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カタリエヌモノ

** 2011.11の カタリエヌモノ **

 ++ 11.11.01 (tue) ++ 



先月,発売とともにiPhone 4Sを使い始めました。

これまでのiPod touch 4thに比べ,カメラの性能が格段に良くなりました。
なので,月が変わったのを機に,このページの写真のサイズを変え,レイアウトも変えました。(*1)

元々このページはPalmのハイレゾ表示(320×320ピクセル)を想定してレイアウトを考えていました。
また,私自身がPHS等のナローバンド環境で繋ぐことが多かったため,ブロードバンド環境ではない人のことを考慮し,できるだけページのサイズを軽く仕上げるよう心がけてきました。

ただ,昨今の回線の状況等を考えると,少しだけ贅沢をしても良いかなと思うようになりました。
なので,少しだけ写真のサイズを大きくさせていただくことにしました。

ということで,これまでよりも少しだけ表示が重くなると思いますが,ご容赦ください。

−−−−−−−−
(*1)その後元に戻しました。詳しくは「11.11.03」をご参照ください。

 ++ 11.11.02 (wed) ++ 



教育はサービスなのか。

一般的に,サービス業の目標は顧客満足を最大化することです。
そういった点で教育がサービス業化すると,顧客(児童,生徒,学生やその保護者等)のニーズに敏感になります。

もちろん,これによって教育の質の改善につながることも多いと思います。
なぜなら,教育を提供する側が顧客のニーズについて無頓着な場合が多いからです。

ただ一方で,顧客は自己の微視的な欲求の充足ばかりを求めることが多い気がします。
少なくとも,大多数の顧客は提供されているサービスの本質的な意味まで考えることはないと思います。

そういった点では,教育はサービス業化すべきではないと言えます。

ただ,これには教育を行う側にも問題が潜んでいます。
つまり,教育を行う側が教育の本質を理解していない可能性があるということです。
そのため,何を提供すべきかについて信念が無く,「顧客ニーズに沿ったサービス」しか提供できないことになります。

一流のサービス提供者は,顧客が求めている以上のサービスを提供します。
それは,サービス提供者がサービスの本質を理解しているからです。
それにより,顧客のニーズの一歩先を行くサービスを提供することができるのです。

そういった点では,教育こそサービス業化すべきだと言えます。

つまり,教育の本質を見抜き,児童,生徒,学生とその保護者が想定した以上の喜びを教育により与えるべきだということです。

 ++ 11.11.03 (thu) ++ 



一昨日,本ページの写真のサイズを大きくすると書きました。
しかし,どうもバランスが好みではないのでやめることにしました。

実はiPhone等での閲覧を考慮しての変更でもありました。
これに関しては,別の方法で対応できました。
そのため,この目的でも写真を大きくする必要がなくなりました。

ということで,元通りです。
お騒がせいたしました。

 ++ 11.11.04 (fri) ++ 



批判的思考の教育のことを考えていると,  
 幸せな愚者のままでいさせてあげた方が良いのか,
 不幸な賢者になることを進めるべきなのか,  
よく迷う。

けど,自分をシニカルにとらえられるのは決して不幸ではないと思う。

 ++ 11.11.07 (mon) ++ 



投稿していた論文(*1)が不採録になりました。

この学会は修正再審査等の評価がないので,採録か不採録かの判断がされます。
そして,私はこの学会は共著も含め3連敗です。

個人的に完全に不採録になったことはこれまで一度しかありません。(*2)
そう考えると,どうも私はこの学会とは相性が合わないようです。

ただ,評価のコメントを見ると,要は1カ所記述不足があっただけの問題のようです。

なので,少し加筆して再投稿しようと思います。

−−−−−−−−
(*1)「11.05.24」参照。
(*2)「10.11.08」参照。

 ++ 11.11.08 (tue) ++ 



ウソは許すものじゃない。
気づかないフリをするものだ。

 ++ 11.11.09 (wed) ++ 



大学教員という仕事をしていることは私にとってもはや日常ですが,
大学教員という仕事は世間一般から見れば特殊な仕事かもしれないと思いつつ,
それでは特殊ではない仕事なんてものが世の中にあるのかとも思う。

 ++ 11.11.10 (thu) ++ 



写真を撮るという行為は,カオスな世界に美しいものを増やす行為だと思っています。(*1)

将来,私がいなくなった世界で,私がいた世界の方が美しかったと言われるために写真を撮っています。
#私がいなくなったことでカオスの生成が抑えられたと言われないようにしなければいけません。

−−−−−−−−
(*1)もちろん,撮った写真が美しければの話ですが。あと,言葉を綴る行為も同じです。

 ++ 11.11.11 (fri) ++ 



以前から,
大学生を被験者(実験参加者)として言語や思考の研究をするなら,
「大学教育学をやっている」と名乗ると食っていける
ということは分かっているが,
「大学教育学をやっている」と名乗るとFD(*1)等に関わることになり,
他の教員からが煙たがられるだろうな
とも思っている。

−−−−−−−−
(*1)Faculty Developmentの略で,要は大学の教育改善の取り組みのことです。

 ++ 11.11.14 (mon) ++ 



iPad2を持っているのに,
そんなにいくつもタブレット端末を買ってはならないと思っていましたが,
本や論文を複数並べて見比べながら読むことはざらな生活なのだから,
本や論文を電子化して現状を考えると,
タブレット端末も複数あるべきだ,
と思うようになりました。
#危険思想

 ++ 11.11.15 (tue) ++ 



本サイト内の業績一覧のページを整理しました。

学位論文の頁はプロフィールと統合しました。
学会発表は1つの頁にまとめました。
その他,「報告書」「ワークショップ」の頁をそれぞれ「報告書等」「講演等」と改めました。

 ++ 11.11.16 (wed) ++ 



どうして落とすための査読をするのだろう。
どうして通すための査読ができないのだろう。

研究者なら粗探しなんて誰でもできます。
良い研究,良い論文にするために何が足りないのかという視点で見れてナンボでは?

