著者は「妊娠小説」を歴史、形式、内容の面から、ばっさばっさと切り刻み、整理し、ラベルを張り付けていく。こういう読まれ方をしたら作品も作者もたまったものではないだろうが、読むほうにすればとても痛快。毒舌皮肉の切れも良く、笑いながら読ませてもらった。いや、僕はこういうの、大好きです。
1994年6月刊にでた単行本の文庫化。
<ちくま文庫:1997年6月刊:本体680円>
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久しぶりにグインが登場し、妖しく凶々しい「剣と魔法」の世界に踏み込む。本編の雰囲気も良いけど、たまにはこういうなつかしい冒険物語も楽しい。もう少し手に汗にぎるアクションシーンが多ければ言うこと無いんですが。
<早川文庫JA:1997年6月刊:本体520円>
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良い意味でのブルーバックスらしさを感じさせる本だった。中学生でも読める平易な解説と、知的好奇心を刺激する内容。子供のころブルーバックスに求めていたのは、こういう面白さだったんだよなぁ、と思いながら読んだ。
「形の科学」自体については、こういう幅広い分野がどのようにお互いに関連し、互いに刺激を与えあうことができるのかというイメージが、僕にはいま一つはっきりと湧いてこないのだが、色々勉強してみたいという気にはなった。
<講談社ブルーバックス:1997年6月刊:本体720円>
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<徳間書店:1997年5月刊:本体1600円>
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本書は生物学的な認識論であると同時に、非常に優れた生命基礎論だと感じた。
ふつう生物学の基礎と言ったときに、僕らの頭にうかび、また普通の教科書にも載っているのは、細胞の構造と機能であり、DNAを介した遺伝の仕組であり、自然淘汰による進化の機構エトセトラである。しかし本書が基礎論だというのは、そういう基礎的な知識を提供してくれるという意味ではない。本書が与えてくれるのはそういう教科書的な知識によって我々が抱いている生命像を、もう一度、別の角度から眺めて原理的に捉え直すための足場のようなもの、つまり生命の一般理論のようなものだ。
同じ現象(たとえば「遺伝」とか「行動」とか)を扱っていても、見る視点、語る方法が我々の通常の生物学と違うと、物事の見え方がこうも違ってくるのか、と新鮮な驚きを感じた。
ちょうど一年前に、マトゥラーナとヴァレラの『オートポイエーシス』を読んで、その絶望的な難解さに愕然としたのだが、それに比べてこの本はずっと分かりやすい。
邦訳が出版されたのが十年前だから、今さらという感じだが、読んで損はない、というより、読まないと損をする本の一つだと思う。僕ももっと早く読んでおくべきだったと、後悔している。
<朝日出版社:1987年10月刊:本体3398円>
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日本とアメリカのクスリ事情の違い、なんてのを読むと、クスリも単なる実用品(?)ではなくて文化なのだなあ、ということが分かって面白い。
僕は(アルコール以外の)ドラッグには興味がないし、クスリにも(今のところ)あまり縁の無いない人間なのだが、クスリが(たとえば結核の駆逐を通じて)人生観を変え、人間を変えてきた、という筆者の主張には、なるほど、と思う。クスリを通して考える「身体」論というのも、なかなか面白いかもしれない。
<ハヤカワ文庫JA:1996年7月刊:本体466円>
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<中央公論社:1997年6月刊:本体1900円>
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<講談社学術文庫:1997年6月刊:本体660円>
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船戸氏がしばしば小説に描く、国家による抑圧的な暴力、虐げられた者たちの反逆、そのぶつかりあう所で血を流しあう名もない人々の姿が描かれている。国家に対する犯罪と国家による犯罪のせめぎあい。そしてその状況は国際政治に否応無しにつながっている。読んでいて、どうしてもペルーの事件が頭に浮かんでくる。船戸氏ならあの事件をどのように報告するだろうか。
<小学館:1997年5月刊:本体1800円>
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特に興味深かった論文について、感想を書いておく。
「変奏の法則」には僕もとても興味がある。ある個体発生メカニズムの制約(発生アトラクタ)の上で、形態進化につながる個体発生メカニズムの変化が起こる。それらの変化の中には多数の系統で独立に何度も起こるような種類の変化(たとえば間接発生から直接発生への変化)もあれば、ユニークな変化もある。ではどのような変化が起こりやすく、どのような変化は起こりにくく、またどのような変化は起こりえないのか。それを規定しているのは一つには環境とのエコロジカルな相互作用であろうが、もう一つは個体発生メカニズムであるはずだ。(たとえば発生アトラクタを乱さない変化は起こりやすいと考えられる。)ではその「起こりやすい/にくい変化」の実体は何か、と考えた時に、研究手法として可能なのは比較発生学を分子のレベルで行うことだろう。(たとえば僕がセミナーで論文紹介したカエルやウニの比較発生学の仕事のように)。そしてさらにその比較の結果を比較する。そのことによって、たとえば「異時性」や「アロメトリー」のようなジェネラルな進化現象を「変奏の法則」の一つとして理解できるのではないか、と思う。
もう一つ、「エピジェネシス」に関する議論が面白かった。倉谷氏は還元論的な研究によって決定論的なモデルとして生命現象を再構築したときに、それでも漏れ落ちてしまう「かもしれない」生命現象があるという潜在的可能性、これを現代的な意味での「エピジェネシス」と捉える。この定義は面白い。
このように捉えるのだとすれば、個体発生においては、ゲノムに対してはゲノム決定論を不可能にするように働く卵細胞質、卵というシステムに対しては卵の決定論を不可能にするように働く環境の作用、あるいは胚の運動において生じる偶然性が「エピジェネシス」の実体ではないかと思える。たとえば昨今の「クローン」論議で必ず言われる「ゲノムが同じでも環境が違えば出来あがる人は違う」は「エピジェネシス」的な論理だ。そしてこれは誕生後の成長期のみならず、胚発生期においても言えることだろう。前成的=ジェネティックな「決定論的(と想定されている)」システム(たとえば胚)は、そのシステムがいかんとも制御できないエピジェネティックな環境の作用を前提として、その中で動く。発生は必ず環境の中で行われるから、たとえマイルドな環境で「正常」に発生した胚でも、エピジェネティックな作用は必ず受けている。観察者が環境をマイルドに制御することで、その効果を無視しているだけだ。実際にはシステムは環境と不可分のものとして動く。決定論が成り立つとすればその一体の運動においてであるはずだ。そこに至ってはじめて「エピジェネシス」は解消されるだろう。
進化の話に戻れば、進化するシステムにとっても環境は制御できないものとして存在している。だから上記のような進化するシステムの内部の論理をいくら探究してみても、決定論へは行き着けないだろう。逆にエピジェネシスの側からの決定論もやはり不可能だろう。そこでやはり「界面」が問題になる。では「界面」での決定論は可能なのか?完全な決定論は無理でも、「ディスクリートな安定点への収束」は予測可能なのだろうか?簡単に答は出ないだろうが、面白い問題だと思う。
