本書の書名は,もちろん,デカルトの有名な格言「われ思う,故に,われ存在す」をもじった
ものである。著者の科学ジャーナリスト,ピエール・ランタンは,1968年,フランスに起こった
反体制運動=5月革命の世代だという。この頃,学生たちに占拠された 大学の壁に「デカルト
を殺せ!」という過激な落書きがあったとの話を,当時若かった評者は印象深く伝え聞いたこと
があった。この場合のデカルトとは,近代科学の方法とその所産としての科学技術文明の父とい
う意味であり,5月革命はそれらを一切合切批判し転覆しようと試みたのであった。当時,著者
自身が「デカルトを殺せ!」と叫んだかどうかは知らないが,5月革命から四半世紀の後(原著
は1994年出版),デカルトの格言をもじった書物が書かれたことに,同じ時代を生きてきた評者
としては若干の感慨を禁じ得ない。
実際,本書にはデカルトに関する章(第6章「デカルトとパストゥールにかんする真相」)も
ある。そこでは,デカルトの科学的(哲学的)議論に含まれる錯誤ないし誤謬が次々に槍玉に挙
げられ,完膚無きまでに批判(罵倒というべきか)される。
デカルトだけではない。アリストテレスらギリシアの哲学者たちも,コペルニクスやガリレオ
ら「科学革命」の担い手たちも,キュリー夫人やアインシュタインら現代科学のチャンピオンた
ちも,奇妙な想念にとらわれ,大きな過ちをおかしている,と次から次へと断罪される。それら
の実例は,天文学,物理学,化学,生物学,地質学,心理学等々自然科学のすべての分野から採
られている。しかも著者の記述は,近年の科学史研究の成果を踏まえたもので,きわめて説得力
に富んでいる。
評者のようなへそ曲がりには,英雄偉人伝上の科学者たちが,著者の辛辣な筆致によって断罪
されていくのを見るのはいかにも痛快であり,科学史を専攻するものの一人として,不遜にも「
こんな本を書きたかった」などと思ったりもしたのだが,読み進むうちに次のような疑問を抱き
始めた。
すなわち,著者による「偶像破壊」は確かに痛快なのだが,このような偶像破壊が可能なのは
なぜか,という問題を考えざるを得ないのである。現代人である著者は,「正しい」科学知識を
知っているだけでなく,何が科学的でない(非科学)とされているかも弁えている。さらに,前
述したように近年の科学史研究の成果にも通暁している。そのように戦略的に圧倒的に有利な高
見に立って,過去の科学者たちを一方的に断罪することは果たして可能なのか,フェアな態度と
言えるのか,という疑問が湧いてきたのである。そして,著者とともに過去の人物たちの錯誤や
誤謬を笑うことに,読者として一種の後ろめたい気持ちを抑えられなくなってきたのである。
デカルトの例にもどろう。著者は次のように論ずる。「しかし彼のもたらした成果がいかにつ
まらないものであっても,科学の進歩に対する彼の影響力の大きさを過小評価することはできな
い。古人の教えに対する方法論的懐疑,論理的・数学的論証,幾何学的格子の中に空間と時間を
とらえて表現すること−−彼がうちたてたこうした原理は莫大な貢献をしてきたし,いまだに貢
献しつづけている」(本書, 124-5頁)。5月革命の世代である著者も,今や近現代科学を全体と
して肯定し,その成果を享受する立場にある。そのため,もはや「デカルトを殺せ!」などとは
叫ばない。デカルトの「方法」は良い,しかしその「応用例」が間違っていた,というわけであ
る。
著者のこのような論法は,一見,偶像破壊的であるように見えて,実際には,裏返しにされた
「ホイッグ史観」−−科学の歴史を徐々に知識が増大してきた進歩の歴史と考え,歴史上の科学
者たちを現代の科学知識にどれだけ貢献しているかという観点から評価する進歩主義的歴史観−
−ではないだろうか。科学史において進歩主義的ホイッグ史観の弊害ないし限界が指摘されてか
ら久しいが,本書もその限界を克服しているとはいえない。とはいえ,本書が,科学史上の豊富
な事例を踏まえて,とんでもない「錯誤」から画期的な「創造」が生み出される逆説を興味深く
論じた好著であることには変わりない。
科学史ファンの一読をお薦めする。
(『日経サイエンス』1996年7月号, 157-8頁.)