最近 読んだ本(1998年1〜3月)

最終更新日 1998.4.3

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1998年1〜3月分/ 1998年4〜6月分/ 1998年7〜9月分/ 1998年10〜12月分


"ただいま読書中"(近況一言報告) 1月2月3月

3月


2月


1月


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プライベート・ゲイ・ライフ ―ポスト恋愛論―(伏見憲明)
ゲイとしてカム・アウトしている伏見氏が自らのセクシャリティを語った本。「プライベート・ゲイ・ライフ」というタイトル通り、「ゲイ」を一般論的に論じるというより、自分の生きてきた体験やセクシャリティの実感を語ることに重きが置かれている。
著者は一人の人間が「セクシャリティ」というものを客観的かつ公正に論じるのは極めて困難だと考えている。むしろ自分のセクシャリティを主観的に語り、それに刺激された他の人々が、その人自身のセクシャリティを語るという中ではじめて、セクシャリティが客観化されるだろうと言う。これは面白い戦略だと思う。柴谷篤弘氏は『比較サベツ論』の中で一部それを試みていた。最近邦訳が出版されたナオミ・ウルフ『性体験』もきっとそんな本なのだろう(まだ読んでないけど)。でも、それをするのって、すごく難しいよね。セクシャリティを「論じて」いる人達の中で、どれだけの人がこれを実行できているのでしょうか。

<学陽書房:1991年6月刊:本体1456円>
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シリーズ「性を問う」2:性差(鐘ヶ江晴彦ほか)
「序 性差をめぐる諸問題」(鐘ヶ江晴彦)、「脳の性差―遺伝か環境か」(青野由利)、「男と女の力学」(長谷川真理子)、「女と生殖―その欲望・政治・技術をめぐって」(金井淑子)、「ジェンダー・セクシュアリティ・主体性―主体性という言葉は何を意味しているか」(赤川学)、「性教育の機能と効果―社会の枠組みの維持と再生産」(広瀬裕子)という内容。
金井淑子氏の論文が一番興味深く読めたのだけど、「産む性からの解放」が行き着く先の「子宮の外部化」のどこが問題なのかがいま一つよく分からない。自分の肉体によって子供を産みたいという欲求を持つ人たちは確実にいるだろうが、産む苦しみから自由に子供を「産み」たいという逆の欲求をもつ人たちもまた、確実にいると思うのだけど。

<専修大学出版局:1997年6月刊:本体2800円>
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闇の左手(アーシュラ・K・ル=グィン)
普段は無性的であるが特定の期間だけ「性」的になる両性具有人の惑星ゲセン。外交関係を開くための使節として、一人この星を訪れた主人公の苦難を描くSF小説。
読む前はフェミニズム的SFなのかなと思っていたのだけど、そう単純な作品ではなかった。
闇と光、左手と右手、男と女――本書巻末の解説にはル=グィンの諸作は二元論に深く支配されている、と書かれている。自己と他者がいるかぎり、性よりももっと根源的な意味で、二元性は根源的だ、と主人公たちは語る。生物学的性別(セックス)が存在せず、したがってジェンダーも存在しない世界ゲセンでも、権力闘争や陰謀、他者への攻撃性が存在する(ただし戦争はないのだが)。また「性別」のない世界でも、強い愛情を伴い排他的に「性的」関係をもつカップル関係がある。これらの設定はル=グィンの人と性に関する考えを反映しているのだろうか、などと考えると、面白い。

