KGBのファイルに残されていた文書は、ノーベル賞を受賞した旧ソ連の天才
物理学者が明確な反スターリン主義者であったことを明らかにした
裁判を担当した判事は、ランダウ関係のファイルを調べるようKGBに要請した。
ファイルにはピャチゴールスキーに言及したものは含まれておらず、ベサラブは謝罪文
を公表した。このとき、KGBは初めてランダウの実像を知ったと私は確信している。
ソ連科学界の誉れともいうべきランダウは、スターリン主義の狂気に翻弄された無実の
犠牲者ではなく、心底からの反スターリン主義者であり、スターリン政権下の犯罪者で
あった。1991年、KGBはランダウ文書のほぼ全部をグラスノスチを目指した短命な雑
誌『共産党中央委員会報』に掲載した。
たまたま、私は出版のほんの数週間前にランダウ文書を読む機会があった。ペレストロイカ
(改革)が1980年代後半に始まって間もなく、私はモスクワの科学技術史研究所で
研究ポストを得た。この研究所の所長は、元国防省ウスチノフ(Dmitriy
Ustinov)の息子だった。私は、所長の名前が絶大な効果を発揮するに違いないと考え、
KGBファイルを手にできるかどうか賭けてみることにした。
私は細心の注意を払って手紙をしたためた。1930年代に逮捕されたソ連の重要な物理学者
の運命については、ほとんど何も知られていない。そのことを指摘する手紙である。
私は20数人の物理学者の名前を列挙して、歴史家が彼らに関する文書を研究の対象にでき
ないかと尋ねた。2週間の熟考の末、ウスチノフ所長はこの手紙に署名した。そして、後で
聞いたところでは、この手紙は幸運にも非常にリベラルなKGB副長官の机の上に届いた。
2カ月後、KGBは私に、ルビャンカ・ビル内の司令部の中で文書を研究してもい
いと知らせてきた。そこは無数の逮捕者が最初の恐怖の時間を過ごした場所である。入
り口で警備員に丁寧だが驚くほど徹底的に検査された。
閲覧室はなく、逮捕者の家族のための非常に小さな部屋があった。係官は、嘆き悲しむ
人々でいっぱいの部屋で仕事をするのは具合が悪かろうと説明して、部屋の主が病気で空い
ている部屋を私にあてがってくれた。そこは1930年代の板張りの部屋だったが、ランダウが
尋問された部屋かもしれなかった。窓からは彼が閉じ込められた監獄を見ることができた。
私も尋問された。二人の係官が、亡くなった物理学者のファイルに、なぜ興味深いもの
が含まれていると思うのかと私に尋ねた。彼らの質問に答えながら、そもそも、どう
して私がKGB司令部の内部に入り込むことができたのか、疑問に思い始めた。彼ら
は私の両親がロシアから米国に移住したことを知っているに違いない。とすれば、
彼らは私を罠にかけようとしているのだろうか。
しばらくして、KGBがソフトなイメージづくりのために努力しているのだとわかり、
ようやく落ち着き取り戻した。二人の係官が最後に、サハロフ(Andrei
Sakharov)は本当に優
れた物理学者だったのか、それともただの過激な異端者だったのかと尋ねた時、彼
らは単に好奇心が強いのだと納得できた。
数時間後、机の上に5冊のファイルを置いて係官は立ち去った。それらの文書には
1930年から1950年までの日付がついていた。なかにはまったくでたらめな文書もあったが、
ランダウが逮捕されたのは、いくぶん正気が戻りつつあった大粛清の終わりごろ
だったため、彼に関する文書はきちんとしていた。ファイルを開いて、それが1990年代の
偽造ではないかどうか自問した。結局、いくつかの偽造文書も含めて、すべての文書が
1930年代に作成されたと判断した。残念なことに、筆写する以外、複写の方法がなかった。
物理学者のルメル(Yuri B. Rumer)とコレツ(Moissey
Koretz)は、ランダウと同じ
