情報化社会の陥穽

1.「情報」と「コンピュータ」に対する崇拝

 先年、「カルト教団」という言葉が話題になった。荒唐無稽な教義を掲げた新興 宗教が、殺人を含む多くの反社会的な行動に走り、大きな社会問題になったからで あった。カルト(cult)という言葉を英和辞書で引いてみると、「特にある集団の 人たちが表明する、ある人・理想・事物への礼讃、傾倒、崇拝;(一時的)熱中、 熱狂、……熱、流行」などと説明されている(小学館『ランダムハウス英和大辞典』)。
 T.ローザックという文明批評家は、このカルトという言葉を用いて、コンピュ ータや情報化社会の問題点を論じた。The Cult of Information: The Folklore of Computers and the True Art of Thinking, Pantheon Books, 1986という書物がそ れである。直訳すれば「情報崇拝:コンピュータ神話と思考の本質」とでもなろう か。筆者はこの書物の邦訳作業(『コンピュータの神話学』朝日新聞社)を通じて、 コンピュータとは一体どういう存在なのか、また情報化社会はどのような可能性を 持つと同時に限界ないしは危険性を有するのかなどについて考えるようになった。
 ローザックはこの書物の中で、英語圏にあってはinformationという語は、本来 ごくありふれた語の一つにすぎなかったのに、コンピュータの発達と普及に伴って、 次第に特別の重みをもつようになったと論じている。日本語の「情報」についても 同様のことが言えるだろう。そして、「情報をもっているものと、もっていないも の」、あるいは「情報にアクセスし自由に操作できるものと、そうすることができ ないもの」といった言い方が頻繁になされ、「情報化社会に取り残されないために」 といったタイトルのビジネス本が店頭に横積みにされ、雑誌の特集記事になる。そ んなことが、ここ10年来、いや20年来繰り返されてきた。その結果、近年、多くの大学 でも「情報科目」が開設されるようになってきた。
 このようにビジネスの世界も大学を含む教育の世界も、そして社会全体が一斉に 「情報化」に、そして「コンピュータ」になだれをうっている。ローザックは、こ のような動きを一種の「カルト」だと見て批判している−−多くの人々は、情報化 社会についての的確な展望を欠いたまま、そしてコンピュータの能力についての適 切な理解を欠いたまま、世の中の流れに取り残されまいと、やみくもに「情報」に 「コンピュータ」に向けて走り出しているのではないか。もしそうなら、現在の状 況は、情報崇拝あるいはコンピュータ崇拝と呼ぶべきではないか、というわけであ る。しかも、情報・コンピュータ崇拝の蔓延には、当然のことながら、コンピュー タ関連業界やコンピュータの専門家による誇大・過剰宣伝が大いに貢献している。 したがって、われわれは、コンピュータにまつわるおびただしい言説のうちに、ま ともなものと脅迫まがいの誇大宣伝とを区別せねばならない。
 ローザックが以上のような批判を行ったのは10年以上も前のことであるが、情報やコ ンピュータに関して、カルト的な言説や雰囲気はなくなっただろうか? むしろ、 ここ数年、「マルチ・メディア」「インターネット」「Eメール」「ネットワーク 社会」などといった目新しい概念なり用語が登場して、これまで以上にカルト的状 況が進行しているといえよう。

 

