科学史からみた天空のイメージ

−−宇宙の中の人間の位置−−

1 大地と天空のイメージ

 古来、人間は天空を見上げて、世界/宇宙の形状やその運行の不思議について、 そしてその世界/宇宙の中における人間の位置に思いをめぐらせてきた。その際、 人々の暮らしている世界のもつローカルな地理的・地形的条件が反映したのは、 当然のこととはいえ、興味深い。
 例えば中国では、自分たちが暮らしている世界/宇宙を次のようなイメージで 捉えたとされる。

(1)地平天平説(蓋天説)
 日本のような山国が多い地形では考えにくいが、大平原に立って遠望すれば、 大地はもちろん平らでそれを覆う空も平らだと見えるだろう。しかし、太陽や月、 星々の位置を定め、さらにはそれらの運動を説明するには、天は円の方が都合が よい。平らな大地に円い蓋(ドーム)がかぶせられているような世界であり、蓋 天説と呼ばれる。
(2)地平天球説(渾天説)
 大地はあくまで平らであるが、それを包む天は、ちょうど卵のように球形をし ている、という考えもあった。平たい大地が水に浮かび、全体が天球に包まれて おり、天球が回転する、というイメージである(渾は回転するという意味)。こ う考える方が、太陽や月の日周運動をうまく説明できるからであった。

 上記二説が幾何学的な構造を有する宇宙モデル−−それぞれ、宇宙の「大きさ」 を計算していた−−なのに対して、茫漠たる無限の宇宙を天体ないし星々が浮遊し ている、と説く「宣夜説」もあった。この考えは、後述するように、西洋において は科学革命の中で登場してきた「無限宇宙論」に通ずるものがあり、その意義を高 く評価する向きもある。
 これらとは別に、インドに起源を有し、仏教的宇宙観に継承された「須彌山説」 もある。須彌山とは非常に高い山であり、インドの北方に聳えるヒマラヤ山脈から イメージされたと考えられており、太陽、月、星々はこの山の周りを運行するとさ れた。太陽が須彌山の裏側に入った時が夜というわけである。この説を奉じた江戸 幕末期の日本の知識人の中には、西洋流の宇宙論の流入に抗して、須彌山説を強く 支持したものがいたという。今日から見れば、須彌山説は荒唐無稽に映るが、山国 日本には意外に馴染みやすい世界/宇宙モデルだったのかもしれない。
 一方、ギリシアの自然哲学者たちの間では、早くも紀元前4〜5世紀には、大地 も天もともに球だとする「地球天球説」が確立した。地球中心モデル(天動説)で あるから、大地=地球が宇宙の中心にあって動かず、その外側に天球があって回転 すると考えたのである。一種の入れ子構造、ないしは「たまねぎ型」宇宙である。 地中海を主たる活動の場にしたギリシア人にとって、大地が球形であるという考え は、多くの経験的事実と一致したはずである。また、数学(幾何学)を愛好したギ リシア人は、始めも終わりもない円(その3次元的表現は球)は完全性や永遠性を 象徴する特別の意味をもった図形だとみなしていたことも地球天球説の確立に寄与 したであろう。

2 宇宙論と占星術・天文学・星座

 中国の人々にとって、また、彼らの影響下にあった日本人にとって、前述のよう な宇宙モデルを、数学的(幾何学的)操作を通じて、実際の天文観測によって得ら れたデータの解釈と結びつけるという発想は強く働かなかった。中国の人々の最大 の関心事は、天文現象における変異現象(天変)にあらわれる(はずの)、国家社 会の運命にあったからである。
 そもそも、占星術とは天体の配置や天空における変異現象が、目に見えない影響 力を通じて、地上の国家社会や個々人の運命に影響を及ぼすとする考えに基づく思 想と営みであるが、中国ではもっぱら「天変占星術」が重視されたのである。その ため、中国の官僚制度には、専門家集団(天文方)が、決して地位は高くはないと はいえ早い時期から設けられていた。彼らは、もっぱら天文観測を行って、日常的 には計時や暦の作成にあたるとともに、天変がないかどうかに細心の注意を払って いた。
 彼ら専門家の力量は天変のいち早い観測とその解釈にあったわけで、宇宙モデル と観測データの整合性云々という、科学的ないしは数学的な関心は視野の外に置か れざるを得なかった。しかし、皮肉なことに、彼らが長年にわたって天変に注目し、 それを記録に留めてきたということが、今日では、彗星の周期の決定や新星の誕生 時期の決定などに関する天文学上の貴重なデータとして珍重されている。
 中国の人々が天変、すなわち天文現象の不規則性に着目したのに対して、ギリシ ア人は規則性に着目したといえよう。すなわち、ギリシア人は地球天球モデルとこ れまで積み重ねられてきた天体運動に関するデータとを、数学的(幾何学的)操作 を通じて結びつけようと努めたのである。彼らは、太陽、月、惑星を含む星々の動 きを地球天球モデルで数学的に説明しようとした。数学的天文学の誕生である。こ の事実は、ギリシアにおける自然哲学的・数学的考察が高度な段階まで達していた ことのあらわれであることを示している。同時に、占星術に関して、ギリシアでは 個々人の運命を占う「宿命占星術」が関心事であったこととも関連しているだろう。 天変占星術が天文現象の不規則性に強い関心を払うのに対して、宿命占星術は天文 現象の規則性に基づいて個人の未来を予言するからである。
 中国とギリシアでは、占星術に対する関心の相違が、後者における数学的天文学 の成立に関わっていることを指摘したが、同じ事情は、両文明圏における星座の捉 え方やネーミングにも反映している。
 西洋風の星座の起源は必ずしも明らかでないが、一説にはローマ時代の貴婦人た ちの遊びに由来するという。そして、紀元後2世紀の数学的天文学を集大成した書 物『アルマゲスト』には、今日と同様、ギリシア・ローマ神話から採られた名前が 挙げられている。西洋風の星座にはギリシア・ローマ時代における富裕で優雅な市 民社会が反映しているとみることもできよう。それに対して、中国の星座は、中国 社会を牛耳る官僚制を忠実に反映して、皇帝を中心に百官がその周囲に配されると いう案配になっている。先に、宇宙モデルには、場所の地理的・地形的条件が反映 していることをみたが、占星術・天文学や星座には、社会とその価値観が投影され ていたといえよう。

