最近 読んだ本(1997年 1〜6月)

最終更新日 1997.7.14

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コメント

妊娠小説(斎藤美奈子)
「日本の近現代文学には、『病気小説』や『貧乏小説』とならんで『妊娠小説』という伝統的なジャンルがあります」と、著者は本書の冒頭で宣言する。「妊娠小説」とは何か?著者の定義によればそれは「望まない『妊娠』を登載した小説」であり、「『妊娠』を標準装備した小説はとりあえずすべて『妊娠小説』である」とされる。そう、かの『舞姫』も『風の歌を聴け』も、実は「妊娠小説」だったのだ。本書は文学史、文学批評から黙殺され続けてきたこの一大ジャンルに光を当てる、挑戦的な文芸評論である。

著者は「妊娠小説」を歴史、形式、内容の面から、ばっさばっさと切り刻み、整理し、ラベルを張り付けていく。こういう読まれ方をしたら作品も作者もたまったものではないだろうが、読むほうにすればとても痛快。毒舌皮肉の切れも良く、笑いながら読ませてもらった。いや、僕はこういうの、大好きです。
1994年6月刊にでた単行本の文庫化。

<ちくま文庫:1997年6月刊:本体680円>
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幽霊島の戦士(グイン・サーガ 外伝10巻)(栗本薫)
久しぶりの『グイン・サーガ 外伝』。
誘拐されたケイロニアの王女シルヴィアを救出するために単身、冒険の旅に出たグインは、かつて訪れた「死の都」ゾルーディアに再び足を踏み入れる。そこでグインを待っていたのは、「死の娘」タニア、「闇の司祭」グラチウス、そして人の手によって作られた疑似生命体、怪物ザンダロスであった――。

久しぶりにグインが登場し、妖しく凶々しい「剣と魔法」の世界に踏み込む。本編の雰囲気も良いけど、たまにはこういうなつかしい冒険物語も楽しい。もう少し手に汗にぎるアクションシーンが多ければ言うこと無いんですが。

<早川文庫JA:1997年6月刊:本体520円>
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巻き貝はなぜらせん形か ― 「かたち」を科学する ― (高木隆司)
自然に存在するさまざまな「形」は、どのような法則、原理によってでき上がるのか。シャボンの膜が作る形、高分子の折りたたみ、雪の結晶、巻貝の等角らせん等々――これらの「形」の背後にある物理学的・幾何学的原理が平易に解説されている。他にも工学的な設計の問題や、形を捉える人間の「感性」の問題など、「形の科学」全般にわたって、広くみわたす内容になっている。

良い意味でのブルーバックスらしさを感じさせる本だった。中学生でも読める平易な解説と、知的好奇心を刺激する内容。子供のころブルーバックスに求めていたのは、こういう面白さだったんだよなぁ、と思いながら読んだ。
「形の科学」自体については、こういう幅広い分野がどのようにお互いに関連し、互いに刺激を与えあうことができるのかというイメージが、僕にはいま一つはっきりと湧いてこないのだが、色々勉強してみたいという気にはなった。

<講談社ブルーバックス:1997年6月刊:本体720円>
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マンガ家のひみつ(とり・みき)
とり・みきと9人のマンガ家の対談集。対談相手はゆうきまさみ、しりあがり寿、永野のりこ青木光恵唐沢なをき、吉田戦車、江口寿史、永井豪、吾妻ひでお。なかなかの豪華メンバーである。
全部それなりに面白く読めたが、なかでも永井豪と吾妻ひでおの2人のベテランとの対談は頭一つ出ている。この二人、対照的なんだけど、それぞれにやっぱりすごいなぁと思う。
永井豪はすごくエネルギッシュな人で、とにかくマンガを描くことが好きで好きでしょうがないらしい。理屈よりも衝動で描いていくタイプで、それで『デビルマン』や『バイオレンス・ジャック』を描いてしまうのだから、やっぱり天才なのでしょう。(はずれもあるけど (^^; )
吾妻ひでおはマンガを描く前にはいつも、マンガという表現がこれでいいのか、まだ何かやれることがあるんじゃないか、ということを考えると言う。そういうこと考えるから煮つまっちゃうんじゃないかという気もするけど、それだけ真剣なんでしょうね。「失踪」当時の生活やエピソードも語られていて興味深い。

<徳間書店:1997年5月刊:本体1600円>
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知恵の樹(マトゥラーナ&バレーラ)
我々が「認識する」とは、どういうことなのか。この本は生物学の観点からこの問題に答えようとしている。マトゥラーナとバレーラは「オートポイエーシス」の提唱者でもあるチリの神経生物学者。彼らは生命そのものを規定する原理=“オートポイエーシス”から出発して、オートポイエティック・システムの再生産、カップリング、個体発生と系統発生、神経システムの作動、そして文化・社会現象から言語の領域へと論を進めていく。

本書は生物学的な認識論であると同時に、非常に優れた生命基礎論だと感じた。
ふつう生物学の基礎と言ったときに、僕らの頭にうかび、また普通の教科書にも載っているのは、細胞の構造と機能であり、DNAを介した遺伝の仕組であり、自然淘汰による進化の機構エトセトラである。しかし本書が基礎論だというのは、そういう基礎的な知識を提供してくれるという意味ではない。本書が与えてくれるのはそういう教科書的な知識によって我々が抱いている生命像を、もう一度、別の角度から眺めて原理的に捉え直すための足場のようなもの、つまり生命の一般理論のようなものだ。
同じ現象(たとえば「遺伝」とか「行動」とか)を扱っていても、見る視点、語る方法が我々の通常の生物学と違うと、物事の見え方がこうも違ってくるのか、と新鮮な驚きを感じた。

ちょうど一年前に、マトゥラーナとヴァレラの『オートポイエーシス』を読んで、その絶望的な難解さに愕然としたのだが、それに比べてこの本はずっと分かりやすい。
邦訳が出版されたのが十年前だから、今さらという感じだが、読んで損はない、というより、読まないと損をする本の一つだと思う。僕ももっと早く読んでおくべきだったと、後悔している。

<朝日出版社:1987年10月刊:本体3398円>
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薬局通(唐沢俊一
薬局とクスリをめぐる雑学+エッセイ。1990年に出版された唐沢俊一氏の処女出版『ようこそ、カラサワ薬局へ』が昨年文庫化されたもの。

日本とアメリカのクスリ事情の違い、なんてのを読むと、クスリも単なる実用品(?)ではなくて文化なのだなあ、ということが分かって面白い。
僕は(アルコール以外の)ドラッグには興味がないし、クスリにも(今のところ)あまり縁の無いない人間なのだが、クスリが(たとえば結核の駆逐を通じて)人生観を変え、人間を変えてきた、という筆者の主張には、なるほど、と思う。クスリを通して考える「身体」論というのも、なかなか面白いかもしれない。

<ハヤカワ文庫JA:1996年7月刊:本体466円>
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嗤う伊右衛門(京極夏彦)
京極夏彦氏の新刊は「京極堂」のシリーズではなく、「四谷怪談」。しかし民谷伊右衛門、お岩をはじめとする登場人物たちの役どころは、本来の「東海道四谷怪談」とは異なり、京極オリジナルの「四谷怪談」になっている。
――などと知ったようなことを書いているが、僕は実は「東海道四谷怪談」の筋をよく知らなかった。基本的に怪談とか苦手なので (^_^; 。でも、さすがにこのストーリーは違うだろう、と思って、この本を読み終えてから、他の本を当たって確認した次第である。本来のストーリーを知って読んだほうが面白かっただろうな、と思うと少し残念だ。
物語は京極的美しさ、妖しさ、かなしさにあふれた悲劇で、読んでいると物語の世界にとりこまれていくような、あやしい魅力のある本だ。いつもの新書本に比べると割高感はあるが、値段分以上に十分堪能できた。

<中央公論社:1997年6月刊:本体1900円>
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虫の思想誌(池田清彦)
『昆虫のパンセ』(青土社、1992年刊)の文庫化。もともとは『現代思想』誌上の連載で、当時のタイトルが『虫の思想誌』だった、とのこと。
例によって池田流の毒舌でネオダーウィニズムや社会生物学を批判している。その論旨は池田氏の他の本とそう変わらないが、本書では様々な昆虫の形態や生態に関する話をからませて語られているので、退屈はしない。

<講談社学術文庫:1997年6月刊:本体660円>
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国家と犯罪(船戸与一)
船戸与一氏の新刊だが、本書は小説ではなくルポルタージュである。今までにも豊浦志朗の筆名でのノンフィクション作品があったが、今回は船戸の筆名での出版だ。
本書には6つのルポルタージュが収められている。キューバの将軍が汚職と麻薬密輸の罪に問われた事件を通してキューバの現在を描く『オチョア将軍の処刑』、メキシコのマヤ系先住民の蜂起を取材した『幾たびもサパタ』、中国の農民の窮状を描いた『黄土の名もなきクリオたち』、中国における民族問題をウイグル、チベット、モンゴルに取材した『中華膨張主義の解体』、クルド民族の悲劇の歴史を描く『大クルディスタン構想の栄光と悲惨』、そしてナポリにおける新旧犯罪組織の抗争を描いた『聖夜に向けての銃弾』。著者の言葉によれば、これらは世界の矛盾が集積される「辺境」からの報告である。

船戸氏がしばしば小説に描く、国家による抑圧的な暴力、虐げられた者たちの反逆、そのぶつかりあう所で血を流しあう名もない人々の姿が描かれている。国家に対する犯罪と国家による犯罪のせめぎあい。そしてその状況は国際政治に否応無しにつながっている。読んでいて、どうしてもペルーの事件が頭に浮かんでくる。船戸氏ならあの事件をどのように報告するだろうか。

<小学館:1997年5月刊:本体1800円>
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『現代思想』6月号:特集「多様性の生物学」
『現代思想』の生物学関連特集。今回は「多様性の生物学」ということだが、内容は「記号論と生物学」に関する論文が多い。翻訳論文が全体の約半数を占めている。

特に興味深かった論文について、感想を書いておく。

『クローン技術をめぐって』(柴谷篤弘 vs 森岡正博)
「クローン」の問題に関する対談。ヒトのクローンができる可能性について、「気持ち悪い」「変だ」というような反応が出てくるのは、実は「裏願望」なのではないか、つまり心の中に秘められた「不死願望」のようなものに触れてしまう感触が、「気持ち悪い」という反応として出てくるのではないか、という説が興味深い。「クローン」に対する世の中の過剰反応(と僕には見える)の根っこがどこにあるのか、つねづね疑問に思っていたが、これも答えの一つなのかな、と思う。それだけで説明できるわけではないだろうけど。

『物質現象としての生物信号』(D.R.ブルックス&D.A.マクナレン)
「(信号の)発信者は信号がどのように解釈されるかを制御できない」、「組織が意図的に特定の組織に対して信号を送るようなことはない」、「意味の問題は観測者の性質の問題である」などなど、面白い命題が並んでいて、考えさせられた。
動物の個体発生過程でも様々な「シグナル」が働くと言われる。しかし一方で内在的な「シグナル」以外の物質に特定の細胞(群)が反応して、内在性のシグナルの作用が模倣されるような現象も知られている。このような現象を見ると、シグナルを受ける細胞には固有の(比較的少数の)安定な発生経路があり、シグナルは単にその経路選択の「きっかけ」を与えるものとして働くように思われる。ある物質が期せずしてその経路選択機構を動かしてしまえば模倣現象が生じる。このように考えると、あるシグナルを受けて特定の細胞が増殖や分化などの反応を行うのは、主要にはその細胞自身の解釈(経路選択)機構によるのであり、そのきっかけは別段何でもかまわないのではないかと思えてくる。進化の過程で新奇な「シグナル」システムが成立したとき、「シグナル」としてとにかく手近にあって使える物質を利用したのだと考えれば、特定の物質を「シグナル」たらしめたのは受信者(解釈者)の側だということになる。まあ、これは思弁にすぎないが、発生における経路選択を理解するためには、様々な情報を解釈する細胞の機構の側に力点が置かれるべきだろう、とは言えるように思える。

