏の論文『タンパクそして遺伝子、商品そして貨幣としての』は柄谷行人の『マルクス、その可能性の中心』を引用しながら、タンパク/遺伝子を商品/貨幣になぞらえて、「分子生物学」の暗黙の前提を浮きあがらせ、批判していく。こういうアナロジーは何か怪しげな感じもするのだが、結構面白く読めた。思わず参考文献に挙がっていたマイケル・ポラニーの本を買ってしまった。(そういえば柄谷行人の『探究 I』を買ってしまったのもこの人の論文のせいだったなぁ(笑))。あとは松野孝一郎氏の『統整を越える構成』も面白く読めた。
結局、「複雑系」そのものについての議論よりも、認識論、存在論、科学方法論、言語といったものに対する批判的考察といった部分の方が面白く読めた気がする。というか「複雑系」を考えはじめるとどうしてもそういう方向の議論が必要になってくるというのが、今回の特集の共通したモチーフだったように思える。
<青土社:1996年11月刊:1200円>
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ルネサンス文化と科学(澤井繁男)
『アフリカ史の意味』と同じ「世界史リブレット」の一冊。ルネサンスという特異な時代の文化と<知>のありかたを、「コスモロジーの探究」という視点から探っていく。
なかでも第三章の「新プラトン主義的」「ヘルメス的」思想にもとづく「自然魔術」の自然観の話が興味深かった。「魔術」は近代自然科学ともキリスト教とも異なる自然観であり、ルネサンスの時代においてはガリレオに代表される自然科学よりも、むしろ魔術のほうが一般的な思想だった、という。このように違った知の体系だったにもかかわらず、相互に作用していた魔術と科学の姿を、ガリレオとカンパネッラの交流を通して描いた逸話が面白い。
<山川出版社(世界史リブレット28):1996年10月刊:750円>
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進化生物学における比較法(P.H.Harvey & M.D.Pagel)
「比較法」はダーウィン以来、伝統的に使われてきた、進化学の研究にとって不可欠の方法である。本書は近年の「比較法」の新しい発展を解説した本。最大の要点は、「比較法は系統関係を考慮に入れたものでなければならない」ということだ。この立場に沿って、比較すべきデータを、どのような進化モデルによって、どのように統計処理し、どのように解釈するのかを述べている。
僕も生物学においては「比較」が本質的に重要だと考えているが、著者たちやこの本の想定される読者層とは問題意識のもちかたが大きく違っているということを感じた。「まえがき」でも「序論 」でも述べられているが、彼らにとって比較は「適応」を見い出すための方法なのだ。もちろんそれはそれで立派な進化学研究なのだが、僕が比較を通して知りたいと思うのはそのような目的因ではなく、生物の多様性を生み出している機械的な原因であり、それを生み出してきた進化のプロセスなのだ。比較生物学の諸分野の中で、少なくとも「比較発生学」はずっとこのことを問題にしてきたのだと思う。そして僕の認識では「比較発生学」は常に「系統」の問題と密接に関わってきたのであり、「比較は系統関係を考慮に入れなければならない」というのは発生学者にとっては言われるまでもなく当り前のことだったのだと思う。もちろん、祖先の形質の推定とか、系統の復元のテクニックには、他分野から学ぶべきところはたくさんあるのだが。
僕が本書を読もうと思ったのは、第六章で個体発生の進化の問題に深く関連する「アロメトリー」が扱われていた、というのが最大の理由なのだが、アロメトリーの解釈にしても個体発生の機構論という観点は弱く、「適応」の観点が中心になっている。やはり現在の「進化生物学」の中心コンセプトはここにあるのかなあ、と感じる。「適応」でいくら説明されても全然分かった気にならない、という人間は少数派なのだろうか。
<北海道大学図書刊行会:1996年10月刊:7725円>
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日々の暮し方(別役実)
「正しい退屈の仕方」「正しいお散歩の仕方」「正しい亀の飼い方」など、正しい生活の作法を別役実が解説する。もちろん、『真説・動物学大系』などの著作群に見られる別役流"超絶"ロジックは本書でもいかんなく発揮されている。(と言っても、読んだことのない人には何のことか分からないだろうけど…。)
2年前に発売されていたらしいが、見逃していた…。
<白水社(白水Uブックス):1994年9月刊:880円>
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アフリカ史の意味(宇佐美久美子)
山川出版社の新シリーズ「世界史リブレット」の一冊。1テーマごとに分かれた薄いブックレットを56冊、順次出版して行くらしい。
さて、本書のテーマはアフリカの歴史。高校のときの世界史の授業を思い出しても、アフリカ史というと古代エジプト史と、地中海沿岸史、イスラム教との関連、奴隷貿易、そして植民地支配と戦後の独立運動というぐらいしか思い出せない。ほとんどがアフリカ外部の方に主体のおかれた、外部と関係する限りにおいてのアフリカの歴史であって、アフリカ独自の歴史にはほとんど触れる機会はなかったと思う。
著者によれば、アフリカは「歴史なき大陸」とのレッテルをはられ、その歴史を奪われ、あるいは外部から押し付けられてきたという。それが現在の民族対立にまで結び付いている。奪われてきた歴史を取り戻すため、近年、アフリカ独自の歴史を研究しようという動きが生まれており、本書でもその例がいくつか取り上げられている。マリ帝国、ソンガイ帝国、スワヒリ文明の歴史など。僕にとってはいずれもまったく知識のない話で、おもしろかった。
このシリーズ、予告されているタイトルを見ると、『中世の異端者たち』とか『世界史のなかのマイノリティ』とか、なかなか面白そうなテーマが並んでいる。興味あるテーマを選んで手軽に読めるのが良い。
<山川出版社(世界史リブレット14):1996年9月刊:750円>
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動物園の博物誌(小原二郎)
著者は広島市の安佐動物公園の元園長。動物園の運営、動物園での科学研究、そして動物そのものについて、エッセイ風に綴られている。とくに面白かったのが、動物園の設計がどのような考えのもとになされているかという話。たとえばゾウと観客を隔てている壕をゾウが落ちたときのことを考えてどうつくるか、とか、動物の配置の仕方に関する思想など、客として見ているだけでは分からない話が色々あって興味深い。
安佐動物公園といえばオオサンショウウオの飼育が有名だが、これに関する話も面白い。オオサンショウウオは自分の生まれたところに回帰して産卵するという性質があるらしいのだが、その回帰の欲求を動物園での飼育下でどのように満たしてやるか、という話などなど。著者の情熱が伝わってくる。
<中国新聞社:1993年11月刊:1800円>
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オタク学入門(岡田斗司夫
オタクとは進化した視覚をもつ人間である。オタクとは高性能のレファレンス能力をもつ人間である。オタクとは飽くなき向上心と自己顕示欲をもつ人間である。---著者は「オタク」をこのように定義する。著者によれば、日本のオタク文化は、江戸時代の消費文化である「職人文化」、すなわち職人の芸、技を楽しむ「鑑賞者」の文化の正当な後継者である。オタクたちは職人の作品に対する鋭い視線、「粋の目」「匠の目」「通の目」をもつ、優れた鑑賞者なのだ。オタク文化は西洋起源で「クリエーター」中心の「サブカルチャー」に対抗する、日本発の「鑑賞者」の文化であり、いまや世界を席巻しつつある。著者はやがてオタク文化がメインカルチャー、サブカルチャーをおさえて世界の主流になるのではないかという。
どこまでもポジティブに「オタク」をとらえる著者の視点は自信にあふれ、勢いがあって、読んでいて楽しい。オタク的鑑賞法の実例にあげられている題材も面白く、たとえば「ルパン三世・カリオストロの城」のオープニングの解析法など、うならされるものがある。オタク、あなどりがたし。
<太田出版:1996年5月刊:1400円>
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Evolutionary Developmental Biology (Brian K. Hall)
「個体発生と進化」という古くて新しい問題をとりあげた本。
第一章は発生と進化に関わる用語と概念の歴史的変遷をたどり、第二章ではBurgess Shale化石群とからめて動物のBody Plansを解説、第三章ではジョフロア - キュヴィエ論争をとりあげ、四章、五章では「原型」「相同性」「Bauplan」といった概念の変遷をたどる。第六章以降はより具体的な個体発生現象・機構との関係で、発生と進化の関係の議論が展開されていく。ここでの中心概念は「個体発生の階層性」と「Genetics, Epigenetics, Environment のintegration」である。
正直言って、最初の部分はこれまで論じられてきたことの繰り返しのように思えて、少々退屈だった。しかし"Genetics, epigenetics and environment"と題された第九章にさしかかるあたりから、話は断然面白くなる。"genetic assimilation"という現象を中心に、個体発生におけるepigenetics、環境の影響、集団の遺伝的variation、選択、個体発生におけるCanalization、適応、等々の相互の関連について議論が展開される。さらに"Fundamental developmental units"、"Causal factors"という概念と、形態の変化に関する"Quantitative Genetics Model"を提出する。そしてこの議論が第十章の"homology"に関する重要な議論につながっていく。("homology"概念に関するHallの見解は僕にはいまひとつ納得できないところもあるが、一つの見解としては面白い。)九章、十章のこの議論を読めただけでも、この本を読んだ価値はあったと思う。
