茶杓を削る

養老孟司が「日本回帰」というエッセーの中で、
その年は「学生の解剖が、どうもきたない。」と感じると書いている。
その理由が「自然に従っていないから」と思い至るが、それを説明して
いると、学生に解剖を教えることが弟子に「道」を説くことになって
しまうぞ、と悩む。
なんだか深遠な問題を含んでそうだけど、結局
「ああ、嫌だ。爺さんになった。」
とぼやいて終わっているところが、ほんわかしたこの人の人柄を表して
いるなとそのときはそう思っただけだった。
先日、茶杓削りの講習を受けていて、ふとこのエッセーを思い出した。
土を捏ねて器を作るのであれば、ちょっとは削ったり付け足したりできる。
しかし、竹はいっぺん削ってしまったら元には戻らない。
だから、削るのにけっこう勇気が必要だったりする。
それなのに、結構力を入れないと竹に刃が立たない。
おまけに、竹の繊維にそって小刀を動かさないと竹がささくれたり、割れたり、
それはそれはひどいことになる。
まさに、「自然に従って」小刀を動かし、茶杓を削り出す。
上手い人の手元を見ていると、竹の余分なところが自然に剥がれていってるん
じゃないかと思える。
削った後も、なんだか美しいし、まず手触りが違う。
茶杓を削る手順は教えてもらえるけど、茶杓の美学は修行を積んで
「ああ、嫌だ。婆さんになった。」
と思えるようになった頃に得とくできていればとてもうれしい。
なにごとも修行が大事なんだよなあ。
と思いつつ、自分で作った茶杓がなんだかとてもいとおしくて
1日に一回は手にとって眺める今日この頃。


最初のページに戻る