『適応能と内部観測:含意という時間』(郡司ペギオ-幸夫)
例によってすごく難解な論文だが、生命の「プログラム」の起源の問題は面白そうだ。観測者がある安定な物質(DNAなど)を「プログラム」と呼ぶことで、「プログラム」と「その翻訳表現」というような分節が可能になる。安定な物質それ自体が「プログラム」なのではなく、それを「プログラム」と呼ぶ観測者によって初めてそれは「プログラム」として現われてくる――というような話(だと思う)で、「遺伝子=DNA=プログラム」論への批判として面白い。

『クラゲの夢、クビナガリュウの夢、エピジェネシスの夢』(倉谷滋)
僕にとっては最もわかりやすく、面白く、共感できるのが、この論文だった。
『遺伝子と形態のホモロジー』(同誌'95年12月号)で、多様性を貫く同一性としての「相同性」を認識論と関連させて論じた倉谷氏が、今回は「主題と変奏」の「変奏」の側を論じる。ここで主題とは形態の相同性を作り出す「発生アトラクタ」、変奏とはその上での形態(ゲシュタルト)進化である。氏は「変奏」を単なる多様性として認識するのみならず、「変奏の法則」をも追求しようとしている。
倉谷氏は動物の形を発生アトラクタ(ボディプラン)と環境の間の界面としてとらえ、その進化的変化はボディプランと環境の両者をアフォードする、ディスクリートないくつかの安定点に収束しているように見える、という。例としてクビナガリュウの進化をとりあげ、同一の祖先から「長い頸を作る」という方向へ進化したものと「頸を短くして大きなアゴを作る」という方向へ進化したものの両極端への進化があったこと、そしてそれらの最終的解答の一つが他の分類群のものと似ていることを述べている。

「変奏の法則」には僕もとても興味がある。ある個体発生メカニズムの制約(発生アトラクタ)の上で、形態進化につながる個体発生メカニズムの変化が起こる。それらの変化の中には多数の系統で独立に何度も起こるような種類の変化(たとえば間接発生から直接発生への変化)もあれば、ユニークな変化もある。ではどのような変化が起こりやすく、どのような変化は起こりにくく、またどのような変化は起こりえないのか。それを規定しているのは一つには環境とのエコロジカルな相互作用であろうが、もう一つは個体発生メカニズムであるはずだ。(たとえば発生アトラクタを乱さない変化は起こりやすいと考えられる。)ではその「起こりやすい/にくい変化」の実体は何か、と考えた時に、研究手法として可能なのは比較発生学を分子のレベルで行うことだろう。(たとえば僕がセミナーで論文紹介したカエルウニの比較発生学の仕事のように)。そしてさらにその比較の結果を比較する。そのことによって、たとえば「異時性」や「アロメトリー」のようなジェネラルな進化現象を「変奏の法則」の一つとして理解できるのではないか、と思う。

もう一つ、「エピジェネシス」に関する議論が面白かった。倉谷氏は還元論的な研究によって決定論的なモデルとして生命現象を再構築したときに、それでも漏れ落ちてしまう「かもしれない」生命現象があるという潜在的可能性、これを現代的な意味での「エピジェネシス」と捉える。この定義は面白い。
このように捉えるのだとすれば、個体発生においては、ゲノムに対してはゲノム決定論を不可能にするように働く卵細胞質、卵というシステムに対しては卵の決定論を不可能にするように働く環境の作用、あるいは胚の運動において生じる偶然性が「エピジェネシス」の実体ではないかと思える。たとえば昨今の「クローン」論議で必ず言われる「ゲノムが同じでも環境が違えば出来あがる人は違う」は「エピジェネシス」的な論理だ。そしてこれは誕生後の成長期のみならず、胚発生期においても言えることだろう。前成的=ジェネティックな「決定論的(と想定されている)」システム(たとえば胚)は、そのシステムがいかんとも制御できないエピジェネティックな環境の作用を前提として、その中で動く。発生は必ず環境の中で行われるから、たとえマイルドな環境で「正常」に発生した胚でも、エピジェネティックな作用は必ず受けている。観察者が環境をマイルドに制御することで、その効果を無視しているだけだ。実際にはシステムは環境と不可分のものとして動く。決定論が成り立つとすればその一体の運動においてであるはずだ。そこに至ってはじめて「エピジェネシス」は解消されるだろう。
進化の話に戻れば、進化するシステムにとっても環境は制御できないものとして存在している。だから上記のような進化するシステムの内部の論理をいくら探究してみても、決定論へは行き着けないだろう。逆にエピジェネシスの側からの決定論もやはり不可能だろう。そこでやはり「界面」が問題になる。では「界面」での決定論は可能なのか?完全な決定論は無理でも、「ディスクリートな安定点への収束」は予測可能なのだろうか?簡単に答は出ないだろうが、面白い問題だと思う。

<青土社:1997年6月刊:本体1238円>
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消えたマンガ家 2(大泉実成)
『消えたマンガ家』の続編。今回取り上げられるのは、とりいかずよし、ふくしま政美、山本鈴美香、美内すずえ、黒田みのる。
後半の3人は「少女マンガ家は、なぜ教祖になってしまうのか」というテーマで語られる。『エースをねらえ!』の山本鈴美香は「神山会」という宗教団体の教祖になっている。『ガラスの仮面』の美内すずえは精神世界研究会「O-EN NETWORK」を主催し、「宇宙神霊」のメッセージを語る。元少女怪奇マンガ家の黒田みのるは「ス光光波世界神団」の「大教主」である。
かれらはどうにして「神の言葉」を語るようになっていくのか、と著者は問い、「神山会」、「O-EN NETWORK」への潜入取材を敢行する。

少女マンガ系の作家(おおむね女性)が書いたエッセイマンガなどを読むと、よく「心霊現象」の体験談が出てくる。「霊」の存在は当然の前提であるかのように語られており、僕などは鼻白む思いがするのだが、この本によれば、そういう体験談を面白がって描いているうちは良いのだという。そういう体験を解釈したり体系化したりし始めると、「宗教」まではあと一歩。そして、そういうふうに「いっちゃう」作家は「体験談」系の作家よりも「創作系」の作家に多いのだという。
そんなものかな、という気もするが、よく分からない。読んでいて何か食い足りない感じが残る。結局、「こちら」から「あちら」へ「いってしまう」そのプロセスがよく分からない。そのようなプロセス、あるいはそのような方向へ向かっていく素地のようなものを作品の中から読みとる、というような作業があれば、もっと面白かったのではないかと思うのだけれど…。

それはそうと、もはや『ガラスの仮面』にちゃんとした結末を望むのは無理なのでしょうか(泣)。

<太田出版:1997年6月刊:本体800円>
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動物の脳採集記 ― キリンの首をかつぐ話 ― (萬年甫)
脳の比較解剖学研究者である著者が、いかにして動物の脳の標本を集めてきたかを書いた本。アシカ、キリン、子カバ、ゾウなどの脳を集めた苦労話が語られる。

話は面白くて、キリンの首を背負って電車に乗った話など、おもわず笑ってしまう。
ただ(「肩のこらない本を」という趣旨で書かれたものなので仕方がないのかもしれないが)これらの標本を使ってどういう面白いことが分かったのか、という学問的な話がもう少しあると良かったのに、と僕などは思ってしまう。その点が少々物足りなかった。

<中公新書:1997年5月刊:本体680円>
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突破者 ― 戦後史の陰を駆け抜けた五〇年 ― (宮崎学)
宮崎学氏の半生記。面白いという評判は聞いていたが、ほんとに、面白い。読み出すと止まらない。
宮崎氏はとくに有名人というわけではないし、僕もこの本を読むまではまったく知らなかった。少なくともマスコミに頻繁に登場する種類の人間ではないだろう。しかしその人生は過剰に激しく波乱万丈。京都のヤクザの子に生まれ、喧嘩三昧の少年時代を過ごしながら左翼に近づき、早稲田大学入学後、学生運動で活躍。『週刊現代』の記者生活後、京都に戻って解体屋稼業を切り回す。「企業恐喝」の容疑で京都府警と争い、そのあおりで会社がつぶれて莫大な借金を抱え込む。夜逃げ同然で東京へ行き、新宿の「愚連隊の神様」の下で働く。その後も「グリコ・森永事件」の「キツネ目の男」ではないかと疑われたり、やくざのヒットマンに友人を殺され、自分も脚を撃たれたり、と、とにかく尋常ではない。
ちなみにタイトルは「とっぱもの」と読み、関西では無茶者、筋を曲げずに突っ張る者のことを、こう呼ぶそうだ。

<南風社:1996年10月刊:本体1748円>
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生物学者 ― 誰でもみんな昆虫少年だった ― (池田清彦)
実業之日本社『仕事―発見シリーズ』という見慣れないシリーズの中の一冊。発生学会からの帰路に八重洲の本屋で見つけた。このシリーズの趣旨は、いろいろな分野のプロフェッショナルが自分の職業の魅力や自分の進路選択などを語る、ということらしい。「小説家」「医師」から「プロレスラー」(<著者はアニマル浜口)や「お天気キャスター」なんてものまで、様々な職業が取り上げられている。読者としては中学・高校生あたりを想定しているのだろう。そういうシリーズ本に「生物学者」として池田清彦氏を登場させてしまうあたり、編集者もなかなか大胆だ。

内容は池田氏の自伝のようなもので、少年時代の昆虫狂いから最近の仕事までほぼ年代順に語られていく。僕が一番興味があるのは、生態学の分野で研究をしてきた池田氏がどのような過程で「構造主義生物学」にシフトして行ったのか、という点なのだが、残念ながらこの本を読んでもいま一つよく分からなかった。

<実業之日本社:1997年4月刊:本体1200円>
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野望の序曲(グイン・サーガ 56巻)(栗本薫)
グイン・サーガ 56巻は前巻に続いてイシュトヴァーン将軍率いるモンゴール・ユラニア軍とタリオ大公率いるクム軍の戦い。特に目新らしい動きもなく、予定通りの展開、といったところか。

本書で一番衝撃的だったのは、本編ではなく「あとがき」の、近々グインのイラストレーターが変わるかもしれない、という話。残念だけど、一方で仕方がないかな、とも思う。
グインのイラストが加藤氏から天野氏に変わったとき、僕は残念な気持ちとうれしい気持ちが半々だった。そもそもグインを読み始めたのは加藤氏の絵がきっかけだったから、加藤グインに思い入れは深かったが、しかし僕は天野氏の絵も大好きだった。SFマガジン別冊に載っていたグイン外伝『氷雪の女王』の昏い雰囲気をたたえたモノクロの挿絵は、物語の世界にこの上なくはまっていて、とても感激した覚えがある。あのイラストでグインの物語が彩られるなら素敵だと思った。(個人的な好みで言うと、僕は最近の天野氏の絵よりも当時の絵の方が好きだ。)
天野氏の多忙ぶりを見るに、変わるのは仕方ないと思うが、誰に変わるかは大問題。まさかとは思うが、アニメ絵ややおい絵だけは絶対に避けてほしい。

<ハヤカワ文庫JA:1997年5月刊:本体485円>
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ぼくは勉強ができない(山田詠美)
『本の雑誌』6月号で「高校生小説」の特集というのがあって、50冊ほどの本が挙げてあった。僕はそのうち10冊ほどしか読んでいなかったのだが、その中には『九月の空』『桃尻娘』『避暑地の猫』『春の道標』『太郎物語』などなど、僕にとってはなかなか感慨深いタイトルが並んでいて、「高校生小説」というのはなかなか面白いジャンルかもしれない、と思った。
本書もそのリストにあった一冊。主人公は17歳の高校生、秀美君。彼が恋愛に悩んだり、まぁ色々なことを体験しながら色々なことを考える、というお話(<説明になっていない)。実は山田詠美を読んだのは初めてだったのだが、なかなか良い。身体の感覚というのはすごく大切で、下手な理屈を越えている、というような話が随所にでてくるが、その感じはとてもよく分かる。

<新潮文庫:1996年3月刊:本体388円>
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CREATURES ― 馬田純子作品集 ―
本屋で見つけて一目惚れしてしまった、馬田純子氏のオブジェ作品集。粘土と樹脂、そして鏡といった素材で造られたカエル、イグアナ、アンモナイトなどの生物たち(CREATURES)は、いくぶんグロテスクで、しかしとても愛らしい。写真も良いけど、実物を見てみたい。

