このページでは、広島大学総合科学部開設の授業「中南米社会文化研究演習」でおこなわれた 議論の一部を紹介しています。(第11回〜)

第11回(2004.7.1) 鈴木茂「『人種デモクラシー』とブラジル社会」中嶋嶺雄・清水透編『転換期としての現代社会−地域から 何が見えるか』国際書院、1993(第3部第4章)
 「ブラジルには人種差別がない」、「ブラジルは人種デモクラシーの国」、「ブラジルの 差別は、人種ではなく社会的・階級的なものによる」などといわれるが、ブラジルは本当に人種差別の ない国なのか。筆者の鈴木氏は、「人種差別のない国ブラジル」という見方に疑問を投げかける。そして、 職業や結婚、人びとの意識などにおいて、明らかに「差別」が存在してることを指摘する。すなわち、 「ブラジルの貧困には色がついている」というのである。ブラジルについて、実際には差別がありながら、 なぜ、差別がないかのごとくにいわれるのか、この問題をブラジルにおける「混血」の社会的な意味を 考えつつ問い直してみる。
 植民地時代以降、アメリカ合州国と違いラテンアメリカでは、「混血」が白人 や黒人、先住民とは異なる第3のカテゴリーとして認識されてきた。そして、「混血」=「堕落」とされて きた19世紀のヨーロッパの人種思想にたいして、19世紀後半からは、「混血」にさまざまな下部区分や 例外をもうけて混血を評価し、現状を肯定しようとしてきた。さらに、1920年代になると、「ヨーロッパ のはしくれ」としてのブラジルではなく「熱帯の新文明」を標榜するような積極的な混血肯定論が 登場してくる。その代表的思想家がジルベルト・フレイレである。以前にこのゼミでとりあげたメキシコの ホセ・バスコンセロスと同じく、「混血」こそが「社会的民主化」をもたらすとするこのブラジルの思想家も、 「ラテンアメリカ独自の原理」を模索する当時のラテンアメリカ支配層に大きな影響を与えた。
 しかし、一方で非ヨーロッパ的要素に期待されるのは、ヨーロッパへの融合・統合であり、有色人種が「混血」 によってより「白人」に近づくことであった。鈴木氏は、こうした「混血」の内実を問わずして、混血の進行に よってすべてが解決済みとする考えは、少数者の権利を封じ込め「寛容」にみえる支配文化への統合や同化を 一方的に迫る危険をはらんでいると指摘する。ブラジルの「人種デモクラシー」という考えの根底に流れて いるもの、それを「混血」が称揚されはじめた時代へさかのぼり当時の文脈において問い直さずして 「ブラジルは人種差別のない国」とすることは、無意味であるどころか逆に危険でさえあるといえるだろう。
 今回は、参加者全員に疑問点や論点などを出してもらったが、おおざっぱにいえば、わたしたちが 無意識にもっているであろう偏見や差別をいかに克服することができるか、また、国がアイデンティティを もつということはどういうことかという2つの点にまとめられるであろう。差別については、無意識であるが ゆえにその克服は困難であろうし、あまりにも大きなテーマであるため議論はあまり深まらなかったが、 これまでのゼミとも関連させて、「人種」・「民族」・「階級」・「ジェンダー」などなど、さまざま軸を めぐって浮かび上がってくる差別や偏見の問題を、参加者それぞれが考えてほしい。
後者の論点についても大変興味深いのだが、今回は残念ながら時間切れとなったしまった。


