このページでは、広島大学総合科学部開設の授業「中南米社会文化研究演習」でおこなわれた 議論の一部を紹介しています。(第6回〜)

第6回(2004.5.27) 黒田悦子『先住民ミヘの静かな変容−メキシコで考える』(第5章 女も変わる)朝日選書、1996
 今回のテキストは、メキシコのオアハカ州ミヘという先住民社会でのフィールド・ワークにもとづく エッセイである。文化人類学者の黒田氏が、1970年代にこの地域を調査したときと、その後15年ほどたって 訪れたときとの変化を記録している。第5章では、そのなかでも女性の意識、あるいは社会的地位の変化に 注目している。メキシコ先住民社会のあり方(宗教・行政システムや習慣など)の知識や関心がないと、この 大きな変化の意味がわかりにくかったかもしれない。この章では、メキシコの先住民社会の大きな変化、あるい は現在の状況など、興味深い話が具体的に語られているのだが、ゼミではこの辺の議論は盛り上がらなかった。 しかし、論点として提起された「ジェンダー・フリー」をどう思うかという問いから、思わぬ問題発言がとび だし議論は緊迫した。それは、「やっぱり女より男のほうがえらいんじゃないの」という男子学生の発言、と いうよりもつぶやきである。また、女性の社会進出に否定的で、「女性は家事を」、「女はかわいらしく」 というようなアナクロニズムもはなはだしい意見まで出され、これに同調する男子学生もあらわれた。
 いまどきこのようなことを考える学生がいるのかとも思ったのだが、実はこのような学生は少なくないようだ。 女子学生でも、このような呪縛から逃れられず、あるいは、自分から男性につきしたがっていく女子学生も 少なくないという話も聞く。
 それにしても、「男のほうがえらい」という理由が幼稚である。「男のほうが体力がある」、これは 本当か?「狩猟採集の時代から男は狩りに、女は採集や家事をしていた」と学生はいうが、われわれは 石器時代に生きているのではない。現在、「知識産業社会」などといわれ、知識集約型の産業構造へ社会が変化 していくなか、「体力」に頼って生きる人々がいったいどれほどいるのか?「腕力」のあるものが支配する 世界がいかに悲惨なものか、今の世界情勢をみれば明らかではないのか?さらに、「力」による弱肉強食の 競争社会に疲れ果て、そこから逃げだそうとしているのは、そういう世界をつくってきた「男」なのでは ないか?「男性中心社会」の変革はけっして「女性」のためだけはない。「男性」の解放でもあるのだ。
 「やっぱり、男と女は違う。女は子どもを産むし、そのあいだは子育てに専念すべきだ」という意見も出た。 確かに男は子どもを産まない。しかし、その違いがなぜ能力や社会的地位の違いとなるのか?子どもを産むとき、 一時仕事から離れなければならないというが、子どもを産み育てるのは両親の責任であり、そして、それは社会の 責任でもあるのだ。子どもを産み育てることで女性が社会的に「遅れ」てしまうというのであれば、 それは、そうさせている男性やあるいは社会の問題だというとらえかたがなぜできないのか?
 レベルの低い議論だと思いつつ、そうやって切り捨ててはいけない問題なのだと思い直す。幸いなことに、 来週も「女性」にかんする文献を読むことになっているので、今回のゼミでは十分に議論できなかった点を、 次回、じっくりとやってみたい。それにしても、「男のコンプレックス」あらわれのようにみえるアナクロ ニズムな意見に、きちんとした反論がほとんど聞こえてこなかったのはどういうことか?低レベルの議論に 嫌気がさしてだまっていたのか、あるいは「反論」することができなかったのか、次回は侃々諤々の議論を 期待したい。