<光琳社出版:1994年12月刊:本体2816円>
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日本社会の歴史(上)(網野善彦)
日本人・日本国の歴史をたどる通史。全3巻の上巻は日本列島の形成から9世紀まで。縄文時代から「首長たちの時代」を経て、近畿を中心とした国家が形成され、やがて「日本」や「天皇」という称号が生まれ、日本国が東アジアの古代小帝国として発展していく様を描いている。

僕も一応、高校3年の時に日本史を習ったが、受験には関係なかったので、定期試験で合格点をとれる程度にしか勉強しなかった。おかげで頭に残っている「日本史」の知識は、大河ドラマかマンガか司馬遼太郎の小説で得たものばかりである。これではいけないと反省したわけではないが、たまには読みつけない本も読んでみようかと思って手にとった。
本書を読んでの一番の収穫は「日本」が海を媒介にしながら中国大陸や朝鮮半島を含むアジア世界の中でその歴史を作ってきたという、僕にとっては新しい日本史のイメージが得られたこと。そういえば『日出処の天子』にも百済人だか新羅人だかが出てきていたなあ、なんて事を考えながら、読んだ。

<岩波新書:1997年4月刊:本体630円>
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セブン セブン セブン ― わたしの恋人ウルトラセブン ― (ひし美ゆり子)
『ウルトラセブン』のヒロイン、ウルトラ警備隊の「アンヌ隊員」こと、ひし美ゆり子(当時の芸名は菱見百合子)が、役者になったいきさつから『セブン』当時のエピソード、そして現在までの女優生活を振り返る。

僕も『セブン』に夢中になり「アンヌ隊員」に憧れた子供だったから、この手の裏話は楽しく読める。
しかし、ひし美ゆり子という人がこうも陽気であけっぴろげな性格の人だったとは…。「アンヌ隊員」のキャラクターとのギャップに驚き、何度も笑わせてもらった。

<小学館:1997年2月刊:本体1460円>
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科学と非科学の間 ― 科学と大衆 ― (下坂英、杉山滋郎、高田紀代志 編著)
十年前に刊行された『科学見直し叢書』の第一巻。章立ては、
「ニュートンの錬金術」
「心霊研究と物理学」
「未発見動物学」
「『非在証明』としての高分子水事件」
「スプーン曲げとテレパシー」
「漢方と西洋医学」
「未開社会の信念と近代科学」
となっている。全体として「科学的」と「非科学的」のあいだに線をひくことができるのか、できるとすればその基準はなにか、というような議論が展開されている。

連休中、実家から広島に戻る途中で東京の本屋さんに寄って衝動買いしてきた本のうちの一冊。面白くて、すいすい読めた。
「科学的」/「非科学的」と単純に割り切れない事例がたくさんあることは、人間のやっていることだから当り前のことで、だからと言って「ほとんど真っ黒」なものと「ほとんど真っ白」なものを同じ「灰色」だといって同一視するのは馬鹿げている、というのがこういう問題についての僕の考え方だ。本書を読んでもその考えは変わらなかったが、「単純に割り切れない事例」集として、興味深く読めた。「高分子水事件」なんて初めて知ったし、Nature がユリ・ゲラーのテレパシー能力に肯定的な論文を掲載していたことも(有名な話なのかもしれないが)僕は初耳だった。
余談だが、「超能力」なるものが実際にあっても僕は別に困らないが、「物理的に不可能だと思えたのに実は巧妙な手品でした」とか言うオチのほうが、「夢があって」楽しいと思うのは、僕だけだろうか?

<木鐸社:1987年1月刊:本体2000円>
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ブラッド・ミュージック(グレッグ・ベア)
遺伝子工学の天才によって生み出された「知性をもつ細胞」が、感染によって広がり、人類の存続を脅かす(というか新しい形の生命に変えてしまう)というSF。

ここ数年ほとんどSFを読んでいなかったのだが、最近本棚の奥から未読のハヤカワ文庫などを引っぱり出してきてぱらぱらと眺めたりしている。『二重螺旋の悪魔』とホーガンでSFリハビリをして、手をつけたのがこの本。実は2年くらい前に読もうと思って買ったのだが、すごく読みにくくて途中で放り出していた。
本書は“80年代の『幼年期の終り』”と評されたらしいが、うーん、そこまですごい作品なのかな?結局、作者が何を書きたかったのか、僕にはよく分からなかった。
「知性をもつ細胞」というアイディアの荒唐無稽さでは『二重螺旋の悪魔』や『パラサイト・イヴ』と良い勝負。だったらストーリーからアクションまで荒唐無稽に徹した『二重螺旋の悪魔』の方を僕は買う。
――うーん、まだリハビリが足りないのかもしれない…。

<ハヤカワ文庫SF:1987年3月刊:本体621円>
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短歌パラダイス ― 歌合 二十四番勝負 ― (小林恭二)
「歌合(うたあわせ)」は歌人たちがチームに分かれて短歌を詠み競いあう遊びである。
歌を詠む者を「方人(かたうど)」と呼び、自チームの歌の応援と敵チームの歌の批判をする者を「念人(おもいびと)」、最終的な勝敗の判定を行なう者を「判者」と呼ぶ。順々に歌を競っていって、何番かの勝負の後、総合得点で勝敗を競うわけだ。この古式ゆかしい、しかし現代ではほとんど行なわれることの無い遊びを、伊豆の宿に二十人の歌人を集めて行なった、その様子を記録したのが本書である。

僕は短歌とは何の縁も無い人間だ。本書に登場する歌人で知っていたのは、俵万智、井辻朱美、道浦母都子の3人だけ。歌集なるものは2、3冊しか買ったことがない。しかし、そんな素人の僕にもこの本は楽しめた。何が面白いのかというと、それぞれの歌に対して念人から寄せられる様々な「解釈」である。
歌集は歌が載っているだけだから、分からない歌はいくら考えても分からない。鑑賞する能力がこちらになければまったくつまらない。芸術は多かれ少なかれそういうものかもしれないが、韻文は散文よりも敷居が高いのは確かだと思う。
本書に出てくる歌も一読なにが何だか分からない歌が多い。しかし、すぐれた批評家でもある歌人たちが様々な解釈、評価を披露してくれて、なるほどこの歌はこう読めるのかと納得させられる。歌人たちの言葉に対する感受性の鋭さにも感服する。
たとえば、前に井辻朱美さんの本を紹介したときに引用した

連綿と海老の種族を生みだしてわが惑星(プラネット)のくすくす笑ひ

の歌が本書の第一番勝負(題は「海」)で登場してくる。これに対して「海老の種族」を「地球上の生物すべて」の喩ととらえる読み方とか、「普通に『わがわくせいの』と書いた方が、ばしっと決まったはず」という言葉のリズムに関する批判とか、僕には思いもつかなかった批評がいろいろ出てきて感心させられる。

僕にとっては、短歌に感じる敷居の高さを、少し下げてくれる本だった。

<岩波新書:1997年4月刊:本体660円>
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バナッハ・タルスキーのパラドックス(砂田利一)
「大きさの異なる2つの球体KとLを考える。このとき、Kを適当に有限個に分割し、それらを同じ形のまま適当な方法で寄せ集めることによって、Lを作ることができる」
これが「バナッハ・タルスキーの定理」である。直観的には奇妙に思えるが、「定理」というくらいだから、数学的にきちんと証明された命題である。本書はこの一見パラドキシカルな定理と、その背景にある数学的な考え方を解説している。

本書の本文中では「バナッハ・タルスキーの定理」の背景にある数学的考え方が紹介され、関連する定理の証明が行われている。この部分は数学が苦手な僕でもなんとか読めるのだが、本文中では肝心の「バナッハ・タルスキーの定理」自体の証明は行われない。証明は巻末の「付録」に収められている。いちおう読もうとしたのだが、案の定、太刀打ちできなかった。というわけで、僕にはどうしてこの奇妙な定理が成り立つのかが理解できていない。(悲しい…)
本文中の「体積の定義」の話や「無限」の話、「数学的矛盾」の話などは面白かった。

<岩波科学ライブラリー:1997年4月刊:本体1000円>
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ガニメデの優しい巨人(J.P.ホーガン)
『星を継ぐもの』の続編に当たる。木星の衛星ガニメデで発見された2500万年前の宇宙船を調査していた調査隊が、宇宙旅行による相対論的効果のために太古から現代へやってきたガニメアンたちと接触する。

『星を継ぐもの』は僕の一番好きなSFだが、続編は未読だった。続編って読むとたいていがっかりするしね。(期待が大きすぎるのがいけないのかもしれないけど。)しかし結局いつかは読むことになるのだし、最近エヴァのおかげで(笑)頭が数年ぶりにSFモードに入りつつあるので、観念して読んでみた。
内容は「明るいファーストコンタクト」といったところか。『ID4』や『マーズ・アタック』で殺伐とした気分になったら、これを読んで、「宇宙人もまだ捨てたものではない」と気分を取り直すのも良いかも。
冗談はともかく、やはり『星を継ぐもの』の感動には及ばないなあ、というのが感想。ハント博士もダンチェッカー教授も、いま一つ生彩を欠いているし、提示される謎もいまひとつだし。
3作目(『巨人たちの星』)は、どうしようかな…。

<創元推理文庫:1981年7月刊>
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TOKYO STYLE(都築響一)
東京に暮らす人々の「部屋」を撮った写真集。
「マスコミが垂れ流す美しき日本空間のイメージで、なにも知らない外国人を騙すのはもうやめにしよう。僕らが実際に住み、生活する本当の『トウキョウ・スタイル』とはこんなものだと見せたくて、僕はこの本を作った。狭いと憐れむのもいい、乱雑だと哂うのもいい。だけどこれが現実だ。そしてこの現実は僕らにとって、はたから思うほど不快なものでもない」(本書「序」より)

確かにこれは「現実」だ。散らかった床、ため込んだごみ、汚れた台所、物が積み上げられた机、はがれかけた襖、たった三畳の狭い部屋、詰め込まれた本棚、ミスマッチな小物たち……。こんな写真を見てなんで面白いのかよく分からないが、何故かそこはかとなく面白い。アート系の人の部屋が多いので変わった小物が色々あったりとか、本棚を見てふむふむしたりとか、大胆な部屋の使い方に驚いたりとか、色々楽しめる。
93年に出た元の写真集は12000円もしたのにかなり売れたそうだ。12000円なら僕は買わないが、文庫サイズの1200円分は十分楽しめた。

<京都書院:1997年5月刊:本体1200円>
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日本のルィセンコ論争(中村禎里)
1930年代から50年代にかけて、ソビエト連邦に発したルィセンコ学説が生物学に大きな波紋を投げかけた。ルィセンコ学説は「獲得形質の遺伝」を主張するなど、正統派であるメンデル・モルガン遺伝学と対立する内容をもっており、学問的にも論争を巻き起こした。しかし問題の焦点はむしろ、ルィセンコ学説がスターリンと彼の指導するソ連共産党の「お墨付」を得て深く政治と結び付き、学問上の対立にとどまらずにイデオロギー的、政治的な対立を含むものとして展開されていったという経緯にある。ソ連では反対派に対する弾圧といった、極めて野蛮な事態をももたらしたという点で、単なる科学論争にとどまらない政治的事件でもあった。日本でもルィセンコ学説の輸入とその後の激しい論争において、イデオロギー対立が深く影をおとした。本書は日本でルィセンコ学説がどのように紹介され、論争がどのような経緯をたどったか、ルィセンコ学説の農業への応用がどのように組織され、その過程でどのような論争が起こったか、などを多くの資料に基づいて明らかにしている。30年前にみすず書房から出版された『ルィセンコ論争』の再刊である。

数年前に一度(借りて)読んでいるのだが、再刊を機会に購入して再読した。色々と考えさせられるところが多い本である。
日本においてルィセンコ学説に躍った人々は、学問的には著者が言うところの「理論ごのみ」、つまり「生命観」や「科学方法論」といったことに関心をもち、深く考えていた人々であり、実践的には「進歩派」、つまり農民の中に入り、農民のための生物学を実践して行こうという意志をもった人々だった。タコツボ化した今の自然科学の場には欠けていると批判されるこのような資質を、むしろ過剰に持っていた人々が、ルィセンコ学説という落し穴にはまった。後世の目でそれを笑うのは簡単だが、それだけでは生産的でない。彼らがどこで誤ったのかを考えることが、科学方法論や科学と社会の関わりに関心をもつ者にとって必要なことだろう。本書はきわめて地味な論争史の本であるが、考えるための材料を豊富に含んでいる。
著者も当時まだ若かったとはいえ、論争の渦中にあった人である。自己や知人の批判をも含む内容を、感情に流されず書き綴った努力に敬意を表したい。本文最後の著者の言葉、「事実に謙虚であり、権威に傲慢である態度」を肝に銘じておこうと思う。