「個体発生と進化」に関する本は洋書ではたくさん出版されているが、日本ではこのような内容を扱った本はほとんど皆無に等しい。いろんな分野の知見をまとめて独自の見解(生命観、進化観)を作りあげていく力、言ってみれば「総合する力」が足りないのかなあ、と思う。柴谷篤弘氏くらいがまとまったものを書いてくれないかなあ、と思うのだけれど。
<CHAPMAN & HALL:1992年刊:$55.50>
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マンガ・パソコン通信入門(荻窪圭・永野のりこ)
まあ、いまさらパソコン通信入門でもないのだけど。しかもマンガで(笑)。しかし永野のりこがブルーバックスで描いた!というだけで、ファンにとっては話題性十分。これは読まねばなるまい、ということで読みました。予想されたことだけど、永野的破壊力はいま一つ。でもあの調子でやられたら入門書にならないものね。なお、永野のりこのブルーバックスへの熱い想いが綴られた、"The secret of マンガ・パソコン通信入門"はこちらで見ることができる。
<講談社ブルーバックス:1996年9月刊:760円>
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昆虫の誕生 - 一千万種への進化と分化 - (石川良輔)
現生昆虫のすべての目(もく)を、系統関係にしたがって見渡した、昆虫入門の本。
以前から昆虫については勉強不足を感じていたので、僕にとっては大変ありがたい本だった。読んでいてほとんど過不足を感じることがなく、入門者にとっては必要かつ十分な内容だと思った。系統関係に基づいて書いてあるのもうれしい。勉強になった。
ひとつだけ、贅沢な注文をつけるとすると、系統学の話というのは、「論争的」であるほど面白いと僕は思っている。「ここの系統関係についてはこういう説とこういう説が対立していて、ある証拠に基づくとこう考えられるが、別の証拠に基づくと…」というような話がもっと豊富にあれば、推理小説的な面白さが加わって、より引き込まれたように思う(西村先生の名著『動物の起源論』とか、Willmerの "Invertebrate Relationships" のように)。まあ、それを意図した本ではないと思うので、これは僕のわがままですが。
<中公新書:1996年10月刊:700円>
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入門エスノメソドロジー - 私たちはみな実践的社会学者である - (アラン・クロン)
エスノメソドロジーの入門書。
エスノメソドロジーについて知りたいと思って読んだ(当り前だ)のだが、うーん、これが「入門書」だとしたら、いまの僕には難しすぎ>エスノメソドロジー (^^; 。意味のとれない日本語が多すぎる。
とりあえず、他の本も当たってみようか…。
<せりか書房:1996年9月刊:2369円>
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八匹の子豚 - 種の絶滅と進化をめぐる省察 - (スティーヴン・J・グールド)
グールドのエッセイシリーズ第6弾。
書きたいことは色々あるけど、今、時間がないので、ちょっとだけ。形態学、発生学、古生物学の交差するところに、進化学の新しい未来が開けるのだ、と思わせる、今回のエッセイ集でした。鍵になる概念は「相同性」と「発生的制約」と「歴史の偶発性」。やはりグールドの本にはずれは無い。続きはまた後で…。
<早川書房:1996年9月刊:上下各1800円>
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水族館行こ ミーンズ I LOVE YOU(内田春菊
内田春菊が日本全国55の水族館を訪ねて描いたイラストエッセイ。先日、探しているんだけど見つからないと書いたが、今日ようやく生協で見つけた。奥付けは9月10日発行になっているのに…。10月1日では遅すぎるよね。
水族館の紹介本としては情報量は多くないし、著者も言っているとおり古かったり不正確だったりするかもしれないが、エッセイ本として読めば面白い。水族館に来ている客の反応とか、何がなんでも「〜のショー」を見せようとする館員にいらついたりとか。僕もアシカのショーなんかはわりとどうでも良い方なので気持ちは分かります。(でもシャチのショーなら見たいな。)
さて、あとは余談。
水族館はやっぱり気に入った水槽の前で気がすむまで眺めているのが楽しいと思う。広島の宮島水族館なら、スナメリとペンギンかな。特にスナメリの顔はいくら見ていても飽きない。夏に行ったときは飼育係の人がペンギンを散歩(?)させていて、触らせてくれたのがうれしかった。ペンギンには迷惑かもしれないけど。同じく宮島ではたまたまプランクトンの特別展示をやっていて、ワムシとか甲殻類の類を顕微鏡で見せていた(客はほとんどいなくて、職員の子が顕微鏡を覗きながらスケッチをしていた(笑))のも面白かった。あれで結構気に入りました>宮島水族館。
マニアックだったり何かポリシーをもって展示している水族館というのも良い。白浜の京大瀬戸臨海実験所附属水族館では無脊椎動物の展示が印象に残っている。名古屋のメダカ水族館もメダカへのこだわりはすごかった。どの水族館でも同じではつまらないよね。
<扶桑社:1996年9月刊:1400円>
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ガルムの標的(グイン・サーガ 53巻)(栗本薫)
グイン・サーガの新刊は舞台をモンゴールに移して、激しさを増すアリとカメロンの対決を描く。イシュトヴァーンは例によってすねているだけで(笑)、話は勝手に進んでいく。
アリ VS カメロンも緊迫しているけど、長い目でみれば、今回の一番重要な出来事は、マリウスとオクタヴィアの娘マリニアの誕生じゃないかな。波乱の人生はまぬがれえないだろうけど、幸せになってほしいものです。
<早川文庫JA:1996年9月刊:480円>
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おさかな話(内田春菊
内田春菊の「おさかな」に関するエッセイ・マンガ。『レタスクラブ』連載。前半の「おさかな話」は水族館にいる魚(その他海の生き物)のお話、後半の「さかなを飼おう」は内田春菊の体験にもとづいた魚を飼うための基礎知識のお話だ。
内田春菊さんがこれほどの魚好きとは寡聞にして知らなかったが、子供の頃からいろんな生き物を飼っていたらしい。そういえば『シーラカンスOL』などのさかな系(笑)の作品もあったっけ。
気軽に読めて、楽しい本。ところで、内田春菊の『水族館行こ ミーンズ I LOVE YOU』ってもう発売されたのだろうか。探しているんだけど見つからない…。
<ぶんか社:1996年9月刊:1400円>
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笑わない数学者(森博嗣
『すべてがFになる』『冷たい密室と博士たち』に続く森先生の第3弾。おなじみ犀川助教授と西之園萌絵お嬢様が巨大なオリオン像消失と殺人事件の謎に挑む。
今回の場合、不可能状況は「オリオン像消失」にある。殺人事件はつけたしのようなもので、消失の謎が解ければ結論まではほとんど一直線である。で、森氏本人も認めているように、この謎自体は容易に見破る読者が多いだろう。作中に出てくる算数クイズの方が難しいくらい(笑)。でも森氏いわく、これは「トリックに気づいた人が、一番引っかかった人である、という逆トリック」なのだそうで、だとすれば僕はまんまと引っかかっているわけだ。だってどこが逆トリックなのか全然わからないんだもの (T^T)。誰か分かった方、教えて下さい。

<講談社:1996年9月刊:880円>
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深海生物学への招待(長沼毅)
海底の熱水によって生きるチューブワームをはじめとした、深海生物の姿を紹介している。
潜水艦しんかいに乗って研究を行ってきた著者だけあって、潜水艦や深海の描写に臨場感があって、楽しめた。熱水生物の様子はTVやビデオで見たことがあるけれど、実物を肉眼でみるのは全然違うのだろうなあと思うとうらやましい。だれでも気軽に深海旅行ができる日が来ないかなあと思うが、僕が生きているうちには無理だろうな、きっと…。
ところで長沼氏は我が大学の先生なんですね。そういえば生物生産学部の玄関脇にチューブワームの標本が展示してあったっけ。
<NHKブックス:1996年8月刊:900円>
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植物の見かけはどう決まる - 遺伝子解析の最前線 -(塚谷裕一)
シロイヌナズナを用いて植物の形態形成を研究している若手研究者、塚谷氏が、大学院時代からの研究の道筋をたどりながら、植物の形作りの仕組を解説する。
動物と植物の差はあれ、同じ個体発生を研究している身であるので、塚谷氏の考え方の筋道はよく分かる。特に生物の多様性を意識しながら研究を進めている点に共感を覚える。
特に最後の章で述べられたアイディアが面白い。異なる形質をもつ2種の間で、他種遺伝子の導入実験を行うことによって、形質の進化の背後にある遺伝的変化を捉えられるのではないかという発想である。進化を仮想的な「遺伝子」の増減とか、「適応」による「なぜなぜ話」で「説明」することにあきたらない、発生生物学者の思いを感じる。