少女マンガ系の作家(おおむね女性)が書いたエッセイマンガなどを読むと、よく「心霊現象」の体験談が出てくる。「霊」の存在は当然の前提であるかのように語られており、僕などは鼻白む思いがするのだが、この本によれば、そういう体験談を面白がって描いているうちは良いのだという。そういう体験を解釈したり体系化したりし始めると、「宗教」まではあと一歩。そして、そういうふうに「いっちゃう」作家は「体験談」系の作家よりも「創作系」の作家に多いのだという。
そんなものかな、という気もするが、よく分からない。読んでいて何か食い足りない感じが残る。結局、「こちら」から「あちら」へ「いってしまう」そのプロセスがよく分からない。そのようなプロセス、あるいはそのような方向へ向かっていく素地のようなものを作品の中から読みとる、というような作業があれば、もっと面白かったのではないかと思うのだけれど…。
それはそうと、もはや『ガラスの仮面』にちゃんとした結末を望むのは無理なのでしょうか(泣)。
<太田出版:1997年6月刊:本体800円>
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話は面白くて、キリンの首を背負って電車に乗った話など、おもわず笑ってしまう。
ただ(「肩のこらない本を」という趣旨で書かれたものなので仕方がないのかもしれないが)これらの標本を使ってどういう面白いことが分かったのか、という学問的な話がもう少しあると良かったのに、と僕などは思ってしまう。その点が少々物足りなかった。
<中公新書:1997年5月刊:本体680円>
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<南風社:1996年10月刊:本体1748円>
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内容は池田氏の自伝のようなもので、少年時代の昆虫狂いから最近の仕事までほぼ年代順に語られていく。僕が一番興味があるのは、生態学の分野で研究をしてきた池田氏がどのような過程で「構造主義生物学」にシフトして行ったのか、という点なのだが、残念ながらこの本を読んでもいま一つよく分からなかった。
<実業之日本社:1997年4月刊:本体1200円>
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本書で一番衝撃的だったのは、本編ではなく「あとがき」の、近々グインのイラストレーターが変わるかもしれない、という話。残念だけど、一方で仕方がないかな、とも思う。
グインのイラストが加藤氏から天野氏に変わったとき、僕は残念な気持ちとうれしい気持ちが半々だった。そもそもグインを読み始めたのは加藤氏の絵がきっかけだったから、加藤グインに思い入れは深かったが、しかし僕は天野氏の絵も大好きだった。SFマガジン別冊に載っていたグイン外伝『氷雪の女王』の昏い雰囲気をたたえたモノクロの挿絵は、物語の世界にこの上なくはまっていて、とても感激した覚えがある。あのイラストでグインの物語が彩られるなら素敵だと思った。(個人的な好みで言うと、僕は最近の天野氏の絵よりも当時の絵の方が好きだ。)
天野氏の多忙ぶりを見るに、変わるのは仕方ないと思うが、誰に変わるかは大問題。まさかとは思うが、アニメ絵ややおい絵だけは絶対に避けてほしい。
<ハヤカワ文庫JA:1997年5月刊:本体485円>
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<新潮文庫:1996年3月刊:本体388円>
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<光琳社出版:1994年12月刊:本体2816円>
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僕も一応、高校3年の時に日本史を習ったが、受験には関係なかったので、定期試験で合格点をとれる程度にしか勉強しなかった。おかげで頭に残っている「日本史」の知識は、大河ドラマかマンガか司馬遼太郎の小説で得たものばかりである。これではいけないと反省したわけではないが、たまには読みつけない本も読んでみようかと思って手にとった。
本書を読んでの一番の収穫は「日本」が海を媒介にしながら中国大陸や朝鮮半島を含むアジア世界の中でその歴史を作ってきたという、僕にとっては新しい日本史のイメージが得られたこと。そういえば『日出処の天子』にも百済人だか新羅人だかが出てきていたなあ、なんて事を考えながら、読んだ。
<岩波新書:1997年4月刊:本体630円>
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僕も『セブン』に夢中になり「アンヌ隊員」に憧れた子供だったから、この手の裏話は楽しく読める。
しかし、ひし美ゆり子という人がこうも陽気であけっぴろげな性格の人だったとは…。「アンヌ隊員」のキャラクターとのギャップに驚き、何度も笑わせてもらった。
<小学館:1997年2月刊:本体1460円>
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連休中、実家から広島に戻る途中で東京の本屋さんに寄って衝動買いしてきた本のうちの一冊。面白くて、すいすい読めた。
「科学的」/「非科学的」と単純に割り切れない事例がたくさんあることは、人間のやっていることだから当り前のことで、だからと言って「ほとんど真っ黒」なものと「ほとんど真っ白」なものを同じ「灰色」だといって同一視するのは馬鹿げている、というのがこういう問題についての僕の考え方だ。本書を読んでもその考えは変わらなかったが、「単純に割り切れない事例」集として、興味深く読めた。「高分子水事件」なんて初めて知ったし、Nature がユリ・ゲラーのテレパシー能力に肯定的な論文を掲載していたことも(有名な話なのかもしれないが)僕は初耳だった。
余談だが、「超能力」なるものが実際にあっても僕は別に困らないが、「物理的に不可能だと思えたのに実は巧妙な手品でした」とか言うオチのほうが、「夢があって」楽しいと思うのは、僕だけだろうか?
<木鐸社:1987年1月刊:本体2000円>
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ここ数年ほとんどSFを読んでいなかったのだが、最近本棚の奥から未読のハヤカワ文庫などを引っぱり出してきてぱらぱらと眺めたりしている。『二重螺旋の悪魔』とホーガンでSFリハビリをして、手をつけたのがこの本。実は2年くらい前に読もうと思って買ったのだが、すごく読みにくくて途中で放り出していた。
本書は“80年代の『幼年期の終り』”と評されたらしいが、うーん、そこまですごい作品なのかな?結局、作者が何を書きたかったのか、僕にはよく分からなかった。
「知性をもつ細胞」というアイディアの荒唐無稽さでは『二重螺旋の悪魔』や『パラサイト・イヴ』と良い勝負。だったらストーリーからアクションまで荒唐無稽に徹した『二重螺旋の悪魔』の方を僕は買う。
――うーん、まだリハビリが足りないのかもしれない…。
<ハヤカワ文庫SF:1987年3月刊:本体621円>
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僕は短歌とは何の縁も無い人間だ。本書に登場する歌人で知っていたのは、俵万智、井辻朱美、道浦母都子の3人だけ。歌集なるものは2、3冊しか買ったことがない。しかし、そんな素人の僕にもこの本は楽しめた。何が面白いのかというと、それぞれの歌に対して念人から寄せられる様々な「解釈」である。
