科学社会学の成立と展開
−−客観主義的科学観から相対主義的科学観へ

はじめに−−客観主義 vs 相対主義

 R・J・バーンスタインは、『科学・解釈学・実践−−客観主義と相対主義を越えて』で、 哲学、倫理学、人類学、さらには社会学において今世紀になされてきた多くの論争に通底する ものとして「客観主義と相対主義の対立」があると指摘している(1)。バーンスタインが言 うところの「客観主義」とは、

  不変にして非歴史的な母型ないし準拠枠といったものが存在し(あるいは存在せねばなら ず)、それを究極的なよりどころにして、合理性・知識・真理・実在・善・正義などの本性を 決定することができるとする、そうした基本的な確信……(2)

を支えている考え方であり、一方「相対主義」とは、

  合理性・真理・実在・正義・善・規範など、そのいずれであれ、これまで哲学者たちが最 も基本的なものと考えてきた概念をひとたび吟味しはじめると、そうした概念はすべて、つま るところ特定の概念図式・理論的な準拠枠・パラダイム・生活形式・社会・文化などに相対的 なものとして理解されねばならない、ということを認めざるをえなくなる……(3)

とする考え方である。そして、客観主義と相対主義という対立の根源には「デカルト的不安」、 すなわち、

  われわれの存在の支柱とか、われわれの知識の確固たる基礎とかいったものが存在するの か、それとも、狂気や知的ないしは道徳的な混乱によってわれわれを包み込んでしまう暗闇の 力から逃げることができないのか(4)

という不安が潜在しているとバーンスタインは指摘している。実際、バーンスタインが指摘す るような対立図式が現代の思想状況を最も根底的に規定している基軸であろうし、とりわけ客 観主義の側に立つ人々が、デカルト的不安にさいなまれていることも確かであろう。
 そして、この対立図式はバーンスタインが前記著作の第U章「科学・合理性・共約不可能性」 で詳細に分析しているように、クーンの『科学革命の構造』The Structure of Scientific Revolutions (5)以降の科学や科学知識めぐるさまざまな論議−−科学論−−でもはっきり とみてとることができる。さらには、本章で主題とする科学社会学(sociology of science) にもみることができるのである。さて、科学社会学とは何か。

