科学革命が起こるとき
クーンの「パラダイム論」
「パラダイム(paradigm)」あるいは「パラダイム論」といえば、もちろんT・クーン著『科学革命の構造』(原著初版一九六二年、改訂版一九七○年、改訂版に基づく邦訳一九七一年)に展開されている科学と科学の歴史についての見方、科学論のことを意味する。実際、クーンは『科学革命の構造』の冒頭で、パラダイムを「一般に認められた科学的業績で、一時期の間、専門家に対して問い方や答え方のモデルを与えるもの」と定義し、この語を自らの科学論のキーワードとしたのである。
一九二二年に生まれたクーンは、アメリカの名門ハーバード大学で物理学を修めた後、科学史に転じた。カリフォルニア大学バークレー校で科学史を講じ、天文学史におけるコペルニクス革命の意義を論じた好著『コペルニクス革命−−西洋思想の発展と惑星天文学』(原著一九五七年、邦訳一九七六年)を著して科学史家として高い評価を獲得した。そして、『科学革命の構造』の執筆に際して、クーンは、「モデル」「概念枠組み」「概念図式」などといった、科学論の歴史の中でいささか手垢のついてしまった用語を避けて、あえて一般には馴染みのない「パラダイム」という用語を選んだのであった。
この本は、出版後数年を経ずして、科学史・科学論の歴史上、空前の問題作として、論議の焦点となった。かくて、クーンは「時の人」としてプリンストン大学に招聘され、さらにMIT(マサチューセッツ工科大学)に転じ、自らの科学論の弁明・精緻化に務めるとともに科学史研究に没頭した。そして、彼は一九九六年、惜しまれながら病のため他界した。このニュースは、少なくとも科学史・科学論の世界では、一種の衝撃を伴ってかけめぐった。彼の存在、彼の科学論・パラダイム論はそれほどに大きかったのである。
ところで、元来、パラダイムという語は、語形変化のパターン=模範例を意味する文法用語にすぎなかった。なぜ、クーンは、この語を自らの科学論のキーワードに選んだのだろうか? 惜しくもクーンは他界したので、もはや直接、聞き質すすべはなくなった。そのうち遺稿が整理されて、出版され、その中にパラダイムという語をどのような経緯で見出し、使用するに至ったかが明らかになるかもしれない。
筆者は、一九八六年に広島を訪れたクーン夫妻と親しく会食する機会があったのだが、その際にパラダイムという語の使用について本人にたずねなかったことが今更ながら悔やまれる。というのも、筆者自身、今から二十五年ほど前『科学革命の構造』を読み、そこでパラダイム概念に出会ったたことがきっかけとなり、科学論の世界に方向を転じたからである(成定、一九九六年)。
確かに「科学とは何か」に関して、パラダイム論以前にも緻密な議論が積み重ねられてはいた。筆者も独学ながら、科学論の世界を垣間みたりしたのだが、そこで論じられていることは、当時、自ら身を置いていた科学研究の現場や実態とは随分かけ離れているように思われた。しかし『科学革命の構造』との出会いによってはじめて筆者はパラダイム論という観点から科学論に目を向けるようになったのである。
科学論の四つの発展段階
ベルギーの認知心理学者M・ドゥ・メイは、最近、科学とは何か、科学知識はどのような特質をもち、どのように獲得することができるかなどをめぐる議論、すなわち「科学論」の発展を、次の四つの段階にまとめている(ドゥ・メイ、一九九○年)。
(1)モナド論的段階−−古典的実証主義
科学知識に関する素朴かつ古典的な見方である。また、おそらく多くの科学者は暗黙のうちにこの科学観を採用している。「モナド(単子)」とは十七世紀ドイツの哲学者ライプニッツの用語であり、宇宙を構成する単純で完全な要素であるとされる。科学者は、観察を通じてモナド的な事実、すなわち互いに切り離された単純な事実やデータを、収集し記録する。科学知識の体系はそのようにして集められたカタログのようなものとみなすことができる。こうして科学知識は科学者の営々たる努力を通じて確実に増大していき、カタログは日増しに分厚くなっていく、と考えられる。このような考え方は「実証主義positivism(プラス主義)的科学論」と呼ぶことができる。
(2)構造論的段階−−論理実証主義
モナド的な事実やデータは、実際上、単独では判別できないか、あるいは意味不明の場合が多い。経験によって得られた多くのモナド的な事実やデータの間に見出される何か特別の様式、すなわち論理ないし構造が、明らかにされて初めて意味が与えられると考えることができる。かくて第一次大戦後のウィーンに現れた「論理実証主義者」と呼ばれる人々は、科学知識の本質は、知識を知識たらしめている論理や構造にあると考え、論理学や数学の助けを借りながら、科学知識の構造の分析に努めた。
(3)文脈論的段階−−科学の科学