歌集は歌が載っているだけだから、分からない歌はいくら考えても分からない。鑑賞する能力がこちらになければまったくつまらない。芸術は多かれ少なかれそういうものかもしれないが、韻文は散文よりも敷居が高いのは確かだと思う。
本書に出てくる歌も一読なにが何だか分からない歌が多い。しかし、すぐれた批評家でもある歌人たちが様々な解釈、評価を披露してくれて、なるほどこの歌はこう読めるのかと納得させられる。歌人たちの言葉に対する感受性の鋭さにも感服する。
たとえば、前に井辻朱美さんの本を紹介したときに引用した
連綿と海老の種族を生みだしてわが惑星(プラネット)のくすくす笑ひ
の歌が本書の第一番勝負(題は「海」)で登場してくる。これに対して「海老の種族」を「地球上の生物すべて」の喩ととらえる読み方とか、「普通に『わがわくせいの』と書いた方が、ばしっと決まったはず」という言葉のリズムに関する批判とか、僕には思いもつかなかった批評がいろいろ出てきて感心させられる。
僕にとっては、短歌に感じる敷居の高さを、少し下げてくれる本だった。
<岩波新書:1997年4月刊:本体660円>
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本書の本文中では「バナッハ・タルスキーの定理」の背景にある数学的考え方が紹介され、関連する定理の証明が行われている。この部分は数学が苦手な僕でもなんとか読めるのだが、本文中では肝心の「バナッハ・タルスキーの定理」自体の証明は行われない。証明は巻末の「付録」に収められている。いちおう読もうとしたのだが、案の定、太刀打ちできなかった。というわけで、僕にはどうしてこの奇妙な定理が成り立つのかが理解できていない。(悲しい…)
本文中の「体積の定義」の話や「無限」の話、「数学的矛盾」の話などは面白かった。
<岩波科学ライブラリー:1997年4月刊:本体1000円>
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『星を継ぐもの』は僕の一番好きなSFだが、続編は未読だった。続編って読むとたいていがっかりするしね。(期待が大きすぎるのがいけないのかもしれないけど。)しかし結局いつかは読むことになるのだし、最近エヴァのおかげで(笑)頭が数年ぶりにSFモードに入りつつあるので、観念して読んでみた。
内容は「明るいファーストコンタクト」といったところか。『ID4』や『マーズ・アタック』で殺伐とした気分になったら、これを読んで、「宇宙人もまだ捨てたものではない」と気分を取り直すのも良いかも。
冗談はともかく、やはり『星を継ぐもの』の感動には及ばないなあ、というのが感想。ハント博士もダンチェッカー教授も、いま一つ生彩を欠いているし、提示される謎もいまひとつだし。
3作目(『巨人たちの星』)は、どうしようかな…。
<創元推理文庫:1981年7月刊>
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確かにこれは「現実」だ。散らかった床、ため込んだごみ、汚れた台所、物が積み上げられた机、はがれかけた襖、たった三畳の狭い部屋、詰め込まれた本棚、ミスマッチな小物たち……。こんな写真を見てなんで面白いのかよく分からないが、何故かそこはかとなく面白い。アート系の人の部屋が多いので変わった小物が色々あったりとか、本棚を見てふむふむしたりとか、大胆な部屋の使い方に驚いたりとか、色々楽しめる。
93年に出た元の写真集は12000円もしたのにかなり売れたそうだ。12000円なら僕は買わないが、文庫サイズの1200円分は十分楽しめた。
<京都書院:1997年5月刊:本体1200円>
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数年前に一度(借りて)読んでいるのだが、再刊を機会に購入して再読した。色々と考えさせられるところが多い本である。
日本においてルィセンコ学説に躍った人々は、学問的には著者が言うところの「理論ごのみ」、つまり「生命観」や「科学方法論」といったことに関心をもち、深く考えていた人々であり、実践的には「進歩派」、つまり農民の中に入り、農民のための生物学を実践して行こうという意志をもった人々だった。タコツボ化した今の自然科学の場には欠けていると批判されるこのような資質を、むしろ過剰に持っていた人々が、ルィセンコ学説という落し穴にはまった。後世の目でそれを笑うのは簡単だが、それだけでは生産的でない。彼らがどこで誤ったのかを考えることが、科学方法論や科学と社会の関わりに関心をもつ者にとって必要なことだろう。本書はきわめて地味な論争史の本であるが、考えるための材料を豊富に含んでいる。
著者も当時まだ若かったとはいえ、論争の渦中にあった人である。自己や知人の批判をも含む内容を、感情に流されず書き綴った努力に敬意を表したい。本文最後の著者の言葉、「事実に謙虚であり、権威に傲慢である態度」を肝に銘じておこうと思う。
<みすず書房:1997年3月刊:本体2200円>
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壷と箱と鍵のパズルの解決は見事。あれが解けるとは思わなかった。これがメインのトリックなのだと思うが、他にも色々と仕掛けがあって楽しめる。トリックs(複数形)としてはシリーズ中で一番面白いと感じた。あと、このタイトル!格好良すぎ。単なる語呂あわせに終わっていないところがすごい。
しかし、『すべてがFになる』でのデビューからまだ一年しかたってないんですね。このペースでこのクオリティというのはすごい、とあらためて思います。
<講談社ノベルス:1997年4月刊:本体900円>
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まず『新世紀エヴァンゲリオン』そのものについて。見終わった感想は「あれじゃ、ファンが納得できなくて当然だろう」
物語を、それも謎と伏線で引きに引いてきた物語を、途中で放り出されることは耐え難い苦痛である。どきどきしながら読んできた推理小説の解決編が落丁していたら、何を置いても続きを読むために本屋に走るのが人間というものだろう。(…たぶん。)もしあれがビデオのリメイクや映画版の「商売」を計算に入れてのことだとしたら、ずいぶん商売上手と言わざるをえない。ああいう風に投げ出されて、映画を見ずに済ませられる人が、どれだけいるだろうか。まあ、庵野氏やスタッフの言うこと(*2、*3)を信じると、商売を意図してやったわけでは無いようだが…。
さて、本の紹介。
*1は謎ときを中心にした本で、4人のライターが分担して書いている。放送された内容そのものに基づいて謎を解いていこうという姿勢が強い。*4は『研究序説』と銘打っていることから予想できるように、心理学や宗教学などの知識に基づいて『エヴァ』を解読しようという色が濃い。*2と*3は「庵野秀明ロング・インタビュー」と、エヴァ・スタッフによる「庵野秀明"欠席裁判"座談会」を中心にした本。どちらも『QUICK JAPAN』の記事が元になっている。『エヴァ』がどのような状況で作られたのかが分かる。
*1、*4は頭を整理するには良いかな、という感じ。*2と*3は庵野秀明という人の個性が分かって面白い。
『エヴァ』の面白さは僕にとってはストーリーと演出の面白さだった。少なくとも24話までは、よくできたエンターテインメントだったと思う。(25、最終話も、演出はまぁ、面白かった。)でも『エヴァ』に心をゆさぶられるメッセージは感じなかったし、深い思想が提示されていたようにも思えない。だからそれを狙ってやったように見える25、最終話は、僕にとっては完全に「はずれ」だった。僕はただ、ちゃんとした謎ときが見たかった。
