このページでは、広島大学総合科学部開設の授業「中南米社会文化研究演習」でおこなわれた 議論の一部を紹介しています。(第2回〜第5回)

第2回(2004.4.22)清水透 「『他者化・自然化』をめぐって」西川長夫・原毅彦編『ラテンアメリカからの問いかけ− ラス・カサス、植民地支配からグローバリゼーションまで』人文書院、2000
 本書は、立命館大学・国際言語文化研究所主催の連続講座「国民国家と多文化社会」の第8 シリーズをもとにして編まれた論文集である。編者のひとり西川氏は、フランスをおもなフィールドとし、 とくに「国民国家」にかんする研究で有名であるが、本書の序・「向こう岸からの問いかけ」で、ラテン アメリカがアジアやアフリカなどとの共通の問題を抱えつつ、それぞれの問題が独自のかたちを取っている と述べる。そして、「ラテンアメリカもまた世界同時性のなかに生きており、普遍性を備えた強烈な固有性に よって強い印象を与えている」と指摘している。
 清水氏の論考は、ラテンアメリカの「発見」以降の歴史にさかのぼり、ヨーロッパ世界が非ヨーロッパ世界を 「客観化・他者化・自然化・物象化」し、それが非ヨーロッパに対する差別、搾取、抹殺につながっていく プロセスをみる。むろん、こうした問題は、あらわれる現象としては地域や時代などによってそれぞれ異なるで あろうが、ラテンアメリカだけに固有のものではなく、日本も含めた世界のあらゆる地域に共通の問題であり、 また、現代社会のさまざまな問題とも密接にかかわっている世界同時的、普遍的な問題である。
 このゼミは、中南米社会文化研究演習という名前がついているが、「中南米」の社会や文化を学ぶということ は、わたちたちとは遠く離れた「向こう岸」を遠くからながめるのではなく、「向こう岸」から問いかけてくる 問題を、自分たち自身の身近な問題としてどのようにとらえ、そして、考えていくのかということであろう。
 今回のゼミでは、ヨーロッパ世界による非ヨーロッパ世界の他者化・自然化という問題提起によって、世界の いたるところでみられる地域間の問題から、隣の友人との人間関係という問題にいたるまで、さまざまなレベル の問題をめぐって議論できたことは有意義であった。次回もより一層の「白熱した」議論を期待する。なお、 この著作の「序」をはじめ、ほかの論考も是非一読するようお勧めする。


関連参考文献

清水透『コーラを聖なる水に変えた人々−メキシコ・インディオの証言』現代企画室、1984
清水透『エル・チチョンの怒り−メキシコにおける近代とアイデンティティ』東京大学出版会、1988
西川長夫『地球時代の民族=文化理論−脱「国民文化」のために』新曜社、1995
西川長夫『国民国家論の射程−あるいは<国民>という怪物について』柏書房、1998
西川長夫『フランスの解体?−もうひとつの国民国家論』人文書院、1999
西川長夫『国境の越え方(増補)−国民国家論序説』平凡社、2001
西川長夫『戦争の世紀を越えて−グローバル化時代の国家・歴史・民族』平凡社、2002
石原保徳『インディアスを発見−ラス・カサスを読む』田畑書店、1992
石原保徳『世界史への道(前・後編)−ヨーロッパ的世界史像再考』丸善、1999