2.コンピュータ・リテラシーについて

 コンピュータ・リテラシーとは、言うまでもなく、コンピュータと読み書き能力 を意味するリテラシーとを結びつけた言葉である。情報化社会を生き抜くには何を さておいてもコンピュータの運用活用能力、すなわちコンピュータ・リテラシーの 獲得が不可欠だという議論−−このような議論にも前述の情報・コンピュータ崇拝 をみてとることができるが−−から、「情報科目」が誕生している。そして多くの学生 がこの情報科目を履修することが期待されており、実質的には「必修科目」的な重 みをもっている。設備が整い次第、多くの大学で情報科目は必修科目になるだろう。その時、 大学で学んだ学生の大半がコンピュータ・リテラシーを獲得して卒業するという ことになる。
 将来コンピュータの専門家を目指してコンピュータそのものを深く学ぼうとして いる学生に対して、あるいは勉学や研究の必要不可欠のツールとしてコンピュータ の利用法を学ぼうとしている学生に対して、大学は最大限の学習機会を提供すべき であろう。とはいえ、コンピュータには全く関心を示さない学生もいるはずで、そ のような学生をむりやりコンピュータの前に座らせる必然性、あるいは履修しなけ れば卒業させないとする必然性があるだろうか。それはまさにローザックが批判し た情報/コンピュータ崇拝以外の何物でもあるまい。この意味で、筆者は情報科目 の必修化には疑問を禁じえない。
 初等・中等教育の段階でも、できるだけ早く、できるだけ多くコンピュータに触 れさせるべきだという議論が強力に展開されている。CAI(コンピュータを用い た教育)の研究や実践も積み重ねられており、アメリカで開発された「ロゴ」をは じめ、多くのソフトウェアが市販され、教育現場に導入されつつあるとのことであ る。
 情報化を推進している人々が口を開けば言うように、コンピュータの進歩はハー ドとソフトの両面で急速である。日進月歩ということは、確かに目覚ましいことだ が、言い換えればその技術がまだ未完成だということでしかない。したがって、学 校や大学がいかほどかの時間をコンピュータ・リテラシーの開発に割いたとしても、 また生徒・学生が課された課題を努力してクリアしたとしても、そこで獲得された はずの能力は数年後には確実に陳腐化していることになる。とすれば、学生・生徒 が、他の科目の履修時間数を減らしてまで(必然的にそういうことになる)、コン ピュータ・リテラシー(「中途半端な」という形容詞をつけてもよいが)を身につ けなければならない必然性がどこにあろうか? コンピュータ専門家の言葉を信じ るならば、近い将来、限りなくユーザー・フレンドリーな(利用者に優しい、使い 易い)コンピュータが登場するはずで、その場合には、特に何の準備も必要とせず に、誰でもコンピュータを使いこなせるはずではないか。
 それにもかかわらず、コンピュータ・リテラシーやネットワーク化が多くの教育 現場で脅迫観念のように語られ、実際、多数のコンピュータが導入されつつある。 このような状況は、もちろんコンピュータ・メーカーの利益に叶っている。たとえ 大幅な割引価格であれ、学校・大学にコンピュータを大量に納入すれば、関連機器 やソフトウェアの販売、さらには技術進歩に伴う機種更新という具合に追加投資は 確実だし、何よりも教師や学生をコンピュータ崇拝に帰依させることができる。教 師の能力はコンピュータを扱えるかどうかで判断され、学生はコンピュータなしで は何もできないと信じこんで社会に出ていく。そうなれば、情報/コンピュータ崇 拝は一層揺るぎないものとなるだろう。このようにして、コンピュータ・メーカー とそのスポークスマンたちによって、コンピュータに対する崇拝が喧伝され、それ がさらなるコンピュータ崇拝を生み出すという自己増殖システムが確立しているの である。

 

3.情報化社会の問題点

 コンピュータ化・情報化の進展が声高に叫ばれ、それが実現していく過程では情 報化に伴うネガティヴな側面は意図的に伏せられる場合が多い。しかし、すでに多 くの人々が情報化に伴う問題点を指摘しているし、実際多くの問題が生じつつある。