一九三○年代ころから科学史家や科学社会学者らによって提出された見方である。科学や科学知識の本質は、事実やデータから科学知識が生み出され、それらが利用されていく文脈に着目することによって明らかになるという。例えば、個々の科学知識の成立と特定の文化的・社会的・経済的利害関心との関連が熱心な論議の対象となってきた。さらに、「科学者集団」に関する数量的な研究も含めて、多くの社会学的研究がなされた。科学という営みそれ自体を、さまざまな手法を用いて科学的に分析すること(科学の科学)が精力的になされてきたわけである。しかし、科学をとりまく文脈は多種多様であり、科学の発展にとって、また個々の科学知識の成立にとって、どの文脈が決定的な役割を果たしたかは、しばしば確定し難い。
(4)認知論的・解釈学的段階−−パラダイム論
一九六○年代初頭に提起されたクーンの「パラダイム論」は、次節で詳しくみるように、従来の科学論に強烈な衝撃を与えた。一方、一九七○年代以降の認知科学の展開は、クーン以降の科学論との間に接点を作り出すに至った。なぜなら、「事実やデータは、観察者が選択した“世界モデル”に応じて、総合的に分析されて了解される」という認知科学における知見は、科学者も自らの世界モデルによって世界を分析し了解していることを強く示唆しているからである。実際、クーンの科学論の基礎になっている「パラダイム」とは、観察者=科学者の世界モデルに他ならないとみることもできるのである。さらに、晩年のクーン自身も気付いていたように、パラダイム=世界モデルを通じての科学研究と科学知識の獲得のプロセスに解釈学的解釈hermeneutic interpretationの可能性をみてとることもできる(クーン、一九九四年)。もし、このことを認めると、自然を対象とした知識と人間や社会を対象とした知識との間には、本質的な違いは存在しないことになる。このように、現在の科学論は、パラダイム論の登場をきっかけにして、自然科学のみを対象とするのではなく、認知一般に、また、知識一般に開かれた論議の場となっているのである。
パラダイムの消失が科学の世界を開く
このように、クーンのパラダイム概念は、認知科学における「世界モデル」に通じる面もある。しかしパラダイムは現実の科学研究にそくした概念であり、また、他の二つの概念、すなわち、「通常科学」および「科学者集団」という概念と併せて理解されねばならない。クーンは、これらの概念を用いて、科学という営みを次のようにリアルに描いてみせた。
科学者を目指すものは、長い徒弟修行を通じて、特定分野のパラダイムを身につけ、学位の取得などを機に、一人前の科学者として、科学研究に携わることになる。それはパラダイムに導かれた研究という意味で一種のパズル解きpuzzle solvingである。科学研究の多く、すなわち通常科学はこの種のパズル解きに他ならない。
だが、パラダイムはいつまでも安泰というわけではない。パズルは次第に底を尽き、逆に、パラダイムでは対処できない変則事例anomalyが蓄積してくる。それによってやがてパラダイムの危機crisisが生じ、その混乱の中から新しいパラダイムが登場し、やがて「科学革命」scientific revolutionが起こる。
ここで、科学者の訓練と資格認定から始まって、通常科学を営み、獲得された科学知識の品質保証を行っているのは当該分野の科学者集団である。なぜなら、科学者集団はパラダイムを共有しているからである。したがって、パラダイムの危機は同時に当該科学者集団の危機でもあり、新しいパラダイムによる科学革命は新しい科学者集団の誕生を意味することになる。もちろん新旧の科学者集団の成員に重なりがあることもあろうが。
このように、クーンの科学論において、パラダイム−通常科学−科学者集団という三つの概念は、一種の循環論を形成していることになる。
パラダイムの機能を直観的に表す図を見てみよう。この図で個々の科学者はベクトルで表されている。パラダイムが有効に機能している時期にはほとんどのベクトルが同じ方向を向いており、科学者集団が全体として能率的に研究を推進していることがみてとれる。同時に、そのパラダイムの有効性の故に、科学者集団は外部(科学の他の分野、及びより広い社会)に対して閉じられている。
一方、パラダイムが確立する以前、また、それまで有効に機能していたパラダイムが危機に瀕している時期のどちらも、ベクトルの向きはバラバラで研究は方向性を失ってしまっている。しかし、パラダイムの消失の結果、外部と内部の境界は取り払われ、科学者集団は新しいパラダイムを模索する中で、他の科学分野から、あるいは社会のさまざまの分野から、直接・間接の影響を受ける可能性が生じてくる。
クーンによれば、科学の歴史は、このように「通常科学−危機−科学革命」の継起として、あるいは外部に対する「閉鎖性」と「開放性」の継起として捉えることができるのである。クーンの科学論は、前節の(1)のモナド論的段階からから(3)の文脈論的段階まででみたような、素朴なあるいはスタティック(静的)な科学論とは違って、科学のダイナミック(動的)な実像とその歴史を見事に捉えることに成功したといえるだろう。
では、科学革命はどのようにして起こるのだろうか?