<ハヤカワ文庫SF:1978年9月刊>
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シリーズ「性を問う」5:ゆらぎ(山崎カヲルほか)
「序 セクシャリティのゆらぎ」(山崎カヲル)、「生物学から見た人間の<異常>」(佐倉統)、「沈黙を破る―レイプ、セカンド・レイプ、セクシュアル・ハラスメント、そして」(落合恵子)、「トランス・セクシュアリティ、その諸様相―実定的性の彼方へ」(掛川典子)、「セクシュアリティの歴史的構成」(山崎カヲル)、「エイズをめぐる言説、規制、患者・感染者―そして共生へ」(大石敏寛、河口和也)という内容。
前に『発情装置』(上野千鶴子)の感想で、ジェンダー・フリーという理想が達成された時に、人はどのように性愛の対象を選択するようになるのだろう、という疑問を書いたが、掛川氏の論文が一部この問題を扱っている。掛川氏はジンメルの論を引きながら性的「ニュアンス」に対する感受性の洗練によって、「外的な性差の境界性と全く無関係に異性性を認知する可能性」があると指摘する。つまりジェンダー・フリーの社会においても性愛は必ずしも「性別」から自由にはならないという考え方で、この性別二元制社会に生きる僕の実感には近い考え方だが、果たして本当にそう言えるのか、もしそうだとしたら、性別に依拠した性愛の志向性の在り方というのを発現させているメカニズムは何なのか、興味深い問題だ。
もう一つ面白かったのは山崎カヲル氏が紹介している「戦略的本質(実体)主義」の考え方だ。これは「現状を変革する運動において、それを担う主体が何らかの本質をまずは立てないでは、なにもできないこと」から、とりあえず一定の「実体」に依拠するのだが、「その実体とは『普遍的真理』などではまったくなく、あくまでも『戦略的利用』の範囲において使われるだけ」という立場だ。
本質主義対構成主義の対立を事実のレベルで検証することはそれ自体、興味深いことではあるのだけれど、簡単に決着のつく問題ではないし、そのような外野席からの「興味」自体、変革運動の主体からすれば無責任な野次馬根性でしかないのかもしれない。とすれば一々そんなものに義理立てせず、利用できる範囲で利用するというのは賢い方法かもしれない、と思った。

<専修大学出版局:1998年3月刊:本体2800円>
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鉄道とコンピュータ(富井規雄ほか)
鉄道という巨大なシステムを、安全かつ、正確に、効率的に動かしていくためには、様々な情報の処理、伝達が不可欠だ。そのため鉄道では早くからコンピュータが導入され、様々な場面で使われてきた。本書は鉄道におけるコンピュータ利用を一般の人向けに解説したもの。座席予約システム、列車ダイヤの作成、日々変更されるダイヤを伝達するシステム、列車の運行管理システム、その他、車体の制御や駅の改札の自動化、駅での人の流れのシミュレーションなどについて、現場の技術者たちが書いている。
万人が面白いと思うかどうかは分からないが、僕にとっては面白い本だった。(僕は別に鉄道マニアではありませんので、念のため。)指定席の座席を割り当てるアルゴリズムの話とか、ダイヤの作成がいかに難しい作業かという話、ダイヤが乱れた時にどのように列車を運用するのかという話など、鉄道を利用するときに日頃疑問に思っていたことについて書いてあったからだろう。そういう意味では「コンピュータ」と絡まなくても、僕にとって興味がある話題だったということか。
最後に余計なことを。本書は共立出版の「情報フロンティアシリーズ」の1冊。シリーズ名は勇ましいが、共立出版らしく「地味」としか言いようがない装丁だ。加えてこの厚さ(新書なみ)にこの値段(1500円)。売れないだろうなあ、と思うのだけど、どうなんでしょう。(鉄道マニアが買うのか?)せめてもう少し装丁に気を使うとか出来ないのかな。これじゃたとえ何かの間違いで平積みになってても目が素通りしてしまいそう。

<共立出版:1998年2月刊:本体1500円>
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脳天気教養図鑑(唐沢商会)
唐沢俊一&唐沢なをきの兄弟ユニット「唐沢商会」の、世の中の役にたたない瑣末なことを取り上げたエッセイマンガ。
ふれこみ通り、なんの役にもたちません、はい。でも古本の話は面白かったかな。

<幻冬舎文庫:1998年2月刊:本体457円>
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嘘ばっか ―新釈・世界おとぎ話―(佐野洋子)
内容は副題の通り。シンデレラ、ありときりぎりす、浦島太郎、など26編。いつもながら、佐野洋子の文章には惚れ惚れしてしまう。

<講談社文庫:1998年3月刊:本体400円>
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鬼面の塔(グイン・サーガ外伝)(栗本薫)
グインのシルヴィア救出行。キタイの「暗殺教団」が姿を現したことと、グラチウスがヤンダル・ゾックに関するうんちくを語ったということ以外には、あまり新しい展開はない。シルヴィア救出編はさらに続くようです。長いぞ(笑)。

<ハヤカワ文庫JA:1998年3月刊:>
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比較サベツ論(柴谷篤弘)
ブラクサベツ、女性サベツ、性的少数者サベツを中心に、諸サベツ及びそれとの戦いの様相を「比較」し、それらの間の差異と共通する問題を考える本。柴谷氏は以前からサベツの問題ととりくんできており、『反差別論』や『科学批判から差別批判へ』などの著書もある(僕は未読だが)。
『発情装置』(上野千鶴子)『<性>のミステリー』(伏見憲明)と読んできて、その流れでこの本を読んだのだが、独特の論理の筋道と独特の文体で、消化するのに骨が折れる本だった。僕の力量不足ということか。十分に理解するためには氏の以前の著書も読んでみるべきなのかもしれない。「本質主義」と「構築主義」に関する議論、「生得性」の概念に関する議論は興味深かった。