個人情報の管理と『1984年』
 国勢調査や戸籍・住民票に代表されるように、政府は、国家レベルでまた地方レ ベルで膨大な情報を収集し、管理してきた。税金を取り立てる一方で、行政サービ スを行うためには不可欠の作業だからである。しばしば「国民総背番号制」が提案 され、議論を呼ぶ所以である。一方、民間でもさまざまなかたちで個人情報を収集 し、それをもとにビジネスが営まれている。代表的なものとしては銀行や信販会社 などがある。官庁や企業が別々に収集した個人情報の多くは、現在ではコンピュー タ化されているからそれらを結びつけることは技術的に容易になった。もしこれら すべての個人情報を集積すれば、ある個人について知られうることはすべて知られ てしまう−−出生、学歴(および学業成績)、職歴、病歴、家族、収入、金銭出納 記録、資産、納税額、賞罰、思想・信条(こんな個人情報はないと信じたいが)等 々。そして、知らないところで自分に関する情報がやりとり(売買)されてたり、 不利益をもたらしたりしているかもしれないのである。G.オーウェルは『1984年』 という小説で、超管理社会の恐怖を描いたが、ネットワークが張り巡らされた情報 化社会はオーウェル的な超管理社会にもなりうることは忘れてはならないだろう。

犯罪と事故
 しばしば報道されるように、コンピュータにウイルスが仕掛けられて、データや プログラムが盗まれたり破壊されたり混乱させられることがある。ハッカーによる 犯罪である。また、金融機関などでは高度のノウハウをもったものによるデータの操作・ 改竄といったコンピュータ犯罪が発生している。社会のさまざまな機能がコンピュ ータを通じて遂行されるようになるにつれて、そして、それらが有機的にネットワ ーク化されるにつれて、それが悪意を持った者の攻撃の対象になったり、天災を含 む事故などでダウンした場合のダメージも大きくなる。
 もちろん、「十分なチェック・システムがあります。バックアップ体制も整って います」というのが、このような不安に対する答えとして常に用意されているのだ が、現に大銀行の現金自動支払機が一斉にストップするとか、地下に埋設されたケ ーブルがほんの少し火災にあっただけで広範な地域の通信機能がかなりの時間マヒ してしまったなどという事例にはことかかないのである。一見スマートな情報化社 会は意外ともろい側面をあわせもっているのである。

ブーメラン効果
 情報化の進展はブーメラン効果を強めるという側面もある。たとえば、選挙。衆 参両院の国会議員選挙など最近の選挙では、選挙前から支持者や支持政党など投票 行動が詳細に世論調査され、それがマスコミを通じて、しかもコンピュータによる 分析だという権威を帯びて広範に流布される。有権者の多くはその数字に大きな影 響を受けて実際の投票をする−−一種のブーメラン効果である。有権者の熟慮の末 の判断が下されるから結構ではないかとの意見もあるかもしれないが、支持率や議 席数の予測ばかりがやたら情報過多になって、その反面、本来より重要であるべき 政治的争点が見えにくくなってしまうという重大な問題点がある。
 また、情報化の進展は、たとえば株価など経済の動向にも微妙で、時には深刻な 影響を与える。よく知られているように、今日の経済活動は巨大化し、株式売買高 や取引件数の増大にともなって、当然にもコンピュータ化・情報化が徹底して進め られている。しかし、個々の投資家にとって最も合理的な投資行動をとるために作 成されたプログラムは、株式市場全体としてみると、買い局面では一層の高値を呼 び、逆に売り局面では株価引き下げを加速するといった問題点が指摘されている。 もちろん、この問題はプログラムの手直しや何らかの法的な規制などで是正できる 部分もあるだろう。とはいえ、コンピュータ化が経済情報のスピードを早め−−そ れは個々の経済単位には望ましいことに違いない−−、その結果、かえって経済全 体が不安定性や不確実性を増大させるというパラドックスは解消されることはない だろう。情報は早ければ早いほどよいとは一概にはいえない一つの事例であろう。

情報爆発
 多くの情報が電子化されている。そしてインターネットなどを通じて、各種のデータベー スや多くのホームページが利用を待っている。これらの情報は、多くの場合無料で、 たとえ有料の場合も非常に安価である。おかげで日常生活は便利になったし、企業 活動や教育研究も活発になった。
 万事、結構尽くめのようだが、インターネットを流れる情報のかなりの部分が有 害無益だという指摘もある。猥褻画像の氾濫は周知の通りだが、犯罪を助長するよ うな反社会的な情報まで存在する。こういった情報をどのようにコントロールする か、技術的にも非常に困難だし、社会的な合意もない。
 また、十分な検討や評価の過程を経ていない未整理な情報を含む、おびただしい 情報の洪水の中から、自分にとって有益な情報を見つけだす、という作業は結構大 変である。情報の飛躍的増大−−情報爆発は16世紀の「印刷革命」以来の懸案では あるが、印刷の場合はコスト面での制約からブレーキがかかっていた。しかしコン ピュータの普及とインターネットの登場は情報爆発の規模を一気に拡大してしまっ たといえよう。