第7回(2004.6.3) 国本伊代「メキシコの新しい社会と女性−社会の民主化と平等をめざして」国本編『ラテンアメリカ− 新しい社会と女性』(第10章)新評論朝日選書、2000
 今回は、前回に続いてメキシコにおける女性の地位の変化に関する文献を読んだ。メキシコでは、とくに1970年代 以降、女性をめぐる環境が変化し、男女平等をめざした法整備が進められた。また、出生率の低下や核家族化、 女性の高学歴化や政治参加の拡大など社会構造も変化し、女性の社会進出がますます進んでいる。しかしながら、 男女の格差が完全に解消されたわけではなく、職種や賃金の格差、女性の社会的地位の相対的な低さなどは 根強く残る。また、都市部と農村部などの地域的な格差や階層による格差が存在し、女性のあいだの 格差は拡大している。
 ゼミでは、「女性が社会進出することが本当の女性解放になるのか」という論点が出され、「真の女性解放とは 何か」という根元的な問いへとつながった。「女性」の社会進出を阻む広い意味でのさまざまな「制度」を 変革することが問題解決になるのか、あるいは、女性を差別する「意識の変革」が先なのかという議論がなされた。 「意識」が変わらなければ「制度」も変わらないのか、「制度」を変えれば「意識」も変わるのか、「にわとり が先か卵が先か」という議論ではあるが、やはり根本は「意識」(男女とも)の変革が大切ではないかと思う。 「男が仕事で女が家庭」という典型的性役割分業を当たり前と考える学生に対しては、「君がもし男だからという 理由だけで、好きでもない家事を一生やらされるとしたらどう思う?」という質問を投げかけたが、それには 明確な回答はなかった。自分のまわりがうまくいっているからそれでよい、あるいは、何が問題なのかが わからないという非常に視野の狭い世界観をどううち破るのか?
 これまでのゼミでは、人種、貧困など、自分の責任に帰すことのできない理由で差別されている人間がいる ことをどう考え、差別の問題をどう克服していくのかという点が大きなテーマだったと思うが、そうした問題 をつきつめて考えようとする姿勢がまず重要なのではないか。しかし、それ以前に、差別に苦しむ人がいると いうことに気がつかない想像力のなさ、それが根本的な問題なのかもしれない。大学教育がいかにあるべきか、 考えさせられるゼミであった。

参考文献

松久玲子編『メキシコの女たちの声−メキシコ・フェミニズム運動資料集』行路社、2002


第8回(2004.6.10) バスコンセーロス、ホセ(小林一宏/三橋利光訳)「地球人」(『現代ラテンアメリカ思想の先駆者たち』所収) 刀水書房、2002
 メキシコの初代教育大臣ホセ・バスコンセーロス(1882-1959)は、今回のゼミで扱った短いエッセイ 『地球人』(1925)を著したラテンアメリカを代表する思想家である。日本において、ラテンアメリカの 思想はほとんど紹介されることはなく(識字教育で知られるブラジル人パウロ・フレイレは有名だが)、 このエッセイが収められている『現代ラテンアメリカ思想の先駆者たち』は、日本語で読めるほぼ唯一の ラテンアメリカ思想といえるだろう。
 さて、この「地球人」という訳であるが、原題は、La raza cosmica(アクセント記号省略)である。 「宇宙的人種」あるいは「普遍人種」などと訳されることもあるが、すべての人種の融合からなる 「調和のとれた人類最初で最後の優等人種」という意味が込められている。その思想は、地球上の 4つ人種が融合し、すでに混血の進んでいるアメリカ大陸の、しかも熱帯地域(アマゾン川流域)において、 第5の究極的な人種が誕生するというものである。この誇大妄想ともいえる思想が、20世紀はじめのメキシコ という地においてなぜ生まれてきたのか、メキシコ、あるいはラテンアメリカを取り巻く内外の時代的な背景や 諸問題との関連から考えることが重要であろう。ゼミでは、メキシコにとって混血の意味すること、バスコン セーロスが混血論に期待することとは何だったかという問いが出された。この時代、ラテンアメリカの 思想家にとって、欧米とラテンアメリカの関係をどのように考えるか、自分たちは、ヨーロッパの一員 なのか、それともアメリカの一員なのか、アメリカ合州国とはどのような関係なのか、などが大きな 問題であっただろう。バスコンセーロスの混血論は、そうした問いへのひとつの解答であった。ゼミでは、 さらに、西洋的な価値観から抜け出すこととはどういうことかという論点も出され、同時代の日本の 状況(アジアとの関係、欧米列強との関係など)とも重ね合わせながら、「西洋的価値」とは何だったのか という議論となった。
 それにしても、卒業論文、修士論文とバスコンセーロスをテーマとしたわたしにとって、久しぶりに 原点に戻ったような新鮮な気持ちで議論できた。学生にとっては、あまりぴんとこないテーマだったかも しれないが。