第3回(2004.5.6)山本 純一『メキシコから世界が見える』集英社新書、2004 第2部 メキシコの<南> 豊かな大地と貧しい 人々
 本書は、筆者が留学や調査や旅行のために滞在したメキシコでのさまざまな体験をもとに書かれた。 第1部は「北」の国境の、第2部では「南」の国境の町をみずからの足で歩き、そして、目で見て体で感じた ことを生活の拠点である日本の問題=自分自身の問題と重ね合わせながら、メキシコから見えてくる問題を より普遍的な課題として考えようとする。そういう意味においては、前回のテキストとも問題意識を共有し ている。もっとも、清水氏も山本氏も学部は異なるが慶応大学の所属で、清水氏ら慶応のラテンアメリカ研究 者を中心に自主ゼミが組織され、山本氏もそこで報告をしているし、本書のなかにも清水氏の研究から 学んだと思われるところも見受けられた。いずれにしても、前回同様、メキシコあるいはラテンアメリカの 問題を身近な問題として考えようとする姿勢は共通であり、今回のゼミの報告者にもそのような姿勢がかいま 見られた。報告のなかでは、「他者化の歴史過程は現代の問題であり、人類全体にかかわる」という前回の 指摘と、E・サイードの「特定の人種なり民族がこうむった苦難を、人類全体にかかわるものとみなし、その 苦難を、他の苦難の経験とむすびつけること」(p.155)という本書の引用が関連づけられていた。
 今回は第2部第1章(<南>の「くに」から)を読んだ。報告では、まずチアパスの歴史について、 他者理解が虐殺につながるという「逆説」について説明があった。山本氏は、「インディオの悲劇はまさに 征服者に(部分的には)理解されたが愛されず、宣教師には愛されたが理解されなかったことに起因している」 (p.142)と述べる。これは、ツベタン・トドロフの研究によっているが、征服者とはメキシコを征服したコルテス、 宣教師とは「インディオ」を擁護したラス・カサスである。トドロフはラス・カサスについてはさらに言及 していたように記憶しているし、前回の参考文献あげた石原保徳氏であれば、ラス・カサスを違ったかたちで 評価しているので、これらも参考にしてほしい。
 また、サパティスタ民族解放軍の蜂起が投げかけた問題として、グローバリゼーションとは 何か、あるいは逆に反グローバリゼーションとは何かという論点が出され、グローバリゼーションの問題点や 利点について議論となった。問題点としては、グローバリゼーションによって先進国だけがますます 豊かになり、貧富の格差の拡大につながるのではないかという意見や、地域独自の「文化」・「伝統」が失われる のではないかという意見などが出された。一方、利点としてはインターネットなどによる連帯の強化・拡大が 指摘された。山本氏は、本書のあとがきで、「グローバリゼーションとは、単にグローバルなものがローカルな ものを駆逐する世界の一元化ではなく、国境を挟み、そして国境を越え、グローバルとローカルが緊張関係を はらみながらも結合もしくは激しく衝突する『グローカリゼーション』とでもいえるような現象なのではない だろうか」(p.228)と指摘する。「グローカル」の意味をめぐっても議論がされたが、グローバリゼーション によって文化や経済の一元化が進む一方で、それをローカルな文脈で読み替えたり(清水氏のいうコーラを 聖なる水にかえる)、あるいは、アンチ・グローバリゼーションとしてローカルな文化の見直しや擁護・称揚 (ハンバーガーより讃岐うどんだ!)をしようとする動きもあるのではないかという意見も出された。ちなみに、 近年の讃岐うどんブームは、ローカルな文化のグローバリゼーション(といっても、トルコの讃岐うどん屋は 失敗しているし、日本国内限定なのでグローバルとはいえないかもしれないが)ともいえるのではないか。
 今回のゼミでは第2部第1章だけで終わったが、メキシコ南部のチアパス州において、サパティスタ蜂起 以降、村を追い出され新たな共同体づくりに取り組む人々の様子を紹介している第2章はさらにおもしろい。 メキシコ市場では相手にされない有機栽培のコーヒーをいかに生産し、世界市場に売り出すか(コーヒー栽培 そのものがグローバリゼーションと密接に結びついている)、そのさいのフェア・トレードは今後、どのような 可能性があり、どのような展開を見せるのか、新たな共同体がどのように自治をおこないアイデンティティを 構築していくのか、そのさいの女性の役割、すなわち新たな ジェンダー関係はどのようになるのか、などなど興味深い問題が提起されている。このあたりまで議論が 進まなかったのが残念である。また別な機会に議論できればと思う。