映画ではそれが見られるのかと思ったのだが、どうも夏まで待たないと駄目らしい。商売、上手ですね…。
*1<三一書房:1997年3月刊:1339円>
*2<太田出版:1997年3月刊:824円>
*3<太田出版:1997年3月刊:824円>
*4<KKベストセラーズ:1997年2月刊:1030円>
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評判は何度も耳にしていたけれど、噂に違わぬエンターテインメントだった。ほんと、読み始めると止まらない。『アダルト・ウルフガイ』、『神狩り』、『復活の日』、『火の鳥』、(初期の)『魔界水滸伝』や(初期の)『ジョジョの奇妙な冒険』 (^_^; などの名作を彷彿とさせる面白さ。独自のSF的アイディアもふんだんにちりばめられている。スピード感のある文体も良い。
比べちゃ悪いけど、ストーリー、アイディア、文章、どれをとっても『パラサイト・イヴ』の数十倍は面白いと思った。
<朝日ソノラマ:1993年8月刊:上下各950円>
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コンウェイ・モリスは自らの手でバージェスの化石の研究を行ってきた第一線の研究者であり、古生物学の世界の外にも名が知れわたっている著名な研究者の一人である。日本語で読める著書は本書がたぶん初めてだと思うが、NHKの『生命』にも登場していたし、名前を知っている人も多いのではないだろうか。僕はミーハーなので、こういう本にはうれしがってすぐに飛びつく。
内容であるが、バージェス頁岩の発見と研究の歴史、バージェス動物群の紹介という基本的な解説を第4章までで行った後、第5章ではカンブリア紀の爆発が起こった理由を考察し、第6章ではバージェス動物および現生動物の間の系統関係を最新の知見に基づいて考察していく。
第5章では古生物学に加えて発生学、生態学に関する知見も考慮に入れながら、「爆発」の原因を探っている。僕にとっては、やはり古生物学と発生学という対象も方法もまったく異なる分野が関連してきているという事態が非常に面白く感じられる。コンウェイ・モリスは "Development"という発生生物学の雑誌の別冊に"Why molecular biology needs paleontology" という論文を書いているし、最近は発生学者のセミナーを聞いていてもイントロダクションなどに化石記録の話が出てきたりする。古生物学、発生学、形態学などが共通の問題に取り組むことによって進化学に新しい発展が生まれるという期待がふくらんでくる。
第6章では節足動物内の系統関係、そしてそれらとアノマロカリス、ハルキゲニアの関係が考察される。続いて軟体動物、環形動物、腕足動物の大きな系統関係の中でウイワクシア、鱗甲類の系統的位置が考察される。最近の分子系統学のトピックスの一つとして、環形動物は節足動物よりも軟体動物や紐形動物に近縁であり、また腕足動物などの触手冠動物も後口動物よりこれらの動物に近いらしいという結果が出ており、このことと考えあわせるとコンウェイ・モリスの考察はとても面白い。
本書の特に後半部ではグールドの『ワンダフル・ライフ』に対する批判というトーンが強く出ている。グールドが唱えるカンブリア紀には動物の異質性が極大に達していたという説、進化の偶発性を強調する説をコンウェイ・モリスは批判する。後のほうの批判は単なる考え方の違いという気がしないでもないが、「異質性」に関する論争は新たな証拠をもとにして今後も議論が続いていくことだろう。興味をもって見守りたいと思う。
ところで、本書は「現代新書」のために書き下ろされた(!)本で、原題は" Journey to the Cambrian: the Burgess Shale and the explosion of animal life" だという。それがなぜ『カンブリア紀の怪物たち』という題になってしまうのか。コンウェイ・モリスは、かれらがどんなに奇妙に見えても、基本的には我々の分類体系の枠組みの中に収まるだろうという考えで本書を書いているのだと思う。だとしたら「怪物たち」という題はとても無神経に思える。
<講談社現代新書:1997年3月刊:824円>
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ダーウィニズムが単純な「最適化」を説いているとは僕は思っていなかったし、「相互作用」を考慮していないということも無いと思うのだが、それは些末なことなので置いておく。
四方氏の仕事が面白いのは、進化に関する議論を、きっちりとした実験に基づいて展開しているところだ。酵素活性や増殖速度が異なる複数の大腸菌株を同じ培養液中で飼うと、一定の割合を保って共存するという実験。同じ遺伝子をもつ大腸菌を同じ培養液中で飼うと、異なる酵素活性をもつように「分化」するという実験など。単純な実験でありながら、凡人には思いつかないすぐれたアイディアによって、興味ぶかい結果を引き出している。四方氏の仕事の紹介は科学雑誌などで時々目にしていたが、本人の手によって整理されたストーリーを読むと、面白さもひとしおだ。
僕が特に興味をひかれるのは、遺伝子が同一なままで大腸菌が異なる性質をもつ(「分化」する)ようになるという現象だ。真核生物、とくに多細胞生物では同一のゲノムをもつ細胞が異なる複数の状態に落ちていくというのは一般的なことなのだが、大腸菌でもそのような現象が起きるというのが面白い。これと真核細胞の分化がどう関係するのか(しないのか)。興味深い。
(これに関しては、 田口善弘さんの「生物の新しい見方――生命プログラムのハッカーたち――」という原稿にも研究の紹介があるので、ご覧ください。)
最後に、読んでいて疑問に思ったことを書いておく。
「相互作用」があると「競争的共存」がおこる、というのは必ずしも普遍的なことではなく、一方が淘汰されることもあると書いてある。では「競争的共存」をもたらす「相互作用」はどのような性質をもつのだろう。そこに何か一般則はあるのか。
これと関連して、本書で紹介されている実験例は、対立する2種類の生物で異なっている形質が、そのまま「相互作用」に関連しているように実験系が組まれているのだと思う。たとえばグルタミン合成酵素の活性に差がある大腸菌株が、グルタミンを媒介にして相互作用を行うように実験系が組まれている。しかし問題になっている形質の差が「相互作用」に関連しているという状況は必ずしも一般的ではないように思える。その場合、その形質についてはどちらかの状態に収束して「共存」はおこらないような気がするのだが、どうだろうか。
あと、本のタイトルが内容を表わしていないような気がするのだけど、どうしてこういう題になったのでしょう?
あ、それから、リファレンスがついていないのは非常に残念。研究紹介の本なのだから、必須だと思うのだけど。
<講談社:1997年3月刊:1545円>
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「いかに文章を書くか」というような本は、読まないに越したことはないと思っている。僕は元来、人に影響されやすい質だから、読めば「なるほど、そうか」などと素直に思ってしまう。思ってしまうと「文間文法」とか「抵抗の力」とかいうようなキーワードが頭を占拠して、一文ごとに萎縮してしまって、もう書けなくなる。この文章も意識するまいと努力して書いているのだが、うまくいっているかどうか。
なら読まなければ良いようなものだが、本屋でつい手にとったら、つかまってしまった。
