実際、この本を読んで僕は「昔の自分だったら腹をたてていただろうな」と思った。不用意に思える記述が色々と目につくのだ。でも最近では、この手の本も結構、面白がれるようになった。著者の主張で賛成できないところはとりあえず脇において、面白い部分を楽しむという読み方ができるようになったからだ。四方哲也氏の『眠れる遺伝子進化論』を、疑問点は多々ありつつ面白いと思ったのも同じ理由だ。逆に『ダーウィンよ さようなら』(牧野尚彦)がつまらなかったのは、僕にとって参考になることが何もなかったからだ。
それはともかく。
本書に対してすぐに思いつく反論は、そのような環境の変化による新しい形質の獲得は、単に個体の生理的な反応にすぎず、「進化」とは言えない、という論だ。実際、現代の進化観では、そのような形質が子孫に遺伝しない限り、それを「進化」とはふつう言わないだろう。
しかし、ごく素朴に考えると、「進化」とは「生物が時代をおって変化し、多様化していく現象」であって、そこに「遺伝」がどう関与してくるかは、「進化」の定義に関わるというよりは、むしろその具体的メカニズムに関わる話のように思える。実際、現生の生物ならともかく、過去の生物の変化が「遺伝的変化」によるものなのか「環境変化の影響による個体発生の変化」によるものなのか、判別するのは困難だろう。どちらにしてもそれは「進化」と呼ぶしかないのではないだろうか。
だとすれば、本書の実験で示されたような、生活環境や行動様式の変化による生物の変化も、それが長期間に渡って継続するならば、「進化」と呼びうると思う。少なくとも、そのような立場もあって良いはずだ。
本書は個体発生の可塑性を基礎にして、遺伝子の突然変異や自然選択がなくとも生物の(上記の意味での)進化が起こりうると主張する。それも単に量的な変化ではなく、質的と言って良いような変化が起こるというのだ。この主張がダーウィニズムに反するかどうかはともかく、少なくともダーウィニズムがあまり目を向けてこなかった部分に光を当ててはいるだろう。しかもそれを単なる空想上の議論ではなく、実験に基づいて論じている。その点が面白い。
<講談社ブルーバックス:1997年12月刊:本体800円>
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2項対立を越えよう、という意図は分かるけど、やっぱり、生命システムの中からDNAだけをことさら取り上げて特別視することの意義というのが(「研究上の便宜」という意義以外には)僕にはよく分からないから、同感はできなかった。「DNA」と言わなくたって同じ様なことは言えると思うのだけど。
<中公新書:1992年5月刊:本体660円>
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池田氏のダーウィニズム批判は相変わらずで、ダーウィニズムを支持する人には反感を持たれると思う。池田氏がダーウィニズムへの「反証」として挙げているものも、ダーウィニストならダーウィニズムの枠内で解決できると考えるだろう。ダーウィニズムは非常に懐の深い学説で、なまじっかの事では反証できないようにできている。だから池田氏の議論に対して「ダーウィニズムを理解していない」とか「確信犯的に攻撃している」と感じる人がいても、当然だと思う。
ただ少なくとも「現状のネオダーウィニズム」について考えると、(それがネオダーウィニズムに作り付けのものでは無いにしても)進化を遺伝子=DNAの変化と同一視してしまうような「遺伝子本質主義」的な傾向が強いことは、否定できないように僕には思える。そしてこの点に対する池田氏の批判は読むに値すると思う。
池田氏は「ネオダーウィニズムはDNAそのものの進化理論としては、十分とはいえないまでもかなりイイ線までいった理論であるが、残念なことに生物はDNAではない。生物の進化を説明するためには、さらに関係論的な方向に、研究枠組みをシフトさせる必要がある」と書いている。
実際、形態や行動の進化的変化が遺伝子=DNAの変化とどう対応するのか(しないのか)は、まだほとんど分かっていないのが現状だ。DNAの変化によって表現形が変化する場合があることは確かだが、たとえば個体発生における「表現形模写」という現象に見られるように、形態の変化が必ずしもDNAの変化と結び付いているわけではない。誰もが認めるように、同じゲノム「情報」を使っていても、その「解釈」の違いによって多様な形態や行動が生まれる。ゲノムはこのようなエピジェネティックな幅のあるポテンシャルを持っているわけだから、解釈系の側の変化が世代をこえて再帰的に起これば、ゲノムの変化がなくても形態や行動の進化は起こりうるかもしれない。これはまあ思弁にすぎないが、少なくとも「遺伝し進化する実体」を「DNA」だけに解消するわけにはいかない、ということは言えると思う。池田氏の言うように、遺伝するのは「生きているシステム」全体なのだから。