夜に逮捕されている。ルメルは量子化学の開拓者の一人だった。コレツは有名人ではなか
ったが、研究以外の面でもランダウの相談にのっていた親友であり、彼の味方だった。
私はルメルに関するファイルの中に、匿名の情報提供者による3通の報告書を発見した。
一つは日付のない奇妙なものだった。そこには、ルメルの知人にラビ(ユダヤ教の指導者)
の息子がいて、彼がベルリンに住んでいてヒトラーのゲシュタポで働いている、と記されて
いた。
第二の報告書には1938年3月とあった。ソ連の役人に関するルメルとランダウとの会話
が記されており、ランダウが不完全に生まれた人間から何も期待できないと語ったと
されている。
同じ年の4月19日付けの第三の報告書では、情報提供者は、当時ランダウとルメルが
配布を準備していた反ソ宣伝のビラの存在を知っていたことを暴露している。こ
の驚くべきパンフレットの手書きの原稿はコレツに関するファイルの中にあった。聞くと
ころによると、このファイルは司法長官のオフィスに置かれていたという。しかし、ラン
ダウのファイルにはタイプされたものしか残っていなかった。
このパンフレットは複製され、メーデーのパレードの際に慎重に配布されることに
なっていた。次のような文字が記されている。
同志諸君!
十月革命の大義は裏切られた……。何百万人もの無実の人々が投獄され、いつ帰っ
てくるかだれも知らない……。
同志諸君、スターリンとその仲間たちがファシスト・クーデタをやったのを知ってい
るか! 社会主義は隅から隅まで嘘で固めた新聞に残っているだけだ。スターリン
は、真の社会主義に凶暴な憎しみをもち、ヒトラーやムッソリーニのようになった。
スターリンは自分の権力を守るために、この国を破壊し、野蛮なドイツ・ファシズム
の獲物にした……。
皇帝と資本家の権力を打倒した我が国のプロレタリアートはファシストの独裁者と
その仲間を打倒することができるだろう。
社会主義のための闘いの日であるメーデーよ永遠なれ!
−−反ファシスト労働者党
私の知る限り、この反ソ宣言は、大粛正の時期にソ連市民が行ったわずか三つの
明確なスターリン批判の一つである。二つ目は、パリに逃れたソ連の外交官が
1939年に公にした公開書簡である。この外交官は間もなく謎の史を遂げた。
第三の批判は、ラジウム研究所長ベルナドスキー(Vladimir
Vernadsky)の日記にみ ることができる。
このような批判を執筆し、さらには配布しようとすることはとてつもない勇気を必
要とすることであり、無謀な行為とも思えた。なぜKGBはこのようなことをしでか
した連中を即刻処刑しなかったのか。それを理解するには若干の説明が必要だろう。
1908年1月22日、ランダウはアゼルバイジャンの石油都市バクー(現在の首都)で
ユダヤ人の両親のもとに生まれた。父は石油会社の技術者で、母は医者だった。ランダウ
は1917年のロシア革命の時にはわずか9歳だった。14歳でバクー大学に入学し、2年後
国立レニングラード大学に編入、卒業後はソ連物理学の苗床とも言うべきレニングラ
ード物理・工学研究所で研究を続けた。
ランダウは1929年、外国の研究機関を歴訪する奨学金を得た。コペンハーゲンにいる
ボーア(Niels
Bohr)のもとで1年間研究をした後、ランダウはボーアを師と仰ぐよう
になった。当時すでにボーアは、新しい量子力学への貢献によってその名を知られるよ
うになっていた。
その後ランダウは英国に渡り、ソ連の有力な実験科学者カピッツァ(Pyotr
Kapitsa)に出
会った。カピッツアは1921年以来、ケンブリッジ大学のキャヴェンディッシュ研究所にい
た。ランダウは、カピッツアの質問の一つに答えるかたちで、金属中の電子の反磁性の
理論を発展させた。これはランダウにとって、最初の重要な業績となった。