似たような異種間の遺伝子導入実験は、僕が大学院生時代に使っていたホヤを用いても行われている。(もっともホヤはシロイヌナズナとちがって遺伝学的手法が使えないので、顕微注入法による遺伝子導入実験であるが。)大学院時代、僕たちは筋肉特異的遺伝子のシスエレメント解析を通じてホヤの筋肉細胞分化の機構に迫りたいと考えていた。その過程で異種間の遺伝子導入実験により、系統的に離れた2種のホヤでも筋肉特異的遺伝子発現機構がよく保存されているという結果を得た。そこで僕らが考えたのは、有尾幼生を経て発生するホヤから無尾幼生を経て発生するホヤへの進化において起こった進化的変化の実態を明らかにするのに、この実験系が使えるのではないか、ということだった。結局これは僕らの研究室では実現できなかったのだが、僕の同級だった日下部君が、ポスドクで行った先のJefferyとSwallaらのグループの系と組み合わせて、これを実現した。分子発生学の手法を使って進化の背後にある変化を捉えようという彼らの仕事は大変エキサイティングだと僕は感じている。日下部らの研究は遺伝子のシスエレメント解析の文脈に沿った研究であり、塚谷氏のアイディアは遺伝子産物の機能解析の文脈での発想であるという点で違いはある。しかし言うまでもなくシスエレメント解析は転写因子の機能解析と密接に関連しているわけだから、発想は近いのだと思う。このような分子レベルでの直接の比較(遺伝子入れ替え実験)による進化の解析は、今後の進化研究の一つの流れになるのではないかとあらためて思った。
<中公新書:1995年2月刊:720円>
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生物学にとって構造主義とは何か(柴谷篤弘ら編)
1986年に日本で開かれた「構造主義生物学国際ワークショップ」の記録。講演者は、R.トム、F.ヴァレラ、B.グドウィンなどの大御所から、若手研究者まで30名近くに及び、分野も数学、遺伝学、発生学、分類学、生物地理学、行動学など多岐にわたる。
今年のはじめに買って、いくつかの論文をつまみ読みしただけで投げ出していたが、最近、トムやヴァレラの本を読んだので、ついでにと思って通読してみた。当然、すべての論文が面白いというわけにはいかなかったが、興味深く考えさせられる論文も多かった。特にラスル・グレイという若手研究者が短い講演のなかで、伝統的な二項対立の思考に終止符を打つための方法を提起し、ヴァレラが色の認知を例に引きながら内部/外部を対置させる思考法を批判していたのが面白かった。グレイもS.オーヤマを引用していたが、昨年の『現代思想』の12月号(特集:思考するDNA)に載ったオーヤマ(1992)『個体発生と系統発生--二元論は繰り返す?--』でもこのような二元論的対立が取り上げられていて、興味深く読んだことを思い出す。対立する(と思われている)二項を単にモザイク的に折衷するのではなく、切り離しえない項の間の相互作用として(それらの境界そして相互作用プロセスにおいて)理解していくことがたぶん必要なのだろうと感じた。実行するのは難しいのだけれど。
<吉岡書店:1991年9月刊:7725円>
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自然へのまなざし - ナチュラリストたちの大地 -(岸由二)
自然に親しみ、生き物に共感し、足もとからの「環境革命」を目指す----そんな「ナチュラリスト」として生きている著者が、自然のイメージ、進化論、環境問題への提言などを綴ったエッセイ。
読んで思ったのは、僕は(残念ながら)「ナチュラリスト」ではないな、ということ。僕は生き物が好きだし、特に海の無脊椎動物は大好きで、磯になら何時間いても飽きないが、それは僕の「日常」でも「足もと」でもなく、かれらに共感を感じるということもないから。たぶん僕が海産無脊椎動物が好きなのは、かれらが僕にとって非日常的であり、奇妙であり、多様であり、進化という観点から見てとてつもなく面白く、つまりは僕の好奇心をくすぐって止まないからだと思う。逆に鳥や植物にはそれほど心が動かないのは、それを日常みかける風景の一部と感じてしまうからであり、進化の観点から言って僕の興味の中心ではないからだろう。たとえば鳥は確かに色々な種類がいるが、(非難を覚悟で言ってしまえば)それらの違いは僕にとってあまり重要ではない。生態学の人と違って、僕は適応現象や、集団内での遺伝子の増減を云々することや、種分岐のような小さな進化にはあまり興味がないということもある。もっというと、僕は目、綱、門のような高次レベルの進化に興味があるのだが、このような大規模な進化はそのような生態学的、集団遺伝学的観点では捉えきれないと考えているからでもある。
僕も子供のころは森や川や池で遊んだし、虫をとったりもしたけれど、そのような楽しみはいつの間にかとぎれて、他の遊びにとってかわられてしまった。だから僕が自然に感じる親しみというのは、岸氏のような体に染み着いたものではなく、生物学の知識と興味によって媒介されたもの、知識に媒介された感性なのだと思う。だから先に書いたように片寄ってもいる。僕が「ナチュラリスト」ではないと書いたのは、そういう意味だ。まあ「ナチュラリスト」じゃない自然への関心の持ち方、親しみかた、自然保護への関心のもちかたというのも可能だと思うので、それで許してもらいたいな(笑)と思いました。
<紀伊国屋書店:1996年7月刊:1800円>
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物理と対称性 - クォークから進化まで -(坂東昌子)
『力とは何か』(菅野禮司)と同じ丸善の"Science Break"シリーズの一冊。菅野氏の本が「力」をキーワードに物理学を見ていたのに対して、こちらは「対称性」がキーワードになっている。対称性、変換、群、分類、法則の対称性、と話が進み、素粒子、クォークの発見史において「対称性」の概念がいかに強力な道具として働いたかを示し、最後に「自発的対称性の破れ」から相転移、進化を論じる。
とくに前半の基礎概念の解説がとても面白かった。群論の初歩の初歩は大学一年の線形代数でならったおぼろげな記憶があるが、当時はそれが何の役にたつのか、見当もつかなかった。坂東先生は今、文系の学生に物理を教えているそうで、なるほど平易な解説は数学が苦手な僕にもよくわかる。
対称性の観点から生物を見るという試みも散見されて面白い。生物の体も回転対称、左右対称などさまざまな対称性を示す。また体節の繰り返し構造なども対称性の例だろう。一般に生物が「高等」になるのはこのような対称性が破れて、より「複雑」な体制を進化させるときなのかもしれない。個体発生というのもある意味で対称性が破れていく過程だし。変換群と生物の体制、階層的高次分類、発生学的制約、進化的新奇性などとの関連を考えるといろいろ面白そうだ。
<丸善:1996年7月刊:1648円>
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続 大いなる仮説 - 5.4億年前の進化のビッグバン - (大野乾)
大野乾氏が研究者として優れた人だということは認めた上で言うのだけれど、この本の内容には問題があると思う。特に第三章「新たなる仮説 -- 生物系統樹の新解釈」と題した章の内容は、サブタイトルや腰帯の宣伝文句から見てもこの本の中心となる部分だと思うが、素人の僕から見ても厳密さに欠ける記述や間違いが見られる。学術論文ではないし、わざわざ「仮説」と題された書物であるから目くじらたてることもないのかもしれないが、説得力を大きく損なっているのは確かだろう。
#少なくとも節足動物「綱」とか、Chordata「綱」頭索「亜綱」とかいうのは心臓に悪いからやめてほしい (^^; 。
ところで、大野氏はこの本で「カンブリア初紀の動物すべては共通のゲノムを持っていた」という「パン・アニマリアゲノム」という説を提唱している。しかし「共通のゲノム」というのがどういう内容を述べているのかが判然としない。まさか文字どおり「共通」のゲノムではないでしょう?コードしているタンパク質の種類は同じだがシスエレメントが変化していて発現が変化しているとか、ある系統では機能が失われているとか、そういうことを言っているのだろうか?それならまだ納得できるが、そうだとすると、この説は何か新しいことを提唱しているのだろうか?たとえばグールドが『ワンダフル・ライフ』でより厳密かつ穏当に述べているような内容以上の何かがあるのだろうか?何を提唱したいのかよく分からないという印象をもった。
<羊土社:1996年8月刊:2575円>
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形態と構造 - カタストロフの理論 - (ルネ・トム他)
カタストロフ理論に関する論文が集められている。初版が出てからもう20年近くになる本。

数学的な部分はほとんど理解できなかったのだが、「量」ではなく「質」を取り扱う方法、言語を科学にとりいれようという試みは面白いと思った。特に生物学は「定量」という手法になじまない側面があるわけで、「質」という漠然としたものを量に還元せずに数学的に扱えるとすれば、有用だろう。トムの理論が「形態形成」という発生学の問題に深く関与しているらしいことも興味をひく。時間はかかると思うけど、数学付録も読んでみたい。
<みすず書房:1977年10月刊:3090円>
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科学研究者になる方法(上田壽)
読んで益になる本ではなかった。
 「第一章」
 「1-1」
 「1-1-a」
なんていうもっともらしい構成にしているわりに、論理が筋道だっているわけでもなく、思いつきを並べているような散漫な印象をうける。科学研究にまつわるゴシップ集とでも思えば、そういうのが好きな人には面白いかもしれない。僕はこういう品のないゴシップは好きではないが。
<洋泉社:1996年7月刊:1600円>
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資本制と家事労働(上野千鶴子)