一 科学社会学とは何か

  文部省が募集し交付する科学研究補助金(いわゆる科研費)を申請する際に参照する「系 ・部・分科・細目表」では、複合領域の中に「科学史(含科学社会学・科学技術基礎論)」と いう項目があって、科学社会学は我が国の学界でも一応の市民権を獲得していることになって いる。事実、書名の一部に「科学社会学」を含んだ書物も何冊か出版されている(6)。しか し、ほんの一握りの研究仲間を除けば、我が国では現在でも科学社会学という学問分野が学界 で、いわんや世間一般で、認知されているとは言いがたい。授業科目として「科学社会学」を 設けている大学は、筆者の勤務先を含めてもほんの数例を数えるのみではなかろうか。
  科学社会学とは、「科学という営みないしは現象を社会学的に分析し、科学と社会の相互 作用を研究する学問分野」とひとまず定義することができよう。換言すれば、科学社会学は、 科学を単に自然に関する体系的知識と捉えるのではなく、社会的・人間的営みとして捉えよう と努める。したがって、科学社会学にあっては、科学者集団の社会的構造を社会学の手法を通 じて分析し、科学と社会の相互作用−−科学が社会におよぼす影響とともに、科学とその歴史 的展開を社会がどのように条件付けているか−−を分析することが課題となる。また、科学知 識がどのように生産され、流通していくのか、またその過程でどのように加工され変容してい くのかについても関心が向けらるべきだし、実際、後述するように、近年そのような観点から 注目すべき研究成果がうみだされている(7)
  科学という営みが、科学知識を生産し、それを応用して社会的・技術的課題の解決に努め たり、社会の必要に応じて科学知識を若い世代に伝達したりしている科学者たち−−科学者集 団(scientific community)−−によって担われていることは自明のことである。また、科学 者集団の存在が、一般社会(具体的には国家や企業、さらには納税者・消費者としての国民) によって支えられていることも自明である。したがって、科学が一つの社会制度に他ならない ことも自明のはずだが、科学を制度として捉え、社会学の研究対象とする試みは、若きR・K ・マートンの野心的な学位論文「十七世紀イングランドにおける科学・技術・社会」(一九三 八年)(8)とそれに引き続く一連の研究をまたねばならなかった。
  すなわち、一九三○年代、ハーバード大学の大学院で社会学の研究を始めたマートンは、 科学史研究の泰斗G・サートンの指導をうけながら、「科学の認知的発展と、それを取りまく 社会−文化構造との相互関係が、基本的な問題だとみなして」(9)上記の学位論文を執筆し、 さらに科学者を集団としてまた個人として律する規範構造(normative structure of science) への分析と向かったのであった(10)
  しかし、一九五二年に至っても、マートンが弟子のB・バーバーの著作『科学と社会秩序』 Science and the Social Order に寄せた「序文」で科学社会学が無視されている状況を嘆かね ばならならなかったように、一九五○年代にあっては科学に関する社会学的研究の意義が広く 認められるには至らなかった(11)。マートン自らが『回想録』の序文で述べているように、 「一九三○年代を通じて、ある程度科学社会学をめぐって関心が集まったが、その後研究は振 るわず、一九六○年代初頭になって、ようやく科学社会学の研究が活況を呈するようになった」 (12)
  科学社会学が一九四○年代から五○年代にかけて振るわなかったのは、米ソの冷戦体制下 のイデオロギー的対立を反映して、学界でも、科学と社会との相互作用を主題とする研究は左 傾的だとみなされるおそれがあり、タブー視されたという事情があった。実際、マートンその 人も、第二次大戦後は科学と社会の相互作用を総合的に問題とするという学位論文執筆時の研 究関心を後退なしはシフトさせ、自律的な社会システムとしての科学者集団内部の構造・機能 的な分析に限定するようになった。その際、科学知識そのものは確証された知識(certified knowledge)として分析の対象とはしなかった。この結果、マートン流の科学社会学は、科学 知識をブラック・ボックス=暗箱の中に封じ込めてしまったと批判されることになった(13)。 もっとも、このようなマートンの研究プログラムは、専門分化の著しい欧米のアカデミズムの 中で、科学史や科学哲学とは別の分野としての科学社会学を認知させるためには避けることの できない自己限定だったという事情も斟酌せねばなるまい。
  ともあれ、一九五七年、旧ソ連による人工衛星スプートニクの打ち上げの成功とそれに伴 ういわゆる「スプートニク・ショック」を契機にして、欧米では科学(および技術)とその研 究・教育のあり方が社会的に重要な問題としてクローズアップされるようになるとともに、科 学社会学にも強い関心と期待が抱かれるに至った。