 

4.人工知能(AI)の可能性と限界

鉄腕アトム
 テレビアニメ「鉄腕アトム」の主題歌(谷川俊太郎作詩)の中に「心やさしい  ラララ 科学の子」(一番)「心ただしい ラララ 科学の子」(二番)という 印象的なフレーズがあった。すなわち、アトムは豊かな感情をもち、また倫理的判 断のできる存在であった。実際、アトムがそのような存在であったからこそ、その 活躍は感動的なのであった。いみじくも、アトムは天馬博士の一人息子の身代わり として、すなわち子供のロボットとして作られ、人間の子供がそうするように、社 会生活に必要な言葉やマナーや善悪の基準などを学習した、ということになってい る。アトムに組み込まれた人工知能−−さしずめ超高性能のコンピュータというこ とになろう−−は、単に知識や情報を蓄えるだけでなく、学習を通じて、自然言語 を習得し、自ら推論し、倫理的判断を下し、感情さえもつにいたったのである。し かし、鉄腕アトムはともかく、現実問題としてあるいは理論的・哲学的問題として ロボットの人工知能=コンピュータは、推論し、感情をもち、倫理的判断を下すこ とができるだろうか−−換言すれば、心をもつことができるだろうか。
 たとえば、マサチューセッツ工科大学(MIT)のメディア・ラボラトリーの指導 者で人工知能(AI)研究の第一人者M.ミンスキー教授なら、「当然できる」と 断言するだろう。彼は、人間と知的にあるいは社会的に競争する能力をもつロボ ットの誕生が可能であり、その実現も近いと予言していた。しかし残念ながら、こ の予言ははずれた。予言からすでに20年以上たつが、彼が予言したようなロボット はわれわれの周辺には存在していないからである(MITのメディア・ラボにはあ るのかもしれないが)。おそらく、ミンスキーやその信奉者たちは、予言ははずれ たのではなく、AI研究に対する人的・資金的サポートが不十分だったから、予言 の実現が遅れているにすぎないと言うだろう。彼らに言わせれば、予言は原理的に は正しく、十分な資源さえ与えられれば、今すぐにでも実現するはずだからである。
 このようなAI研究に対する楽観論にローザックは真向から反対している。彼は、 原理的に考えて、「機械が考える」ないしは「コンピュータが心をもつ」などとい うことはありえないとして、大要次のように論じている。
 観念と情報とは全く別物である。観念が情報を創造するのであって、その逆はあ りえない。実際、特定の観念が、混沌として一見とらえどころのない実在の世界か ら事実を切り取って情報を作りだしているのである。そして、コンピュータはわれ われ人間が情報=データを蓄えたり処理したりする際に役立つ強力な機械にすぎな い。コンピュータが単なる情報処理以上のことを行っているように見えるのは、人 間がつくったプログラム(ソフトウエア)−−当然にも、そこにはそれを作成した 人間のさまざまな観念や価値観が反映している−−とそれによって処理されている データを混同しているからである。コンピュータそれ自体が判断したり推論したり しているわけではない。
 このような立場からは、ロボットが、あるいは人工知脳=コンピュータが、推論 し、感情をもち、倫理的判断を下すことができるなどということはとうてい考えら れない。鉄腕アトムはSFマンガの世界でしか活躍できないということになる。
 かくて、鉄腕アトム誕生の可能性について、ミンスキーとローザックは両極端の 立場にある。しかも、両者の言い分は、ともにあまりに原理的なので、論争=対話 の接点すら見出せない。もう少し具体的・個別的な論点を通じてAIやコンピュー タに対する楽観論者と批判者の論争点をみてみよう。