関連参考文献

山本純一『インターネットを武器にした<ゲリラ> Los Zapatistas y El Internet−反グローバリズムと
  してのサパティスタ運動』慶應義塾大学出版会、2002
トドロフ、ツベタン(及川ほか訳)『他者の記号学ーアメリカ大陸の征服』法政大学出版会、1986
サイード、エドワード W.『知識人とは何か』平凡社、1995
サイード、エドワード W.(板垣雄三ほか監修)『オリエンタリズム』平凡社、1986
リアッツ、ジョージ(正岡寛司監訳)『マクドナルド化の世界−そのテーマは何か?』早稲田大学出版
  部、2001
ホブズボウム、エリックほか(前川啓治ほか訳)『創られた伝統』紀伊國屋書店、1992
ドルフマン、アリエルほか(山崎カヲル訳)『ドナルド・ダックを読む』晶文社、1984
小野耕世『ドナルド・ダックの世界像』中公新書、1983



第4回(2004.5.13) アンチオープ、ガブリエル(石塚道子訳)『ニグロ、ダンス、抵抗−17〜19世紀カリブ海地域奴隷制史』 人文書院、2001 第4部 奴隷とダンス 第2章 抵抗としてのダンス
 本書の著者が日本語版の読者へあてたメッセージは、「ダンスとは反逆することなのだ。」ではじまる。 この一言が今回ゼミで読んだ第4部第2章「抵抗としてのダンス」を端的にいいあらわしている。奴隷は、たんに 日常の苦しい生活を忘れるための一時の快楽や娯楽として踊っていたのではない。「ダンスをとおして奴隷たち は個人的に、また集団で隷属状況からの何らかの逃亡をとげようと試み」(p.240)たのである。ダンスだけでは なく、実際の逃亡、叛乱、毒殺、自殺、堕胎、嘘、密告、からかい、歌、民話、畑、追従、へつらいなどなど、 さまざまなかたちで隷属状況からの逃亡を目指す。そして、「逃亡とは、なによりもまず隷属を拒否し、自由に 向かう奴隷の不屈の精神状態」(p.209)なのだ。自殺や堕胎、追従までもが、自由を渇望する奴隷たちの抵抗 であるとするアンチオープの指摘にわれわれは圧倒される。
 ゼミ報告で、「『ダンスにおいて奴隷たちはニグロであることを拒否する』(p.237)とは、どういう ことか?」という論点が出された。前々回のゼミで読んだ清水氏の論考にある、「ヨーロッパ世界による 非ヨーロッパ世界の自然化、物象化」という議論とつながるのだが、奴隷とされたアフリカ人は、みずからの 文化を剥奪され、白人の蓄財のために「機能化され、具象化され、動物化されていた」(p.83)。 すなわち、アフリカ人は、カリブ海地域やアメリカ大陸に強制的に送り込まれ、「人間」ではなく「ニグロ」 という自由を奪われた「物」=「奴隷」となったのである。ダンスは、それをとことん拒絶する手段であり、 奴隷制にたいする抵抗運動のひとつの形態なのだ。「抵抗とは、主人が望んでいるように自らを動物化、家財化 しないこと、ニグロとしないこと」であり、このことが「奴隷の日常生活の思想」(p.240)なのである。 奴隷の日常生活のなかにおいて、ダンスは、奴隷生活におけるガス抜き(奴隷主はそれをねらっているが) なんかではなく、「集合の場」であり、またメッセージの交換であり、そこには「政治的価値」が付与される ことになる(pp.237-238)。奴隷たちによるダンスは、「ニグロ」であることの拒否=奴隷制の拒否、という すぐれて「政治的価値」をもつ運動なのである。
 著者は本書の序論で、「問題はニグロなのだ」と一文を投げかけて、われわれにこのことを問う。訳者の 石塚道子氏(カリブ海地域研究)は、この一文から、「著者にとってニグロという言葉は、奴隷や黒人の 蔑称ではなく、近代の時空で、『人種化』、『民族化』、『国民化あるいは非国民化』することによって ある限定を引き受けることになったすべての人間を指す言葉である」と受ける。日本における被差別民族や 被差別民の例を出すまでもなく、「ニグロ」の問題は現代のわれわれにとっても遠いものではないはずである。 石塚氏はさらに、「著者の日本版読者へのメッセージはけっして『遠いカリブ海地域の被植民者の声』では なく、『近代においてわれわれは何を共有してきたか』という問いかけである」と指摘する。ゼミの最後では、 「自由」とはいったい何か?というとてつもなく大きな問いに踏み込んでしまったが、「自由」を奪われた 人々が歴史的に存在し、そして今でも存在するということ(もちろんわれわれは本当に自由か?ということ も含め)を頭・心のどこかにおきつつ、この答えの見つからないかもしれない問いに向かい合う ことが大切なのではないか。