3 天球と一様円運動のドグマ

 ギリシアで成立した数学的天文学は一貫して永遠性・完全性のシンボルとしての 円・球のイメージと、天体にふさわしい運動は「一様な円運動」であるという思い こみ(ドグマ)につきまとわれていた。
 地球天球モデルに基づいて天体運動を数学的に説明する場合、水星、金星、火星、 木星、土星の5つの惑星の不規則な動きをどのように説明するかがポイントとなる。 5つの惑星は、相互に位置を変えない他の星々とは違って、天球上の位置を変える。 しかも、恒星天球上を必ずしも一定の方向に動くのではなく、時には止まったり逆 方向に動いたりもする。5つの惑星と太陽と月はそれぞれ固有の天球をもち、それ に張り付いたかたちで運動すると考えられたが、一様な円運動を前提とする限り、 惑星の不規則運動を説明するのははなはだ困難であった。
 この問題に本格的に取り組んだのはエウドクソス(前400頃〜前347頃)だとされ る。彼は高度な数学的知識を駆使して、惑星の不規則運動をいくつかの同心球の複 合運動の結果だと説明した。
 科学史を通じて、前提となっている理論に合わない事例(アノマリイ)をその場 限りの(アドホックな)仮説を設けて「現象を救う」(理論の中に取り込む)こと がしばしば見られる。この場合は、天球概念と一様な円運動というドグマを温存し つつ、惑星の不規則運動を説明するために、複数の同心球の複合運動というアドホ ックな仮説が導入されたわけである。
 エウドクソスは惑星それぞれに複数の同心球を想定したので、宇宙全体としては、 何層にも重なった、まさしく「たまねぎ型」の宇宙モデルが誕生することになった。 しかし、この高度で複雑なモデルでも、なお「救えない」アノマリイがあった。そ れは、地球と惑星との間の距離が変化するという観測事実である。地球に近い星、 例えば金星や火星は肉眼で見ても明るさが変化するからである。同心球モデルに依 る限り、地球と惑星の間の距離に変化は生じないはずである。
 この困難を救うことに成功し、ギリシア天文学を集大成したのが紀元後2世紀の 数学者プトレマイオスの著作『アルマゲスト』であった。
 プトレマイオスが、一様な円運動というドグマを温存しつつ惑星の不規則運動を 説明するために、アドホックな仮説として導入したのは、エカント点と周転円であ った。すなわち、惑星を運ぶ天球(導円)の中心を地球から少しずらしたうえで、 そこから見ると天球の回転速度が一様になる点(エカント)導入した。また、惑星 は導円上に中心を置く別の円(周転円)に沿って動くとした。こう考えれば、惑星 は導円と周転円という二種類の、それぞれに一様な円運動の複合運動として説明で きる。同時に、地球と惑星の間の距離の変化(惑星の明るさの変化)も見事に説明 できることなる。
 このようにして、地球天球モデルは過去の天文観測データと整合的になっただけ でなく、不規則な惑星運動を予言できる、科学的・数学的な天文学として確立され たのであった。地球中心説(天動説)に立つ、プトレマイオスの天文体系の確立で ある。
 しかし、宇宙モデルが、これほど入り組んだ複雑な円・球の集合体となってしま うと、もはや一部の専門家(数学者)の専売品となってしまって、人々の宇宙観あ るいは天のイメージを支え育むものとは言い難い。したがって、プトレマイオスの 体系は、実際上、天体観測や暦の作成に計算上有用な数学上のモデルという役割を 果たすようになった。
 プトレマイオス以降の天文学の展開の中でますます複雑になっていった、宇宙モ デル=天文体系の単純化を目指したのが、N.コペルニクス(1473-1543)である。 とはいえ、しばしば誤解されているように、コペルニクスは文字通りの「革命家」 として太陽中心説(地動説)を提唱したのではない。むしろ彼は、観測データとの 整合性を高めるために複雑怪奇なものとなってしまった天文体系の改善を目指す中 で、一様円運動というドグマに忠実であろうとするならば、また、惑星を運ぶ天球 の実在性を確保するためには、地球中心のモデルよりも太陽中心のモデルの方が、 望ましいとの考えから太陽中心説を提唱するに至ったのである。ギリシア以来、連 綿と続く天球および一様円運動のドグマこそ、「コペルニクス的転回」の引き金だ ったのである。
 地球中心説(天動説)から太陽中心説(地動説)への転換は、科学史上、最も重 大な科学革命ではあるが、天球や一様円運動へのこだわりに着目するなら、太陽中 心モデルは、少なくともその発想の段階では、アドホックな仮説といえなくもなか ったのである。