ランダウは1932年ハリコフに行き、ウクライナ物理工学研究所の理論部長になった。
彼はそこで2次相転移(系における微妙な変化で、水が氷になる相転移とは違って、
熱の放出も吸収もない)に関する研究に着手した。さらに、磁石を形成する強磁性
について研究した。
有能で熱心な教師だったランダウは、自分の学生リフシッツ (Evgenni
Lifshitz)とともに、9巻からなる『理論物理学教程』の執筆にも着手し
た。間もなく、彼の研究所は、物理学におけるいかなる課題にも取り組むことのでき
る世界レベルの科学者の養成機関として高いの名声を得た。
コペンハーゲンでランダウに出会った物理学者カシミール (Hendrick
Casimir)は、ランダウは熱烈な共産主義者であり、革命的な家庭環境を非常に誇り
にしていたと回顧している。ランダウがソ連科学の建設にみせた真剣さは、彼の社会
主義に対する熱意の表れであった。
1935年、ランダウはソ連の新聞『イズベスチア』
に「ブルジョワジーと現代物理学」と題する奇妙な文章を発表した。宗教的な迷信や
貨幣に惹かれるブルジョワジーを攻撃とは距離をおいて、「党と政府によってもたらさ
れた、わが国における物理学の発展のためのこれまでにないような好機」を彼は称揚
した。ランダウは明確は政治意識もった階級主義者として、自分や友人たちを「共
産主義者」であるとし、年長の同僚たちを絶滅に瀕しているロシアのバイソンと呼んだ。
ランダウはソ連の体制を正しいと信じていたにもかかわらず、社会主義者を
標榜する数人の著述家たちの攻撃に悩まされた。1920年代の後半、新たに発見された原子核
の崩壊のエネルギーをどう説明するかで、ちょっとした騒ぎを引き起こした。
当初、ランダウをはじめとする研究者たちは、この実験結果はエネルギー保存則を逸脱
しているとするボーアの解釈を支持した。しかし、その後ランダウは、この仮説が
アインシュタインの重力理論に反していることに気付いて、ボーアの解釈を捨てた。
(やがて、これについてはパウリ(Wolfgang
Pauli)の説明が正しいことが判明した。 後にフェルミ(Enrico
Fermi)が「ニュートリノ」と名付けた未知の中性粒子が、失われた
エネルギーを担っている。)
運の悪いことに、マルクス主義の共同創設者エンゲルス(Friedrich
Engels)が、
エネルギー保存則は永久不滅の科学法則だと19世紀に宣言していたので、ランダウは
地方新聞で、一時的に冒涜の罪を手厳しく攻撃された。
ともあれ、彼の社会観は間もなく変化にさらされた。1934年、ハリコフ研究所は、
研究を軍事的・応用的なものに再編するようにという指令とともに、新しい所長を迎
えた。ランダウはこの変化の中で純粋科学を守ろうと必死に闘った。彼は、研究所を
分割すれば、そのうち一つで物理学が研究できるのではないかと提案した。そこで、
研究所の将来をめぐる活発な議論で賑わっていた研究所の掲示板に、コレツがランダ
ウの計画を熱烈に支持する文章を発表した。これを見たピャチゴールスキーは、公の
指令に反対することは軍需産業に対するサボタージュだとみなされることを知らずに、
この計画を当局に確認した(この一件でランダウは彼を破門したのだった)。1935年
11月、コレツは逮捕された。
ランダウは、ウクライナのKGBの所長に訴えて、勇敢にも友人を守ろうとした。そ
して、当時としては驚くべき事に、コレツは「証拠不十分」で釈放された。(数カ月
後、ハリコフのKGBの役人は自殺した。おそらく彼は、共産主義の理想と現実との間
のギャップが大きくなることに耐えられなかった多くの理想主義者の一人だったのだ
ろう。)しかし、コレツに関するファイルにあった一枚の紙片は、「犯罪は証明できな
かった」が、「ランダウが率いる反革命的な破壊組織の一員」から目を離してはならな