もちろん,査読にも色々な状況やフェーズがあります。
採否の判断が必要な場面では厳格に採録か不採録かを決めればいいと思います。
ただ,最初から採録に値しないという報告書を書くことを目的に審査するのはおかしいと思います。

「思いやりの原理(principle of charity)」って,大学院で教えないんですかね?

そもそも「査読」というものに対する認識が,私と他の研究者とは異なっているのでしょうか。
#指導的な査読をするというのは日本独特の文化?

−−−−−−−−
(追記)ふと,自分の評価に自信がある場合もはっきりと採否を判断してくるのかな,と思いました。

 ++ 11.11.17 (thu) ++ 



人生は短いというのは
 寿命が短いという意味ではなく
 自分や周囲は常に変化し続け,同じような状況は長くは続かない
という意味なのだろう。

 ++ 11.11.18 (fri) ++ 



ここ数年,「勤め人」な方々は首から名札を提げるようになってきました。
身元の証明等の目的があるのでしょう。

この手のものを大学人は嫌う傾向があるように思います。
首輪をつけられた飼い犬のような感じがするのでしょうか。

実際,私も好きではありません。

ただ,名札をつけている人はまっとうな社会人に見えます。
そういう意味でうらやましかったりもします。

 ++ 11.11.21 (mon) ++ 



私は大学生は少し怠惰でも良いと思っています。
卒業するために最低限のことをしていれば,後は自由でよいと思っています。

学生それぞれが生き方を選べばよいと思います。
何をすべきかについては,羽を伸ばすことも含め,自分で選択すればよいということです。

ただ,教員を目指す学生についてはその限りではありません。

教育とは人を育てることです。
国は人から成り立ちます。
ということは,教育は国を作る行為だと言えます。
国を作るという行為はとても重要なことではないでしょうか。
その大きな役割割りを果たす教員が怠惰では困ると思います。

職場が教育大学でなければ,私ももう少しおおらかに働けるのにと思います。

 ++ 11.11.22 (tue) ++ 



学生の大半が教師になり,
その大半が公立学校の教師だとすると,
教育学部は大量の公務員を育てている学部だと言える。

 ++ 11.11.24 (thu) ++ 



誰も届かない場所に行くことで,誰にも相手にされなかったことをごまかす。

 ++ 11.11.25 (fri) ++ 



研究者の世界は,
能力的に突き抜けてしまっている人が多く,
そういう人々に囲まれていると,
自分もそうなれるんじゃないかと錯覚するから,
恐ろしい。

 ++ 11.11.28 (mon) ++ 



レビュー論文(展望論文)の要件とはなんでしょうか。

例えば,「日本心理学会の執筆・投稿の手引き」には
「“心理学研究”の展望は,心理学の最近の重要テーマについて,内外の研究状況,その主要成果,問題点等を解説することを目的とする。」
とあります。

したがって,まず先行研究がまとめられ,その意義や課題を指摘するものだと言えます。
ただ,それだけで「論文」といえるのでしょうか。
つまり,ただまとめただけで「論文」と言えるのかということです。

もちろん,先行研究の意義や課題を示すことがオリジナリティになるのかも知れません。
ただ,多くの場合,既にレビューの対象となった論文中に書かれていることを繰り返すだけになります。

私はレビュー論文がオリジナリティを示すには2つの方法があると思っています。
1つは,先行研究の整理の仕方について新たな切り口を与え,それを明示することです。
もう一つは,先行研究の知見から新たな理論や仮説を導くことです。

もしかしたらこの2つ以外にもあるかも知れません。
しかし,院生の頃,自分がレビュー論文を書いていて考えた答えはこの2つでした。

その後,あまり深くは考えていませんでした。

ただ,最近複数のレビュー論文を読んでいて,レビュー論文が備えるべき要件とは何か疑問に思うようになりました。
少なくとも,実験論文等ほど,何が必要なのかを意識して書かれているものは多くない気がします。

 ++ 11.11.29 (tue) ++ 



私は教員を目指す学生に,
「問題が解けるレベルと人に教えられるレベルは全然違う」
「『算数の問題なんて誰でも解けるんだから誰でも教えられる』などと思ってはいけない」
といったことをよく話します。

実際,私も講義をする上では,学生時代の理解のレベルでは追いつかないので,かなり勉強してからしゃべります。

そしてさらに最近思うのは,
「教えられるレベルと教科書を書けるレベルは全然違う」
ということです。

普段講義で話している内容なのですが,いざ教科書を書こうとして,自分の勉強不足を痛感させられています。

 ++ 11.11.30 (wed) ++ 



知を極めるほど孤独になる。

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