<明石書店:1998年1月刊:本体2800円>
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決戦前夜(金子達仁)
サッカー・ワールドカップ予選での日本代表の悪戦苦闘を描いたスポーツ・ノンフィクション。著者は『Number』などに記事を書いている人で、『Number』読者にとっては内容がだぶるところが多いかも。主に川口と中田に視点を据えて書かれており、加茂前監督や三浦知良に対しては批判的。一時は「フランス行きは絶望的」とまで言われた状況の中で、選手が何を感じ、考えていたのかが分かって面白い。

<新潮社:1998年2月刊:本体1300円>
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<性>のミステリー ―越境する心とからだ―(伏見憲明)
人の「性」は「男--女」という一つの軸で表わせる単純なものではない。少なくとも、生物学的性、性自認、ジェンダー、そしてセクシャリティ、という(関連はあるにしろ)独立した4つの変数があり、しかもそのそれぞれが二元論的に割り切れるものではなく、様々な様相(中間的だったり、同一人でも時と場合によって変化したり)を示す。人と人との関係のあり方は、さらに多様であり、恋愛、友情、家族愛といった定型のパターンにおさまらない様々な感情、関係が有り得るし、実際にある。本書はそのような多様な「性」、そして「性」に関連した人と人との関係の有様を描き出している本だ。
本書を読むと「性」の世界はほとんど「なんでもあり」であることがよく分かる。また我々の人間関係があまりに「性」に囚われすぎているのではないか、という問題提起もあったりして、考えさせられる。文章は軽快で読みやすく、「性」の問題の入門書としてとても良くできた本だと思う。例によって「生物学的本質主義」対「社会構築主義」の考え方の違いにも触れているが、本書は特にどちらに与することもなく、ほぼ中立の立場で両者を紹介しているように読めた。

<講談社現代新書:1997年3月刊:本体640円>
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竜の卵(ロバート・L・フォワード)
中性子星に住む異星生物「チーラ」と人類のコンタクトを描いたSF小説。著者は物理学の専門家であり、本書は専門知識と豊かな想像力を駆使して書かれた優れたハードSFだ。
話は面白いのだけど、中性子星の情景やチーラ人の姿を思い描くのが難儀で、けっこう読むのが大変だった。SFを読み慣れた人には平気なのかな?読み終わってみたら巻末に「専門的補遺」というのがついていて、そこに中性子星やチーラ人の図が載っていたので、最初に気付いていればと、ちょっと悔しかった。

<ハヤカワ文庫SF:1982年6月刊>
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生物は重力が進化させた(西原克成)
科学ML黒木さんの掲示板などで話題になった「重力進化論」の本。著者は研究者であると同時に歯科医でもある。副題に「実験で検証された新しい進化の法則」とあるように、著者は脊椎動物の進化の理解をめざして、実験的なアプローチを行なっている。
たとえば、サメを陸にあげるという実験を繰り返すと、サメの血圧が上昇し、空気呼吸をするようになる。また血圧上昇によって起こる電流の上昇によって軟骨が硬骨に変化し、骨髄造血巣が形成される、という。にわかには信じ難いが、本当だとするととても面白い実験である。他にも興味深い実験が色々紹介されいる。
これらの実験を紹介するだけだったら、恐らく本書があちこちで話題に(というか問題に)なることはなかっただろう。問題はこれを著者独特の「進化論」と結び付けて論じたところにある。

実際、この本を読んで僕は「昔の自分だったら腹をたてていただろうな」と思った。不用意に思える記述が色々と目につくのだ。でも最近では、この手の本も結構、面白がれるようになった。著者の主張で賛成できないところはとりあえず脇において、面白い部分を楽しむという読み方ができるようになったからだ。四方哲也氏の『眠れる遺伝子進化論』を、疑問点は多々ありつつ面白いと思ったのも同じ理由だ。逆に『ダーウィンよ さようなら』(牧野尚彦)がつまらなかったのは、僕にとって参考になることが何もなかったからだ。