  ちょうどその頃、すなわち、一九五○年代末から六○年代にかけて科学社会学は独自の研 究を蓄積しつつあった。すでに、マートンとその学統を汲む人々の構造・機能主義的な科学社 会学研究は、例えばW・O・ハグストロム『科学者集団』やN・ストーラー『科学の社会シス テム』などにみられるように、社会学一般のなかで確固たる地歩を占めるに至っていた(14)
  一方、D・J・ド・ソラ・プライスらによる数量的な科学社会学も目覚ましい成果を上げ つつあった。すなわち、プライスは『リトルサイエンス・ビッグサイエンス』(15)という野 心的な研究において、科学者数、科学論文数などといった数量的な指標でみた場合、科学とい う営みは、十七世紀以来一貫して指数関数的な増大傾向を示してきたという顕著な事実を明ら かにしたのである。また、プライスは、A・J・ロトカの科学者の論文生産性に関する数量的 な分析を継承・発展させた。その結果、科学者の論文生産性は正規分布を示さず、非常に偏っ た分布(n編の論文を生産する科学者の数は1/n2に比例する)を示すことを明らかにした。
  このようにして、科学社会学を取り巻く外的条件と研究それ自体の内的発展とが呼応して、 一九六○年代以降、科学社会学は一つの専門分野としてようやく確立するに至った(16)
  以上のような背景のもとで、より多くの人々に科学社会学への関心を呼び起こしたのは、 一九六二年、アメリカの科学史家T・クーンによる『科学革命の構造』の刊行とそれに引き続 く論争であった。クーンによれば、科学という営みは、科学者に問い方と答え方のモデルを与 えるパラダイム(paradigm)の存在に特徴がある。そして、パラダイムを体現し、パラダイム ・チェンジ、すなわち科学革命(scientific revolutions)の担い手となるのは科学者集団に 他ならないため、科学社会学への関心が一挙に呼び覚まされたのである。かくて、クーンはパ ラダイム概念を中心に据えることによって、科学知識の生産・加工・流通過程の問題と科学者 集団の構造と機能の問題をダイナミックに−−マートン流の科学社会学のように両者を切り離 すことなく−−分析する可能性を切り開いたのであった。加えて、科学という営み、および科 学者をいたずらに理想化することなく、パラダイムに基づく科学研究をパズル解き(puzzle solving)になぞらえるクーンの科学観は、一九六○年代のヴェトナム戦争反対運動や大学紛 争を通じて、科学技術のあり方に疑問を抱くようになり、伝統的・通俗的な科学観とそれを 基礎にしたマートン流の科学社会学に飽き足りないものを感じ初めていた多くの人々の共感 を呼んだ。
  これらの人々は、一九七○年代以降、イギリスを含むヨーロッパを中心に、クーン流の科 学観を基礎にして、科学哲学および科学史に対する抜本的な批判や見直しを開始し、同時に、 マートン流の科学社会学にとってかわる新たな科学社会学の構築に努めた。こういった人々の 具体的な研究成果は、後述するような個々の専門研究書だけでなく、一九七一年に創刊された Science Studies(後に Social Studies of Science と改名)や一九七七年に創刊された『科 学社会学年報』 Sociology of the Sciences: A Yerabook などを通じて発表されている。
  上記のような研究史を背景にして、欧米の科学社会学には大別して二つの学派が存在して いる。一つはマートンとその流れを汲むアメリカの社会学者を中心とした流れであり、科学社 会学を社会学の一分野として位置づけ、科学者集団の社会構造と機能の分析に重きを置いてい る−−科学者集団の社会学(sociology of scientific community)と呼ぶことができよう。 もう一つは、クーン流の科学観と知識社会学の伝統を融合しようと努めているヨーロッパの研 究者(自然科学出身など社会学以外で学問的訓練を受けた研究者が多い)を中心とした流れで ある。かれらは、科学知識を確証された知識として暗箱の中に封じ込めるのではなく、文化人 類学や認知科学など周辺の学問分野の成果を積極的に取り込むことを通じて、科学知識そのも のと科学者集団およびより広い社会との関連を積極的に問おうと努めている−−科学知識の社 会学(sociology of scientific knowledge)と呼ぶことができよう(17)
  「科学者集団の社会学」と「科学知識の社会学」とは、本来、相対立するものではなく、 むしろ補完し合うべきものだと考えられるが、実際には、それぞれが前提としている科学知識 観や科学者像が相違することもあって、しばしば対立する傾向がみられる。特に、科学知識の 本質をめぐって両者の考えは真っ向から対立しており、その対立点は本稿の冒頭で指摘した 「客観主義と相対主義」に他ならない。