最近、雑談のなかで、女性が抑圧され差別される社会の構造というのは、歴史的にどのように形成されてきたのかという話がでてきて、ちょっと関連する本でも読んでみようかと手にとったのがこの本。「資本主義と家事労働」という1983年のセミナーの講演録をもとに改訂したものとのこと。
女性支配の構造が「資本制」と「家父長制」という、本来別の2つの仕組から成り立っており、その間には矛盾や妥協も見られる、という観点がこの本の最大の眼目だろう。面白い捉え方だと思った。
話は少しずれるが、日本社会の現状への批判は大きく言って、一方では日本に残る「前近代的・封建的」なもの(イエ制度など)への批判としてあらわれ、他方では「近代化・都市化」で失われた「共同体的」(農村的・下町的)なものへの憧憬としてあらわれているように思われる。これはさまざまな社会問題の源に「封建的」な構造と「資本主義的」な構造(もちろん両者の結託も含めて)という2つがあることの反映だと思うのだが、一方を捨てて他方に流れるだけでは問題の解決にはならないわけで、現状批判のそのような異なる2つのベクトルが統一されうるものなのかということが僕は以前から気になっている。「資本制」と「家父長制」の2つの支配という話を読んで、このことをあらためて考えさせられた。
<海鳴社:1985年2月刊:515円>
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複雑系(M.ミッチェル・ワールドロップ)
「複雑系の科学」を取り扱うことを目指して設立された「サンタフェ研究所」と、そこに集まった科学者たちの姿を描いた科学ノンフィクション。扱われているテーマは、従来の均衡理論を乗り越える「新しい経済学」と、「人工生命」が中心だ。これらを軸に、ボトムアップ、創発性、自己組織化、カオスの縁における複雑性、適応、といったキーワードをちりばめて、還元主義的手法を超えた「新しい科学」をめざす科学者たちの姿が描かれていく。
S.レビーの『人工生命』を読んだ後なので、内容はそれほど目新らしいわけではなかったが、「学際性」ということについて考えさせられた。サンタフェ研究所では経済学者、物理学者、人工生命研究者など、様々な分野の優れた研究者たちが共通する興味の下に集まり、議論し、研究を進めている。この本には「学際的研究」の理想的な姿が描かれている。
僕自身が「学際性」ということを初めて意識したのは学部学生の頃で、経済学部の友人がベルタランフィの『一般システム理論』を読んでいるのを見たのがきっかけだったと思う。まず、このタイトルに魅かれるものを感じた。実際に読んでみて、無生物から生物、社会まで、様々なレベルの「システム」一般の性質、同形性を明らかにしていこうというベルタランフィの試みに魅了された。そこに見い出される形式が単なるアナロジーではなく、もっと深いところでこの世界のありかたを反映しているのであれば、これはまさに学際的研究が必要になる課題だろうと思った。
このような思いは僕のなかに今も根強くある。僕が実際にやっている研究(発生学)はまさに個別科学だ。しかし僕としては、発生学は必ず「システム」と「進化」の問題を解くための重要な鍵になるはずだという思いがある。逆に、発生学や進化学においても還元論を超えた、たとえばカウフマンのような発想が重要になってくるだろうという予感もある。だから進化学のような生物学内の他分野はもちろんのこと、システム理論や人工生命、人文社会科学も含めた広い諸分野と発生学の相互作用が、双方にとって重要だと思っている。
もちろん現実には学際的研究というのは難しい。僕がいる「総合科学部」でも「学際性」がうたわれてはいる。しかし色々な分野を寄せ集めただけで「学際的」な研究が活発になりはしない。皆、個別科学に忙しいのだ。初めから共通する目的意識をもって生まれたサンタフェ研究所のような研究組織とは違う。それが別に悪いとも思わないが、掲げた看板との間にずれがあることは確かだ。日本の大学のシステムで学際性を掲げること自体、無謀なのかもしれないね。
<新潮社:1996年6月刊:3400円>
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プロトバイオロジー - 生物学の物理的基礎 - (松野孝一郎)
本書のテーマは、生物学が可能になる物理学とはどのようなものか、である。著者は境界条件の不完全同定性と、それと一体になった一対多型写像の運動法則にその根拠を求める。これによって従来の「存在の物理学」ではなく、生成、創発を含む「生成の物理学」が可能になる。この基本的立場に立って、著者はインフォメーション、複製、発生、進化、生態系などの問題を考察していく。
僕にとっては、目から鱗が落ちるような本だった。ジャック・モノーは『偶然と必然』の中で、物質世界の必然的な発展を想定するヘーゲル/マルクス的な思想は「物活論」であるとして批判した。しかし(物理学的な部分が十分に理解できていないので印象で言うしかないのだが)この本に示された「生成の物理学」は、モノーが切って捨てた「物活論」に物理学的な根拠を与えているように感じた。しかも絶えざる均衡化、可能性の現実への転化、といった「弁証法的」な形式を伴って。物理学の専門家がこの本をどのように評価するのか、興味がある。
<東京図書:1991年7月刊:8000円>
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地を這うように - 長倉洋海全写真 1980〜95 -
長倉洋海の写真を見ると、僕は僕の生きている「現代」という時代を感じる。それは過去、たとえばスペイン内戦や第二次世界大戦やベトナム戦争(僕にとってはベトナム戦争そのものはすでに「歴史」だった)の報道写真を見たときに感じたものとは違った思いである。
長倉氏がフォト・ジャーナリストとして活動を始めたのは1980年、僕が十代の半ばの頃だ。彼の写真は僕が新聞で読み、本で読み、テレビや映画で見てきた同時代の世界、そこに生きる人達を写している。マスコミが報道する海外の情勢は、僕にとってあくまでも「社会」や「地域」の情勢であり、それについて色々な思いを抱きながらも、その下に生きている「個人」に思いを至らせることは少なかった。その少ない機会を僕に与えてくれたのが長倉洋海の写真である。抽象的な「〜ゲリラ」「〜勢力」ではない、生きている人の姿、顔、生活。文字にできないリアルが伝わってくる。
<新潮社:1996年6月刊:4800円>
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転回の時代に - 科学のいまを考える -(池内了)
『科学の考え方・学び方』の著者、池内了氏が岩波の『科学』に連載していたエッセイをまとめた本。
近代の科学は自然界の統一的な理解を求め、要素に還元して理解するという方法論を駆使して成功してきた(かに見える)。しかし20世紀の終りも近づき、政治・文化の面でも「ポストモダン」への転回が起こるなかで、科学においても「統一原理から多様性の理解へ」というポストモダン的転回がおこっていると池内氏は考える。この本は科学の諸分野にわたるこの「転回」を、さまざまなキーワードを軸にエッセイ風に記している。
「デカルト的」「機械論的」「要素還元主義的」な近代科学への批判は、それこそ20世紀に入る前から延々と続いている。機械論に対するアンチテーゼとしての生気論的な生命観、唯物論の立場をとりつつ機械論の一面性を批判した「弁証法的唯物論」や、全体論的な各種システム理論、「構造主義」を自然科学に応用しようという試みなどなど。そして意識的にあるいは無意識のうちにこれらのアンチテーゼの一部は正統の科学に取り入れられて行く。それを「転回」というのならば、現在もまたそのような長く続く「転回」の過程にあるのだと思う。終わると言われ続けながらなかなか終わらない(ように思える)「近代」と同じように、この「転回」が容易に終わるとは僕には思えない。
この本で僕が一番面白かったのは『異端の科学』と題されたエッセイだった。「異端は排除すべきでない」という池内氏の考えに僕は共感する。自然は常に人間の認識を超えて豊かであり、「自然そのもの」と「人間の認識の内容・形式」との間には常に「ずれ」が存在する。したがって「主流・正統」の科学が取りこぼしている点に目を向け、そこをすくいあげるための Alternative を意識的に提起して行くことが科学のために重要である。そのような提起は正統の科学からはしばしば「異端」と見られるだろう。しかし「異端」には(たとえ結果としてそれが間違いであったとしても)我々の知識の限界とそれを限界づけているものを明らかにし、その解決を促すという機能があると思う。弁証法で言うところの「止揚」である。現代において「弁証法」に価値があるとすれば、このような自然-認識、認識-認識の相互作用論・運動論としてではないだろうか。この運動は人間が限界のある存在である限り延々と続くだろう。言いかえれば科学は常に「転回」の中にあるのであり、池内氏の本は現代における「転回」の局面を様々に切り出したものとして読むことができるのだと思う。
<岩波科学ライブラリー:1996年4月刊:1000円>
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冷たい密室と博士たち(森博嗣
『すべてがFになる』でデビューした森氏の第2作。早い刊行ペースだが、実は書かれたのはこちらが先だったらしい。
『すべてがFになる』は賛否両論あったものの、特異なキャラクター、舞台、道具立てで強烈な印象を残してくれた。それに比べると今回は割と普通のミステリという印象だった。
読んでいる間はそれなりに楽しめた。トリックも解決にいたるロジックも良くできていて、『F…』に遜色ない。できは悪くないと思う。しかし読み終わって『F…』と比べてみると、なにか見劣りしてしまう。問題は『F…』に出てきた強烈な個性の登場人物たちに比べて、キャラクターに個性が乏しいことだと思う。まあ、すべての作品を『F…』の調子で書くというのはかなりの冒険かもしれないから、これはこれで良いのかもしれないが…。