チューリング・テストと「強いAI」/「弱いAI」
 1950年、AIやコンピュータ研究の先駆者の一人A.チューリングは、機械=コ ンピュータに知能があるかどうかを判定するためのテスト、いわゆる「チューリン グ・テスト」を提案した。すなわち、ある部屋に一人の人間を、別の部屋にコンピ ュータを、さらに三番目の部屋に質問者を入れ、質問者がテレタイプを通じて人間 とコンピュータと対話し、どちらが人間でどちらがコンピュータであるかが区別 できない場合、そのコンピュータは知能をもっている、というものである。
 J.R.サールは、チューリング・テストに合格したコンピュータなり、それを 動かしているプログラムは人間の心と同じだとする立場を「強いAI」と呼んだ。強い AIでは思考は単に記号形式の操作にすぎないとされる。したがって、たとえばE LIZAというプログラムと対話する人間は、しばしば相手がコンピュータ・プロ グラムにすぎないことに気付かないか忘れてしまうということだから、強いAI論 者によればELIZAは人間の心と同じということになる。もちろんミンスキーは 強いAI論者ということになる。ちなみに、ELIZAプログラムを作ったJ.ワ イゼンバウムは、当初AI研究を推進する立場にあったのに、人間の心はELIZ Aのような単純なものではないはずだとして、その後AIに批判的な立場をとるよ うになったという興味深いエピソードもある。
 強いAIに対して、人間の心を科学的に解明するためになされているAIや、A I研究の成果をエキスパートシステムなどを通じて他の科学研究や実践的な課題に 応用しようとしているAIをサールは、「弱いAI」と呼んでいる。弱いAIに異議を 唱える論者は考えにくい。ローザックも強いAIには真向から反対するだろうが、 弱いAIには積極的に賛成しないまでも容認はするだろう。
 サールがAIに強い/弱いの区別をしたのは、強いAIが誤りであることを論証 するためだった。サールは、「中国語の部屋」の比喩を用いて強いAIを次のよう に批判している。すなわち、中国語を理解できない人間(たとえばサール)が、あ る部屋にいて、ある中国語と別の中国語との対応規則(これは理解できる言語、た とえば英語で書かれている)にしたがって、部屋の外から示された中国語の記号を 別の中国語に変換して返答したとしても、そしてその変換が正しかったとしても− −したがってチューリング・テストに合格したことになる−−、部屋の中の人間は 全く中国語を知らないので変換にあたっていかなる意味も付与することができない。 この比喩における部屋の中の人間は、コンピュータ・プログラムに他ならない。か くて、次のような公理が成り立ち、結論が導かれる。

公理1 コンピュータ・プログラムは形式的(統語論的)である。
公理2 人間の心は、心的内容(意味論)をもつ。
公理3 統語論はそれだけで意味論を成してもいなければ、意味論であるための十     分条件でもない。
結論  プログラムは心を成してもいなければ、心であるための十分条件でもない。
   (かくて強いAIが誤りであることが証明された)

 当然のことながら、サールの論議に対して、多くの批判が寄せられた。AIを強い /弱いと区分すること自体、人間の思考に神秘性を付与するものだとの批判もある。 また、たとえ「部屋の中の人間(コンピュータ・プログラムそれ自体)」は中国語を 理解していないとしても「部屋全体(コンピュータ・システム全体)」で考えれば中 国語を理解していることになるとの反論もある。ともあれ、チューリング・テストは 機械が知能をもっているかどうかの判定規準としては不十分であること、またコンピ ュータが「意味」をつくりだすことができるかどうかにこの論争のポイントがあるこ とが明らかになった。
 チャーチランド夫妻は、サールの「中国語の部屋」の論議を次のように批判してい る。すなわち、サールの主張は、音や光の本性が知られていなかった時代に、「音は 空気の疎密波であり、光は電磁波である」という主張を、その時代の常識的な理解の 水準から否定するようなものである。そして、「音は空気の疎密波であり、光は電磁 波である」という主張が今日では科学的に正しいことが明らかになったように、コン ピュータ・プログラムが何らかの意味をつくりだしていることが、意味や認知につい てわれわれが十分な理解をもつにいたるであろう将来のある時点で明らかになるだろ う、と論ずる。したがって、サールの公理3と結論は認められないというのである。
 強いAIの立場をコンピュータ・サイエンス、認知科学、大脳生理学などの進歩の 可能性に担保するというチャーチランド夫妻の論法は、筆者には両刃の剣のように思 える。というのも、特定の化学物質を合成しようとする場合、われわれは前もってそ の物質に関する完全な知識が必要であるが、これと同様に、コンピュータによって 「人工的に模擬知能」を合成しようというのであれば、人間の知能(自然知能)につ いて詳細な知識が前提とならねばならないのではないかというAI批判が成り立つか らである。