それはともかく。

本書に対してすぐに思いつく反論は、そのような環境の変化による新しい形質の獲得は、単に個体の生理的な反応にすぎず、「進化」とは言えない、という論だ。実際、現代の進化観では、そのような形質が子孫に遺伝しない限り、それを「進化」とはふつう言わないだろう。
しかし、ごく素朴に考えると、「進化」とは「生物が時代をおって変化し、多様化していく現象」であって、そこに「遺伝」がどう関与してくるかは、「進化」の定義に関わるというよりは、むしろその具体的メカニズムに関わる話のように思える。実際、現生の生物ならともかく、過去の生物の変化が「遺伝的変化」によるものなのか「環境変化の影響による個体発生の変化」によるものなのか、判別するのは困難だろう。どちらにしてもそれは「進化」と呼ぶしかないのではないだろうか。
だとすれば、本書の実験で示されたような、生活環境や行動様式の変化による生物の変化も、それが長期間に渡って継続するならば、「進化」と呼びうると思う。少なくとも、そのような立場もあって良いはずだ。
本書は個体発生の可塑性を基礎にして、遺伝子の突然変異や自然選択がなくとも生物の(上記の意味での)進化が起こりうると主張する。それも単に量的な変化ではなく、質的と言って良いような変化が起こるというのだ。この主張がダーウィニズムに反するかどうかはともかく、少なくともダーウィニズムがあまり目を向けてこなかった部分に光を当ててはいるだろう。しかもそれを単なる空想上の議論ではなく、実験に基づいて論じている。その点が面白い。

<講談社ブルーバックス:1997年12月刊:本体800円>
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発情装置 ―エロスのシナリオ―(上野千鶴子)
「ヘテロセクシャルの冒険」と題された本書の最後の部が特に興味深かった。異性愛者はもちろん、同性愛者も、バイセクシュアルでさえ、性別二元制にからめとられている、という指摘に目から鱗が落ちた。
いったいなぜ我々は性愛においてこうも深く「性別」に影響されなければならないのか。このような状況が現在の世の中を支配している性別二元制によるのだとすれば、それが解体され、ジェンダーから自由になった未来の社会において、人は「性別」から自由に性愛を交すようになるのだろうか。それともジェンダーが解体された後も残る最小限の「生物学的性」が、我々の性愛の指向、在り方を支配し続けることになるのだろうか。確かに「異性愛も同性愛も自然」というだけでは、このような論点には対応できないだろう。性愛の指向性の生物学的研究もまた、「この性別二元制社会において」ある条件下で特定の指向が発現する機構を調べることはできるかもしれないが、その制約が取り払われたとき我々がどのような行動に出るか予測はできないだろう。かといってフェミニズムにもそれができるわけではない、とすれば、結局、誰にも予測はできない。
このこと自体も相当に興味深いが、同時に思ったのは、やはり「人間の本性」といわれるようなものの多くが、結局は「既知の社会形態の下での」という制約のついた限りでの括弧つき「本性」にすぎないのではないか、ということだ。これは以前、『進化論の挑戦』の感想に書いたことと通じる。うまく言えないけど、「本性」があるとしたら、それは広い意味での発生メカニズムであって、それが発現して具体化した表現形ではない、というようなイメージかな。

<築摩書房:1998年1月刊:本体1900円>
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ボディ・ソシアル ―身体と感覚の社会学―(アンソニー・シノット)
身体は単なる物理的・生物学的「自然」ではない。身体とその諸器官、諸感覚は社会的に構築され、社会によって意味や象徴性を与えられている。本書はこのような立場から「身体と感覚の社会学」を展開する。章立ては「身体―墓、神殿、自己、機械」「ジェンダー―二元論そして対立する性」「美と顔―真実と善良、鏡と仮面」「髪―恥と栄光」「感覚―謎とバランス」「触覚―第一感覚」「嗅覚―墜ちた天使と強力な魔法使い」「視覚―目(アイ)と私(アイ)」「身体と感覚」となっている。
たとえば「髪」の章では、「髪の対立の理論」として「髪」の象徴性を、
1.対立する性は対立する毛髪をもつ。
2.頭髪と体毛は対立する。
3.対立するイデオロギーは対立する毛髪をもつ。
というようにまとめ、このような観点から、因習的な男女、ヒッピー、スキンヘッド、パンク、フェミニスト、民族的マイノリティなどの頭髪、体毛を考察している。

身体は自分そのものでありながら、うまく「つきあって」いかなければならない他者でもあるという、厄介なものなのだ。自分や他人の身体の現実を理解し、うまくつきあっていくための理論やスキルを手に入れたいと思っている人は多いと思うのだけど、この本は社会学の観点からそれを考えるのに役立つのではないかと思った。