い、と警告している。
1937年、KGBはハリコフ研究所の数名のドイツ人物理学者と一団の科
学者を逮捕した。ランダウの友人であったシュブニコフ(Lev
Shubnikov)とロゼンケ ーヴィチ(Lev
Rozenkevich)は、処刑される前、ランダウが反革命組織
を率いていることを「告白した」。ランダウは、ハリコフを離れてもっと安全な場所に逃れ
ねばならないと考えた。カピッツアがモスクワにある物理問題研究所の理論
部長という地位をランダウに提供したので、彼は2月にそこへ向かった。間もなく、
コレツもランダウの後を追った。ルメルはすでにそこにいた。そして、1年もたたない1938年
4月28日、ランダウと二人の友人は逮捕された。
ランダウの弟子や同僚たちは、「唯物弁証法に反する、さらにはエネルギー保存則に反す
る」教説を言い立ているランダウを支持したと糾弾された。ランダウは過去の軽率な
振る舞いのせいで敵から告発されたのだ、と彼らは確信した。確かにランダ
ウには敵がいた。彼は人を怒らせるのが好きだったからである。たとえば、エ
イプリル・フールに、彼はハリコフ研究所の研究者たちを能力別に分類し、
それに応じて給料を計算し直したという公的な連絡事項を掲示板に貼りだした。この
ジョークは上役にはうけなかった。
現実には、ランダウに対する非難は、科学上の異端よりもはるかに深刻だった。彼は反
革命組織を率いていたと告発されたのである。この供述は彼の同僚から無理矢理引き出さ
れたものだったが、KGBにとってはランダウの行動を「証明する」ものとなった。反ソ
宣伝のビラの存在は、ランダウ逮捕の日程をメーデーの1週間前とする材料になっただけ
である。
ルメルは、このパンフレットには一切関わっていないことが判明した。ランダウも
コレツもそう証言し、ルメルはこの一件に関しては釈放された。しかし、ドイツのス
パイだという怪しげな非難のせいで、ルメルは監獄のような研究所(sharashkaという
科学技術所)で10年を過ごさねばならなかった。
ランダウはルビャンカ監獄に収監された。ランダウのファイルの中に、明らかにKGBの
係官がなぐり書きしたメモがあった。メモの内容から、ランダウは1日7時間も立たせられ、
さらに恐るべきレフォルトヴォ監獄へ移すぞと脅されたことがわかる。2カ月後、彼は屈服し、
ランダウの文書の中で最も胸を打つ6頁にわたる告白を書いた(すべての囚人は監獄を去
るにあたって、秘密を守ることを誓って署名した。ランダウは、この時期のことを一
切語らなかった)。
告白は次のように記している。「1937年の初頭、私たちは次のような結論に達した。
ソ連共産党は堕落しており、ソ連政府はもはや労働者のためではなく、少数の支配グル
ープの利害のために機能している。したがって、この国のためには現在の政府を打倒して、
コルホーズ(集団農場)と国有産業を維持しつつも、ブルジョワ民主主義国家の原則に基
づいた新しい国を建設しなければならない」。
このような告白が無理強いされた状況を考えると、告白を額面通りに受け取るべきで
はないかもしれない。しかし、その内容が異例なこともあって、私は告白は真実だと確信し
ている。二人の物理学者ランダウとコレツは、こののち半世紀もの間この国の大半の人々
が直視するのを避けた結論にすでに到達していたのだった。
ランダウに実際的な行動の必要性を説き、パンフレットの筆を取ったのはコレツだった。
しかし、パンフレットの背後にある政治思想はランダウのものである。ランダウは「執筆
恐怖症」として知られており、その著作の大半は、有名な『理論物理学教程』を含めて、
実際には同僚が執筆した(告白は、ランダウが自ら書き上げた生涯で最長の文章だった)。
共同謀議を企てたとされた二人は、宣言文に偽りの組織名で署名したので、宣言文は一層