二 科学者集団の社会学−−客観主義的科学観
科学のエートスとノルム

  マートンによれば、科学という営みは、確証された知識の増大という目標を達成するのに 相応しい独自のエートス(倫理観)に支えられている。すなわち、科学者は集団としても個人 としても「科学者を拘束すると考えられている価値と規範の複合体」としての「科学のエート ス」を共有しているのである(18)。科学のエートスは、科学活動やその成果に対する「普遍 主義」、「公有性」、「利害の超越」、「系統的な懐疑主義」といったいくつかのノルム(規 範)を課すことによって科学者集団を律している(19)。ちなみに、日本学術会議が一九八○ 年に公表した「科学者憲章」は、科学のノルムが明文化された一例とみることができよう。参 考までに全文を掲げる(20)

  科学は、合理性と実証をむねとして、真理を探求し、また、その成果を応用することによ って、人間の生活を豊かにする。科学における真理の探求とその成果の応用は、人間の最も高 度に発達した知的活動に属し、これに携わる科学者は、真実を尊重し、独断を廃し、真理に対 する純粋にして厳正な精神を堅持するよう、努めなければならない。
  科学の健全な発達を図り、有益な応用を推進することは、社会の要請であるとともに、科 学者の果たすべき任務である。科学者は、その任務を遂行するため、つぎの五項目を遵守する。
  一、自己の研究の意義と目的を自覚し、人類の福祉と世界の平和に貢献する。
  二、学問の自由を擁護し、研究における創意を尊重する。
  三、諸科学の調和ある発展を重んじ、科学の精神と知識の普及を図る。
  四、科学の無視と乱用を警戒し、それらの危険を排除するよう努力する。
  五、科学の国際性を重んじ、世界の科学者との交流に努める。

  このようなエートスないしノルムに支えられている故に、科学という営みは他の社会シス テムと比較して健全であり、その所産としての科学知識は客観的で信頼できる、とマートンは 論ずる。科学知識の客観性や普遍性が科学者集団に特有のエートスやノルムに担保されている わけである。マートン流の科学社会学が客観主義的科学観を前提にし、同時にそれを補強する 構造になっている所以である。
  このようなマートンの議論は、科学という営みの独自性を強調しようとするあまり、科学 者(集団)を理想化ないし美化する傾きがあることは否めない。実際のところ、科学のエート スやノルムが科学知識の発展を促していることを示す明確な証拠は存在しないからである(21)。 筆者が右に「科学者憲章」全文を引用したのも、それが我が国の科学者たちの精神に内面化さ れてその研究活動に影響を及ぼしているとは考えられず、それどころか実際上ほとんど知られ ていないと思われたからに他ならない(22)。それ故、マートンの所論をめぐっては、科学の エートスなど存在しないとの批判も含めて多くの疑問が呈されている。とはいえ、科学に特有 のエートスを見いだそうとしたマートンの問題提起は、科学社会学固有の問題領域を設定した という意味で歴史的に重要な意義をもっていたといえよう。