4 閉じた宇宙から開かれた宇宙へ、そして再び人間原理へ

 かくてコペルニクスの宇宙は、そのスケールが一挙に拡大し、中心が地球から太 陽に代わったものの、何層にも重なった天球からなる「たまねぎ型」宇宙であるこ とには変わりはなかった。閉じた、有限の宇宙のイメージが決定的に変えられたわ けではなかった。この宇宙イメージは、ヨーロッパ中世の封建的・階層的な社会構 造とも適合していた。
 しかし、コペルニクスが引き金を引いた科学革命=天文学革命が、天球概念と一 様な円運動というドグマから解放されるのは時間の問題であった。
 早くもG.ブルーノ(1548-1600)は、科学的論議というよりは、哲学的思弁に よってではあるが、宇宙には中心はなく無限であり、われわれの世界に相当する世 界が複数あるいは無数に存在しうることを論じた。西洋宇宙論はついに無限宇宙論 にたどり着いたのであった。宇宙論の変革=科学革命の時代が、同時に封建的社会 から市民的社会への転換期であったことは、単なる歴史的偶然とはいえないだろう。
 一方、J.ケプラー(1571-1630)は、火星の軌道に関する綿密な検討を通じて、 太陽の周りを回る惑星の軌道は円ではなく、楕円であることを明らかにした。かく て、ギリシア以来、コペルニクスをも含めて、すべての人々が考察の出発点をそこ においていた、天体に関する円・球のイメージ、天体運動に関する一様円運動のド グマが取り払われたのであった。ある論者が、古代・中世的宇宙論から近代宇宙論 への「分水嶺」はコペルニクスではなく、ケプラーだと論ずる所以である。
 かくて、人間は無限宇宙の中にたたずんで、存在の孤独におののく「考える葦」 (パスカル)となったわけである。
 その後の天文学やそれを含む科学一般の進展の中で、宇宙の中の人間の位置をめ ぐる論議や天空のイメージの変遷を逐一たどっている余裕はここではない。ただ、 最近の宇宙論の中で、人間という知性的存在の重要性を強調する「人間原理の宇宙 論」があることを指摘しておきたい。それは、科学であれ、宇宙論であれ、認識主 体の存在が出発点にあることを、示唆しているように思われるからである。

参考文献

A.コイレ(横山雅彦訳)『閉じた宇宙から無限宇宙へ』みすず書房,1973.
F.ボルケナウ(水田洋他訳)『封建的世界像から市民的世界像へ』みすず書房,1965.
G.ブルーノ(清水純一訳)『無限・宇宙と諸世界について』現代思潮社,1967.
M.ルルカー(竹内章訳)『象徴としての円:人類の思想・宗教・芸術における 表現』法政大学出版局,1991.
『中国天文学・数学集(現代の名著2)』朝日出版社,1980.
  高橋憲一(訳・解説)『コペルニクス・天球回転論』みすず書房,1993.
中山茂『天の科学史』朝日選書,1984.
中山茂『西洋占星術:科学と魔術のあいだ』講談社現代新書,1992.
松田卓也『人間原理の宇宙論:人間は宇宙の中心か』培風館,1990.


水島裕雅(編)『東洋・西洋のイメージ・シンボルの比較研究:空を中心として』(平成7・8年度科学研究費補助金研究成果報告書), 1997年2月, pp.126-131.

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