文章を書くのは好きだが、自分の文章がうまいと思ったことはない。しかもこの歳になると文章を批評してもらえる機会など、ほとんど無い。「自分の文章はひとりよがりかもしれない」という不安がいつもついてまわっている。だからこういう本についつかまってしまうのだろう。
読んだからといって僕の文章がうまくなることはないだろうが、「怖いもの見たさ」のスリルは楽しめた。
<岩波書店:1996年10月刊:2163円>
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前半のダーウィニズム批判には、特に目新らしい議論はないように思える。要するにダーウィニズムの説明法では自分は納得できない、ということだ。
単にダーウィニズムに反対するだけなら簡単で、そういう本はいくらでもある。しかしサイエンスの土俵の上で代案を提出することは非常に難しい。批判者が真価を問われるのはむしろこちらの方だろう。この著者の場合はどうか。
牧野氏は、高分子システムは神経システムのように文字どおり「考える」能力を持つのだと主張する。神経システム以外のモノが「考える」ことなど出来るはずはないという断定は、人間中心主義と心身二元論に由来する根拠のないドグマなのだと言う。生体高分子はその精妙な「認識能力」に基づいて多元的な「情報処理」を行なう「論理素子」である。それらが統合されることによって「推論機能」をもつシステムとなる。このシステムは「有利な突然変異」のようなありそうもない偶然に頼ることなく、その「考える」能力を使って自律的に進化して行くことができる……。
まず言葉の使い方に疑問を感じる。細胞のような生命システムがもつ卓抜な情報処理能力は、少しでも生物について勉強したことのある人なら誰でも知っている。それがあたかも「考えている」ようだ、という言い方も、比喩としてなら、まあ許容できる。しかし「考える」というのはあくまでも人間の頭脳活動についての言葉であって、細胞が、あるいはコンピュータが、いかに素晴しい情報処理を行なおうと、それは(優劣は別にして)人間の脳の活動とは違った種類の活動のはずだ。違うはずのものを同じ「考える」という言葉で表現することは、頭脳活動の性質を無批判に他のシステムにも適用できるかのような錯覚を生みかねない。それが狙いなのだろうか?そうでなければ、混乱をまねくレトリックは避けるべきだろう。
さて、高分子システムがあたかも「考えている」かのようなふるまいを示すとして、それではその情報処理能力は頭脳の情報処理能力とどこが共通していてどこが違っているのかを注意深く検討しなければならないだろう。特に生物進化との関係では、著者の主張するような「推論機能」、未来を予測し適切な変化をみずから生み出す能力を高分子システムが発揮しうるのか、ということが問題になる。言わせてもらえば、僕にはそのような分子システムは想像もできない。それに比べれば「突然変異と自然選択」による進化のほうがずっとありそうなことのように思える。もっとも自分に「想像できない」からといって、そんなことは「ありえない」という根拠にはならないのだが。
高分子システムが「考える」というような言葉遊びよりも、推論を可能にする情報処理システムとはどういうものなのか、仮説でもよいからきちんと説明してほしい。それがなければこの本の議論は単なる空論だと思う。
あと、最後の最後に、「考える高分子システム」ができあがるまでの初期進化においては偶然の変異と選択が主要な役割をしていたかもしれない、というようなことを言ってしまうのは戦術としては失敗じゃないのかな?それこそ、そんな素晴しいシステムが「偶然の変異で生じてきたなんて信じられますか?」と言われそうなものだけど…。
あとは余談だけど、「考える高分子システム」で思い出したのは『パラサイト・イヴ』(笑)だった。「考えるミトコンドリア」も牧野氏にとっては荒唐無稽ではないのでしょうね、きっと。
<青土社:1997年3月刊:2678円>
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反骨精神というのだろうか。学生時代は破妨法反対の学生運動に参加、生態学者として職を得た後は『生態学入門 ― その歴史と現状批判 ―』という生態学批判の本を書き「生態学会から総すかんを食」う。「会員の資格は“非教授”とする」という会則をもつ「日本生物学会」を勝手に作り、会長に就任してしまう。湾岸戦争の際には自衛隊の海外派遣に反対して、カンパをつのって難民輸送の飛行機をとばす運動を展開し、以来「金沢大学平和問題ネットワーク」を組織して運動を続ける。(このネットワークが発行しているニュースは僕も金沢大の先生に見せてもらったことがある。奥野氏が発行していたとは知らなかったが。)そして「さまざまな運動をやってきたのだが、現在にいたるまで一度として勝ったことはない。……一度通りそうになってあわてたことがあったが、この時も幸い、最後には否決された。」と、さらりと言ってのける。
こういう人だから当然、大学にまで競争原理を持ち込み「効率」を追及する現在の風潮も皮肉を交えながら批判する。「学問は競争になじまない」「ものを考えるにはゆったりした時間が必要」という奥野氏の主張は説得力があると、僕は思う。
僕の周りを見渡しても、「大学教員任期制」「自己点検・評価」「大学改革」と、どの大学・学部も「生き残り」(?)をかけて必死だ。しかししょせんやっていることは大同小異、労力だけが空しく費やされていき、右にならえの没個性的「改革」が反対の声を抑圧して進んでいく。そんな時流に乗らないとやっていけない研究や教育って、いったい何なのだろう、とよく思う。
奥野氏は学生の要望があれば、プラトン、毛沢東、ガルブレイス、ウィルソンなど、何でも輪読会に参加してきたという。いまどきこういう先生はほとんど見かけない貴重な存在だと思う。こういう「研究に関係のない」ことをする人は白眼視されるのが今の研究者社会である。でもこういう余裕をなくして「改革」に走り回ることと、果たしてどちらが学生への教育や学問の深みという点で優っているのか。「研究」ではなく「学問」をしてきた、という奥野氏の言葉をかみしめながら、ゆっくり考えてみたいものである。
生物学に関する部分では、進化を「体制変革」と「適応放散」に分け、次の時代を担う「体制変革」は特殊化していない一般的な形をとどめたものの中から出現してくる、と述べる。僕がヒラムシに興味をもつ理由にも通じるものがあり、奥野氏のこの主張にも共感をおぼえた。
このように書くと堅苦しい本のように思われるかもしれないが、「冗談と皮肉と嫌みが大好き」というだけあって、皮肉っぽいユーモアがちりばめられた文章は読みやすく楽しい。奥野氏はこの春、金沢大を退官されるそうである。こういう先生が減ると、大学もだんだん味気ないところになってしまうだろうな、と思った。
<創元社:1997年3月刊:2060円>
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読んでいて色々疑問が浮かんできたのだけれど、一番大きな疑問は、「中立変異」という概念を分子の配列の変異のみならず、表現型の変異にも適用できるのか、という疑問だった。斎藤氏は、自分は中立論者なので「できることならすべての進化が中立的に起こっていたら素敵なのだが、と常々思っている」と書いている。たしかにDNAの配列であれば、偽遺伝子配列の変化つ同義置換などを「中立」と見なすことに疑問はない。しかし形態などの表現型の変化に現われる変異が「中立」かどうかをどのようにして判定できるのだろう。その基準がないと、表に現われない分子の「つまらない」変化は中立的に起こるとしても、種の起源や大規模な形態・生理の変化につながるような「重要な」変化は自然淘汰の媒介によって起こる、という2分法に対抗できないように、僕などは思ってしまうのだけれど、どうなのでしょう?