科学の褒賞システムとマタイ効果

  科学者はなぜ研究するのだろうか? 科学者自身は、自らの研究の動機を知的好奇心に帰 すかもしれないが、科学社会学では、科学者が日夜研究に勤しんでいるのは、その研究成果が 独創的で価値が高いとの認知・評価を研究仲間から得るためだと考える。しかるに、科学者と その業績に対する直接的な認知・評価は、通常、研究成果の肯定的な引用というかたちでなさ れる。そのため、科学者はその研究成果を学会等で発表し、学会誌に論文を掲載することによ って研究仲間の認知・評価を獲得することに努めるわけである。いってみれば学会=学界は一 種の市場であり、そこでは研究業績がそれに見合う認知・評価を獲得するために売りに出され ているのである(23)。そして、一定の認知・評価を獲得した科学者は、その度合いに応じて、 学界内部での知名度の向上、所属する組織における地位や身分の上昇、それに伴う研究条件や 経済的条件の改善、さらには科学者としての社会的名声といったさまざまな褒賞を獲得するこ とになる。ノーベル賞に代表される各種の科学賞、権威ある学術団体の会員、法則や単位にそ の名を冠すること(エポニミー)などの褒賞も科学者を探究へと促す強力な動機づけとなって いる(24)。端的にいえば科学の世界はご褒美を目指しての競争をその活力源としているので ある。
  マートンが科学に特有なのもとして挙げた普遍主義のノルムからいえば、科学上の業績に 対する認知・評価は、業績を提出した科学者の属性には関わりないはずである。換言すれば、 学界という市場は公正な自由市場でなければならない。しかし実際には、マートンが新約聖書 のエピソードに因んで「マタイ効果」と命名したように、恵まれた条件をもった科学者は、認 知・評価を獲得しやすく、逆もまた真である。学界という市場には実質上、さまざまな特権な いし保護主義が存在していることになる。たとえば、一流の研究・教育機関に所属し、最新の 設備、潤沢な研究費、著名な科学者とともに研究する機会に恵まれた科学者は、その条件を活 かして優れた研究成果を挙げて、認知・評価を獲得する確率が高い。しかも、優位性は累積す る。かくて、多くの社会集団がそうであるように、科学者集団内部には厳然たる階層構造が形 成されており、優位性と褒賞の配分にも偏りが生ずるのである(25)。先に、プライスが明ら かにした科学者の論文生産性における偏りは、マタイ効果の存在を裏書きしている。

科学における不正行為

  科学の世界が一般社会と同様あるいはそれをしのぐ競争社会であり、褒賞の配分に偏りが みられるとすれば、不正行為の発生の可能性がある。科学の世界で時折露呈したり摘発された りする不正行為は、虚偽の報告(データの捏造や改竄)と他人の業績の剽窃に代表される(26)。 もっとも、不正行為の認定は、必ずしも容易ではない。たとえば、研究の現場では、実験結果 を整える−−グラフをきれいにする−−ために、実験データを「処理」することが日常的に行 われており、この作業を迅速かつ的確に行う研究者が有能な研究者とみなされがちであるが、 この種のデータの「処理」とデータの「改竄」との間に明確な区別があるわけではない(27)。 また、或る発見について一番乗りを果たせなかった、すなわちプライオリティ(先取権)を獲 得できなかった科学者は、しばしば「剽窃者」の嫌疑をかけられるが、実際に不正な剽窃行為 があったか、科学史上しばしば見られる「同時発見」であったかの判断は容易ではない。
  とはいえ、科学の世界で明らかな不正行為が発生していることは確かであり、この事実は、 研究仲間による認知・評価に対する科学者の欲求、すなわち褒賞獲得競争が、一般的なモラル や科学特有のノルムを逸脱させるほど激しいものであることを示している。また最近は、科学 (および技術)が経済的・政治的利害に深く関わることになった結果、組織的ないし政治的な 圧力が、科学者に不正行為を強要するという事例もある(28)。このように考えると、不正行 為を、それに直接かかわった科学者の個人的な資質に起因する逸脱行為や病理現象と片付ける ことはできない。
  明らかな不正行為が発覚した場合、科学のノルムにもとるとして、当該科学者はそれなり の処罰−−最も厳しいものとしては、科学界からの追放−−を受ける。しかしながら、実際に は不正行為はめったに発覚しない。というのも、科学者はそれぞれ自分の研究に没頭しており、 他人の研究報告を詳細に検討したり、追試を行ったりする余裕はないのが普通だからである。 ただ、その研究報告が従来の学説を覆すほど画期的なものであるような場合−−最近の事例で いえば、高温超伝導や常温核融合など−−に限って、徹底した検討や追試がなされるにすぎな い(29)