進化のどういう側面を理解したいのかによって、進化を捉える方法論に違いが出てくるのは当然のことだ。生物集団内のDNAの増減のダイナミクスを知りたいのなら、現状のネオダーウィニズムで良いかもしれない。しかし「発生」という観点から生物の「形」の進化にこだわる立場からすれば、「進化=DNAの変化」とする見方よりも、池田氏の「構造列」や団まりな氏の「階層性」概念の方が、より有用なのではないかと思える。形を作るのはDNAではなく、DNAも含めた「システム」であり、「構造列」や「階層性」には、そのシステムの規則の変化(進化)を捉えようという指向性を感じるからだ。
<講談社選書メチエ:1997年12月刊:本体1553円>
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内容を簡単に紹介する。
第1章「なぜ系統を復元するのか」では、まず系統学を含めた「歴史学」とはどのような科学かが述べられる。次に、従来一体のものであるかのように扱われてきた「系統学」と「分類学」が、実は全く異なる知的作業であること、つまり前者が歴史の推定を行う「歴史学」であるのに対して、後者はヒトの認知分類に関する研究を行う「認知科学」であること、が述べられる。この2つの学問の偽りの蜜月は、もう終わりにすべきだと三中氏は言う。
第2章「系統とは何か」では、系統学がどのような学問なのか、何を目指し、どのような方法を用いるのか、の概略が述べられる。
第3章「分岐学」では、この本の中心的なテーマである「分岐学」が、どのようにして始まり、どのように発展したのかを、その契機となった幾つかの大論争を科学史的に考察しながら述べる。この章で読者は分岐学が対立する他の諸学派とどのように異なるのか、そして分岐学内部の論争が分岐学をどのように発展させてきたかを知ることができる。
第4章「分岐学に基づく系統推定」では、実際の系統推定の方法論が解説される。祖先形質の復元法、最節約分岐図の求め方、分岐図の信頼性の評価法、分子系統学の方法論、そして「分岐図からネットワークへ」という進化モデルと表現法の発展について述べられる。
第5章「系統が語る言葉」では、系統学が生物学の他分野とどう関わるのかを、生態学や行動学における種間比較法、生物地理学、分類学、形態学を題材にして考察している。
本書は非常に論争的な本である。論争の紹介だけでなく、著者自身の考えが明確に述べられており、刺激的で面白い。三中氏のスタンスは、科学から主観的、恣意的な要素を極力排除し、情緒的な議論は理詰めで論破して、より客観的で実用的・生産的な方法論を鍛え上げていく、という所にあるように思える。特に分類学に対する態度などは徹底していて、読んでいて、理屈では確かに正論だと思う半面、そうまで言って良いのか、と不安にもなる。
僕も「系統と分類は別」だとは思うけど、分類を単に「認知科学」と言ってしまうのには、まだ抵抗がある。ヒトが生物をある類に分けるとき、そこには確かにヒトの認知機構のもつ特徴が反映するだろうが、それは同時に自然界に現実にあるギャップをも反映しているはずだ。そのようなギャップによる類別は分岐学的観点からは意味がないかもしれないが、たとえば発生学的には興味深いものかもしれない。だとすればそのギャップの情報を「自然界に実在するもの」として、整理し、体系化し、参照可能にしておくという作業は必要だと思う。これは「認知科学」の側面ももつかもしれないが、同時に生物の諸形質とその関連を調べ、体系化するという、生物学的側面ももつだろう。「系統」と「分類」の2つの情報参照体系が整備されていることが、普通の生物学者にとっては、一番便利が良いことなのではないかと思う。
<東京大学出版会:1997年12月刊:本体5600円>
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<講談社現代新書:1997年12月刊:本体660円>
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<スターツ出版:1998年1月刊:本体1000円>
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<講談社:1998年1月刊:本体780円>
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1998年7〜9月分
1998年4〜6月分
1997年7〜12月分
1997年1〜6月分
1996年版目次
1995年版
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