深刻に受け止められた。
コレツは強制収容所Gulagで20年間を過ごし、1958年にモスクワに帰った。私は彼が1984
年にガンで亡くなる前に何度か会って話しを聞いた。コレツは科学に熱意をもっており、
啓蒙的な科学雑誌の仕事をしていた。苦労していたにもかかわらず陽気で活力に溢れており、
ランダウについていろいろな話しを聞かせてくれた。だが、二人が逮捕された経緯は決して
話してくれなかった。
コレツは不当に告発されたことを公に認めてもらえず、名誉を回復できなかった。このこ
とは、粛正期の犠牲者の多くと違い、彼の逮捕に何らかの確かな根拠があったことを示唆し
ている。
一方、ランダウを救ったのはカピッツアだった。カピッツアは酸素製造の新技術という
産業にとって重要な技術を発明したおかげで、政府ときわめて良好なつながりを得ていた。
彼は役人との意志疎通にたぐいまれな才能をもっており、科学政策上のさまざまな問題に
ついて、また量子場の理論家フォック(Vladimir
Fock)のような物理学者を救うために、
クレムリンに百通以上も手紙を書いた。
1938年、KGB長官が「失踪し」、ベリア(Lavrenti
Beria)という人物が後
任に就いた。2年にわたる虐殺の後、スターリンはその目的を達した。現実のものであれ、
想像上のものであれ、ライヴァルはすべて殺したのである。
好機到来と考えたカピッツアはモロトフ(Vyacheslav
Molotov)首相に、「現代物理学
の最も深淵な分野で」自分はあることを発見したのだが、ランダウ以外の理論物理学者に
はそれを説明できない、と書き送った。そして1939年のメーデーの前日、ランダウは1年
間の刑務所暮らしを経て、保釈された。数カ月後、彼はカピッツアの超流動現象を、フォ
ノンとロトンと呼ばれる新しい励起子を用いて説明した。数十年後、二人はこの業績でノー
ベル賞を受賞した。
1939年、ランダウはK.T.ドロバンツェヴァ(Drobanzeva)と結婚し、1946年、
息子が生まれイーゴリ(Igor)と名付けた。この結婚生活は異例だった。明らかにランダ
ウは自由恋愛を信奉しており、弟子たちにも困惑する妻にも自分と同じように振る舞うよ
う勧めた。
ランダウが釈放されて数年後、スターリンはソ連の原爆プロジェクトを組織した。広島
に原爆が投下されると、ますます拍車がかかった。カピッツアの研究所は、この計画に組み
込まれ、スターリンはKGB長官のベリアをプロジェクト全体の責任者に据えた。カピッツ
アは平和主義者ではなかったが、スターリンの番犬の立ち会いのもと、秘密主義の雰囲気で
研究をするのは耐えられないと感じた。彼はスターリンに手紙を書いて、ベリアがこのよう
なプロジェクトを取り仕切るのはふさわしくない、と訴えた。
これはとてつもなく危険な方策だった。カピッツアの友人フルレフ
(Andrei
Khrulev)将軍は、ベリアとスターリンとの間でなされた会話から漏れ聞いた
内容を彼に伝えた。ベリアはカピッツアの首を望んだが、カピッツアからすべてのポ
ストを剥奪することはできても、命を奪うことはできない、とスターリンはベリアに
言った。明らかに、スターリンはカピッツアの物理学者としての世界的な名声に一目
おいていた。なんといっても、カピッツアはイギリスのロイヤル・ソサエティの会員
だったのだ。
カピッツアは、スターリンの死まで、自宅軟禁のような状態におかれたが処刑は免れた。
ところが、一方のランダウは最高機密プロジェクトに従事させられていた。核爆弾
製造プロジェクトでの彼の仕事は、理論物理学ではなく数値計算だった。ランダウは、
自分が指揮した物理学者たちとともに、ソ連最初の熱核爆弾スロイカ(重水素化リチ
ウムで満たされた「レヤーケーキ」)のエネルギーを計算した。