<みすず書房:1997年3月刊:本体2200円>
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封印再度 ― WHO INSIDE ― (森博嗣
岐阜の旧家に伝わる2つの家宝、「天地の瓢」という壷と「無我の匣」。「無我の匣」には鍵がかけられ、その鍵は50年前、当時の当主によって「天地の瓢」に入れられた。しかし壷の首は鍵が通り抜けられないほど細い。その鍵を取り出さなければ「無我の匣」は開かないが、「決して壷を割ってはならない」という遺言を残して当主は謎の「自殺」をとげる。50年前、鍵はいかにして壷に入れられたのか、そしてそれを再び取り出し、鍵箱を開けることはできるのか。このパズルを解くために岐阜を訪れたおなじみ西之園萌絵は、またもや奇妙な殺人事件に遭遇し、例によって犀川先生をまきこんで首をつっこむ。

壷と箱と鍵のパズルの解決は見事。あれが解けるとは思わなかった。これがメインのトリックなのだと思うが、他にも色々と仕掛けがあって楽しめる。トリックs(複数形)としてはシリーズ中で一番面白いと感じた。あと、このタイトル!格好良すぎ。単なる語呂あわせに終わっていないところがすごい。
しかし、『すべてがFになる』でのデビューからまだ一年しかたってないんですね。このペースでこのクオリティというのはすごい、とあらためて思います。

<講談社ノベルス:1997年4月刊:本体900円>
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新世紀エヴァンゲリオン完全攻略読本(新世紀福音協会)*1
庵野秀明 スキゾ・エヴァンゲリオン(大泉実成 編)*2
庵野秀明 パラノ・エヴァンゲリオン(竹熊健太郎 編)*3
エヴァンゲリオン研究序説(兜木励悟)*4

『新世紀エヴァンゲリオン』関連本を続けて読んだ。
僕は『エヴァ』の本放送は見なかった。大体、テレビアニメをまともに見たのは『エルガイム』が最後で、あとは『ナディア』をちょっと見たぐらい、という人間である。しかし『エヴァ』があまりにあちこちで話題になるので、さすがに気になり、去年の秋ぐらいからぽつぽつとビデオを見始めた。先週、再放送で最終話まで見終わって、この手の本や雑誌の特集に目を通し始めているところである。(映画はまだ見ていない。)

まず『新世紀エヴァンゲリオン』そのものについて。見終わった感想は「あれじゃ、ファンが納得できなくて当然だろう」
物語を、それも謎と伏線で引きに引いてきた物語を、途中で放り出されることは耐え難い苦痛である。どきどきしながら読んできた推理小説の解決編が落丁していたら、何を置いても続きを読むために本屋に走るのが人間というものだろう。(…たぶん。)もしあれがビデオのリメイクや映画版の「商売」を計算に入れてのことだとしたら、ずいぶん商売上手と言わざるをえない。ああいう風に投げ出されて、映画を見ずに済ませられる人が、どれだけいるだろうか。まあ、庵野氏やスタッフの言うこと(*2、*3)を信じると、商売を意図してやったわけでは無いようだが…。

さて、本の紹介。
*1は謎ときを中心にした本で、4人のライターが分担して書いている。放送された内容そのものに基づいて謎を解いていこうという姿勢が強い。*4は『研究序説』と銘打っていることから予想できるように、心理学や宗教学などの知識に基づいて『エヴァ』を解読しようという色が濃い。*2と*3は「庵野秀明ロング・インタビュー」と、エヴァ・スタッフによる「庵野秀明"欠席裁判"座談会」を中心にした本。どちらも『QUICK JAPAN』の記事が元になっている。『エヴァ』がどのような状況で作られたのかが分かる。
*1、*4は頭を整理するには良いかな、という感じ。*2と*3は庵野秀明という人の個性が分かって面白い。

『エヴァ』の面白さは僕にとってはストーリーと演出の面白さだった。少なくとも24話までは、よくできたエンターテインメントだったと思う。(25、最終話も、演出はまぁ、面白かった。)でも『エヴァ』に心をゆさぶられるメッセージは感じなかったし、深い思想が提示されていたようにも思えない。だからそれを狙ってやったように見える25、最終話は、僕にとっては完全に「はずれ」だった。僕はただ、ちゃんとした謎ときが見たかった。
映画ではそれが見られるのかと思ったのだが、どうも夏まで待たないと駄目らしい。商売、上手ですね…。

*1<三一書房:1997年3月刊:1339円>
*2<太田出版:1997年3月刊:824円>
*3<太田出版:1997年3月刊:824円>
*4<KKベストセラーズ:1997年2月刊:1030円>
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二重螺旋の悪魔(上・下)(梅原克文)
「70年代日本SF」のスタイルを90年代に蘇らせることを意図して書かれたという「SF&スーパージャンル小説」。イントロンに隠された暗号が解読されたとき、出現した古代の怪物たち「GOO」。人類は人間の身体に隠されていた“神経線維を超伝導化する機能” (^_^; を解放し、「GOO」との戦いにいどむ。やがて「GOO」と人類、両者の進化を操作してきた「旧神」の存在とその恐るべき意図が明らかになる……。

評判は何度も耳にしていたけれど、噂に違わぬエンターテインメントだった。ほんと、読み始めると止まらない。『アダルト・ウルフガイ』、『神狩り』、『復活の日』、『火の鳥』、(初期の)『魔界水滸伝』や(初期の)『ジョジョの奇妙な冒険』 (^_^; などの名作を彷彿とさせる面白さ。独自のSF的アイディアもふんだんにちりばめられている。スピード感のある文体も良い。
比べちゃ悪いけど、ストーリー、アイディア、文章、どれをとっても『パラサイト・イヴ』の数十倍は面白いと思った。

<朝日ソノラマ:1993年8月刊:上下各950円>
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カンブリア紀の怪物たち ― 進化はなぜ大爆発したか ―(サイモン・コンウェイ・モリス)
講談社現代新書が『生命の歴史』というシリーズを始めるらしい。本書はその1冊目。バージェス頁岩の化石動物の解説書である。

コンウェイ・モリスは自らの手でバージェスの化石の研究を行ってきた第一線の研究者であり、古生物学の世界の外にも名が知れわたっている著名な研究者の一人である。日本語で読める著書は本書がたぶん初めてだと思うが、NHKの『生命』にも登場していたし、名前を知っている人も多いのではないだろうか。僕はミーハーなので、こういう本にはうれしがってすぐに飛びつく。
内容であるが、バージェス頁岩の発見と研究の歴史、バージェス動物群の紹介という基本的な解説を第4章までで行った後、第5章ではカンブリア紀の爆発が起こった理由を考察し、第6章ではバージェス動物および現生動物の間の系統関係を最新の知見に基づいて考察していく。

第5章では古生物学に加えて発生学、生態学に関する知見も考慮に入れながら、「爆発」の原因を探っている。僕にとっては、やはり古生物学と発生学という対象も方法もまったく異なる分野が関連してきているという事態が非常に面白く感じられる。コンウェイ・モリスは "Development"という発生生物学の雑誌の別冊に"Why molecular biology needs paleontology" という論文を書いているし、最近は発生学者のセミナーを聞いていてもイントロダクションなどに化石記録の話が出てきたりする。古生物学、発生学、形態学などが共通の問題に取り組むことによって進化学に新しい発展が生まれるという期待がふくらんでくる。

第6章では節足動物内の系統関係、そしてそれらとアノマロカリス、ハルキゲニアの関係が考察される。続いて軟体動物、環形動物、腕足動物の大きな系統関係の中でウイワクシア、鱗甲類の系統的位置が考察される。最近の分子系統学のトピックスの一つとして、環形動物は節足動物よりも軟体動物や紐形動物に近縁であり、また腕足動物などの触手冠動物も後口動物よりこれらの動物に近いらしいという結果が出ており、このことと考えあわせるとコンウェイ・モリスの考察はとても面白い。

本書の特に後半部ではグールドの『ワンダフル・ライフ』に対する批判というトーンが強く出ている。グールドが唱えるカンブリア紀には動物の異質性が極大に達していたという説、進化の偶発性を強調する説をコンウェイ・モリスは批判する。後のほうの批判は単なる考え方の違いという気がしないでもないが、「異質性」に関する論争は新たな証拠をもとにして今後も議論が続いていくことだろう。興味をもって見守りたいと思う。

ところで、本書は「現代新書」のために書き下ろされた(!)本で、原題は" Journey to the Cambrian: the Burgess Shale and the explosion of animal life" だという。それがなぜ『カンブリア紀の怪物たち』という題になってしまうのか。コンウェイ・モリスは、かれらがどんなに奇妙に見えても、基本的には我々の分類体系の枠組みの中に収まるだろうという考えで本書を書いているのだと思う。だとしたら「怪物たち」という題はとても無神経に思える。

<講談社現代新書:1997年3月刊:824円>
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眠れる遺伝子進化論(四方哲也)
生物同士の間に相互作用があると「適応度」は一定には定まらない。したがって単純な「適者生存」、「最適化」は成り立たない。このような場合には複数の種が「競争的共存」をすることになる。これが生物の多様化を生み出すメカニズムである――四方氏は自分の実験結果やコンピュータシミュレーションをもとに、以上のような説を展開する。

ダーウィニズムが単純な「最適化」を説いているとは僕は思っていなかったし、「相互作用」を考慮していないということも無いと思うのだが、それは些末なことなので置いておく。
四方氏の仕事が面白いのは、進化に関する議論を、きっちりとした実験に基づいて展開しているところだ。酵素活性や増殖速度が異なる複数の大腸菌株を同じ培養液中で飼うと、一定の割合を保って共存するという実験。同じ遺伝子をもつ大腸菌を同じ培養液中で飼うと、異なる酵素活性をもつように「分化」するという実験など。単純な実験でありながら、凡人には思いつかないすぐれたアイディアによって、興味ぶかい結果を引き出している。四方氏の仕事の紹介は科学雑誌などで時々目にしていたが、本人の手によって整理されたストーリーを読むと、面白さもひとしおだ。

僕が特に興味をひかれるのは、遺伝子が同一なままで大腸菌が異なる性質をもつ(「分化」する)ようになるという現象だ。真核生物、とくに多細胞生物では同一のゲノムをもつ細胞が異なる複数の状態に落ちていくというのは一般的なことなのだが、大腸菌でもそのような現象が起きるというのが面白い。これと真核細胞の分化がどう関係するのか(しないのか)。興味深い。
(これに関しては、 田口善弘さん「生物の新しい見方――生命プログラムのハッカーたち――」という原稿にも研究の紹介があるので、ご覧ください。)

最後に、読んでいて疑問に思ったことを書いておく。
「相互作用」があると「競争的共存」がおこる、というのは必ずしも普遍的なことではなく、一方が淘汰されることもあると書いてある。では「競争的共存」をもたらす「相互作用」はどのような性質をもつのだろう。そこに何か一般則はあるのか。
これと関連して、本書で紹介されている実験例は、対立する2種類の生物で異なっている形質が、そのまま「相互作用」に関連しているように実験系が組まれているのだと思う。たとえばグルタミン合成酵素の活性に差がある大腸菌株が、グルタミンを媒介にして相互作用を行うように実験系が組まれている。しかし問題になっている形質の差が「相互作用」に関連しているという状況は必ずしも一般的ではないように思える。その場合、その形質についてはどちらかの状態に収束して「共存」はおこらないような気がするのだが、どうだろうか。
あと、本のタイトルが内容を表わしていないような気がするのだけど、どうしてこういう題になったのでしょう?