追記 本書では、カリブ海地域(それ以外の地域も同様だが)の歴史を、 「進んだ本国」と「遅れた植民地」、「抑圧する側」と「抵抗・解放する側」という二項対立的、静態的 図式ではなく、その時代と空間を共有したすべての人々による営みの相互作用としてとらえるという視点、 奴隷たちによる生きられた時間=日常生活から歴史を問いなおすという視点など、大変興味深い論点が 多く出されているが、今回は残念ながらそのような議論にはいたらなかった。

今回は時間の都合で参考文献を割愛します。


第5回(2004.5.20) 幡谷則子「労働移動と都市社会−コロンビアの都市下層居住区の例」国本伊代ほか『ラテンアメリカ  都市と社会』新評論、1991
  「貧困」とは何か?今回もまた前回の奴隷制に続き、ラテンアメリカ社会を考える際の重要なテーマであった。 現在の日本に「貧困」はあるのか?もちろん、日本にも「貧困」はあるし、近年では「1憶総中流」時代はとう に終わり「階層格差」がますます開きつつあるという議論が高まっている。しかし、ラテンアメリカやアジア、 アフリカなどの「貧困」とは比べようもない。圧倒的な「貧困」をまえにして、わたしたちは何をどう考えれば よいのか?わたしがはじめてメキシコの国境を越えたのは、アメリカ合州国から橋を歩いて渡ったときであるが、 橋の真ん中で、子どもを抱いた母親に手を差し出された(もちろん金を要求している)ときのあのなんとも いえない衝撃はいまだに忘れられない。大学4年のときであった。あのとき、どうすればよかったのか? そして今、どうすればよいのか。答えはいまだにみつからない。
 最近、モンゴルの首都ウランバートルで、マンホールに住む人々を取り上げたテレビ番組をみた。 こうした番組はときとして、「物質的には恵まれつつも精神的には貧しい日本人」に、何かを問いかけている 「貧しくともたくましく生きる人々の姿」として描かれることがある。しかしそうした見方は、本当の「貧困」 を知らないものの傲慢な自己満足でしかない。この番組も一部だけを見ていればそう思えるかもしれない。しかし、 マンホール生活を長年続けるある女の子が、「わたしはけものじゃない。人間だ。」といい、また、母親にす がって「わたしは人間でしょ。お母さんから生まれたんでしょ。」といって泣きじゃくっている姿をわたしたち はどう考えたらよいのか。前回のゼミで扱った文献に、奴隷は「飢えをしのぐ」こと以上に「自由」を渇望して いたというような指摘があったが、「貧困」の問題は、単に「飢え」というものだけではない。「空腹」を満た すことだけで「貧困」が解決されるのではない。「貧困」とは、人間としての尊厳に関わる問題なのだ。


関連参考文献

「貧困問題」に関する文献は膨大にあるので、ここではメキシコに関する文献のごく一部をあげておく。

ルイス、オスカー『貧困の文化−メキシコの"5つの家族"』ちくま学芸文庫、2003
中岡哲朗『メキシコと日本の間で−周辺の旅から』岩波書店、1986
工藤律子『仲間と誇りと夢と−メキシコの貧困層に学ぶ』JULA出版局2002
工藤律子『ストリートチルドレン−メキシコの路上に生きる』岩波ジュニア文庫、2003




第6回〜