<築摩書房:1997年12月刊:3600円>
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ループ(鈴木光司)
『リング』『らせん』の続編。当然、期待して読んだが、期待以上に面白かった。『リング』から『らせん』への流れにも驚いたが、『らせん』から『ループ』への流れは、それ以上の驚き。最初は『らせん』とどのようにつながるのか全く不明なのだが、物語が中盤に入ると、『ループ』を『リング』『らせん』に接続しつつ、これらの物語の見かけの姿を一気に変形させてしまうような大技が繰り出される。『らせん』を読んでいて釈然としなかった部分が解決され、『らせん』では中途半端だったホラーからSFへの変態は完了する。科学的に見て馬鹿馬鹿しいという意見もあるかとは思うが、僕はイントロンに怪物が潜んでいようが、綾波が巨大化しようが、実験室の中に宇宙を作ってしまおうが、話として面白ければOKなので、その辺は全然問題なし。唯一、『らせん』世界の破局を主人公がいかにして食い止めていくのか、というストーリーが読めなかったのが心残りだが、それはまた別の話になってしまうしね。でも、もしもさらに続編が書かれることがあるとしたら、そんな「いかにも続編」な話ではなく、さらに『ループ』世界をも破壊するような意外性をもった作品を読みたいな、と思う。

<角川書店:1998年月刊>
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戦闘妖精・雪風(神林長平)
日本SFの中では結構人気のある作品らしいが、僕には合わなかった。人間/機械の図式も特に目新らしいところはないし、戦闘機や戦闘シーンの詳細な描写もミリタリー好きの人には面白いのかもしれないが、僕には退屈なだけ。主人公も「非情」なら非情に徹してくれれば良いのに、なんかセンチメンタルだし。

<ハヤカワ文庫JA:1984年2月刊>
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BRAIN VALLEY(瀬名秀明)
それなりに読めるんだけど、あまり興奮しない。特に第2部の終盤までは、「語られる蘊蓄」が多すぎてちょっと退屈。NMDAレセプターに関する謎ときも、もうちょっとScientificに、NMDAレセプターの奇妙な機能の謎を研究者たちが追って行くうちに「神」の姿が徐々に浮かびあがってくる、という感じでやってくれたら、もっと盛り上がったのじゃないかな。終盤はスピード感が増して良いのだけど、「神」のイメージが不鮮明で、結局何がどうなったのかが分かりにくい。

<角川書店:1997年12月刊:上・下巻各本体1400円>
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現代思想としての環境問題 ―脳と遺伝子の共生―(佐倉統)
生態学と進化学の観点から「環境問題」の思想、理念について論じている。佐倉氏は「自然/人間」図式を初めとした様々な2項対立を越えて、環境と人間を生命進化が織りあげた「DNAメタ・ネットワーク」として一体化したものと捉える見方を提唱している。

2項対立を越えよう、という意図は分かるけど、やっぱり、生命システムの中からDNAだけをことさら取り上げて特別視することの意義というのが(「研究上の便宜」という意義以外には)僕にはよく分からないから、同感はできなかった。「DNA」と言わなくたって同じ様なことは言えると思うのだけど。

<中公新書:1992年5月刊:本体660円>
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らせん(鈴木光司)
『リング』で一旦、解決したかに見えた謎に、新たな方向から光が当てられる続編。『リング』は物語後半の盛り上がりが圧倒的だったが、『らせん』は前半から中盤にかけて、『リング』で描かれた物語ががらがらと崩れ去って、新しい相貌に描き直されていく過程がスリリング。ホラーからSFへのメタモルフォーゼをミステリィの味付けで読ませてくれた、という感じ。SF的なネタも荒唐無稽と言えばその通りで、だからやはり「怖い」とは感じないが、エンタテイメントとしては最高。『ループ』はまだ入手していないけど、こちらも楽しみだ。

<角川ホラー文庫:1997年12月刊:本体648円>
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リング(鈴木光司)
鈴木光司の新作『ループ』がたいへん好評なので、これは読まねばなるまいと思って、まずは積ん読だった『リング』を本棚から発掘してきた。大好評を博し映画化までされた「カルト・ホラー」だが、評判通り、期待以上の面白さで、読み始めたらやめられない。ビデオテープに映された「死」の予告。そのタイムリミットが刻々せまる中、ビデオテープの映像に秘められた謎を推理し、追っていく、というサスペンスに満ちた緊迫したストーリーで、一気に読ませる。基本がオカルトなので、僕にとっては怖くはなかったけど、久々に小説を読んで興奮しました。