<講談社:1996年7月刊:800円>
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パズル崩壊(法月綸太郎)
法月綸太郎の2年ぶりの新刊。短編集。作者いわく「本格ミステリーの形式にさまざまな角度から亀裂を走らせることを念頭に置」いた作品集とのこと。
そうは言っても前半の5本は本格ミステリの枠に十分おさまる作品で、特に不可能状況とその解決という構成をとる「重ねて二つ」「黒のマリア」「シャドウ・プレイ」の3本は、オーソドックスなミステリだと思う。ぼくの好みを言うと「シャドウ・プレイ」が一番好きかな。
後半の2本は、確かに本格ミステリとしては破格だ。「ロス・マクドナルドは黄色い部屋の夢を見るか?」はタイトル通り、ロス・マクドナルド、密室、P.K.ディックの三題ばなしなのだが、密室問題の解決は確かに「パズル崩壊」していて(笑)、真面目な読者は怒るのではないかなあと心配してしまう。「カット・アウト」はミステリですらないように思える。最後の1本は短編ではなく「長編の書き出し」だそうで、知らずに読んだので、え、どうしてこれで終わるの?、と愕然としてしまった(笑)。この「書き出し」、雰囲気はなかなか良いので、早く長編として発表してほしいものだ。
法月氏は悩みが多くてなかなか作品が書けないみたいだけど、悩みつつも『二の悲劇』や図書館シリーズみたいな良い作品が書けるのだし、楽しみに待っている固定客(僕も含めて)も多いのだから、がんばって書いてほしいな。
<集英社:1996年6月刊:1600円>
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かくも短き眠り(船戸与一)
チャウシェスク政権崩壊後のルーマニアを舞台にした船戸の新作。全編に陰鬱な雰囲気が漂っていて、船戸作品としては珍しいタイプの作品だと思う。そこそこ面白いのだが、なにか物足りなく感じるのは、重要な役割を演じるはずのビッグフォード「少佐」や主人公の元恋人クラウディアに存在感が希薄なためではないかと思う。主人公がこの2人に固執する理由が伝わってこないのだ。過去の回想などもおり混ぜて主人公のこだわりを読者に納得させて欲しかった。

<毎日新聞社:1996年6月刊:2000円>
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フーコー入門(中山元)
ミシェル・フーコーの思想の入門書。(ちくま新書は「〜入門」シリーズを展開していくのでしょうか。)
フーコーについては『言葉と物』で「エピステーメー」概念に従って生物学史を考察しているという事を池田清彦の本で読んで興味をもったのだが、いきなり『言葉と物』にはたちうちできそうにないので、入門書から読んでみようと思った。全般にわたる解説書だから止むを得ないが、この本の生物学に関する部分は簡潔すぎていま一つピンとこなかった。それ以外の部分も僕の興味からはだいぶ外れているように感じた。
なお、著者らはWeb上で雑誌を運営しているらしい。
<ちくま新書:1996年6月刊:680円>
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科学の考え方・学び方(池内了)
岩波ジュニア新書の新刊。中学・高校生くらいの若い人々に向けた科学論入門。科学研究の魅力、科学の方法、科学の歴史、現代科学の特徴、科学と社会の関連、科学の将来、といった内容が平易に語られている。僕が大学時代に友人たちと科学論の勉強をしていたときのテーマも科学方法論、科学の歴史、科学と社会、といった内容が中心だった。当時議論していたことを思い出しながら、楽しく読んだ。
池内氏の考え、特に市民社会の中での科学者の倫理に関しては、共感するところが大きかった。僕が学生のとき、理学部のある教官が、学生は「科学者の社会的責任」などということは考える必要はない、一人前になってから考えればよろしい、というようなことを言っているのを読んで唖然としたことがある。大学生よりももっと若い人達へ向けて、科学のあるべき姿を語る池内氏の態度はその対局にあるものだろう。市民社会の一員としてどちらが誠実な態度か、論じるまでもないと思う。
しかし理屈で共感はしても、それをどう実践していくのかを考えると難しい。日々の生活は実験で忙しく、大学や学会は狭い社会で外部との交流は少ない。研究はまったくの基礎研究で、社会との接点も、応用という形では、すぐには見い出せない。
この状況を変えていく一つの手段は、やはりコンピュータ・ネットワークではないかと思う。何の関係もなかった人達が、立場を超えて共通する関心で繋がっていく。対話を通じてお互いが変わっていき、そのことを通じて世界を変えていく。僕たちは科学研究を職業とする人間として意見を述べ、研究者社会の外部からの意見を聞くことができる。それが大げさな手段を使わずに日常のこととして可能になる。科学を社会に開かれたものにしていくという観点から言えば、これは画期的な変化だと思う。我々はこれをまだ使いこなせてはいないが、ここには大きな可能性があると思う。
閑話休題。
ジュニア新書といっても、中学・高校生だけに読ませるのは惜しい内容だと思う。大学生、そして研究者をめざす大学院生にも読んで、考えて欲しい本。
<岩波ジュニア新書:1996年6月刊:650円>
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色彩の科学(金子隆芳)
理科教育メイリングリストでホタル、虹、夕焼けと、色に関係する話題が続けて出たのを読んで、色について勉強して見ようと思って読んだ。
正直いって、色彩の問題がこれほど奥の深い問題だとは思っていなかった。色を3次元のベクトルで表わす。それ自体はこのページの色指定でもあたりまえのようにやっている作業だ。しかし、色を混ぜると別の色ができるという日常的な現象も、考えはじめるとよく分からなくなってくる。色空間と物理的な光のスペクトルの関係、さらにそれらと人間の色感覚との関係は単純な問題ではない。こういった問題を考えるためには、物理学から神経生理学、そして心理学にまでまたがった議論が必要になる。この本では学説史の紹介から始まって、現代色彩論の概説、そして色の命名体系まで、幅広い問題が論じられている。僕にとってはまったく未知の話で、たいへん興味深かった。図が多用されていて、解説もわかりやすい。
<岩波新書:1988年10月刊:700円>
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性の起源(リン・マーグリス、ドリオン・セーガン)
著者らは二つ以上の個体に源をもつ遺伝子が合流する現象を「性的現象」と定義づける。本書はその性の起源と多様な進化を、関連する諸現象(有糸分裂、倍数性、減数分裂、多細胞化、配偶子の異形化など)の起源・進化と関連づけて考察している。最大の眼目となる主張は、初期の原生生物にスピロヘータが共生したことが有糸分裂と減数分裂の前提条件になったとする「スピロヘータ説」であろう。すでにミトコンドリアや色素体の共生起源説は広範に支持されているが、マーグリスらはこの説により共生説のさらなる拡張をめざしている。
たいへん面白い本だった。スピロヘータ説もだが、倍数性の起源や減数分裂の機能についてのマーグリスの議論も面白い。こういう説はその当否も興味あるところだが、我々の発想の枠を再検討させるように促すという意味でも価値があると思う。もう一つ感じたのは、「起源」と「進化」の問題はやはり我々にとって非常に魅力のある問題であり、生物学の知見の蓄積は必然的に「起源」と「進化」に関する問いへと向かうだろうということだ。従って比較生物学的な発想と手法は今後ますます重要になってくるだろう。マーグリスは『五つの王国』の著者でもある。すべての生物に広く視線を向けていく彼女の態度を見習いたいと思う。
<青土社:1995年10月刊:2600円>
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生命とフェミニズム(エヴリン・フォックス・ケラー)
『機械の身体』に続いてケラーの翻訳本が出た。短いエッセイを集めた論文集で、『機械の身体』のテーマでもあった科学と言語の問題、そして科学におけるジェンダーの問題を扱っている。
科学と言語の問題は僕の関心と重なる部分が大きかった。第5章で述べられている、「専門用語」の中にも日常言語のもつ意味、価値観がすべりこんでくる、という問題。第6章の術語の意味の曖昧さと言語の不十分さの問題。このあたりは日頃からなんとなく釈然としなかった問題を浮き彫りにしてもらえたような感じで、面白かった。
一方、第2章などの「秘密」という概念をめぐる精神分析的な論考には違和感を感じた。ケラーの言う「生命」あるいは「自然」と「女性」の結び付きというのがいま一つ実感しにくいためだろうか。議論が強引なように思えた。
余談だが、今回、本の帯に著者の写真が載っていたのを見て、著者に会ったことがあることに気付いた。僕がThe Marine Biological Laboratory (Woods Hole) の発生学のサマーコースの手伝いに行った時に、コースの若い学生やポスドクに混じって一人だけ年配の方がいて、それが彼女だった。そのときに科学史をやっている方だという話は聞いたのだが、こういう研究をやっていたのですね。『機械の身体』を読んだときにはぜんぜん気付かなかった (^^; 。
<勁草書房:1996年6月刊:2369円>
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異形の明日(グイン・サーガ 52巻)(栗本薫)
51巻に続いてパロが舞台の陰謀篇。話の流れは予定通りというか、前巻の続きだが、謎の国キタイの王としてあの「ヤンダル=ゾッグ」の名前が登場してきたのが今回の目玉か。キタイという国の現状もほのめかされて、興味をそそる展開。次はモンゴール篇らしいが、こっちもパロに負けずに暗そう (^^; 。
なおあとがきによると天狼ホームページができたとのこと。グインの情報も載るのかな?