<大和書房:1997年3月刊:1957円>
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論理学や確率論を学ぶことは確かに正しく思考するために役立つが、それに加えて、どういう場面で人間の思考が誤りやすいかを知っておくことも有益だろう。本書では「ジンペルのパラドックス」や「三囚人問題」など、直観と論理がずれてしまうような問題を例に挙げながら、我々の思考はどういうところで間違いやすいのかを教えてくれる。考えながら楽しく読める本。
<中公新書:1997年2月刊:680円>
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前書きに、ヒキガエルの話や行動の話より「科学研究の手順とはこういうものですという話がしたかったのです」と書いてある通り、疑問が浮かんだとき、どのように仮説をたて、実験を組み、結果を処理し、解釈し、次の研究につなげるのか、という生の研究プロセスが生き生きと描かれている。文章もユーモラスで、読んでいて楽しい。裏表紙の「戦う雄」の写真や、文中のコンニャクに抱きつく雄ガエルの写真も傑作。ついつい引き込まれて読んでしまう良書だ。
ちなみに石居先生は昨年末、うちの大学でセミナーをして下さったのだが、その時のお話は肺魚類の分子系統学の話だった。テーマが手広いですね。
<八坂書房:1997年2月刊:2060円>
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「超システム」は「自己生成」「自己多様化」「自己組織化」「自己適応」「閉鎖性と開放性」「自己言及」「自己決定」などの性質をもつ、と著者は言う。何らかの目的をもって工学的に設計された人工のシステムとは違って、要素と関係そのものを自分で作り出していくシステム。システムの外に目的を持たないシステム。著者は脳神経系や免疫系はもちろんのこと、言語や都市の形成をも、この概念で捉えようとしている。
「超システム」は個体発生をイメージしたコンセプトのように思われる。未分化で均質な状態からの多様化(分化)と組織化。自己の要素を生成し、環境と相互作用し、自己の境界を作り出すシステム。『オートポイエーシス ― 第三世代システム ― 』で河本英夫氏が「第二世代システム」と呼んだ自己組織化システムを連想させる。
巷を席巻する遺伝子=DNA決定論的な言説に対して、より柔軟で発生学的な生命観を提示している点に本書の意義があると思う。本の帯には「あなたの生命観をくつがえす衝撃の書」とあるが、言語論や都市論はともかくとして、生命に関する議論は極めてまっとうな、穏健な主張だと感じた。「意味論」というタイトルなので、むしろもう少しラディカルに突っ込んだ議論を期待していたのだが、その期待ははずれた。『生命の「意味論」』ではなくて『「生命の意味」論』だったのですね、きっと。
また、全体として「あいまいさ」のような文学的表現や「DNAの生態系」のような実態不明の言葉が多いと感じた。非専門家むけということで、こういう書き方が良いという判断なのだろうか。確かに興味を引くという点では成功していると思う。だがもし「超システム」論を押し出していくのであれば、今後はもう少し理論的につめた著書も期待したい。
<新潮社:1997年2月刊:1545円>
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<早川文庫JA:1997年2月刊:500円>
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クリプキの『名指しと必然性』を読もうとして何度か挫折したため、この本を見つけてまずは入門書からと思い、読んでみた。のだが…、
率直にいって、非常に奇怪な世界観だと感じた。読み進むうちに山のように疑問が出てきて、ほとんど解決されないまま読み終わってしまった。単なる想像のお話なら良いのだけれど、どうもそうではないらしいし。うーむ…。
と、うなっていても仕方ないので、一応、主な疑問だけ書いておくことにする。
まず「可能世界論」が非常に強力な問題解決能力をもつという主張なのだが、それがよく伝わってこない。論理学をやっている人にとってのローカルな有用性にすぎないのでは?と思えてしまう。だからこのような世界観を構築する動機がまずよく理解できない。
次に、無数の可能世界があるとして、それらを比較したり集合に括ったりするのは、どういう立場の、誰なのか。互いに異なる時空間にあって、何の関係ももたない「世界」を「比較」なんてできるのだろうか?できるとすればそれはそういう世界すべてを見渡せる超越的な存在からでしかないのではないだろうか。単なる一世界の住人である我々にそれができるという発想が、よく分からない。
最後に、我々の世界の外の「世界」やそれらを合わせたメタ「世界」に我々の「論理」(たとえば集合論とかいろいろ)が通用するとか、部分的にでも適用できるとか、どうして考えられるのかが分からない。「論理」はあくまでも我々の世界の論理にすぎないし、我々ヒトという種の認知機構に規定されているものにすぎない。よそでそれが通用する保証はどこにもないのに、それを世界の外までもちだして使おうという発想は、理解に苦しむ。「不可能世界」と言ってみても、それだって我々の論理の「拡張」でしかないように思えるのだけれど…。
しかし、論理(必ずしも厳密とは思えないが)だけで、よくもここまで進んでいけるものだとは思う。そういう意味では「面白かった」と言っておこう。(<皮肉じゃなく、本当に。)まあ、良く分からないけれど、こういうのを形而上学というのですね…。(僕にとっては「形而上学」は、悪口なのだけど…。)
<NHKブックス:1997年2月刊:950円>
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個人の中に「知能」という実体があって、それをIQのような手法で数値化できる、というのは神話にすぎないという著者の主張には、賛成できる。だいたい、人間の思考能力や身体能力がそんなに単純に割り切れたら苦労はない。
特定のごく狭い問題を与えられたときにそれを解決する「能力」(たとえば記憶する能力とか単純計算する能力とか空間把握能力とか写生する能力とか)についてさえ、まだ十分に分かっていないし、そういう比較的単純な「能力」でさえ、複合的なものに違いないから、理解するにはまだまだ時間がかかるだろう。ましてやさらに複合的な「知能」を簡単に理解できるはずもない。せいぜいある特定の目的(たとえば学校教育)を設定して、それに対する適合の度合を測ることができるぐらいのものだろう。それだって単一の数値で測るのは乱暴な話だけれど。
<講談社現代新書:1997年2月刊:659円>
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著者があげている問題点の中には、技術の発達やネットワーク環境の整備によって解決が可能な問題もあるように思える。たとえばネットワークの信頼性の問題、回線速度の問題、費用の問題、必要な情報を検索する手段の問題、など。これについてはネットワークを使い始めた人なら誰でもすぐに感じる問題だろう。ネットワーク上に有用な情報が色々あることは間違いないが、それを探し出すのは一苦労だし、他の手段のほうがずっと早く情報を得られる場合だってある。しかし(僕は専門家ではないので確かな事は分からないが)これらにはまだまだ改善の余地があるように思える。
これらとは別に、もう少し哲学的な問題もある。ネットワークで得られる情報は「現実」の代わりにはならないのに、ネットワーク上の世界が現実の生活を圧迫するようになってきているのではないか、という問題だ。
まあ、それは有り得る話かな、と僕も思う。しかしこういう議論は、テレビ、パソコン、パソコン通信、ファミコンなど、新しい技術が普及して、それに「はまる」人が出る度に繰り返されてきたような気もする。さて今度は「インターネット」の番、というだけなら、あまり新鮮味はない。
もしネットワークをほとんど使ったことのない人が評論家的にそのような批判を書いたものであれば、僕は途中で読むのを止めてしまうと思う。(つまらないに違いないから。)本書がそのようなつまらない紋切り型に終わっていないのは、コンピュータネットワークの力や可能性や楽しみを十分すぎるほどに理解した著者が書いているからこそだと思う。
時代の流れについていけないがための保守主義でも、無邪気なテクノロジー礼賛でもなく、著者は技術の価値を理解した上でその限界を見極めようとしている。その姿勢が抱えている矛盾に自分でも困惑しながら。そういう著者のスタンスに、好感がもてた。