あ、それから、リファレンスがついていないのは非常に残念。研究紹介の本なのだから、必須だと思うのだけど。

<講談社:1997年3月刊:1545円>
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言語表現法講義(加藤典洋)
著者が明治学院大学で開講している「言語表現法」という講義をもとに書かれた本。言葉を書くことは技法の問題ではなく、よりよく考えるための、自分と向かい合うための「経験の場」なのだと著者は言う。講義では毎回学生に課題を与えて文章を書かせ、それに対する批評、添削を通じて「言葉を書く方法」を語っていく。

「いかに文章を書くか」というような本は、読まないに越したことはないと思っている。僕は元来、人に影響されやすい質だから、読めば「なるほど、そうか」などと素直に思ってしまう。思ってしまうと「文間文法」とか「抵抗の力」とかいうようなキーワードが頭を占拠して、一文ごとに萎縮してしまって、もう書けなくなる。この文章も意識するまいと努力して書いているのだが、うまくいっているかどうか。
なら読まなければ良いようなものだが、本屋でつい手にとったら、つかまってしまった。
文章を書くのは好きだが、自分の文章がうまいと思ったことはない。しかもこの歳になると文章を批評してもらえる機会など、ほとんど無い。「自分の文章はひとりよがりかもしれない」という不安がいつもついてまわっている。だからこういう本についつかまってしまうのだろう。
読んだからといって僕の文章がうまくなることはないだろうが、「怖いもの見たさ」のスリルは楽しめた。

<岩波書店:1996年10月刊:2163円>
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ダーウィンよ さようなら(牧野尚彦)
タイトルから予想できる通り、ダーウィニズムを批判し、それとは別の進化機構を提案する、という本である。前半のダーウィニズム批判では、突然変異と自然選択では進化を説明できるとは到底思えない、ということを様々な例をあげて主張する。後半ではその代案として、高分子の「認識能」に基づいた自律的自己組織化システムの「考える」能力が進化の原動力であると言う。

前半のダーウィニズム批判には、特に目新らしい議論はないように思える。要するにダーウィニズムの説明法では自分は納得できない、ということだ。
単にダーウィニズムに反対するだけなら簡単で、そういう本はいくらでもある。しかしサイエンスの土俵の上で代案を提出することは非常に難しい。批判者が真価を問われるのはむしろこちらの方だろう。この著者の場合はどうか。

牧野氏は、高分子システムは神経システムのように文字どおり「考える」能力を持つのだと主張する。神経システム以外のモノが「考える」ことなど出来るはずはないという断定は、人間中心主義と心身二元論に由来する根拠のないドグマなのだと言う。生体高分子はその精妙な「認識能力」に基づいて多元的な「情報処理」を行なう「論理素子」である。それらが統合されることによって「推論機能」をもつシステムとなる。このシステムは「有利な突然変異」のようなありそうもない偶然に頼ることなく、その「考える」能力を使って自律的に進化して行くことができる……。

まず言葉の使い方に疑問を感じる。細胞のような生命システムがもつ卓抜な情報処理能力は、少しでも生物について勉強したことのある人なら誰でも知っている。それがあたかも「考えている」ようだ、という言い方も、比喩としてなら、まあ許容できる。しかし「考える」というのはあくまでも人間の頭脳活動についての言葉であって、細胞が、あるいはコンピュータが、いかに素晴しい情報処理を行なおうと、それは(優劣は別にして)人間の脳の活動とは違った種類の活動のはずだ。違うはずのものを同じ「考える」という言葉で表現することは、頭脳活動の性質を無批判に他のシステムにも適用できるかのような錯覚を生みかねない。それが狙いなのだろうか?そうでなければ、混乱をまねくレトリックは避けるべきだろう。
さて、高分子システムがあたかも「考えている」かのようなふるまいを示すとして、それではその情報処理能力は頭脳の情報処理能力とどこが共通していてどこが違っているのかを注意深く検討しなければならないだろう。特に生物進化との関係では、著者の主張するような「推論機能」、未来を予測し適切な変化をみずから生み出す能力を高分子システムが発揮しうるのか、ということが問題になる。言わせてもらえば、僕にはそのような分子システムは想像もできない。それに比べれば「突然変異と自然選択」による進化のほうがずっとありそうなことのように思える。もっとも自分に「想像できない」からといって、そんなことは「ありえない」という根拠にはならないのだが。
高分子システムが「考える」というような言葉遊びよりも、推論を可能にする情報処理システムとはどういうものなのか、仮説でもよいからきちんと説明してほしい。それがなければこの本の議論は単なる空論だと思う。

あと、最後の最後に、「考える高分子システム」ができあがるまでの初期進化においては偶然の変異と選択が主要な役割をしていたかもしれない、というようなことを言ってしまうのは戦術としては失敗じゃないのかな?それこそ、そんな素晴しいシステムが「偶然の変異で生じてきたなんて信じられますか?」と言われそうなものだけど…。

あとは余談だけど、「考える高分子システム」で思い出したのは『パラサイト・イヴ』(笑)だった。「考えるミトコンドリア」も牧野氏にとっては荒唐無稽ではないのでしょうね、きっと。

<青土社:1997年3月刊:2678円>
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生態学から見た人と社会 ― 学問と研究についての9話 ―(奥野良之助)
奥野氏は『魚陸に上がる』、『金沢城のヒキガエル』などの著作で知られる生態学者。本書の内容は一部は自伝的であり、また一部は生物学的であり、しかし全体としてはタイトル通り「人と社会」に対する著者の思想を著わしたものになっている。

反骨精神というのだろうか。学生時代は破妨法反対の学生運動に参加、生態学者として職を得た後は『生態学入門 ― その歴史と現状批判 ―』という生態学批判の本を書き「生態学会から総すかんを食」う。「会員の資格は“非教授”とする」という会則をもつ「日本生物学会」を勝手に作り、会長に就任してしまう。湾岸戦争の際には自衛隊の海外派遣に反対して、カンパをつのって難民輸送の飛行機をとばす運動を展開し、以来「金沢大学平和問題ネットワーク」を組織して運動を続ける。(このネットワークが発行しているニュースは僕も金沢大の先生に見せてもらったことがある。奥野氏が発行していたとは知らなかったが。)そして「さまざまな運動をやってきたのだが、現在にいたるまで一度として勝ったことはない。……一度通りそうになってあわてたことがあったが、この時も幸い、最後には否決された。」と、さらりと言ってのける。
こういう人だから当然、大学にまで競争原理を持ち込み「効率」を追及する現在の風潮も皮肉を交えながら批判する。「学問は競争になじまない」「ものを考えるにはゆったりした時間が必要」という奥野氏の主張は説得力があると、僕は思う。
僕の周りを見渡しても、「大学教員任期制」「自己点検・評価」「大学改革」と、どの大学・学部も「生き残り」(?)をかけて必死だ。しかししょせんやっていることは大同小異、労力だけが空しく費やされていき、右にならえの没個性的「改革」が反対の声を抑圧して進んでいく。そんな時流に乗らないとやっていけない研究や教育って、いったい何なのだろう、とよく思う。
奥野氏は学生の要望があれば、プラトン、毛沢東、ガルブレイス、ウィルソンなど、何でも輪読会に参加してきたという。いまどきこういう先生はほとんど見かけない貴重な存在だと思う。こういう「研究に関係のない」ことをする人は白眼視されるのが今の研究者社会である。でもこういう余裕をなくして「改革」に走り回ることと、果たしてどちらが学生への教育や学問の深みという点で優っているのか。「研究」ではなく「学問」をしてきた、という奥野氏の言葉をかみしめながら、ゆっくり考えてみたいものである。

生物学に関する部分では、進化を「体制変革」と「適応放散」に分け、次の時代を担う「体制変革」は特殊化していない一般的な形をとどめたものの中から出現してくる、と述べる。僕がヒラムシに興味をもつ理由にも通じるものがあり、奥野氏のこの主張にも共感をおぼえた。

このように書くと堅苦しい本のように思われるかもしれないが、「冗談と皮肉と嫌みが大好き」というだけあって、皮肉っぽいユーモアがちりばめられた文章は読みやすく楽しい。奥野氏はこの春、金沢大を退官されるそうである。こういう先生が減ると、大学もだんだん味気ないところになってしまうだろうな、と思った。

<創元社:1997年3月刊:2060円>
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遺伝子は35億年の夢を見る(斎藤成也
国立遺伝研の斎藤氏による、分子進化学に関する入門的な本。前書きで著者は「自分自身を知る」ための試みを「遺伝子」の視点から行うことが本書の狙いだと書いている。本書の内容はその目標に即して、分子進化の中立論の簡単な解説の後、人間へ至る進化の道筋、「人間性」の起源とヒトの種内進化など、主にヒトの進化に関するトピックスを中心に話が進んでいく。

読んでいて色々疑問が浮かんできたのだけれど、一番大きな疑問は、「中立変異」という概念を分子の配列の変異のみならず、表現型の変異にも適用できるのか、という疑問だった。斎藤氏は、自分は中立論者なので「できることならすべての進化が中立的に起こっていたら素敵なのだが、と常々思っている」と書いている。たしかにDNAの配列であれば、偽遺伝子配列の変化つ同義置換などを「中立」と見なすことに疑問はない。しかし形態などの表現型の変化に現われる変異が「中立」かどうかをどのようにして判定できるのだろう。その基準がないと、表に現われない分子の「つまらない」変化は中立的に起こるとしても、種の起源や大規模な形態・生理の変化につながるような「重要な」変化は自然淘汰の媒介によって起こる、という2分法に対抗できないように、僕などは思ってしまうのだけれど、どうなのでしょう?

<大和書房:1997年3月刊:1957円>
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考えることの科学 ― 推論の認知心理学への招待 ― (市川伸一)
我々は日常生活において必ずしも論理形式に従って思考しているわけではない。厳密ではないが「だいたいにおいてうまくやっていく」ための推論法をとっていることが多い。もちろんそのような「直観的」思考法はしばしば誤った結論を導く。本書は認知心理学の学説や関連する実験例を紹介しながら、日常的な推論と形式論理の関係、確率的現象に対して人間がもつイメージ、推論に影響を与える諸要因、など、人間の思考法の特徴を解明していく。

論理学や確率論を学ぶことは確かに正しく思考するために役立つが、それに加えて、どういう場面で人間の思考が誤りやすいかを知っておくことも有益だろう。本書では「ジンペルのパラドックス」や「三囚人問題」など、直観と論理がずれてしまうような問題を例に挙げながら、我々の思考はどういうところで間違いやすいのかを教えてくれる。考えながら楽しく読める本。

<中公新書:1997年2月刊:680円>
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カエルの鼻 ― たのしい動物行動学 ―(石居進)
ヒキガエルは繁殖期になると繁殖池をめざして移動する。かれらはどのようにして池を見つけるのか。視覚、嗅覚、それとも磁気によるのか?そもそも変態を終えた子ガエルはどのようにして池から出ていくのか。上陸する方角、上陸後に進む方向はどのようにして決めているのか?――ヒキガエルの行動をめぐる数々の謎に挑む、石居先生とお弟子さんたちの研究を紹介した本。

前書きに、ヒキガエルの話や行動の話より「科学研究の手順とはこういうものですという話がしたかったのです」と書いてある通り、疑問が浮かんだとき、どのように仮説をたて、実験を組み、結果を処理し、解釈し、次の研究につなげるのか、という生の研究プロセスが生き生きと描かれている。文章もユーモラスで、読んでいて楽しい。裏表紙の「戦う雄」の写真や、文中のコンニャクに抱きつく雄ガエルの写真も傑作。ついつい引き込まれて読んでしまう良書だ。

ちなみに石居先生は昨年末、うちの大学でセミナーをして下さったのだが、その時のお話は肺魚類の分子系統学の話だった。テーマが手広いですね。

<八坂書房:1997年2月刊:2060円>
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生命の意味論(多田富雄)
急速な進歩を続ける生命科学の「最先端の研究成果を眺めながら、生命現象の解明がいま人間に向かって何を語りかけているかを改めて考えてみようとした」(『まえがき』より)という、多田富雄氏の新刊。雑誌の連載をもとにしており、各章はほぼ独立しているが、生命を「超システム」という概念でとらえようという試みは全体を一貫している。

「超システム」は「自己生成」「自己多様化」「自己組織化」「自己適応」「閉鎖性と開放性」「自己言及」「自己決定」などの性質をもつ、と著者は言う。何らかの目的をもって工学的に設計された人工のシステムとは違って、要素と関係そのものを自分で作り出していくシステム。システムの外に目的を持たないシステム。著者は脳神経系や免疫系はもちろんのこと、言語や都市の形成をも、この概念で捉えようとしている。
「超システム」は個体発生をイメージしたコンセプトのように思われる。未分化で均質な状態からの多様化(分化)と組織化。自己の要素を生成し、環境と相互作用し、自己の境界を作り出すシステム。『オートポイエーシス ― 第三世代システム ― 』で河本英夫氏が「第二世代システム」と呼んだ自己組織化システムを連想させる。