第12回(2004.7.8) ビデオ「友だちになろ! in Mexico」(ストリートチルドレンを考える会製作)
 親を亡くした子どもたち、親から虐待を受け逃げ出してきた子どもたち、貧困ゆえに放り出された 子どもたち、メキシコに限らず世界のあらゆるところに、親やおとなの愛情を受けることなく、まわりの 人びとからさげすまれた目で見られる子どもたちが路上に暮らしている。今回のゼミで見たビデオは、 そのような路上で暮らすメキシコの子どもたちや、その子どもたちを保護する施設やNGO団体を日本の中学生が 訪問したときの様子を撮影したものである。
 空き缶を集めたり、路上や地下鉄で「芸」をしたり、物乞いをしたりしながら、小銭をかせぐ子どもたち。 なかでも、10才にも満たないある子どものことばはわたしたちの胸をつく。「携帯や腕時計をもっている連中は 僕たちを見下してお金をくれない。くれたとしても嫌々くれるだけだ。」わたしがはじめてメキシコに渡った ときから悩み続けてきた問題、それは、物乞いをする子どもにお金を与えるべきかどうか。お金を与えても 「いいことをした」という気分にならないどころか、どこか「金持ちの傲慢さ」を感じて後ろめたい気分に なるだけだ。ただ、お金をもらった子どもにとって、一時、空腹をしのぐことができるかどうかが 重要なのであって、「金持ちの自己満足的な悩み」などはどうでもよいことなのではないか。とはいっても、 以前にも書いたように、空腹を満たすだけが解決ではない。「人間の尊厳」や「人に愛され、必要とされる 人間となる」ことが、それ以上に大切なのである。お金を与えるべきかどうか、考えれば考えるほど、ますます その答えはわからなくなる。
 お金を与えたところで、それが根本的な問題解決にはつながらないということはいうまでもない。根本には、 「南北問題」という歴史的かつ世界的な規模の問題が横たわっているのだ。わたしたちに突きつけられた課題 はあまりにも重く、解決の道のりはあまりにも遠い。しかし、教会関係者やNGO団体などのボランティア活動 には敬服する。道のりは遠くとも、こうした地道な努力こそが解決の近道なのだろうか。ビデオを見終わった あと、わたしも含めてゼミ生はしばらくいうべきことばが見つからなかった。あまりにも日本とかけ離れた 現実に、ただただことばを失うのであるが、しかし、だからといって「日本に生まれてよかった」と人ごとの ように考えることもできない。しかも、近年の少年による犯罪を見ても、日本においてはメキシコとはまた違っ た別のさまざまな問題が起こっているということも事実である。世界や日本で起こっている諸問題をわたしたち はどのようにとらえ考えて行くべきか。いずれにしても、最低限できることは、こうした答えのない問題を 考える姿勢を常に保ち続けることであろう。

参考文献

工藤律子『居場所をなくした子どもたち−メキシコシティのストリートチルドレン』JULA出版局、1998


第13回(2004.7.15) 辻内鏡人「多文化パラダイムの展望」油井大三郎・遠藤泰生編『多文化主義のアメリカ−揺らぐアイデンティティ』 東京大学出版会、1999
 今回の文献は、アメリカ合州国において「多文化主義」という思潮がどのような歴史的・社会的・ 政治的文脈のなかから生まれてきたのかを検討したものである。辻内氏は、「多文化主義」といっても、 人種や民族が多様であるという一般的な状態を言うのではなく、そこにより根源的な問いが潜むと述べる。 すなわち、アメリカ合州国における「多文化主義」は、社会的差別や抑圧、人種主義に対抗するマイノリティ 集団による異議申し立てであるだけではなく、かれらの自己意識の変革を含んだ社会運動であり、換言すれば、 近代的知、西洋中心主義に対する懐疑であると同時に自己の承認を求める運動ととらえられている。
 「民族」パラダイム、「国民」パラダイムといった視点から、さまざまな論者に触れつつ20世紀のアメリカ 合州国の思潮を整理したうえで、最終的に「人種」による差異化(「カラー・ライン」)の存在を指摘し、 「国民」、「階級」、「民族」などいった概念・言説と同様、「人種」も社会的な現実を構成すると結論 づける。そして、「人種」を回避すること自体が危険であることもあると述べる。最後に、黒人の自己意識や、 西洋近代を脱構築する立場、ポストモダンの立場を紹介し、「人種」をめぐる問題領域の深さやそのアプローチの 多様性を指摘しつつ、「人種」パラダイムの可能性を模索する。
 これまでゼミで読んできた文献とやや異なり、ポリティカル・コレクトネス、アイデンティティ・ポリティクス、 モダニズムなどなど専門用語が多用され、また、多くの難解な文章が引用され、文章の構成も複雑であった ため、このような議論に慣れていないものにとっては難解な文献であった。しかし、さまざまな差別の問題を 考える際、具体的な事例を取り上げて「差別はいけない」とお題目のように唱えるだけでは不十分であろう。 このような理論的なことを学ぶことによって、「差別」の問題がはらむ複雑な構造や、その奥底に潜む根本的な 問題性を明らかすることが重要であろう。



第14回、第15回の授業は、レポートのための文献収集・テーマの設定、そしてレポート作成の 時間とする。



第2回〜第5回       第6回〜第10回