エキスパートシステム
 AI研究が目指しているのは、すぐれたエキスパートシステムの構築である。エキ スパートシステムとは、専門家=エキスパートの専門知識やノウハウをコンピュータ の知識ベースに蓄えておき、専門家あるいは非専門家が、必要に応じてこれを利用 するシステムである。AIの開発初期から研究されていたチェスや囲碁のプログラム も一種のエキスパートシステムだと言えるし、医療診断などの場面ではかなり実践的 なエキスパートシステムが開発され実用に供されているとのことである。チェス・プ ログラムはチェスの世界チャンピオンと実際に対決するわけだし、診断システムは 患者に病気の症状を問いただす。この時、コンピュータは、人間の姿をとってはいな いものの、チェス・プレーヤーであり医師である。少し工夫して、すなわち鉄腕アトム のように人間の外見を与えれば、機械は人間−−豊かな感情や、倫理的判断基準はも たないにせよ、深い専門知識をもったエキスパート−−になったと言えるのではない か。
 ドレイファス兄弟は、このような考えを真向から批判する。ドレイファス兄弟は、 AI研究の実態と成果のアセスメント作業を通じて、AIに批判的な態度をとるよう になったということだが、世間で高い評価を受けているエキスパートシステムが、実 際にはほとんど役に立っていない実情を暴露している。その一方、彼らは人間の能力 段階をビギナー、中級者、上級者、プロ、エキスパートの五段階に分類し、いわゆる エキスパートシステムは確かにビギナーや中級者には有用だろうが、上級者やプロに は部分的にしか役立たず、真のエキスパートには有害なだけだとの結論を下している。 それというのも、われわれ人間は能力の段階が上がれば上がるほど、常識や直観、勘 やひらめきに頼って総合的に判断しているからである。