参考文献

日本語で読める数少ないラテンアメリカの思想集『現代ラテンアメリカ思想の先駆者たち』


第9回(2004.6.17) 斎藤晃『魂の征服』平凡社、1993(第12章「奇蹟の政治学」
 「発見・征服」以後、植民地時代を通じてキリスト教が普及した南米。しかし、ラテンアメリカにおいて 先住民に受容されたキリスト教は、ヨーロッパで信仰されているキリスト教とは異なる。斎藤氏は、アンデス的 キリスト教とよんで、アンデス地域において独自の展開を遂げる民間信仰としてのキリスト教=フォーク・ カトリシズムに注目する。植民地時代、インディオを統制するための制度であるレドゥクシオンによって、 植民地国家と教会がインディオを統制し、宗教に関しては教区組織に組み込まれて、インディオが主体性を 働かせる余地がほとんどなかったとされる。しかし、インディオは、教会の統制がおよばない山岳地帯など、 階層的教区組織の外部に、信仰の拠点を求めることもできた。その発端となるのが、奇蹟であり、奇蹟の 起こった聖地への巡礼であった。これは、スペイン人聖職者ではなく、インディオ信者によってはじめられた 信仰であり、聖職者を介在しない神と信者(インディオ)の直接の出会いにはじまるのである。すなわち、 奇蹟と巡礼の信仰は、インディオに伝統的生活空間を再構築することを可能とし、アンデス独特のカトリシズム を発達させた。さらに、インディオの聖地がいつしか教会・植民者のものとされ、植民地組織に組み込 まれると、インディオは、新たな聖地を創り出すことによって、支配文化の教義との差異を絶えず再生産する というダイナミズムを生み出すのである。
 現代のインディオは、キリスト教からは疎外され、アンデスの伝統には戻りたくても戻れないという 二重の自己疎外に陥り、植民地時代の「魂の征服」が、独立後も色濃く残り、インディオの人々をアイデン ティティ・クライシスに陥れていると指摘する。今回のゼミの報告者は、この点をポストコロニアリズム 的課題とし、この状況から抜け出すことは可能か、あるいは、どのように抜け出せるのかという論点を 提示した。外部から押しつけられた「文化」の受容という問題をどのように考えるのか。アメリカ大陸では スペイン語やキリスト教が、ときとして暴力的にスペイン人によって押しつけられた。 しかし、先住民たちは生き残りをかけて、押しつけられた「文化」を自分たちの「文化」と重ね合わせたり、 すりかえたり、よみかえたりする。あるいは「文化」の受容を偽装しながら、実は自分たちの「文化」を うまく維持したりする。そして、いつしか読み替えられたよそ者の「文化」が自分たちの「文化」となり、 それが「文化」を押しつけてきた側に対する抵抗の契機となることもあっただろう。われわれは、 「文化」の押しつけという歴史をどのような視点から読み解くのか、そうした歴史の視点もまた問われな ければならないだろう。

参考文献

ポサス、リカルド/清水透『コーラを聖なる水に変えた人々−メキシコ・インディオの証言』現代企画室、 1984


第10回(2004.6.24) 中村誠一『マヤ文明はなぜ滅んだか?−よみがえる古代都市興亡の歴史』ニュートンプレス、1999(第4章 「古典期王朝の興亡」)
 アメリカ大陸の古代文明は、その多くが文字をもたなかったこともあり多くのことが謎に包まれている。 それゆえ、古代文明へのロマンをかき立てるミステリアスな存在である。しかし、マヤ文明の発掘調査に 携わる中村氏は、マヤ文明が、世界的にももっとも活発に学術的調査研究がおこなわれていると指摘する。 また、研究者の地道な努力によってマヤの碑文の解読も進められ、ある程度のことはわかるようになって きた。とはいえ、解明されていないことも多く、さまざまな問題がいくつかの仮説のまま、今後の課題と なっているようだ。
 それにしても、アメリカ大陸の歴史は、1492年のコロンブス到達以前を「古代」とし、考古学の対象 となる。ヨーロッパはアジアと比べてアンバランスな感じもするが、発掘による出土品や建築物、碑文など を資料とせざるを得ない状況では仕方のないことなのだろうか?

参考文献

八杉佳穂『チョコレートの文化史』世界思想社、2004



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