三 科学知識の社会学−−相対主義的科学観
科学知識は構成される

  これまでみてきたように、マートン学派の科学社会学や伝統的な知識社会学にあっては、 科学知識は論理的に首尾一貫し、経験的証拠に裏付けられ確証された知識であり、その意味で 客観的な実在を忠実に反映したものであると考えられてきた(30)。しかし、クーン以降の科 学論の展開の中で、科学知識そのものと社会との関わりを積極的に問い直した科学社会学者た ちは、科学知識は社会的に構成されたものだと主張するに至った。
  例えば、ラトゥールとウールガーは、文化人類学的研究手法を大胆に適用して、科学研究 の実態を記述・分析した。すなわち、彼らは『ラボラトリー・ライフ−−科学的事実の構成』 において、ソーク生物学研究所(The Salk Institute for Biological Studies)におけるラ トゥールの二年間(一九七五−七七年)の参与観察をもとに、科学者たちが、実際にはどのよ うに研究を進めているか、そしてそのような研究活動の中から科学知識がどのようにうみださ れる(構成される)かをリアルに描いてみせた(31)
  ラトゥールらが採用した研究手法、すなわち長期にわたる参与観察とそれに基づくエスノ グラフィーとは、観察対象とされた研究所の所長の言を借りれば、「(参与観察者=分析者が) 実験室の一部となって科学研究の日常的で詳細な過程に親しく接するとともに、科学という 《文化》を研究するための一種の探り針(プローブ)として《内側の》外部観察者であり続け、 科学者たちが何をなし、彼らが何をどのように考えているのかを詳細に探る」という研究手法 である(32)。このような研究手法を、緻密かつ詳細な観察を通じて科学知識の形成過程を分 析することに着目して「微視的科学社会学(microsociology of science)」呼ぶ場合もある。 ともあれ、ラトゥールとウールガーの共同研究は一九八○年代以降今日に至る実験室研究 (laboratory studies)の先駆となった(33)
  ラトゥールとウールガーの『ラボラトリー・ライフ』を踏まえて、「科学知識は発見され るのではなく構成される」という主張を全面的に展開したのがクノール・セチナの『知識の生 成−−科学の構成主義的・文脈的本性について』であった(34)。かくて「実験室研究」と 「構成主義的科学論」とが結びついて、科学社会学の有力な潮流を形成することとなった(35)。 このような動きは、科学知識の形成過程のみならず科学知識それ自体にさまざまな利害関係や 社会的成分を読みとろうとするD・ブルアらエディンバラ学派の主張(36)ともあいまって 「科学知識の社会学」へと展開していった。
  彼らによれば、或る実験データが存在した場合、そこから引き出される科学知識は必ずし も一つには限定されない。すなわち、実験データがいかなる文脈のなかに置かれるか、換言す れば、そのデータを解釈する科学者(集団)がどのようなパラダイムや理論を前提としている かによって、引き出される科学知識は異なりうるのである。しかも、特定の理論を前提としな い限り、複数の可能性のうちどれが特に優れているとも言えない。科学知識の社会学は相対主 義的科学観を標榜しているとされる所以である。
  ともあれ、科学の歴史の各時点で、科学者集団がある前提に基づいて、複数の選択肢の中 から選択してきた結果の総体が、現在我々が手にしている科学知識に他ならないのである。し たがって、科学知識には、多少なりとも社会的な成分、すなわち特定の科学者集団およびその 背後にある一般社会によるさまざまなバイアス(偏り)が織り込まれていることになる。逆に 言えば、社会的成分なりバイアスを一切含まないような科学知識はありえないともいえよう。
  科学知識に社会的成分が含まれているとの主張は、B・ゲッセンの「ニュートン力学の形 成−−『プリンキピア』の社会的経済的根源」(一九三一年)に代表されるマルクス主義的科 学論でもみられたが、しばしば唯物史観に基づく大雑把な議論に止まっていた。それに対して 科学知識の社会学にあっては、科学研究の現場で参与観察を行ったり、科学者の言説を分析し たり(37)、認知科学の成果を援用する(38)などさまざまな方法を駆使して、科学知識が具 体的にどのように生産され、どのように流通していくのかを緻密に分析することを通じて、科 学知識が社会的に構成されていく過程を説得力をもって明らかにしようと努めているのである。