米国の水爆の製造に関わったベーテ(Hans
Bethe)によれば、米国では重水素化リチ
ウムを他の充填剤とともに、もともとは「目覚まし時計」として設計していた。しかし、
ランダウが核出力を計算したのとは違って、アメリカの水爆の核出力は予測できなかった。
この目的のために開発された数学の一部が、秘密解除となって、第一次の核緊張緩
和の時期であった1958年に出版された。数値積分に関する論文はランダウの『論文集』
の中で異彩を放っている。論文集にはランダウの研究のうち最も影響力の大きい論文
が収められているが、それは水爆研究のただ中にあった1950年、ギンズ
ブルグ(Vitaly
Ginzburg)と共著で書かれたものだった。この論文は、超伝導、素粒子、
化学的化合物といった広範な系を記述できる単純で強力な枠組みについて述べている。
それは、とりわけ素粒子物理学者にとって重要な、対称性の破れという一般的な現象に
先鞭をつけた。
皮肉なことにランダウは、原爆および水爆の開発に対する貢献を称えられて、
1949年と1953年の2度にわたってスターリン賞を受賞した。1954年には、「社会主義労働英雄」
の称号を授与された。
1957年になって、ランダウは、共産党中央委員会に外国旅行の許可を申請したようだ。
KGBは党の要請に応えて、1947年から1957年の間のランダウと彼の友人
たちとの会話の記録を作成した。これらの記録はKGBが言うところの「特殊な技術」と
情報提供者の報告によるものだった。この記録は共産党のファイルの中にあり、次の
ようなことを明らかにしている。
記録の中でランダウは自らを「科学者奴隷」と呼んでいる。彼の反抗的な気質を考
えれば、これは驚くことではない。加えて、1930年代の経験は彼を反スターリン主義者にし
た。しかし、この記録はさらに深刻な政治的変化を証言している。ある時、ランダウの友人が、も
しレーニンが突然生き返ったら、見現在の状況に驚愕するにちがいない、と言った。これに
対して「レーニンもまた(スターリンと)同じような抑圧手段に出るだろう」とランダウは
応じた。
その後、ランダウは次のように語っている。「1937年以来学んできたように、わ
れわれの政治体制は、明らかにファシスト体制であり、簡単なやり方では自ら変
革はできない。……この体制が存在している間は、発展して立派なものになるなどとい
う希望をもつのは馬鹿げている。……われわれの体制をいかに平和的に清算するかは、
人類の未来に関わることだ。……ファシズムがなければ、戦争はない」。最後に、彼
は次のように結論している。「レーニンが最初のファシストだったことは明らかで
ある」。
こういった考えがいかに並外れたものだったかを理解していただきたい。ランダウ
の同僚のほとんどは、心底からのソ連支持者だった。ソ連最初のノーベル物理学賞受賞者
タム(Igor Evgenyevich
Tamm)や、ソ連最初のノーベル平和賞受賞者サハロフも例外では
ない。彼らは、レーニンの大義を裏切ったとしてスターリンの罪を認めたが、レーニン
その人はまだ英雄だった。
私の知る限り、スターリン体制下での核爆弾開発のために仕事をすることに嫌悪感
を表明した物理学者は二人しかいない。一人はランダウでもう一人は1951年にソ連の
核融合計画における理論研究の指導者となったレオントビッチ(Mikhail
Leontovich) である。
ランダウは、当局から自分を守ってくれるという理由で核開発に従事した。彼は自ら
の関与を限定しようとつとめ、ある時、権限を拡大しようとしたとして物理学者のゼル
ドビッチ(Yakov
Zeldovich)をののしった(「あのビッチめ」と)。スターリンが亡
くなった後、ランダウは友人で学生でもあるハラトニコフ(Isaac M.