<角川ホラー文庫:1993年4月刊:本体544円>
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クーン ― パラダイム ― (現代思想の冒険者たち24)(野家啓一)
クーンのパラダイム論は、科学の客観性、合理性を否定し、科学の進歩を否定するものだとして、激しい批判にさらされてきた。しかし野家氏は「科学殺人事件」の罪をクーンにきせるのは冤罪だと主張する。野家氏によれば、クーンは科学を殺そうとしたのではなく、単に論理実証主義に代表される理想化された科学観に異議をとなえ、科学の現実の姿を捉えようとしただけなのだ。パラダイム間の「通訳不可能性」、競合するパラダイム間の「理論選択」、「真理」の「相対性」などに関して、クーンは(クーン自身の不用意な表現に起因するところもあるとはいえ)ひどく誤解されており、この誤解が解ければクーンの冤罪も晴れるだろう、と言う。
というわけで、本書で描かれるクーンは、一般にイメージされているよりも、ずっと穏健なクーンである。読んでいて、確かにこれがクーンの実像に近いのだろうな、と感じる。僕は論理学をあがめ奉って硬直した感じのする論理実証主義の科学観に比べれば、より人間的な感じのするクーンの科学観の方に共感を覚える。でもやっぱり実在論と真理論に関する部分には、納得し難いところがあるのだけれど。

<講談社:1998年1月刊:本体2524円>
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さよならダーウィニズム ― 構造主義進化論講義 ―(池田清彦)
題名の通り、(ネオ)ダーウィニズムに対する批判と、構造主義進化論のアプローチについて書かれた本。内容はこれまでの池田氏の著作とほぼ重なっている。いくつか新しい例なども挙げられているが、それらも雑誌の論文などで既に書かれたものがほとんどなので、それらをフォローしている人はあえて読む必要はないだろう。でも講義から原稿を起こしたというだけあって、『構造主義生物学とは何か』や『構造主義と進化論』よりはずっと分かりやすいので、これから読もうという人には良いと思う。

池田氏のダーウィニズム批判は相変わらずで、ダーウィニズムを支持する人には反感を持たれると思う。池田氏がダーウィニズムへの「反証」として挙げているものも、ダーウィニストならダーウィニズムの枠内で解決できると考えるだろう。ダーウィニズムは非常に懐の深い学説で、なまじっかの事では反証できないようにできている。だから池田氏の議論に対して「ダーウィニズムを理解していない」とか「確信犯的に攻撃している」と感じる人がいても、当然だと思う。

ただ少なくとも「現状のネオダーウィニズム」について考えると、(それがネオダーウィニズムに作り付けのものでは無いにしても)進化を遺伝子=DNAの変化と同一視してしまうような「遺伝子本質主義」的な傾向が強いことは、否定できないように僕には思える。そしてこの点に対する池田氏の批判は読むに値すると思う。
池田氏は「ネオダーウィニズムはDNAそのものの進化理論としては、十分とはいえないまでもかなりイイ線までいった理論であるが、残念なことに生物はDNAではない。生物の進化を説明するためには、さらに関係論的な方向に、研究枠組みをシフトさせる必要がある」と書いている。
実際、形態や行動の進化的変化が遺伝子=DNAの変化とどう対応するのか(しないのか)は、まだほとんど分かっていないのが現状だ。DNAの変化によって表現形が変化する場合があることは確かだが、たとえば個体発生における「表現形模写」という現象に見られるように、形態の変化が必ずしもDNAの変化と結び付いているわけではない。誰もが認めるように、同じゲノム「情報」を使っていても、その「解釈」の違いによって多様な形態や行動が生まれる。ゲノムはこのようなエピジェネティックな幅のあるポテンシャルを持っているわけだから、解釈系の側の変化が世代をこえて再帰的に起これば、ゲノムの変化がなくても形態や行動の進化は起こりうるかもしれない。これはまあ思弁にすぎないが、少なくとも「遺伝し進化する実体」を「DNA」だけに解消するわけにはいかない、ということは言えると思う。池田氏の言うように、遺伝するのは「生きているシステム」全体なのだから。

進化のどういう側面を理解したいのかによって、進化を捉える方法論に違いが出てくるのは当然のことだ。生物集団内のDNAの増減のダイナミクスを知りたいのなら、現状のネオダーウィニズムで良いかもしれない。しかし「発生」という観点から生物の「形」の進化にこだわる立場からすれば、「進化=DNAの変化」とする見方よりも、池田氏の「構造列」や団まりな氏の「階層性」概念の方が、より有用なのではないかと思える。形を作るのはDNAではなく、DNAも含めた「システム」であり、「構造列」や「階層性」には、そのシステムの規則の変化(進化)を捉えようという指向性を感じるからだ。