ローカル・ノレッジとしての科学知識

  科学知識の生産の場、実験室に着目するという論議の中から、科学知識も他の多くの知識 と同様、ローカルな性格をもっていることに気付くべきだとの主張がなされるようになった。 すなわち、文化人類学者のC・ギアーツは、

  法および民俗誌は、帆走や庭造りと同じく、また政治や詩作がそうであるように、いずれ も場所に関するわざ(crafts of place)である。それらは、地方固有の知識(local knowledge) の導きによってうまく作動するといってよい。(39)

と述べているが、科学研究という営みも、構成された小世界としての実験室という「場所に関 するわざ」であるといえる。すなわち、科学者たちは個々の実験室なり研究室のローカルで偶 然的な(contingent)条件−−具体的に利用可能な実験装置や測定機器、さらにそれらを使い こなすスキル−−に束縛されながら、さまざまな工夫や交渉(negotiation)を通じて科学知識 を「構成」しようと努めている。したがって、そこで生産される知識は、J・ラウズが論ずる ように、ローカル・ノレッジでしかありえないのである(40)
  前節で科学における不正行為について言及したが、本節で論じているように、科学知識が ローカルな条件のもとで構成されるローカル・ナレッジだという観点に立てば、ある研究結果 が不正行為なのか、単に慎重さに欠けた研究に過ぎなかったのかの認定は一層困難になろう。 ましてや、再現の困難な現象についての測定が正しかったのか間違っていたのかの判断はほと んど不可能といえる。
  科学知識がローカル・ナレッジであるという主張を、以下に紹介する、文字どおりローカ ルな事件に則して考えてみよう。

広島・太田川「シアン騒動」をめぐって

  一九九二年十月二日、広島市の太田川で大量の魚が死に、「猛毒のシアンが検出された」 として約四三万戸の給水がストップされるという事件ないし事故が発生した。この事件につい て『朝日新聞』では同年十一月八日付けの地方版で「記者座談会」を掲載し、事件の概要とそ の後の顛末をたどっている。また、十一月十五日付けの大阪本社版の「時時刻刻」欄でも、よ り多くの読者に事件を報道・解説している。
  太田川で魚が大量に死んでいるとの知らせに応じて、現地調査を行い、「シアンを検出」 したため、川からの取水を停止するとともに、給水ストップ(断水)の措置をとったのは広島 市水道局だった。当日、太田川の水を検査したのは市水道局のほか、広島県警、広島市衛生局、 中国地方建設局太田川工事事務所の計四機関だったが、シアンを検出したのは水道局だけで、 他の三機関はシアンを検出できなかった。
  市水道局によれば、「シアンを検出した」との判断を下した経緯は次のようなものだった −−採取したサンプルを、試薬を加えて色の変化をみる比色法で検査したところ、サンプルの いくつかがシアン反応を示す青色変化した。もっとも、比色法の場合、亜硝酸イオンについて も青色変化がみられる。そこで、青色変化したサンプルを新鋭のイオンクロマトグラフで分析 した結果、シアン反応を示す波形を得た。しかし、後に明らかになったのだが、水道局は、イ オンクロマトグラフによる分析の結果を示す記録紙も、さらには採水サンプルそれ自体も事件 の混乱のなかで廃棄してしまっていたのである(記録紙は紙詰まりのため、サンプルはガラス 容器の不足のためとされている)。
  一方、広島県警捜査本部は、シアンを扱っている事業所を中心に事件が起こった周辺の事 業所の排水やシアン管理体制などを調査したが、これといって不審な点はなく、周辺事業所か らのシアン流出の可能性はないとの結論に達した。同時に、不法投棄の可能性も否定された。
  かくて、県警は、水道局以外の三機関が事件当日シアンを検出していない−−これら三機 関では検査にあたっては比色法しか用いていない−−こともあって、水道局のシアン検出結果 に疑念を抱き、魚の大量死の原因をシアン以外の毒劇物に求めた。その結果、周辺の乳製品製 造工場の排水処理に問題があることが判明し、県警は、ここからの排水が何らかの化学反応を 通じて魚を大量死させるに至ったとの結論を下して、この工場を水質汚濁防止法違反容疑で書 類送検して事件は一応決着した。しかし、市水道局は、記録紙やサンプルの保管に手落ちがあ ったことは認めたものの、「シアンを検出した」、すなわち測定そのものにミスはなかったと の判断は変えなかった。結局、事件当日、当該の場所にシアンが流入ないし発生したか否かに ついては灰色のままに終わったのであった。
  この事件をめぐって、客観主義的科学観の持ち主は、「本当のところシアンがあったのか なかったのか」と問うだろうし、そのことを明らかにするのが科学のあるいは科学者の努めだ と断ずることだろう。しかし、相対主義的科学観からみれば、すなわち、科学知識はローカル・ ナレッジであるとの立場に立てば、この事件についてそのように問うことは無意味に思える。
  すなわち、事実に則して言えば、行政諸機関が、それぞれのローカルな条件を駆使して事 件に対応したことは間違いない。しかし、新鋭の測定器を有していたのは市水道局だけであり、 しかも水道局は記録紙やサンプルの保全を怠るという初歩的なミスを犯している。つまり、当時、 広島には河川の汚染に伴う魚の大量死の原因を迅速適切に解明し処理するローカルな条件がな かった、ということなのである。しかし、もちろん、この事件を契機に水質管理体制は強化さ れ、例えば、水道局には新たに「全自動シアン分析装置」や「魚類自動監視装置」が導入され たということだし、測定に携わる人々の技量も事件を通じて格段に向上したはずである。我々 の地域社会は、いくばくかの犠牲を払って、河川の汚染監視について以前より改善されたロー カルな条件を獲得したのである。
  「それでもシアンがあったかなかったかが問題だ」と言う人には「デカルト的不安症候群」 との診断を下さざるを得ない。