巷を席巻する遺伝子=DNA決定論的な言説に対して、より柔軟で発生学的な生命観を提示している点に本書の意義があると思う。本の帯には「あなたの生命観をくつがえす衝撃の書」とあるが、言語論や都市論はともかくとして、生命に関する議論は極めてまっとうな、穏健な主張だと感じた。「意味論」というタイトルなので、むしろもう少しラディカルに突っ込んだ議論を期待していたのだが、その期待ははずれた。『生命の「意味論」』ではなくて『「生命の意味」論』だったのですね、きっと。
また、全体として「あいまいさ」のような文学的表現や「DNAの生態系」のような実態不明の言葉が多いと感じた。非専門家むけということで、こういう書き方が良いという判断なのだろうか。確かに興味を引くという点では成功していると思う。だがもし「超システム」論を押し出していくのであれば、今後はもう少し理論的につめた著書も期待したい。

<新潮社:1997年2月刊:1545円>
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ゴーラの一番長い日(グイン・サーガ 55巻)(栗本薫)
前巻に引き続いてゴーラが舞台。息子を謀殺された怒りに燃えてユラニアへ進軍するクム大公の大軍を、モンゴール軍の精鋭とユラニア軍を率いてイシュトヴァーンが迎え撃つ。
イシュトヴァーンが久しぶりにいきいきと動き回っていて、楽しい。
イシュトが元気をとりもどす一方で、パロの陰謀家のお二人は、ますます不健全な様子 (^_^; 。なんとかして欲しいものだ。

<早川文庫JA:1997年2月刊:500円>
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可能世界の哲学 ― 「存在」と「自己」を考える ―(三浦俊彦)
分析哲学の流れをくみ、様相論理学の拡張として登場した「可能世界論」の入門書。「現実とは異なる時空間に、無数の可能世界が存在している」という可能世界の理論を、様相論理学の基礎からはじめて平易に解説し、さらに「可能世界論」内部の論争まで紹介している。

クリプキの『名指しと必然性』を読もうとして何度か挫折したため、この本を見つけてまずは入門書からと思い、読んでみた。のだが…、
率直にいって、非常に奇怪な世界観だと感じた。読み進むうちに山のように疑問が出てきて、ほとんど解決されないまま読み終わってしまった。単なる想像のお話なら良いのだけれど、どうもそうではないらしいし。うーむ…。

と、うなっていても仕方ないので、一応、主な疑問だけ書いておくことにする。
まず「可能世界論」が非常に強力な問題解決能力をもつという主張なのだが、それがよく伝わってこない。論理学をやっている人にとってのローカルな有用性にすぎないのでは?と思えてしまう。だからこのような世界観を構築する動機がまずよく理解できない。
次に、無数の可能世界があるとして、それらを比較したり集合に括ったりするのは、どういう立場の、誰なのか。互いに異なる時空間にあって、何の関係ももたない「世界」を「比較」なんてできるのだろうか?できるとすればそれはそういう世界すべてを見渡せる超越的な存在からでしかないのではないだろうか。単なる一世界の住人である我々にそれができるという発想が、よく分からない。
最後に、我々の世界の外の「世界」やそれらを合わせたメタ「世界」に我々の「論理」(たとえば集合論とかいろいろ)が通用するとか、部分的にでも適用できるとか、どうして考えられるのかが分からない。「論理」はあくまでも我々の世界の論理にすぎないし、我々ヒトという種の認知機構に規定されているものにすぎない。よそでそれが通用する保証はどこにもないのに、それを世界の外までもちだして使おうという発想は、理解に苦しむ。「不可能世界」と言ってみても、それだって我々の論理の「拡張」でしかないように思えるのだけれど…。

しかし、論理(必ずしも厳密とは思えないが)だけで、よくもここまで進んでいけるものだとは思う。そういう意味では「面白かった」と言っておこう。(<皮肉じゃなく、本当に。)まあ、良く分からないけれど、こういうのを形而上学というのですね…。(僕にとっては「形而上学」は、悪口なのだけど…。)

<NHKブックス:1997年2月刊:950円>
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知能指数(佐藤達哉)
人の「知能」を「測る」とされる「知能検査」、そして「知能指数(IQ)」は、如何にして、何のために考案されたのか。そしてその後どのように解釈され、使用されてきたのか。知能検査とIQの歴史をたどりながら、「知能指数」にかんする通念を批判的に検討している。

個人の中に「知能」という実体があって、それをIQのような手法で数値化できる、というのは神話にすぎないという著者の主張には、賛成できる。だいたい、人間の思考能力や身体能力がそんなに単純に割り切れたら苦労はない。
特定のごく狭い問題を与えられたときにそれを解決する「能力」(たとえば記憶する能力とか単純計算する能力とか空間把握能力とか写生する能力とか)についてさえ、まだ十分に分かっていないし、そういう比較的単純な「能力」でさえ、複合的なものに違いないから、理解するにはまだまだ時間がかかるだろう。ましてやさらに複合的な「知能」を簡単に理解できるはずもない。せいぜいある特定の目的(たとえば学校教育)を設定して、それに対する適合の度合を測ることができるぐらいのものだろう。それだって単一の数値で測るのは乱暴な話だけれど。
<講談社現代新書:1997年2月刊:659円>
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インターネットはからっぽの洞窟(クリフォード・ストール)
著者は最近のインターネット・ブームの中で声高に語られる薔薇色の未来像に疑問を投げかける。著者はアメリカの津々浦々にインターネットが普及することを心待ちにしていると言い、ネットワークがさらに繁栄することを確信している、とも言う。しかし、その上でなおかつ、今のブームはどこかおかしい、と警告する。いわく「コンピュータネットワークは僕ら個人個人を孤立させ、僕らに実体験をみくびらせ、僕らの読み書き能力を低下させ、僕らの学校や図書館の存在を危うくする」「バーチャルリアリティの世界で出くわすものは、山ほどのフラストレーションと、『教育と進歩』という大義名分のもとに踏みにじられる人間的営みにほかならない。非現実の世界に出入りするために払う僕らの代償はあまりにも大きすぎる。」

著者があげている問題点の中には、技術の発達やネットワーク環境の整備によって解決が可能な問題もあるように思える。たとえばネットワークの信頼性の問題、回線速度の問題、費用の問題、必要な情報を検索する手段の問題、など。これについてはネットワークを使い始めた人なら誰でもすぐに感じる問題だろう。ネットワーク上に有用な情報が色々あることは間違いないが、それを探し出すのは一苦労だし、他の手段のほうがずっと早く情報を得られる場合だってある。しかし(僕は専門家ではないので確かな事は分からないが)これらにはまだまだ改善の余地があるように思える。

これらとは別に、もう少し哲学的な問題もある。ネットワークで得られる情報は「現実」の代わりにはならないのに、ネットワーク上の世界が現実の生活を圧迫するようになってきているのではないか、という問題だ。
まあ、それは有り得る話かな、と僕も思う。しかしこういう議論は、テレビ、パソコン、パソコン通信、ファミコンなど、新しい技術が普及して、それに「はまる」人が出る度に繰り返されてきたような気もする。さて今度は「インターネット」の番、というだけなら、あまり新鮮味はない。
もしネットワークをほとんど使ったことのない人が評論家的にそのような批判を書いたものであれば、僕は途中で読むのを止めてしまうと思う。(つまらないに違いないから。)本書がそのようなつまらない紋切り型に終わっていないのは、コンピュータネットワークの力や可能性や楽しみを十分すぎるほどに理解した著者が書いているからこそだと思う。
時代の流れについていけないがための保守主義でも、無邪気なテクノロジー礼賛でもなく、著者は技術の価値を理解した上でその限界を見極めようとしている。その姿勢が抱えている矛盾に自分でも困惑しながら。そういう著者のスタンスに、好感がもてた。

<草思社:1997年1月刊:2266円>
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七つの科学事件ファイル ― 科学論争の顛末 ― (H.コリンズ&T.ピンチ)
科学史の上で大きな論争を巻き起こした7つの主題をとりあげ、論争の経緯と顛末を描いた本。取り上げられているのは、1.プラナリアの「記憶物質」をめぐる論争、2.常温核融合、3.相対性理論の検証、4.重力波、5.自然発生説、6.ムチオトカゲの「レスビアン」行動、7.太陽ニュートリノ、である。
著者らは科学上の論争で勝利したと思われている学説でも、実は実験によって疑いの余地なく「証明」されているとは限らないし、逆に敗北したとされる学説も、完全に「反証」されているとは限らない、ということを、これらの例を通じて明らかにしようとしている。

このような論争では多くの場合、実験の「再現性」が問題にされる。「記憶物質」論争の例のように、ある研究室ではある仮説を支持する結果がでるのに、同じことを別のグループがやると否定的な結果が出る。論争は細かい実験条件の違いから、研究者の実験技術や経歴、研究者としての資質にまで及んで、しばしば泥沼化していく。
「自然発生説」論争では培養液のフラスコの口を割るのに、「ペンチ」を使ったか「やすり」をつかったかが問題になったという。こんなことは普通なら問題にならない些細な違いである。一方、現代の目から見ると、実際に自然発生説論争で実験結果の矛盾を生み出していたのは、「培養液に酵母抽出液を使うか、干草抽出液を使うか」という、当時はほとんど問題にされなかった「些細な」条件の違いだったという。変更可能な無数の条件のうち、何が重要で何が重要でないのかを見極めることは、かように難しいことなのだ。

『柏木達彦の多忙な夏』へのコメントでも書いたのだけれど、不十分な経験を材料にしながら、より信頼性のある妥当な理論を目ざしているのが科学という活動だと、僕は考えている。それは何も大規模な実験が必要な対象についてだけではなく、我々の「小さな」研究についても言えることだ。実際、ある結論を導くために必要十分な実験・観察をすべてやりつくすことは不可能に近い。ケチをつけようと思えばいくらでもつけられる場合がほとんどだろう。普段はこの程度のデータがそろえばこの程度の結論が主張できるという、推論の妥当性に関する暗黙の基準のようなものが科学者社会に共有されているので、無用な混乱は起こらないだけだ。
思うに、多くの研究はケチをつけようと鵜の目鷹の目で狙っている論敵がいないから見逃されているだけなのかもしれない。テーマがセンセーショナルになれば当然反対者も増えてくるわけで、追試もされるし論理の不備も突かれる。そうなれば上記の我々の経験の限界が重要な問題として浮上して来ざるを得ない。

不完全な足場の上で、我々はどうすればよりしっかりと立つことができるのか。この問題に「科学哲学」はどのように答えてくれるのか。『柏木達彦〜』の議論を思い出しながら本書を読んで、そんなことを考えた。


ついでに、先日読んだ『バイバイ、エンジェル』の「探偵」役、矢吹駆の言葉を思い出したので引用しておきましょう:
「…集められた諸事実は真実にたいして権利上同等である無数の論理的解釈を同時に許すものなのです。無数に並列して存在しうる論理的解釈のうちから、ただひとつだけを正しく選びとりうるためには、諸事実を論理的に配列するための作業に先立って、ひとつの直観が要求されるのです…」

<化学同人:1997年2月刊:1854円>
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カラスの思惑(佐々木洋)
カラス・フリークの著者がいろいろな角度からカラスの魅力を紹介している本。カラスがいかに頭がよく、器用で、適応力にすぐれ、愛情が深く、遊び心のある鳥か、ということを強調している。カラスグッズの紹介、カラスと他の鳥たちの関係、カラスに憑かれた人達のレポート、などもあり、盛りだくさんの内容だ。
巣おろしの作業で対決して以来、著者をつけ狙うようになったカラス「ジェイソン」の話とか、運送屋さんに出没して、誘導係といっしょにトラックの後ろで「オーライ、オーライ」と言うカラスの話(カラスがしゃべるって、初めて知りました)、森永チョコボールの「キョロちゃん」について取材しようとして、森永の広報部に「キョロちゃんは、カラスじゃありませんよ。カラスどころか、鳥でもなんでもないね」と言われてショックをうけた話(ほんと、カラスじゃなかったら何なんでしょう?)などなど、読んでいて思わず笑ってしまうエピソードがたくさん。著者のカラス・フリークぶりが本全体にあふれていて、とても楽しく読めた。