Khalatnikov)に
次のように述べた。「やった。彼は死んだ。もはや彼を恐れることはない。もう[核兵
器]の仕事はしない」。実際、彼は核開発プロジェクトから離れた。
一つの疑問が残っている。ランダウが核爆弾に関する仕事を嫌がっていたとするな
ら、なぜあんなにも大きな貢献をしたのだろうか。1956年に設立されたランダウ
理論物理学研究所の所長になったハラトニコフは、私の問いに次のように答えてくれた。
「ランダウは、いい加減な仕事ができなかったのだ」。
このように、ランダウはソ連体制の本質を理解するとともに自分の考えを表明する
勇気をもった希有な人物だった。ソ連の核開発物理学者の間で、彼の立場は非常に
皮肉なものだった。なぜなら、彼は誰のために自分が強力な爆弾を作っているのか
を見抜いていたからである。
1962年、ランダウは自動車事故にあった。一命はとりとめたものの脳に損傷を受
け、残念なことに彼の人格は変わり、科学的才能は失われてしまった。ランダウは自
分が変わってしまったことを知っていたようだ。彼は1968年4月1日に亡くなっ
た。彼の弟子のアキゼル(Alexander I.
Ahkiezer)は、この知らせを聞いて、また
ダウのエイプリル・フールだと思ったと、回想している。
私はKGBのファイルをほんの2週間だけ研究したが、それ以上仕事を続けることができ
なかった。ファイルに記録された多くの破壊された人生に感情的に圧倒されてしまっ
たのである。1991年のソ連の解体後、KGBは再編された。しかし、私の知る限り、どの歴
史家もKGB文書を継続的に検討していない。残されたファイルは多くの驚愕すべき物語を秘
めている。そのなかには、ランダウという物理学者をめぐる物語以上のものもあるかもしれな
い。
1927年、ランダウは複雑な量子状態を取り扱う数学的道具である密度行列を
初めて導入した一人になった。彼は電子ガスの挙動を記述する研究に取り組み、磁場中の
電子は、今日ではランダウ準位と呼ばれている離散的なエネルギー軌道に限定さ
れていることを明らかにした。天体物理学の領域では、中性子の核の存在を想定
したが、それは現在は中性子星として知られている。ランダウは、米国の研究者たちと同じ
時期に、宇宙線がどのようにして電子シャワーを作り出すのかを説明した。
ランダウの重要な貢献には、熱の吸収を伴わずに秩序ある状態から無秩序の状態へ
物質が変化する「2次の相転移」がある。このような転移の一つに、ヘリウムの通
常状態から超流動状態への転移がある。ランダウは、超流動現象をロトンを用いて説明
した(ロトンはランダウが提唱した一種の励起子で、観測では見つかったが、その本性
は謎のままである)。彼は、一種の巨視的な波動関数である秩序パラメーターも導入した。
秩序パラメーターは、ヘリウムの超流動に適用すると通常の量子状態における原子の振る
舞いを記述し、超伝導体に適用すると励起磁場の周りにどのようにして電流が流れるかと
いうような性質を明らかにし、ヘリウム3の超流動に適用すると一群の複雑な配置を記述
した。
1950年、ランダウは弟子のギンズブルグとともに、対照性の破れとい
う普遍的な現象(これによって、例えば、クォークは質量を獲得すると考えられて
いる)が、秩序パラメターを用いることによって、容易に記述できるような枠組み
を展開した。
ランダウは、強磁性が、微視的な要素が異なった方向を指す領域にどのように分か
れているかについても研究した。またプラズマ物理学についても研究し、1956年に、
電子のような粒子の強い相互作用を含むフェルミ流体の理論を展開した。彼の関心は
素粒子理論にまで及んでいた。彼は原子核の統計的描像を展開し、量子電磁気学の整
合性に挑戦し、他の人々とともに、電荷−パリティ保存の原理を提案した。以上は、
彼の業績の一部にすぎない。(編集部)