(1)丸山高司・木岡伸男・品川哲彦・水谷雅彦共訳、岩波書店、一九九○年。
(2)同書、一六頁。
(3)同書、一七頁。
(4)同書、三六頁。
(5)中山茂訳、みすず書房、一九七一年。
(6)倉橋重史『科学社会学』晃洋書房、一九八三年:吉岡斉『科学社会学の構想−−ハイサ イエンス批判』リブロポート、一九八六年:成定薫・佐野正博・塚原修一共編著『制度として の科学−−科学の社会学(科学見直し叢書第2巻)』木鐸社など。
(7)科学社会学に関する総説としては、田中浩朗「科学者の社会学と科学知識の社会学−− その紹介と位置づけ」『年報 科学・技術・社会』一九九二年(第1巻)、五五−七○頁: Zuckerman, H.,"The Sociology of Science", in Smelser, N.J.(ed.), The Handbook of Sociology, Sage Pub.Inc., 1988, pp.511-574:Elizinga, A. and Jamison, A., "Science Studies", in Clark, B.R. and Neve, G. R.(eds.), The Encyclopedia of Higher Education, Vol.3, Pergamon Press, 1992, pp.1943-1956 などがある(英文の文献については阿曽沼明 裕氏の御教示による)。
(8)当初は雑誌論文として公表されたが、一九七○年に書物として再刊された。 Science Technology and Society in the Seventeenth Century in England, Harper Torchbooks, New York, 1970.
(9)R・K・マートン(成定薫訳)『科学社会学の歩み−−エピソードで綴る回想録』サイ エンス社、一九八三年、三三頁。
(10)R・K・マートン(森東吾・森好夫・金沢実・中島竜太郎共訳)『社会理論と社会構造』 みすず書房、一九六五年、第四部「科学の社会学」。
(11)この序文は後年、マートンの科学社会学に関する浩瀚な論文集 The Sociology of Science: Theoretical and Empirical Investigation, The University of Chicago Press, 1973 に 「科学社会学の無視」"The Neglect of the Sociology of Science"という表題で収録された。
(12)マートン、前掲書(註9)、「序文」。
(13)Whitley, R.,"Cognitive and Social Institutionalization of Scientific Specialties and Research Areas", in Whitley, R.(ed.), Social Processes of Scientific Development, Routledge & Kegan Paul, 1974, pp.90-91.
(14)Hagstrom, W.O.,The Scientific Community, Basic Books, 1965: Storer, N.W.,The Social System of Science, Holt, Rinehart and Winston, 1966.
(15)Little Science, Big Science, Columbia University Press, 1963.(島尾永康訳『リト ルサイエンス・ビッグサイエンス 科学の科学・科学情報』創元社、一九七○年)
(16)マートン、前掲書(註8)のほか、Cole, J.R., and Zuckerman, H.,"The Emergence of a Scientific Specialty: The Self-Exemplifying Case of the Sociology of Science", in Coser, L.A.,(ed.), The Idea of Social Structure: Papers in Honor of Robert K.Merton, Harcourt Brace Jovanovich, 1975, pp.139-174.参照。
(17)註(7)の表題に明らかなように、田中氏は「科学者の社会学」と「科学知識の社会学」 と分類している。
(18)マートン、前掲書(註10)、五○四頁。
(19)同書、五○六−五一三頁。
(20)渡辺直経・伊ヶ崎暁生共編『科学者憲章』勁草書房、一九八○年、二−三頁。
(21)Zuckerman, op cit.,(7), 514-520.
(22)ここで筆者は、日本学術会議が「科学者憲章」を制定することの是非や、我が国の科学 者たちが「科学者憲章」に無頓着なことの善し悪しを問題しているのではない。
(23)B・バーンズ(川手由己訳)『社会現象としての科学−−科学の意味を考えるために』 吉岡書店、一九八 年、  頁参照。
(24)Gaston, J., The Reward System in British and American Science, John Wiley & Sons, 1978.
(25)Zuckerman, op cit.,(7), 526-533.
(26)W・ブロード、N・ウェード(牧野賢治訳)『背信の科学者たち』化学同人、一九八八 年:A・コーン(酒井シヅ・三浦雅弘共訳)『科学の罠』工作社、一九九○年:下坂英「科学 者の《不正行為》について」、伊東俊太郎・村上陽一郎共編『社会から読む科学史(講座科学 史第2巻)』培風館、一九八九年、二九四−三一五頁など参照。
(27)筆者自身、かつて限りなく改竄に近いデータ処理にかかわった経験があることをこの機 会に告白しておきたい。
(28)中村禎里『科学者 その方法と世界』朝日選書、一九七九年、一九−二○頁参照。
(29)常温核融合に関して、推進派と否定派の主張を読み比べるのはスリリングな体験である。 山口栄一『試験管の中の太陽−−常温核融合に挑む』講談社、一九九三年:G・トーブス(渡 辺正訳)『常温核融合スキャンダル−−迷走科学の顛末』一九九三年。
(30)本稿ではこのような科学観を客観主義的科学観と呼んでいるが、マルケイは「標準的科 学観」としている。M・マルケイ(堀喜望・林由美子・森匡史・向井守・大野道邦共訳)『科 学と知識社会学』紀伊国屋書店、一九八五年、四九頁以下参照。
(31)Latour, B. and Woolger, S., Laboratory Life: The Construction of Scientific Facts, Princeton University Press, 1979, 1986.
(32)ibid., p.12.
(33)橋本毅彦「実験と実験室(ラボラトリー)をめぐる新しい科学史研究」『化学史研究』、 一九九三年(第二○卷)、一○七−一二一頁。また、Traweek, S., Beamtimes and Lifetimes: The World of High Energy Physicists, Harvard Univ. Press, 1988:S・トラウィーク「人 類学者がなぜ物理学者を研究するのか」『中央公論』、一九八七年一月号、一四五−一五三頁: S・K・コールマン「科学を対象とする文化人類学的アプローチ」『研究 技術 計画』、 一九九○年(第五卷)、第二号、二○四−二○九頁なども参照。
(34)Knorr-Cetina, K.D., The Manufacture of Knowledge: An Essay on the Constructivist and Contextual Nature of Science, Pergamon Press, 1981.
(35)Woolger, S. et al., Theme Section:"Laboratory Studies", Social Studies of Science, 1982(Vol.12), No.4, pp.481-558: Knorr-Cetina, K.D., et al.(eds.), Science Observed: Perspectives on the Social Study of Science, Sage Pub. Ltd., 1983: Knorr-Cetina, K.D.,"Laboratory Studies and the Constructivist Approach in the Study of Science and Technology", Japan Journal for Science, Technology & Society(『年報 科学・技術・ 社会』), 1993(Vol.2), pp.115-150.
(36)ブルアの主張とその方法論「ストロング・プログラム」については、D・ブルア(佐々木 力・古川安共訳)『数学の社会学−−知識と社会表象』培風館、一九八五年が詳しい。
(37)G・N・ギルバート、M・マルケイ(柴田幸雄・岩坪紹夫共訳)『科学理論の現象学』 紀伊国屋書店、一九九○年。
(38)M・ドゥ・メイ(村上陽一郎・成定薫・杉山滋郎・小林傳司共訳)『認知科学とパラダイ ム論』産業図書、一九九○年。
(39)C・ギアーツ(梶原影昭・小泉潤二・山下晋司・山下淑美共訳)『ローカル・ノレッジ −−解釈人類学論集』岩波書店、一九九一年、二九○頁。
(40)Rouse, J., Knowledge and Power: Toward a Political Philosophy of Science, Cornell Univ. Press, 1987. 特に Ch.4.,"Local Knowledge" 参照。


『科学論(岩波講座現代思想第10巻)』1994年, pp.315-336。

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