<草思社:1997年1月刊:2266円>
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このような論争では多くの場合、実験の「再現性」が問題にされる。「記憶物質」論争の例のように、ある研究室ではある仮説を支持する結果がでるのに、同じことを別のグループがやると否定的な結果が出る。論争は細かい実験条件の違いから、研究者の実験技術や経歴、研究者としての資質にまで及んで、しばしば泥沼化していく。
「自然発生説」論争では培養液のフラスコの口を割るのに、「ペンチ」を使ったか「やすり」をつかったかが問題になったという。こんなことは普通なら問題にならない些細な違いである。一方、現代の目から見ると、実際に自然発生説論争で実験結果の矛盾を生み出していたのは、「培養液に酵母抽出液を使うか、干草抽出液を使うか」という、当時はほとんど問題にされなかった「些細な」条件の違いだったという。変更可能な無数の条件のうち、何が重要で何が重要でないのかを見極めることは、かように難しいことなのだ。
『柏木達彦の多忙な夏』へのコメントでも書いたのだけれど、不十分な経験を材料にしながら、より信頼性のある妥当な理論を目ざしているのが科学という活動だと、僕は考えている。それは何も大規模な実験が必要な対象についてだけではなく、我々の「小さな」研究についても言えることだ。実際、ある結論を導くために必要十分な実験・観察をすべてやりつくすことは不可能に近い。ケチをつけようと思えばいくらでもつけられる場合がほとんどだろう。普段はこの程度のデータがそろえばこの程度の結論が主張できるという、推論の妥当性に関する暗黙の基準のようなものが科学者社会に共有されているので、無用な混乱は起こらないだけだ。
思うに、多くの研究はケチをつけようと鵜の目鷹の目で狙っている論敵がいないから見逃されているだけなのかもしれない。テーマがセンセーショナルになれば当然反対者も増えてくるわけで、追試もされるし論理の不備も突かれる。そうなれば上記の我々の経験の限界が重要な問題として浮上して来ざるを得ない。
不完全な足場の上で、我々はどうすればよりしっかりと立つことができるのか。この問題に「科学哲学」はどのように答えてくれるのか。『柏木達彦〜』の議論を思い出しながら本書を読んで、そんなことを考えた。
ついでに、先日読んだ『バイバイ、エンジェル』の「探偵」役、矢吹駆の言葉を思い出したので引用しておきましょう:
「…集められた諸事実は真実にたいして権利上同等である無数の論理的解釈を同時に許すものなのです。無数に並列して存在しうる論理的解釈のうちから、ただひとつだけを正しく選びとりうるためには、諸事実を論理的に配列するための作業に先立って、ひとつの直観が要求されるのです…」
<化学同人:1997年2月刊:1854円>
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<広美出版事業部:1997年2月刊:1300円>
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読んだ印象は、とりあげられている分野が片寄っているなぁ、ということ。一応「動物学25のかたち」として様々な分野が網羅的に取り上げられてはいるが、全体では行動学などのいわゆるマクロの生物学が大きな比重を占めている。ブックガイドやキーワードでも、発生学や生理学はほとんど無視されている。
たとえばの話、「日本動物学会」での一般講演を分野別に見ると、発生、生理、内分泌、といった分野が多く、生態・行動分野は少ない。「動物学会」のみが「動物学者」の集まる場ではないし、分野によって発表のしやすさが違うことも十分承知している。しかし『動物学がわかる。』と題した本としては、まちがいなく動物学の大きな部分を占めているこれらの分野の扱いが、あまりに薄すぎるのではないか、と感じた。監修者の名前を見つけられなかったが、巻頭言を書いているところから見て、日高さんなのだろうか。だとしたらこういう片寄りも、まあやむを得ないのかもしれないが。
と、文句ばっかり言っていても仕方ないので、少なくとも「動物学25のかたち」は大変面白かった、とは言っておこう。「都市の動物学」とか「洞窟動物学」(洒落みたい)といった、聞きなれない分野も紹介されていて楽しめる。僕の師匠はいつのまにか「分子系統発生学」者になっているし…。(あ、前からか?)
「ナチュラルヒストリーとしての動物学の復権」の中で日高氏は、ナチュラルヒストリーは「何のために」という問かけに答える「ストーリー性」をもつこと、そして「その生き物」という「主体」にとっての「意味」を問うことが特徴だという。僕なりに理解すると、要するに、生物の一般論ではなく、個別の生物について、その生物の形態や行動や生理や生活史等々の意味を調べることがナチュラルヒストリーである、ということなのだろう。
その言葉づかいの定義の当否は分からないが、一見同じことをやっていても、対象としている生物が「一般論」へ向かうための単なる材料にすぎないのか、あるいはその対象そのものに興味があるのかという志向の違いは、確かにあるのだと思う。動物学がそういう意味でのナチュラルヒストリーを含まなければいけない、という意見には僕も賛成だ。「分子生物学」や「生化学」に頼ってはいても、あえて「動物学」という名ににこだわりたい、という気持ちは僕にもある。僕のプロフィールのページの「専門分野」の項目に「発生生物学」という一般的な言葉と並べて「動物発生学」という泥臭い言葉も書いているのは、そういう気持ちがあるからだ。
最後に、細かいことだけど、「動物学が学べる大学・大学院一覧」に広島大学の理学部・理学研究科が入っていないのは何故なのだろう?「動物学会賞」受賞者が4人もいる学部なのにね…。
<朝日新聞社:1997年2月刊:1100円>
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[科学ってホントはすっごくソフトなんだ、の巻] (冨田恭彦)
内容の高度さにくらべて、文章は確かに平易で読みやすい。読んでいて自分も「柏木先生」に質問に行きたいような気にさせられた。まあ、それは無理にしても、デイヴィドソン、クワイン、ローティなどの著作を読んでみたいという気になる。
ところで「科学の真理性」に関する議論を読んでいて僕がいつも疑問に思うのは、なぜそれほど「真理」とか「科学の基礎づけ」ということにこだわるのか、ということだ。何か科学に過剰な要求をつきつけておいて、科学がそれに応えられない、と言っているように思えるのだ。科学は数学でも論理学でもないのだから、論理学的に厳密な真/偽概念を適用することは意味がないと僕は思う。科学が論理学を必要に応じて「使う」のであって、論理学が科学を支配するわけではない。
自然を知り、制御したい、というのが科学の目標だとすると、「科学的」といわれる様々な方法は、少なくとも今まで、その目標に対して極めて有効な方法だった。しかし科学的方法によっても我々は思考と現実の「完全な」一致という意味での「真理」には到達していないし、今後もできないだろうと僕は思う。その理由は単純で、我々の経験が非常に限定されているからだ。ものすごく大きいエネルギーを要する現象、何億年もかかって起こる現象などは人類には観測ができない。化石に残らなかった過去の生物はタイムマシンでもなければ発見することはできない。だから科学は本来「完全性」とは無縁のものだと僕は思う。本書の第五話で学生が提出する「すべてが間違っているかもしれない」という疑問は当然抱いておくべき疑問だろう。
では科学が他の方法に比べて信頼性(確実性ではない)をもつのはなぜなのか。僕は次のように考える。我々が外の世界を見る見方が理論に規定され、また様々なものの見方が可能だとしても、経験は我々の意のままにならないものであり、その意味で経験される事物は我々の思考から「独立」している。科学は恣意的な思考ではなく、外界の事物に基盤を置くことによって、その信頼性を確保している。どんなに素晴しく美しい考えでも、経験に合わなければ修正をせまられるのだ。
さて、このような僕の考えはローティが批判する「鏡的人間観」なのだろうか?少なくとも本書に紹介されている「鏡的人間観」批判は僕にとって納得のいくものではなかった。ローティの本もそのうち読んでみたいと思う。
それにしても、本書に登場する学生たちの飲み込みの早さには驚く。話を早く進めるための、そういう設定なのだろうが、哲学的なことに関しては、もう少し飲み込みの悪い方が良いのじゃないかぁ、と思ってしまう。いや、自分の飲み込みの悪さを正当化するつもりはないけれども(^-^)。作者が接している実際の学生さんも、あんな風なんだろうか?