<講談社選書メチエ:1997年12月刊:本体1553円>
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覇王の道(グイン・サーガ59巻)(栗本薫)
前巻でアルド・ナリスと密約を交したイシュトヴァーンは、自軍の待つクムへの帰途につくが、その彼の前に「闇の司祭」グラチウスが現われ、甘い言葉でイシュトヴァーンに協力を申し出る。その罠からイシュトヴァーンを救ったヴァレリウスは、続いて現われたアリストートス配下のヤミ魔道師オーノとも対決し、これをうち倒す。
というわけで、イシュトヴァーンに突きつけられていた背後の刃もめでたく取り払われて、次の巻は(みなさんお待ちかねの)イシュト&カメロン対アリストートスの対決が見られるのか、という予感を抱かせる展開です。期待して待ちましょう。
それにしても、このところグラチウス氏は外伝でも本編でも、東へ西への大活躍ですね。悪役ながらなかなか愉快なキャラクターになってきてるし。作者に気に入られているのかな?(笑)

<ハヤカワ文庫JA:1998年1月刊:本体500円>
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生物系統学(三中信宏
系統学の分野では日本で最もアクティブな論客(と少なくとも外野席からは見える)三中信宏氏の、生物系統学に関する著書。
三中氏は「進化生物学メイリング・リストEVOLVE」のリスト・オーナーもつとめており、このMLのもっとも活発な発言者の一人でもある。このMLの参加者は、個別のテーマに関する氏の主張は散発的に読むことができていたが、それが一冊の本としてまとまり、その全体像が見渡せるようになったわけだ。

内容を簡単に紹介する。
第1章「なぜ系統を復元するのか」では、まず系統学を含めた「歴史学」とはどのような科学かが述べられる。次に、従来一体のものであるかのように扱われてきた「系統学」と「分類学」が、実は全く異なる知的作業であること、つまり前者が歴史の推定を行う「歴史学」であるのに対して、後者はヒトの認知分類に関する研究を行う「認知科学」であること、が述べられる。この2つの学問の偽りの蜜月は、もう終わりにすべきだと三中氏は言う。
第2章「系統とは何か」では、系統学がどのような学問なのか、何を目指し、どのような方法を用いるのか、の概略が述べられる。
第3章「分岐学」では、この本の中心的なテーマである「分岐学」が、どのようにして始まり、どのように発展したのかを、その契機となった幾つかの大論争を科学史的に考察しながら述べる。この章で読者は分岐学が対立する他の諸学派とどのように異なるのか、そして分岐学内部の論争が分岐学をどのように発展させてきたかを知ることができる。
第4章「分岐学に基づく系統推定」では、実際の系統推定の方法論が解説される。祖先形質の復元法、最節約分岐図の求め方、分岐図の信頼性の評価法、分子系統学の方法論、そして「分岐図からネットワークへ」という進化モデルと表現法の発展について述べられる。
第5章「系統が語る言葉」では、系統学が生物学の他分野とどう関わるのかを、生態学や行動学における種間比較法、生物地理学、分類学、形態学を題材にして考察している。

本書は非常に論争的な本である。論争の紹介だけでなく、著者自身の考えが明確に述べられており、刺激的で面白い。三中氏のスタンスは、科学から主観的、恣意的な要素を極力排除し、情緒的な議論は理詰めで論破して、より客観的で実用的・生産的な方法論を鍛え上げていく、という所にあるように思える。特に分類学に対する態度などは徹底していて、読んでいて、理屈では確かに正論だと思う半面、そうまで言って良いのか、と不安にもなる。
僕も「系統と分類は別」だとは思うけど、分類を単に「認知科学」と言ってしまうのには、まだ抵抗がある。ヒトが生物をある類に分けるとき、そこには確かにヒトの認知機構のもつ特徴が反映するだろうが、それは同時に自然界に現実にあるギャップをも反映しているはずだ。そのようなギャップによる類別は分岐学的観点からは意味がないかもしれないが、たとえば発生学的には興味深いものかもしれない。だとすればそのギャップの情報を「自然界に実在するもの」として、整理し、体系化し、参照可能にしておくという作業は必要だと思う。これは「認知科学」の側面ももつかもしれないが、同時に生物の諸形質とその関連を調べ、体系化するという、生物学的側面ももつだろう。「系統」と「分類」の2つの情報参照体系が整備されていることが、普通の生物学者にとっては、一番便利が良いことなのではないかと思う。