<早川文庫JA:1996年6月刊:480円>
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生命の本質と起源(清水幹夫)
著者は生命の起源として「オリゴマーワールド」を提唱している。つまりごく短いRNAとアミノ酸2個程度の短いペプチドの系から生命が始まったと考える。確かに言われてみると「RNAワールド」では長いRNA分子がどのようにしてできたのかが想像しにくい。それに対して、ごく短い「原始tRNA」とアミノ酸が「ジペプチド原始酵素」の働きで特異的に結合し、短い原始mRNAの遺伝情報を短いペプチドに翻訳する、というこのシステムの実現はそれほど困難ではないように感じられる。鍵になるのは「ジペプチド原始酵素」のような短いペプチドが弱いながらも酵素活性を示すという実験事実だろう。これは初耳だったので興味深かった。これに加えてあるアンチコドンをもつ「原始tRNA」に特定のアミノ酸が特異的な結合をするということがもっと厳密に示されれば、「オリゴマーワールド」はかなり有望に思える。僕にとってはとても刺激的で面白い本だった。読みやすいのも良い。
<共立出版:1996年6月刊:1545円>
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オートポイエーシス(H.R.マトゥラーナ、F.J.ヴァレラ)
「構成素が構成素を産出する」単位体としてのシステム:オートポイエーシスに関する理論。非常に難解だった。訳者(河本英夫)が昨年出版した『オートポイエーシス』(青土社)を読んである程度の予備知識はあるつもりだったが、それでも分からないところだらけで、何度も挫折しかけた。
オートポイエーシスのシステム論は「構造主義」との対比で言うと、システムの「作動」というダイナミズムを中心としている点、さらに観察者の視点ではなくシステム自体の視点からシステムを記述していくという点が大きく異なっている(らしい)。これは最近の僕の興味ともつながるところが多いのだけれど、マトゥラーナとヴァレラの立場は非常にラディカルですぐには胸に落ちてこない。
<国文社:1991年10月刊:3090円>
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科学教の迷信(池田清彦)
構造主義生物学、構造主義科学論、そして時事問題に関する文章がおさめられている。
構造主義関連は既刊の著書と重複する内容も多いのだが、『構造主義生物学とは何か』あたりと比べると非常に読みやすくなっている。構造主義生物学の入門編に良いと思う。最後の論文「『名』の同一性」は初めて読んだが、『構造主義と進化論』での議論にくらべてだいぶわかりやすかった。(それでも分からないところはあるが。)
<洋泉社:1996年5月刊:1900円>
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機械の身体 - 越境する分子生物学 -(エヴリン・フォックス・ケラー)
生物学者が生物について「どのように語るか」、そしてその「語り方」が生物学の研究にどのような影響を与えてきたのかと言う問題が、科学(思想)史的に書かれている。
「遺伝子は生命の第一原因である」「遺伝子は生物学での分析の基礎単位であり、生物形質の発生の原因であり、生物科学の最終目標は遺伝子作用の理解にある」という言説を著者は「遺伝子作用の言説(ディスクール)」と呼ぶ。このような言説は分子遺伝学の輝かしい成果を生んだと同時に、遺伝学者の目を発生の問題からそらす役割を果たしてきた。そして現在、分子生物学を取り入れた発生学が「発生生物学」として復活をとげたとき、この遺伝子作用のディスクールは力を失い、代わって、細胞質をも含んだ作動する動力学的システムが生物体のメタファーとして登場してきた。
第一章「言語と科学」で上記の発生学と遺伝学の歴史におけるディスクールの問題を取り上げたケラーは、第二章では熱力学の第二法則の問題、第三章では電信とコンピュータの問題をとりあげている。
いずれにしろ、生物を語る「語り方」、使われるメタファーに注目するという視点は面白かった。実際、生物学においては比喩的な表現が多用されている。「情報」「制御」「翻訳」「コミュニケーション」等々。僕らは生物現象を他のものになぞらえて理解し、それにあるリアリティーを感じ、頭の中に構築されるリアリティーに基づいて研究を進めていく。しかし我々の感じるリアリティーは生の「リアル」すなわち生物そのものとどのような関係にあるのか。可能なたくさんのメタファーのうちで、あるメタファーを我々が好んで選択するその心理学的な要因はどこにあるのか。そのメタファーが我々の自由な思考を縛っていることはないのか。いろいろなことを考えさせられる。
人間は生物をその時代の最も複雑な機械になぞらえてきたと言われるが、機械を生物になぞらえ、生物を機械になぞらえていく循環の果てに、どのような機械が生まれ、どのような生物像がうまれるのだろうか。生物像は我々自身の像も含む。我々は自分をどのような機械と考えるようになるのだろうか。
最後に、内容とは関係ないが、この本の装丁は非常に美しい。見たとたん、内容も確かめずに買わずにはいられなかったほどの(笑)優れものだ。日本語のタイトルもかっこいいし。
<青土社:1996年6月刊:2400円>
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差異について(ジル・ドゥルーズ)
薄い本だから通読はできたが、見事なまでに、まったく分からない本だった。ポストモダン(?)哲学に関する素養がまったくない僕には難しすぎた。
ベルクソンをもう少し読んだら、もう一度読んでみます。
<青土社:1992年9月刊:1900円>
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われわれにとって革命とは何か(柴谷篤弘)
分子生物学が登場し隆盛になっていった時代を、日本での分子生物学の発展に尽力した柴谷氏が振りかえる。といっても柴谷氏の本であるから、単なる分子生物学研究の歴史にとどまらない。当時の社会・思想状況と生物学のかかわり、大学や学会の運営の問題、等々が自身の思想や行動に対する反省的な考察も含めて書かれている。
分子生物学の初期には当時の保守的な生物学者との対決が必要だった、というような話は時代の違いを感じさせる。現在ではむしろ(「帝国主義」とは言わないまでも)保守本流という趣すらある分子生物学だが、当時は"革命"勢力だったわけだ。「通常科学」としてやるべき課題を大量に抱えている(そして応用面も期待される)分子生物学は当分の間、科学の主流を突き進むだろう。だが次の"革命"はどこから来るのだろう。もうすでに我々の眼前にあるのだろうか?(たとえば「人工生命」?あるいは「構造主義生物学」?)いずれにしてもその革命勢力が伸びてきたときに、自分が参加するかどうかはともかく、それを抑えつける側にまわるようなみっともないまねだけはしたくないものだ。
<朝日新聞社:1996年5月刊:1300円>
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人工生命(スティーブン・レビー)
デジタルコンピュータを使って「生命」を模倣(創造?)する「人工生命」の研究を描いた科学ノンフィクション。
遺伝子スイッチングネットワークや生命の起源に対して自己組織化の観点からアプローチしていくカウフマンの方法論が面白かった。カウフマンの "The Origins of Order" を読んでみたいと思うのだが、数式とグラフにものおじしてしまう....。
<朝日新聞社:1996年4月刊:3000円>
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ゲノムの見る夢(中村桂子 対談集)