<ナカニシヤ出版:1997年1月刊:2163円>
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キリスト教自体がもともとはユダヤ教の異端の一セクトとして出発したものだ。それが世俗権力に公認され大衆化・世俗化すれば、初期の姿にとどまることは困難だろう。もとの教義からはずれた様々な腐敗や堕落も生じてくる。それに対して本来の姿にたちかえろうとするセクト的運動が起こるのは必然なのだろう。
それにしても「正統」の「異端」に対する処置は苛烈だ。宗教が人の内面の領域だけを規定するならば、さして大きな問題はないのだろうが、宗教は(「異端」「正統」を問わず)人を組織し、その行動を規定し、強い現実的な力を発揮しうるからやっかいだ。互いに主観的には「善」を背景にしているから、なおさら始末におえない。
歴史的なことはともかく、今の時代、自分だけを正統として他を排除するような排他性を、心のうちに持つのはまぁ仕方ないにしても、実力にうったえて排除するような行為だけは、やめて欲しいものだ。宗教に限った話ではないけど。
<山川出版社・世界史リブレット:1996年7月刊:750円>
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内容は本格推理小説そのものなのだが、暴力や殺人を正当化してしまう「観念」に関する作者の思想が随所にちりばめられ、作品の厚みを増している。探偵役の謎めいた日本人、矢吹駆とその「現象学的推理法」も魅力的だ。
贅沢を言うと、最後に明らかになる犯人の内面と、矢吹との対決が、何かとってつけたような印象になっているのが惜しい気がした。真相が判明した「その後」でなければ犯人の内面を描くことができないという本格推理小説の構造上、それが早口の独白のようなものになってしまうのは仕方ないのかもしれないが、犯人がそのような思想を抱き、犯罪に手をそめた内面的過程がもっと描かれれば、矢吹との対決ももっと緊張感のあるものになったのではないかと思った。でもそれをやると、推理小説ではなくてドストエフスキーになってしまうのかもしれない。
初出は1979年。
<創元推理文庫:1995年5月刊:650円>
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ちょっと思うところあって、物理の基礎を勉強し直してみようと思って読んだ。一冊ちゃんと読むのは初めてだったのだが、素晴しく面白いテキストだと思った。読んでいてファインマンさんの顔が見えてくるような感じ。生物のテキストでもこれぐらい面白いのがあれば良いのだけれど…。思いつかないなぁ。
<岩波書店:1967年6月刊:3100円>
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とさかある
サウロロフスもうちふして
月光しみたる
岩盤となる
わが脳のうちにいまなお棲むという
爬虫類らの遠きユラ紀は
連綿と
海老の種族を生みだして
わが惑星(プラネット)の
くすくす笑い
椰子の葉と
象の耳ほどこの星の
風が愛したかたちはなかった
<クインテッセンス出版:1996年12月刊:1030円>
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とにかく、面白い。僕がここで何を書いてもこの面白さは伝わらないと思うので余計なことは書かないが、文章や言葉遊びに興味のある人はぜひ手にとってめくってみて下さい。
ちなみにレーモン・クノーは『地下鉄のザジ』の作者。原文はもちろんフランス語だ。言葉あそびをふんだんに盛り込んだ文章を作者の意図を汲みながら訳す作業は並大抵の苦労ではなかったと思う。訳者の朝比奈氏に敬意を表したいと思います。
<朝日出版社:1996年10月刊:3500円>
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僕が大学院生のころ、研究室の論文紹介で Wolpert たちが書いたニワトリの心臓の左右性に関する実験発生学の論文を読んだことがあり、それ以来、左右の問題はずっと気になっていた。だから最近の Sonic hedgehog や lefty の左右非対称発現の発見は僕にとってもエキサイティングな事件だったし、多くの発生学者にとってもそうだっただろうと思う。
次に問題になるのは、遺伝子発現の左右非対称性を作る機構である。左右に何らかの物質的な差異が生じさえすれば、その後の左右の違いを具体化するプロセスはその差異を利用して進むことができる。前後と背腹の2軸を参照し、それに従って左右の差異を作る機構はどのようなものか。これは今のところ分かっておらず、本書でも触れられていない。Wolpertたちの先の論文では前後軸と背腹軸に沿って配向するキラルな分子を想定していた。電磁相互作用(!)を考えた研究者もいるらしい。いずれにしろ、マーカー遺伝子や突然変異体を利用して研究は急速に進むだろう。とても楽しみだ。
脊椎動物の左右性の研究に期待しつつ、僕が密かに期待しているのは(本書では触れられていないが)棘皮動物の左右性の研究だ。学会などで聞くと、実験発生学的手法でいろいろ面白いことが分かってきているようなので、今後の展開に期待しています。
<講談社ブルーバックス:1997年1月刊:742円>
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面白い。特に主人公たちが偽札を作り上げていくプロセスは、モノを作りあげていくことへの情熱とか、道具はなくてもアイディアと技術で勝負!というような、職人的、技術屋的、理系的マインド(NHKの『電子立国』のような)がぎっしりつまっていて、引き込まれる。スピード感のあるストーリーも良い。
<講談社:1996年8月刊:2000円>
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<宝島社:1997年2月刊:1000円>
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デジタル文明に魅せられた人々が「形式化」や「形式の破壊」にエロティックな欲望を感じているという主張は納得しがたい。上の「パイオニア」たちがそのような欲望にとりつかれていたというのも、なんだかよく分からない。この部分に限らず、全体的に論証が不十分なため、説得力を感じない、というのが僕の感想だ。「バタイユの観点に立てば…」とが言われてもね。分かる人にはそれで分かるのかも知れないが…。
<岩波同時代ライブラリー:1997年1月刊:1030円>
bAck
<岩波文庫:1979年7月刊:720円>
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というわけで、森博嗣氏の長編ミステリ第四弾。今のところ京極夏彦とともにデフォルト買い、即読みの作家である。本作の雰囲気は二作目の『冷たい密室と博士たち』に近く、正攻法の謎ときミステリだ。最後のトリックにはちょっと既視感を覚えないでもなかったが、それでも十分面白く読めた。犀川助教授と西之園萌絵コンビも相変わらず良い味を出している。
<講談社ノベルス:1997年1月刊:880円>
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「小説すばる新人賞受賞作」だそうだ。この賞の権威については僕は何も知らない。ちなみに選考委員は阿刀田高、五木寛之、井上ひさし、田辺聖子、だそうな。
それで、だ。
うーん、ほんとにこれが受賞作で良いのだろうか。確かに殺陣場面の言葉のスピード感などはなかなかのものだとは思うけれど…。「人斬り」たちは己の生きる意味に悩みながら何故かやたら饒舌で、しかもその台詞ははっきり言って「下手」としか言いようがないから、キャラクターにリアリティが感じられない。何か同人誌の小説か何かを読まされているような気がした。
<集英社:1997年1月刊:1200円>
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<新書館:1997年1月刊:780円>
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もちろんこれはフィクションなのだが、横書きで、ルポルタージュのような体裁をとっているため、動物学の知識がない人が読めばノンフィクションに見えるかもしれない。余分なエピソードや情景描写、心理描写を省き、アイディアをストレートに表現している。もちろんこれは著者が狙ってやっているに違いないし、ある面では効果をあげているとは思うのだが、僕としては何か小説のプロットをそのまま読まされているような気分になってしまって、ちょっと不満が残った。アイディアは悪くないと思うので、もうちょっと別の書き方がなかったのかなぁ、と思った。伏線のように見えて結局未解決なままに終わる謎もたくさんあって(まあ、謎が解明されないままなのは研究の常ではあるけれど)、これも不満。生物学的に首をかしげたくなるところもあったし。(この著者は鳥類から哺乳類が進化したと思っているのかな?)
去年の『最近 読んだ本』のページが羽のはえた猫の話で終わり、今年は羽のはえたネズミの話で始まるというのも予定調和で美しいかなあ(笑)、と思って読んでみました。しかし、もし本当にこういう動物がいたら、僕なら遺伝子がどうこうより、羽のはえ方の解剖学的構造のほうがずっと気になるなあ。
<ベネッセ:1997年1月刊:1500円>
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1998年1月〜
1997年7月分〜
1996年版目次
1995年版
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