<東京大学出版会:1997年12月刊:本体5600円>
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カントの人間学(中島義道)
この本はカント哲学の入門書、ではまったく無くて、カントという哲学者がどういう人物だったのか、ということを(著者の想像も交えつつ)考察した本だ。中島氏の描くカント像は「崇高かつ清潔な哲人」ではなく、世のカント学者たちが描くよりも「はるかにエネルギッシュで、はるかにシタタカである。つまり、善と悪とのあいだを、激情と平静とのあいだを、崇高と野卑とのあいだを、豪快に揺れ続ける」(本書「まえがき」より)人物である。
もっとも、人物像を描くと言っても、やはりそれはカントが偉大な哲学者だからそういう興味も湧いてくるわけで、その哲学の内容と切り離して論じられるわけではない。偉大な業績を残した人物の、「業績」と「人となり」の関連、というのは興味の湧くテーマであり、伝記やインタビューの類に需要がある一つの理由になっているのだろう。この本も、そういう興味に応えてくれる内容になっている。
中島氏のカント像の描き方はかなり意地が悪い(そしてその分、読み物としては面白い。)しかしだからといって中島氏が反カント主義者であるわけではなく、カントはそういう「『悪い面』をすべて含んで偉大である」というのが、中島氏のカント観なのである。(とはいえ、カントがこれを読んだら、気分を害するとは思うけど。)

<講談社現代新書:1997年12月刊:本体660円>
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鳥頭紀行ジャングル編(西原理恵子&勝谷誠彦)
西原理恵子の一行が何の因果かアマゾンに魚釣りに行くことになる、その旅を描いたのが「ジャングル編」。他に「ベトナム編」と「台湾編」がおまけでついている。サイバラたちは相変わらず例の調子なのだが、特筆すべきこととしては、サイバラは、この旅に同行したビデオカメラマンの「鴨ちゃん」と後に結婚することになった、ということぐらいか。でもどーゆーなり行きでそーゆーことになったのかは、この本を読んでも、とんと分からない。

<スターツ出版:1998年1月刊:本体1000円>
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夏のレプリカ ―REPLACEABLE SUMMER―(森博嗣
犀川&萌絵シリーズの新作。前作の『幻惑の死と使途』と同時進行している事件を描き、「微妙な2連作」になっている作品だという。前作が奇数章からのみ成り、本作は偶数章のみから成るので、同時に読むこともできる。
さて、今回は萌絵の親友で東京の大学院に行っている「杜萌」が帰省して誘拐事件に巻き込まれ、やがてそれが奇妙な殺人事件、および杜萌の盲目の兄の誘拐(失踪?)事件へと発展していく。今回の事件はいわゆる不可能状況もなく、奇妙な点は色々あるが、どこがおかしいのかもあまり判然としていない。萌絵も犀川も事件にはほとんど関与せず、その意味でシリーズの他の作品とは趣を異にする。本が終りに近づいても、なかなか解決の筋が見えず、どう決着をつけるんだろう?と思っていたら、ラストの二十数ページで物語は急転し、驚きの結末が待っていた。
はい、私、完全にやられました。いや、ミステリでは特に珍しいトリックというわけではなかろうが、まさかそう来るとは思いもしなかった。それでちゃんとつじつまがあっているのか、しばらく悩んでしまった。殺人と誘拐という二つの事件を結び付けて考えてしまうこと、そしてその前提で杜萌の心理描写を読んでしまうことで、ミス・リードされちゃったわけだけど。僕的には、衝撃度はかなり大でした。
後から思えば、森作品に共通するモチーフ(「誰が誰?」)もちゃんと登場してきている。そしてまた(犀川が示唆するように)「当事者」の視点と「舞台の外」にいる者の視点の対比という意味で、『笑わない数学者』のテーマを逆からなぞった作品にもなっているように思える。(『笑わない数学者』では舞台の内にいる探偵と神の視点にいる読者が対比されたが、本作ではむしろ探偵(犀川)が完全に傍観者の立場にいるのに対して、読者は物語の語り手の視点に巻き込まれてしまうように仕掛けられている。)読み返せば、他にも色々な仕掛けがありそう。これだから森博嗣はやめられない。

<講談社:1998年1月刊:本体780円>
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1998年7〜9月分
1998年4〜6月分
1997年7〜12月分
1997年1〜6月分
1996年版目次
1995年版
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彦坂 暁 (akirahs@ipc.hiroshima-u.ac.jp)