<広美出版事業部:1997年2月刊:1300円>
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動物学がわかる。
『AERA MOOK』の『学問がわかる。』シリーズの一冊。内容を紹介すると、「動物学25のかたち」と題して25分野の研究者と研究内容を紹介し、「話題の動物学5題」として性選択や、動物と人間の関わりに関する5つの話題をとりあげ、「わくわくフィールドノート」として10人の研究者のフィールドでの研究活動を紹介している。そのほか、日高敏隆氏の「ナチュラルヒストリーとしての動物学の復権」、馬渡峻輔氏の「基礎に分類あり」、長谷川真理子氏の「エソロジー最前線」、宮崎学氏の「写真家の観察眼」、東昭氏の「生物の航空力学」などの文章が載っている。巻末には「動物学キーワード50」、「動物学入門ブックガイド50」、「動物学が学べる大学・大学院一覧」などがついている。

読んだ印象は、とりあげられている分野が片寄っているなぁ、ということ。一応「動物学25のかたち」として様々な分野が網羅的に取り上げられてはいるが、全体では行動学などのいわゆるマクロの生物学が大きな比重を占めている。ブックガイドやキーワードでも、発生学や生理学はほとんど無視されている。
たとえばの話、「日本動物学会」での一般講演を分野別に見ると、発生、生理、内分泌、といった分野が多く、生態・行動分野は少ない。「動物学会」のみが「動物学者」の集まる場ではないし、分野によって発表のしやすさが違うことも十分承知している。しかし『動物学がわかる。』と題した本としては、まちがいなく動物学の大きな部分を占めているこれらの分野の扱いが、あまりに薄すぎるのではないか、と感じた。監修者の名前を見つけられなかったが、巻頭言を書いているところから見て、日高さんなのだろうか。だとしたらこういう片寄りも、まあやむを得ないのかもしれないが。
と、文句ばっかり言っていても仕方ないので、少なくとも「動物学25のかたち」は大変面白かった、とは言っておこう。「都市の動物学」とか「洞窟動物学」(洒落みたい)といった、聞きなれない分野も紹介されていて楽しめる。僕の師匠はいつのまにか「分子系統発生学」者になっているし…。(あ、前からか?)

「ナチュラルヒストリーとしての動物学の復権」の中で日高氏は、ナチュラルヒストリーは「何のために」という問かけに答える「ストーリー性」をもつこと、そして「その生き物」という「主体」にとっての「意味」を問うことが特徴だという。僕なりに理解すると、要するに、生物の一般論ではなく、個別の生物について、その生物の形態や行動や生理や生活史等々の意味を調べることがナチュラルヒストリーである、ということなのだろう。
その言葉づかいの定義の当否は分からないが、一見同じことをやっていても、対象としている生物が「一般論」へ向かうための単なる材料にすぎないのか、あるいはその対象そのものに興味があるのかという志向の違いは、確かにあるのだと思う。動物学がそういう意味でのナチュラルヒストリーを含まなければいけない、という意見には僕も賛成だ。「分子生物学」や「生化学」に頼ってはいても、あえて「動物学」という名ににこだわりたい、という気持ちは僕にもある。僕のプロフィールのページの「専門分野」の項目に「発生生物学」という一般的な言葉と並べて「動物発生学」という泥臭い言葉も書いているのは、そういう気持ちがあるからだ。

最後に、細かいことだけど、「動物学が学べる大学・大学院一覧」に広島大学の理学部・理学研究科が入っていないのは何故なのだろう?「動物学会賞」受賞者が4人もいる学部なのにね…。

<朝日新聞社:1997年2月刊:1100円>
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科学哲学者 柏木達彦の多忙な夏
 [科学ってホントはすっごくソフトなんだ、の巻] (
冨田恭彦
「中・高生にもわかるように」書いたという科学哲学の入門書。大学(京大がモデルだろう)で科学哲学を研究している「柏木達彦」を主人公にして、「小説」形式で綴られる。質問にきた学生たちや、講義の受講生、同僚の教官らと柏木が科学哲学の議論をくりひろげる。紹介される主な哲学者は、クーン、デイヴィドソン、クワイン、ローティ、である。(ちなみに僕が読んだことがあるのはクーンだけ。)

内容の高度さにくらべて、文章は確かに平易で読みやすい。読んでいて自分も「柏木先生」に質問に行きたいような気にさせられた。まあ、それは無理にしても、デイヴィドソン、クワイン、ローティなどの著作を読んでみたいという気になる。

ところで「科学の真理性」に関する議論を読んでいて僕がいつも疑問に思うのは、なぜそれほど「真理」とか「科学の基礎づけ」ということにこだわるのか、ということだ。何か科学に過剰な要求をつきつけておいて、科学がそれに応えられない、と言っているように思えるのだ。科学は数学でも論理学でもないのだから、論理学的に厳密な真/偽概念を適用することは意味がないと僕は思う。科学が論理学を必要に応じて「使う」のであって、論理学が科学を支配するわけではない。
自然を知り、制御したい、というのが科学の目標だとすると、「科学的」といわれる様々な方法は、少なくとも今まで、その目標に対して極めて有効な方法だった。しかし科学的方法によっても我々は思考と現実の「完全な」一致という意味での「真理」には到達していないし、今後もできないだろうと僕は思う。その理由は単純で、我々の経験が非常に限定されているからだ。ものすごく大きいエネルギーを要する現象、何億年もかかって起こる現象などは人類には観測ができない。化石に残らなかった過去の生物はタイムマシンでもなければ発見することはできない。だから科学は本来「完全性」とは無縁のものだと僕は思う。本書の第五話で学生が提出する「すべてが間違っているかもしれない」という疑問は当然抱いておくべき疑問だろう。
では科学が他の方法に比べて信頼性(確実性ではない)をもつのはなぜなのか。僕は次のように考える。我々が外の世界を見る見方が理論に規定され、また様々なものの見方が可能だとしても、経験は我々の意のままにならないものであり、その意味で経験される事物は我々の思考から「独立」している。科学は恣意的な思考ではなく、外界の事物に基盤を置くことによって、その信頼性を確保している。どんなに素晴しく美しい考えでも、経験に合わなければ修正をせまられるのだ。
さて、このような僕の考えはローティが批判する「鏡的人間観」なのだろうか?少なくとも本書に紹介されている「鏡的人間観」批判は僕にとって納得のいくものではなかった。ローティの本もそのうち読んでみたいと思う。

それにしても、本書に登場する学生たちの飲み込みの早さには驚く。話を早く進めるための、そういう設定なのだろうが、哲学的なことに関しては、もう少し飲み込みの悪い方が良いのじゃないかぁ、と思ってしまう。いや、自分の飲み込みの悪さを正当化するつもりはないけれども(^-^)。作者が接している実際の学生さんも、あんな風なんだろうか?

<ナカニシヤ出版:1997年1月刊:2163円>
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中世の異端者たち(甚野尚志)
アリウス派、ヴァルド派、カタリ派から宗教改革まで、中世ヨーロッパに出現した数々のキリスト教「異端」諸宗派。「異端」はもちろん「正統」のカトリック教会が認定することで「異端」となる。「異端」とされた側はむしろ腐敗し堕落したカトリック教会こそが神の教えからはずれた存在であり、自分たちこそが正しいキリスト教徒だと考えていた。本書はそのような「異端」諸宗派の理論と、実践、そのたどった歴史を解説している。

キリスト教自体がもともとはユダヤ教の異端の一セクトとして出発したものだ。それが世俗権力に公認され大衆化・世俗化すれば、初期の姿にとどまることは困難だろう。もとの教義からはずれた様々な腐敗や堕落も生じてくる。それに対して本来の姿にたちかえろうとするセクト的運動が起こるのは必然なのだろう。
それにしても「正統」の「異端」に対する処置は苛烈だ。宗教が人の内面の領域だけを規定するならば、さして大きな問題はないのだろうが、宗教は(「異端」「正統」を問わず)人を組織し、その行動を規定し、強い現実的な力を発揮しうるからやっかいだ。互いに主観的には「善」を背景にしているから、なおさら始末におえない。
歴史的なことはともかく、今の時代、自分だけを正統として他を排除するような排他性を、心のうちに持つのはまぁ仕方ないにしても、実力にうったえて排除するような行為だけは、やめて欲しいものだ。宗教に限った話ではないけど。

<山川出版社・世界史リブレット:1996年7月刊:750円>
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バイバイ、エンジェル(笠井潔)
二十年前に死んだと思われていた男から届いた脅迫状めいた手紙。手紙の予告を実現するかのように起こる殺人事件。殺された女の首は切り取られて持ち去られていた。犯人はなぜ死体の首を切り取らねばならなかったのか?事件はやがて連続殺人事件へと発展していく。事件に関わった司法警察警視の娘ナディアと、現象学を駆使する日本人青年矢吹駆は、それぞれの方法で事件の真相を追求する。パリを舞台にした本格推理小説。

内容は本格推理小説そのものなのだが、暴力や殺人を正当化してしまう「観念」に関する作者の思想が随所にちりばめられ、作品の厚みを増している。探偵役の謎めいた日本人、矢吹駆とその「現象学的推理法」も魅力的だ。
贅沢を言うと、最後に明らかになる犯人の内面と、矢吹との対決が、何かとってつけたような印象になっているのが惜しい気がした。真相が判明した「その後」でなければ犯人の内面を描くことができないという本格推理小説の構造上、それが早口の独白のようなものになってしまうのは仕方ないのかもしれないが、犯人がそのような思想を抱き、犯罪に手をそめた内面的過程がもっと描かれれば、矢吹との対決ももっと緊張感のあるものになったのではないかと思った。でもそれをやると、推理小説ではなくてドストエフスキーになってしまうのかもしれない。
初出は1979年。

<創元推理文庫:1995年5月刊:650円>
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ファインマン物理学 -I- 力学(ファインマン、レイトン、サンズ)
紹介するまでもなく、物理学の教科書の定番。カルテクでのファインマンの講義をもとに編集された本。

ちょっと思うところあって、物理の基礎を勉強し直してみようと思って読んだ。一冊ちゃんと読むのは初めてだったのだが、素晴しく面白いテキストだと思った。読んでいてファインマンさんの顔が見えてくるような感じ。生物のテキストでもこれぐらい面白いのがあれば良いのだけれど…。思いつかないなぁ。

<岩波書店:1967年6月刊:3100円>
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風の千年伝説(井辻朱美、高田美苗)
イラスト+短歌という形式で出版される『ポエム・アイランド』(^-^;というシリーズの中の一冊。井辻朱美の短歌と高田美苗のイラストで構成されている。おさめられている短歌は40本ほど。気にいった歌をいくつか引用してみよう。

とさかある
サウロロフスもうちふして
月光しみたる
岩盤となる

わが脳のうちにいまなお棲むという
爬虫類らの遠きユラ紀は

連綿と
海老の種族を生みだして
わが惑星(プラネット)の
くすくす笑い

椰子の葉と
象の耳ほどこの星の
風が愛したかたちはなかった

たとえば宮澤賢治が自然科学を愛し、科学の知識の中から豊かなイマジネーションを汲みだし、作品にとりいれたように、科学の知識というものは本来、美的なイメージを喚起する力をもっているのだと思う。科学者の多くもそのことを感じているのだと思うが、それを表現する意志と芸術的素養をあわせ持つ者は少ないということなのだろうか(僕も人のことは言えない)、その美しさを作品化しようという活動はあまり目にしないように思う。(あ、そうそう、「DNA連画」なんていうのはありますね。)だから科学が喚起する美的感覚を表現してくれる詩人や画家というのは、うれしい存在だ。
この本におさめられた短歌にも、そのような作品が多い。井辻さんらしいファンタジックな表現で、悠久の時間の流れ、地球が湛える豊かな水、大地にたえまなく吹く風、そのなかで生きて死んでいった太古の生物たちをうたっている。
『ポエム・アイランド』(^-^;ということで、買うのがちょっと恥ずかしいけど、おすすめの本です。