むかし『自己創出する生命』を読んですごく腹がたったので、もう読むまいと思っていた中村桂子氏だが、対談相手に村上陽一郎氏と河本英夫氏が入っていたのでどんな話をしているのか気になって買ってしまった。で、全部読む義理もなかったのだけど、つい読んでしまった。本当は好きなのか?>自分(笑)。
中村氏の主張はあいかわらずだ。とにかく「ゲノム」で何を言いたいのかがさっぱりわからない。色々な分野の人と対談しているが、過剰なアナロジーですべてを強引に「ゲノム」に押し込めて行くことで、結局は「ゲノム」が内容のない空虚な概念になっていくように感じる。逆に言えば空虚な(使えない)概念だからあとづけでいろんなものを押し込むことができるのかもしれない。たとえば河本英夫が「作動していることが基本で...ゲノムは静止画像」と言っているのに対して中村桂子は「ゲノム」には動きも入っていると言っている。(きっと後から"なんでも入る"のだ、「ゲノム」には。)実際のゲノムは「ゲノム」として単独にみれば生命システムを形作る動的な関係のなかから抽出してきたモノに過ぎないし、それ自体は静止したものにすぎないはずだ。それを動かしたいなら「ゲノム」から一旦はなれてそれを部分として含むより高次のシステムの動きを見なければならないはずだ。そのシステムの「動き」に対して強い規定性を発揮するにしろ論理上は「従」であるはずのゲノムを、あたかもシステムの「主」であるかのように考えるのは間違いだろう。最近は中村氏も「ゲノムがはたらく場としての細胞」を言うようになってきたようだが、いまさら何を、と思う。
<青土社:1996年5月刊:1800円>
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探究 II(柄谷行人)
クリプキの「可能世界」と「現実世界」の考え方が面白かった。つい「名指しと必然性」を買ってしまった。そのうち読んでみたい。
<講談社学術文庫:年月刊:1000円>
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恐るべきさぬきうどん
このうどん、食べてみたい…、と思わせる本。
ちなみにこの本、香川県のタウン情報誌を出している出版社の本なので、手に入りにくいかも。僕はたまたま某書店やっていた中国四国地方の出版社のフェアで手にいれました。さぬきうどんの「針の穴場」を紹介している本ですが、取材のプロセスが面白くて良いです。
<ホットカプセル:1993年4月刊:1100円>
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すべてがFになる(森博嗣
推理小説。うたい文句は「本格の精髄」。
面白かった。舞台設定も良いし、密室の謎とその解決も面白い。コンピュータやネットワークをうまく小道具に使っている作品はまだそれほど多くないと思うが、作者が工学部の先生ということもあって、きれいにきまっている。ただあまり話にからまない登場人物が多く、そのぶん犯人となりうる人はほとんど限定されていて、犯人は見当がついてしまう。「WHY」と「HOW」の興味で読ませるストーリーだと思う。途中にでてくる、ロボットを分解するロボットをさらに分解するロボット...というのもなかなかのアイディア(笑)だと思った。次作の予定もあるようですが、シリーズものになるのでしょうか?
ところで、表紙の銀文字がはげるんですけど(笑)そういう仕様なのでしょうか?>講談社。
<講談社ノベルス:1996年4月刊:880円>
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ドールの時代 - グイン・サーガ 51巻 -(栗本薫)
グイン・サーガ 51巻。今回もパロが舞台だ。
こういう展開になるとは...。作者も大胆だなあ。でも本人はあんまりこたえていないみたい。周りへ及ぼす影響の方が大きいか?
それはともかく、主人公たちの運命をあやつっている背後の意図みたいなものがだんだん明らかになってきて、話が大きく動いて行きそうな展開です。東方の謎の国が中原の三国にどうからんでくるのか。それぞれの国内問題 :-) にも目が離せないし、いつものことだが続きを早く読みたい。次は6月?
<早川文庫JA:1996年4月刊:480円>
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怪獣使いと少年 - ウルトラマンの作家たち -(切通理作)
「怪獣使い」はウルトラマンシリーズをてがけた脚本家たち、金城哲夫、佐々木守、上原正三、市川森一をさす。彼等の作品を通してその世界観・人間感を浮き彫りにし、また著者自身の「原風景として<ウルトラマン>を捉え直してみようとした」本である。僕も再放送がある度にこれらの作品を飽きずに見た子供だった。子供のころだから、脚本家の名前など気にしなかったし、ましてその作家性の違いなどに思いが至るはずもなかったが、この本では、僕たちを夢中にさせ、色々なことを考えさせてくれた作品の、背後にあった作家たちの思いに光が当てられており、とても面白く読めた。
4人の脚本家だが、ウルトラシリーズを覚えている人には、以下の作品の作家と言えば思い当たるだろうか。
こういった彼等の代表作は、今でも強烈な印象で覚えているものが多い。切通氏はこれらの作品の台詞や、彼等の他の作品も紹介しながら、沖縄と日本、差別するものとされるもの、善意と欺瞞、といった彼等のかかえていた問題をとりあげていく。これらの作品はけっして無邪気な勘善懲悪ではなかったし、だからこそ僕たちの思い出に複雑な沈殿として残っているのだなと、改めて思った。
<宝島社:1993年7月刊:1500円>
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生命の記号論(日本記号学会編)
論文集、特に「生命の記号論」をテーマに掲げた日本記号学会13回大会で行われたシンポジウム「生命観の変貌」および「生命・AI・物語」の内容を中心にまとめられている。興味があるところを読んでみた。
<東海大学出版会:1994年3月刊:3090円>
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思考の道具箱(ルディ・ラッカー
こういう全然知らない分野の話を読むと、どこまでがその分野の通念でどこからがラッカーのオリジナリティなのかがつかめないのだが、とにかく面白かった。(数学的な考え方から久しく遠ざかっていたので読むのには苦労したが。)とくに3、4章で論じられる人間(道具としてのチューリング機械も含めて)が何を知りえて何を知りえないのかについての話は興味深い。メッセージの長さ、複雑さ、深さという概念も面白かった。
生物学も「遺伝情報」の「翻訳」とか、「発生のプログラム」と言う具合に情報理論のアナロジーをさかんに用いている。しかしその意味は多くの場合あいまいで、感覚的な「理解」の助けにはなっても、現実の研究や議論の道具となるまでには洗練されていない。生物学に情報理論を応用することがどのくらい実りの多いものなのかは僕にはわからないが、記号的な作用によって可能性を限定していくのが生命の基本的な運動様式であるとすれば、情報という観点から生命を捉える試みは興味深く思える。面白そうだが、ネックは数学だ(笑)。
<工作舎:1993年3月刊:3914円>
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構造主義(ジャン・ピアジェ)
何度か読もうとして挫折した本。ようやく通読できた。構造主義についてよく言われる「静的」というイメージはピアジェの場合にはなくて、発生的な見地が理論の中心をなしている(「発生的認識論」とか)。もし構造主義が生物学(特に発生や進化の理論)に取り入れられるとすれば、ピアジェ的な構造主義の見地は重要なのではないかと思う。個体発生の前成的な性質と後成的(epigenetic)な性質のそれぞれに「静的」「構成的」な見地がそれぞれ対応するのかな?