コンピュータによる「科学的発見」
 科学者による発見こそ「ひらめき」の最たるものである。その科学的発見をコンピ ュータに行わせようという野心的なプロジェクトがある。アメリカのカーネギー・メ ロン大学のP.ラングレーらが長年開発に努めている科学的発見プログラムがそれで ある。
 彼らは次の四つのAI(人工知能)システムを開発した。17世紀のイギリスの科学 者・哲学者で帰納法の提唱者であるF.ベーコンに因んだプログラムBACONは、 与えられた数値データを要約する経験則の発見を目指す。酸と塩基の発見に重要な役 割を果たしたドイツの化学者J.R.グラウバーに因んだプログラムGLAUBER は、観測された事実から定性的な法則を探究する。また、フロジストン(燃素)理論 の提唱者でドイツの化学者G.E.シュタールに因んだプログラムSTAHLは、化 学反応に含まれる物質成分を決定する。最後にJ.ドルトンに因んだプログラムDA LTONは化学反応の構造モデルを定式化する。さらにラングレーらはこれら四つの プログラムを統合化して、より強力な発見プログラムの構築を目指しているという。
 しかし、一体どのようにしてコンピュータ・プログラムが科学的発見を行うのだろ うか? もし、コンピュータが発見をしてくれるのなら、コンピュータ科学者以外の 科学者は失業するしかないのだろうか?
 コンピュータは多くのデータを蓄えることができる。また、そのデータを迅速・的 確に処理する方法も備えている。実際、科学的発見のために開発されたコンピュータ・ プログラムBACONもGLAUBERも(またSTAHLもDALTONも)その ような能力をもっている。しかし、そもそも何を発見すべきかは知らない。それを指 示するのはコンピュータ・プログラムの設計者であり、利用者である人間である。コ ンピュータは「戦術」にはたけているが、「戦略」を決定するのはあくまで人間だと 言えよう。また、或る論者が適切にも指摘したように、広く深い知識をもち、それを 状況に応じて適切に活用できるという意味での「博学多識」(人間)と、古今東西の 文物に通じてその内容をよく記憶しているという意味での「博覧強記」(コンピュー タ)という対比が可能かもしれない。
 もちろん、すべての人間が戦略家であるとか、博学多識であると言っているのでは ない。戦略/戦術にせよ、博学多識/博覧強記にせよ、あくまで人間とコンピュータ とを対比した上の話にすぎない。むしろ個々の人間は単なる戦術家にすぎなかったり、 博学多識でも博覧強記でもなかろう。しかし、たとえ個々の人間はそうであっても、 そういう人間が構成している社会は、有能な戦略家であり得るし博学多識になり得る。 例えば、個々の科学者は平均的な能力と知識のもち主にすぎないとしても、彼らが構 成している科学者集団は、膨大な科学知識を所有していると同時に、さらにそれを拡 充するための戦略ももっている。
 また、科学は本質的に社会的・共同的な営為であるが、現在のコンピュータは 社会的な存在ではない。SFの世界や比喩の上ではともかく、われわれはコンピュータを 同僚や仲間として、いわんや恋人や家族として考えてはいないからである。もちろん、 予見できない未来に、われわれが仲間と認めざるを得ないようなコンピュータ(あるいは コンピュータを組み込んだロボット)が登場するかもしれない。その時われわれは、例え ば科学研究の第一線でコンピュータと競争し、敗北し、挙句の果てにコンピュータに 嫉妬するかもしれない。そして、科学者の多くは失業してしまうだろう。いや、あり ていに言えば、ややもすれば怠惰に流れ、忘れっぽくて、あいまいな思考力しかもた ない凡庸な人間の科学者などもはや必要ないわけである。しかし、現在のコンピュー タは、たとえスーパー・コンピュータといえども人間にとって有用な道具以上のもの ではない。

 以上、論じてきたように、コンピュータとそれを利用した情報化社会は、すでにわ れわれの生活に不可欠なものとなっているが、同時にさまざまな問題点も抱えている。 われわれは、メダルの表と同時に裏を、光の部分と同時に影の部分を見る英知と勇気 を養っていかねばならない。他ならぬ情報化社会は、それを可能にしてくれるだろう。

参考文献

(1)成定薫『科学と社会のインターフェイス』平凡社, 1994.
(2)T.ローザック『コンピュータの神話学』朝日新聞社, 1989.
(3)T.フォレスター、P.モリソン『コンピュータの倫理学』オーム社, 1992.
(4)J.R.サール「論争−−機械はものを考えるか NO:プログラムは記号でしか ない」『サイエンス』;チャーチランド夫妻「論争−−機械はものを考えるか YE S:統合化が心をつくる」『サイエンス』1990年3月号.
(5)H.L.ドレイファス、S.E.ドレイファス『純粋人工知能批判−−コンピュータは 思考を獲得できるか』アスキー出版局,1987;H.L.ドレイファス『コンピュータには 何ができない か−−哲学的人工知能批判』産業図書, 1992.
(6)P.ラングレーほか「規則性の探索−−四つの科学的発見プログラム」『発見的 学習(知識獲得と学習シリーズ6)』共立出版, 1988.
(7)C.ストール『インターネットはからっぽの洞窟』草思社, 1997.


広島大学総合科学部情報科目小委員会(編)『情報化社会への招待』学術図書出版社,1998年.

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