<クインテッセンス出版:1996年12月刊:1030円>
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文体練習(レーモン・クノー;朝比奈弘治訳)
一つの些細な出来事を様々な文体で綴っていく言葉あそび。登場する文体はメモの文体、隠喩の使用、手紙文、電報、会話、詩、論文調、罵倒体などなど全部で99通り。(中には「文体」とは言えないほど解体されているものもあるが。)

とにかく、面白い。僕がここで何を書いてもこの面白さは伝わらないと思うので余計なことは書かないが、文章や言葉遊びに興味のある人はぜひ手にとってめくってみて下さい。
ちなみにレーモン・クノーは『地下鉄のザジ』の作者。原文はもちろんフランス語だ。言葉あそびをふんだんに盛り込んだ文章を作者の意図を汲みながら訳す作業は並大抵の苦労ではなかったと思う。訳者の朝比奈氏に敬意を表したいと思います。

<朝日出版社:1996年10月刊:3500円>
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左右を決める遺伝子 ― からだの非対称性はなぜ生じるのか ―(柳澤桂子)
ヒトを含めて、多くの動物の体は左右相称を基本としている。つまり前-後と背-腹の二つの軸(非対称性)をもち、体の正中面に対して対称である。しかしヒトの心臓の位置やカニのハサミの大きさ、巻貝の殻の巻く向きなど、左右相称という基本型の上に左右に関する違いを作っている動物も多い。ではこのような左右の非対称性はどのようにして生じるのか。本書は最新の分子発生学の知見をもとにこの問題を解説している。
内容を簡単に紹介すると、分子レベルの「キラル/アキラル」の解説からはじまり、細胞分裂の非対称性、多細胞動物の前後軸と背腹軸の決まり方の解説を経て、メインテーマの左右の違いがどのようにしてできるのかを考察していく。ここでは最近のトピックス(体の左側だけで発現する遺伝子の話など)もとりあげながら、分子遺伝学、分子発生学の知見を手際よくまとめている。最後に脳の非対称性や動物の「利き手」の話もとりあげている。中心テーマは体の左右の非対称性の問題だが、それに限らず、生物体の非対称性を分子から個体レベルまで通して眺めた本になっている。

僕が大学院生のころ、研究室の論文紹介で Wolpert たちが書いたニワトリの心臓の左右性に関する実験発生学の論文を読んだことがあり、それ以来、左右の問題はずっと気になっていた。だから最近の Sonic hedgehog や lefty の左右非対称発現の発見は僕にとってもエキサイティングな事件だったし、多くの発生学者にとってもそうだっただろうと思う。
次に問題になるのは、遺伝子発現の左右非対称性を作る機構である。左右に何らかの物質的な差異が生じさえすれば、その後の左右の違いを具体化するプロセスはその差異を利用して進むことができる。前後と背腹の2軸を参照し、それに従って左右の差異を作る機構はどのようなものか。これは今のところ分かっておらず、本書でも触れられていない。Wolpertたちの先の論文では前後軸と背腹軸に沿って配向するキラルな分子を想定していた。電磁相互作用(!)を考えた研究者もいるらしい。いずれにしろ、マーカー遺伝子や突然変異体を利用して研究は急速に進むだろう。とても楽しみだ。
脊椎動物の左右性の研究に期待しつつ、僕が密かに期待しているのは(本書では触れられていないが)棘皮動物の左右性の研究だ。学会などで聞くと、実験発生学的手法でいろいろ面白いことが分かってきているようなので、今後の展開に期待しています。

<講談社ブルーバックス:1997年1月刊:742円>
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奪取(真保裕一)
完璧な偽札を作ることを夢見た主人公とその仲間たち。5万枚の偽一万円札を作り上げ、自分たちを陥れたヤクザと大手銀行相手に復讐のコン・ゲームを挑む。

面白い。特に主人公たちが偽札を作り上げていくプロセスは、モノを作りあげていくことへの情熱とか、道具はなくてもアイディアと技術で勝負!というような、職人的、技術屋的、理系的マインド(NHKの『電子立国』のような)がぎっしりつまっていて、引き込まれる。スピード感のあるストーリーも良い。

<講談社:1996年8月刊:2000円>
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爆笑問題の日本原論(田中裕二&太田光(爆笑問題))
僕は芸能方面には疎いと自覚しているのだが、元来、お笑いは嫌いではない。テレビもFoot Ballと動物もの以外はあまり見ないのだが、唯一タモリの『ボキャブラ天国』だけはよく見ている。「爆笑問題」はこの番組にも出演していて、これに出ている芸人のなかでは、たぶん最もうまくて面白い漫才コンビである。
この本は雑誌『宝島30』で「爆笑問題」が連載していたものをまとめたもの。「細川内閣退陣」から「オウム事件」、「パーフェクTV」開局まで、政治、経済、社会、文化の時事ネタを漫才形式で料理している。活字で漫才を読むというのもちょっと興ざめなのだが、田中&太田の芸を想像しながら読むと、それなりに楽しめる。

<宝島社:1997年2月刊:1000円>
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デジタル・ナルシス ― 情報科学パイオニアたちの欲望 ― (西垣通)
人間は「形式」を求める生物である、と著者は言う。「機械」とは形式化への希求を具体化したもの、しかし形式そのものではない「中間項」である。情報機械は「形式性」とともに、中間項であるがゆえの「形式破壊性」をもつ存在である。このことによって情報機械は欲望の吸収=増幅装置となる。ナルシスは自分を見つめる他者の視線を水面に反射した自己の視線で置き換えたが、現代の「デジタル・ナルシス」たちは情報機械によって他者と自己の視線を代行させる。情報科学のパイオニアたち(バベッジ、ノイマン、チューリング、シャノン、ウィナー、ベイトソン)もまた、そのような「デジタル・ナルシス」ではなかったのか、と著者は言う。

デジタル文明に魅せられた人々が「形式化」や「形式の破壊」にエロティックな欲望を感じているという主張は納得しがたい。上の「パイオニア」たちがそのような欲望にとりつかれていたというのも、なんだかよく分からない。この部分に限らず、全体的に論証が不十分なため、説得力を感じない、というのが僕の感想だ。「バタイユの観点に立てば…」とが言われてもね。分かる人にはそれで分かるのかも知れないが…。

<岩波同時代ライブラリー:1997年1月刊:1030円>
bAck


創造的進化(ベルクソン)
『創造的進化』はもちろん自然科学書ではない。ベルクソンのとなえる「エラン・ヴィタル(生命のはずみ)」説は我々の時代の生物学が駆逐した「生気論」であって、科学の対象となりうるものではない。ジャック=モノーいわく、「私の少年時代には、『創造的進化』を読んでおかないかぎり、大学入学資格試験に合格することはおぼつかなかった」そうだが、モノーが『偶然と必然』を書いた1970年においてはすでに「ほとんど完全に信用を失って」しまっていたという。ベルクソンの進化論・生命論に関する限り、その凋落はやむをえなかっただろうと、僕も思う。
しかし一方、『創造的進化』のもつ、知性、科学、そして従来の哲学に対する批判の書、という側面は今でも有効性をもつのではないかと感じた。昨年読んだ『哲学入門・変化の知覚(思想と動くもの I)』でも述べられていたことであるが、時間や運動の不可分性、創造性を科学や知性はとらえてこなかったとベルクソンは批判している。その代案として提起される「直観」が妥当かどうかはともかく、この批判は的を射たものだと僕は思う。
プリゴジンとスタンジェールの『混沌からの秩序』の中でもベルクソンは繰り返し引用されている。彼等はベルクソンの科学批判は「その時代の科学を科学一般と同一視」したものであり、「古典科学」の批判としては妥当であるが、いまや科学はベルクソンの指摘した限界をのりこえつつある、と述べている。しかしこのような認識はまだ科学の世界では一般的ではないのではないか。創発性、発展、歴史――何と呼んでも良いが、これらは提起されてから何十年も経った今でも「新しい科学」というスローガンで語られる種類のテーマである。静的、分析的方法によって切り取られた「対象」を対象そのものと同一視してしまうような「知性」が今も科学の主流であるとするならば、ベルクソンはまだ読み返される意味があると僕は感じた。
思うに、ベルクソンが提起した問題をベルクソンが提起したのとは別の方法で乗り越えることが、科学にとって必要なことなのではないだろうか。

<岩波文庫:1979年7月刊:720円>
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詩的私的ジャック(森博嗣
大学で起こる連続密室殺人事件。捜査線上に浮かび上がる人気ロック歌手。殺人現場の様子は彼の曲の歌詞と奇妙な一致を見せていた…。

というわけで、森博嗣氏の長編ミステリ第四弾。今のところ京極夏彦とともにデフォルト買い、即読みの作家である。本作の雰囲気は二作目の『冷たい密室と博士たち』に近く、正攻法の謎ときミステリだ。最後のトリックにはちょっと既視感を覚えないでもなかったが、それでも十分面白く読めた。犀川助教授と西之園萌絵コンビも相変わらず良い味を出している。

<講談社ノベルス:1997年1月刊:880円>
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陋巷の狗(森村南)
幕末の京都を舞台に、坂本竜馬の用心棒・朱楽萬次、土佐の岡田以蔵ら、「人斬り」として生きた男たちの戦いを描く時代小説。

「小説すばる新人賞受賞作」だそうだ。この賞の権威については僕は何も知らない。ちなみに選考委員は阿刀田高、五木寛之、井上ひさし、田辺聖子、だそうな。
それで、だ。
うーん、ほんとにこれが受賞作で良いのだろうか。確かに殺陣場面の言葉のスピード感などはなかなかのものだとは思うけれど…。「人斬り」たちは己の生きる意味に悩みながら何故かやたら饒舌で、しかもその台詞ははっきり言って「下手」としか言いようがないから、キャラクターにリアリティが感じられない。何か同人誌の小説か何かを読まされているような気がした。

<集英社:1997年1月刊:1200円>
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PALM BOOK(伸たまき)
『パーム』は伸たまきが『WINGS』で連載している長編大河マンガだ。その『パーム』に関する「お楽しみ本」ということで、書き下ろし小説『あるはずのない海』、対談、インタビュー、エッセイなどを収録したのが、この本。『パーム』ファンにはうれしいし、『パーム』を読んでない人にはまったく関係ない本だ。僕はもちろん前者。

<新書館:1997年1月刊:780円>
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新化(石黒達昌)
北海道のカムイコタンという渓谷に、かつて「ハネネズミ」という羽のはえたネズミがいた。絶滅後に行われた研究によって、ハネネズミは個体間に遺伝的差異がない「純系」化した種であることが判明する。一方、カムイコタンで捕獲された他種のネズミの遺伝学的解析の過程で、「エンジェルマウス」という種のネズミが、ハネネズミに良く似た遺伝子配列をもつことが明らかになる。研究者たちは遺伝学的操作によってエンジェルマウスからハネネズミを再生することを夢見る。果たして、選択的交配を繰り返していくうちに、羽のはえたエンジェルマウスが生まれてくる…。

もちろんこれはフィクションなのだが、横書きで、ルポルタージュのような体裁をとっているため、動物学の知識がない人が読めばノンフィクションに見えるかもしれない。余分なエピソードや情景描写、心理描写を省き、アイディアをストレートに表現している。もちろんこれは著者が狙ってやっているに違いないし、ある面では効果をあげているとは思うのだが、僕としては何か小説のプロットをそのまま読まされているような気分になってしまって、ちょっと不満が残った。アイディアは悪くないと思うので、もうちょっと別の書き方がなかったのかなぁ、と思った。伏線のように見えて結局未解決なままに終わる謎もたくさんあって(まあ、謎が解明されないままなのは研究の常ではあるけれど)、これも不満。生物学的に首をかしげたくなるところもあったし。(この著者は鳥類から哺乳類が進化したと思っているのかな?)
去年の『最近 読んだ本』のページが羽のはえた猫の話で終わり、今年は羽のはえたネズミの話で始まるというのも予定調和で美しいかなあ(笑)、と思って読んでみました。しかし、もし本当にこういう動物がいたら、僕なら遺伝子がどうこうより、羽のはえ方の解剖学的構造のほうがずっと気になるなあ。

<ベネッセ:1997年1月刊:1500円>
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1998年1月〜
1997年7月分〜
1996年版目次
1995年版
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彦坂 暁 (akirahs@ipc.hiroshima-u.ac.jp)