<文庫クセジュ:1970年4月刊:880円>
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眼が語る生物の進化(宮田隆
分子進化学の最新の知見を「眼」をテーマにわかりやすく解説している。
進化の過程で何らかの新奇性が獲得されたときに、それに関連する遺伝子が急速に多様化したというデータが(当り前といえば当り前だけど)興味深かった。疑問点としては、「カラーの視覚はモノクロの視覚より先に進化した」というのは過去に祖先分子がどのような機能を果たしていたのかわからないと言えないのではないかという点、それから(以前、宮田先生の他の総説を読んだときにも思ったことだが)「機能的制約が緩和されて中立的変異が起こり多様化が進んだ」というところは、新しい表現型に深く関与している変化は分子レベルといえども強く選択が働くために進化が急速になるという解釈はできないのかという点、この2点がよくわからなかった。
<岩波科学ライブラリー:1996年3月刊:円>
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哲学入門・変化の知覚(思想と動くもの I)(ベルクソン)
岩波文庫の復刊でベルクソンが何冊か出まして、安い値段につられてつい3冊も買ってしまって、まあせっかくの機会なので、1冊ぐらい読んでおこうかと、読み始めました。ベルクソンを読むのは初めてなのですが、うーん、意外に面白いじゃないですか。あらゆる変化・運動は不可分である、というのは、分析的な科学をやっているとなかなか見えなくなってしまう点ですね。ただ「分析は無現に続く」という批判は理解できても、実験屋さんにとっては「直観」だけでは論文は書けないという (^^; 致命的な問題はあるわけで。さてどうしましょう、と言って、やっぱり今日も実験をするわけです。
<岩波文庫:1952年2月刊:360円>
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人形はなぜ殺される(高木彬光)
『刺青殺人事件』とならんで高木彬光の代表作とされる本書ですが、どこかで似たようなネタを読んでいた記憶があって(作品名は忘れた...もちろん発表は高木氏が先でしょうから、氏に罪はまったくありません)、トリックについては十分に楽しめませんでした。残念。こちらを先に読んでいれば...と思っても後のまつり。
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力とは何か(菅野禮司)
「力」をはじめとした物理学の基礎概念の変遷を解説している。
物理学の最先端はいつも哲学と深く関わってきたのだということがよく分かりました。(まあ生物学もそうなのだけど。関係する哲学の種類は物理と生物では違うのでしょうね。)十分には理解できなかったけれど、面白く読みました。
<丸善:1995年10月刊:1545円>
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弁護側の証人(小泉喜美子)
小泉喜美子の代表作と言われるミステリ。
「どんでん返しがすごい」という話を聞いてから読んでしまったので、最初のほうで仕掛けが分かってしまって、ちょっと残念でした。ミステリは予備知識をもたずに読むべきですね。
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鉄鼠の檻(京極夏彦
京極夏彦の第4長編。
期待に違わず面白かった。今回の重要なポイントである犯人の動機は、普通ならなんだこれは(怒)といいたくなるようなものですが、禅や悟りについての講釈を延々と読まされたあとに提示されると、まあそういうこともあるかなと思ってしまう、そしてそれが冒頭の奇妙な場面につながってぴたりと収まるという、これも京極流の技ですね。「見立て」の解決も面白いし。
しかし4作めにしてまったく衰えないこの筆力はすごい。800ページがまったく苦にならない、むしろもっと読んでいたいと思わせるほど。ゆっくりと楽しんで読ませてもらいました。すでに次作が待ち遠しい...。
ちなみに、好きな順序をつけるとすると、『魍魎』>『鉄鼠』>『姑獲鳥』>『狂骨』の順でしょうか。ぜんぶ好きなんですけど。
<講談社:1996年1月刊:1500円>
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図南の翼(十二国記)(小野不由美)
お待ちかねの「十二国記」最新巻。なかなか手に入らなくて(田舎の本屋には置いていない?)苦労しました。今回の主人公は若かりし頃(?)の恭国の女王、珠晶。元気な女の子のお話は読んでいて楽しい。彼女は『風の万里、黎明の空』でも良い味を出していましたが、昔からこういう性格だったのですね。
<講談社X文庫ホワイトハート:1996年2月刊:680円>
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動物の自然史 --現代分類学の多様な展開--(馬渡峻輔、他)
総勢16名の著者によって分類学の最近の進歩が解説されている。僕としては西川先生の『「原索動物門・脊椎動物門」体系の検討』と田近先生の『ヘッケル説とハッジ説の対決』が面白かった。 ところで単系統群以外は分類群として認められないというのは、すでにコンセンサスになっているのでしょうか。系統を明らかにすることと分類することは分けて考えても良いと僕などは思ってしまうのですが。
<北大図書刊行会:1995年12月刊:3090円>
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蟹喰い猿フーガ(船戸与一)
『炎流れる彼方』や『夜のオデッセイア』を思わせる、ちょっと軽めの話。
こういうのも好きです。
<:1996年1月刊:円>
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囲碁殺人事件(竹本健治)
いまひとつ...
竹本氏は『函の中の失楽』が永遠に最高傑作なのでしょうか...。『ウロボロスの偽書』はいま一つだったし(作中作の「トリック芸者」は楽しいけど)。僕が知らないだけなのかな?
<角川文庫>
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情報と生命 -- 脳・コンピュータ・宇宙 --(室井尚、吉岡洋)
よく分からない...。「情報」って、一体なんなんでしょう?
<新曜社ワードマップ:1993年12月刊:1648円>
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あっかんべェ一休 4(坂口尚)
坂口氏のご冥福をお祈りいたします。
一休の最期の場面は、史実でしょうか、坂口氏の創作でしょうか。 いずれにしても共感するところ大でした。
<講談社:1996年月刊:円>
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遺伝子の川(リチャード・ドーキンス)
わざわざつまらない見方で物事(生き物)を見ているような気がする。好みの違いかな?言ってることは間違ってはいないのかもしれないけど、感覚的に合わない...。最後の「臨界点」のあたりなど、読んでいて恥ずかしくなってしまった。
<草思社:1995年11月刊:1800円>
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探究 I(柄谷行人)
この本に手をのばしたのは、『現代思想』vol.23-13, p45 の大和雅之氏の論文『分子ゲームとしての「再生」』に引用されていたためだ。「異なる規則」に属する「他者」同士の「教える-学ぶ」関係によって、新しい規則を「やりながらでっちあげ」るゲーム。柄谷氏を引用しながら大和氏はこれに生命の広義の「再生」現象をなぞらえる。しかし、すでに「成立」してしまった規則を所与のものとしてして、そこから説明を始めてしまえば、規則の生成というダイナミズムは隠蔽されてしまうというわけだ。池田清彦氏が「数百人、数千人という新生児が集団で無言語状態で育てられるということが起これば、新言語が発生すると私は思う」(『構造主義生物学とは何か』p74)と書いているのを思いだした。
<講談社学芸文庫:1992年3月刊:800円>
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恐龍が飛んだ日(柴谷篤弘、養老孟司)
対談。柴谷篤弘が、"生物学で好きになれない部門がある、それは免疫学と内分泌学と神経生物学だ."というような話をしていたのが面白かった。
<ちくま文庫:1995年12月刊:540円>
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フィンチの嘴 - ガラパゴスで起きている種の変貌 -(ジョナサン・ワイナー)
ガラパゴス諸島で長年にわたりフィンチ類の進化を観察し続けているグラント夫妻グループの研究を紹介するノンフィクション。「生物を近くで見れば見るほど、進化的変化は速く著しいが、時間的に遠く離れれば離れるほど、変化は目につかなくなる。」という説明には、目から鱗がおちた。(「進化的新奇性」の問題などは、また別だろうけれど。)
<早川書房:1995年8月刊:2200円>
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動物の形態学と進化(E.S.ラッセル)
80年前に書かれた名著。機能論と先験論の対立を軸に形態学の歴史を綴っている。
現在、発生学が動物の発生の分子機構の共通性を明らかにしつつあることを反映して、「形態の進化」という古くからの問題への興味が再度盛り上がりつつある。その視点は、かの"zootype"説あるいは背腹反転説の再評価に端的に示されるように、先験論的な「原型」概念にきわめて親和性が高いように思われる。「原型」あるいは「相同性」を単に進化的起源の共通性と理解して終わってしまうならば、問題は簡単だ。しかしBody Plan の「相同性」は単に起源の共通性を示すだけではなく、それが歴史的に保存されてきたことをも示している。つまり「相同性」の根底には形態の進化的変化をある一定の範囲にとどめておく何らかの制限があるはずだ。この説明には「適応」というような機能論的な説明よりも「発生学的制約」といった構造論的説明が、よりなじむのではないか。ここに分子発生学の知見に基づいて「原型」概念を再考する意義が見い出されると思う。
ここで問題となるのは、分子レベル(分子システムレベル)の「相同性」と、形態レベルの「相同性」あるいは「原型」がどのように関係し、あるいはしないのか、についてである。発生の分子メカニズムの共通性が次々と明らかになりつつある。これらが分子(システム)の起源の共通性を示していることは明らかである。しかし、形態の相同性は必ずしも素過程の相同性を含意するわけではないし、逆もまたしかりである。分子レベルの相同性が形態学的な「原型」「相同性」「発生学的制約」とどのように関係するかについては、まだ十分に解明されていないし、色々な概念的な混乱もあるように思う。その意味でこのような古典を読み、過去の形態学者が何を考えていたのかを知ることは有意義だろう。
<三省堂:1993年1月刊:5500円>
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1998年版
1997年版前半後半
1995年版
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彦坂 暁 (akirahs@ipc.hiroshima-u.ac.jp)