(アクサンが出ません。適宜補ってお読みください。)
『広島日仏協会報』No.162 (2003.12)
子孫見つかる
比治山フランス人墓地
原野 昇
1900年(明治33)の北清事変の際,約100人の負傷病フランス人兵士が広島に運ばれ,陸軍病院で治療を受けたが,そのうちの7人は治療の甲斐もなく広島で永眠した。彼ら7人の墓が比治山陸軍墓地南端の見晴らしのよい一角にあり,墓地奉賛会の人たちの手によって100年余にわたってきれいに保たれている。歴代の駐日フランス大使,在大阪・神戸フランス総領事をはじめ広島,江田島,呉に帰港するフランス艦船の艦長も必ず参拝し,広島における日仏友好の象徴となっている。
筆者は数年前から,墓石に刻まれている兵士の氏名,出身地,生年月日,所属部隊などを手がかりに,その子孫探しを行っているが,このほどそのうちの2人の兵士の子孫が,関係者の協力を得て見つかった。1人はFinistere県Crozon半島Lanveoc出身の操舵手Corentin POSTIC(1869年生まれ)の弟の孫にあたる人でIrene POSTIC夫人である。もう1人はPuy-de-Dome県Aydat出身の砲手Francois COHENDY(1870年生まれ)の子孫でDominique PRANCHERE夫人とその子供Charlotte COLOMB嬢である。
筆者は先頃渡仏の機会に両町を訪れ,子孫に会い,彼女たちの祖先の墓が広島にあり,100年余にわたってきれいに保たれていることを伝えた。子孫たちだけでなく,子孫探しに協力してくれた人たちみんな大感激で,両町ともに町長,町役場,町会議員,退役軍人の会など町をあげての大歓迎を受けた。町役場での歓迎レセプションに続く郷土料理とワインの夕食会や昼食会がわざわざ用意され,Aydat町では名誉町民のメダルまで授与された。
LanveocのIrene POSTIC夫人からは,広島日仏協会のみなさんへの謝辞とともに,ブルターニュ地方の案内書をことづかって帰って来た。
Aydat町では,同町にある第一次世界大戦(1914-18),第二次世界大戦(1939-45)における同町出身戦没兵士記念碑の修復を機に,北清事変で倒れ広島に眠るFrancois COHENDYを記念するプレートを設置することになり,そのプレートには,Aydat町,Le Souvenir Francais協会(以下の記事参照)の名前と並んで,広島日仏協会Societe Franco-japonaise de Hiroshimaの名前が彫り込まれることになっている。