偉大な科学者と山師は区別がつかない
われわれはパラダイムが危機に瀕しているとき、どうすればそれに気付くことができるのか? また、新しいパラダイムはどのように準備されて科学革命が起こるのか? 「この問いに対する解答はない」というのが筆者の答えである。「どうすればノーベル賞がとれるような立派な研究ができるのか」という問いに対する答えがそうであるのと同じである。あえて答えるなら、オーストリア出身のアメリカの科学哲学者ポール・ファイヤーアーベントに倣って、「何でも構わないAnything goes!」とでも言うしかない(ファイヤーアーベント、一九八一年)。
ただ、歴史的事例に学ぶことはできよう。二つのパターンがある。
(1)パラダイムに忠実である場合
いわゆる地動説(太陽中心説)を提唱したコペルニクスの場合について考えてみよう。この事例については、前述したように、クーン自ら『コペルニクス革命』と題した著作をものしている(クーン、一九七六年)。
科学史の分野ではよく知られているように、コペルニクスは革命的な思想の持ち主ではなかったし、卓越した観測家でもなかった。すなわち、コペルニクスは、精密な天文観測の結果、天動説の誤りに気づき、革命的思想に促されて、太陽中心説を主張するに至ったのではない。むしろ、ギリシア以来の天体運動に関するドグマである「一様な円運動」に対するこだわりが、太陽中心説への道を拓いたのであった。
天動説において地球を中心とすると、太陽や惑星が不規則な運動を示すことになる。そこで当時の天文学者たちは、地球そのもではなく、その近くに太陽や惑星の運動の中心があるとしてこれらの天体の「一様な円運動」を実現しようとした。この仮の中心は「エカント点」と呼ばれた。だがコペルニクスはこれに反発し、回転の中心を地球から太陽に置き換えることによってエカント点を消去しようとしたのである。かくて、コペルニクスの場合、天動説というパラダイムの根幹にある「一様な円運動」への固執が、結果的に、科学革命の引き金を引かせたことになる。
クーンは、このような事態を伝統と革新の間の本質的緊張essential tensionと呼んでいる(クーン、一九九二年)。すなわち、「伝統に最も忠実なものこそ、その伝統を乗り越えることができる」というわけである。
しかし現実の科学史には、パラダイムにこだわるあまり、重要な変則事例に目を閉ざし、ひたすらその場限りの仮説でそれらを糊塗することにより、起こるべき科学革命を封じ込めようとした事例が満ち溢れている。他ならぬ、天動説二千年の歴史がその典型である。伝統的なドグマに忠実であったコペルニクスが、そうならなかったのは、結局のところ、運がよかったからだけではないだろうか。
(2)パラダイムから自由である場合
コペルニクスの地動説を継承したガリレオ・ガリレオの望遠鏡による天文観測の事例を考えてみよう。
望遠鏡は、よく知られているように、ガリレオの同時代のオランダの職人がたまたま発明した。ガリレオ以外の当時の人々、あるいは彼以前の人々は、望遠鏡を単なる高級玩具としてみなした。だがガリレオは大胆にも天文観測に用い、月の表面の凸凹や、木星の四大衛星を見つけるなどの画期的な発見をもたらした。彼のこのような観測によって、地動説は大いに補強され、逆に天動説は打撃を受けた。
かくて、ガリレオは科学革命の英雄の一人に名を連ねることになったが、このことは後のガリレオ裁判の伏線にもなった--これは科学史上あまりにも有名なエピソードである。
ガリレオが、自分ではその光学的な原理を知らなかったにもかかわらず、望遠鏡による天文観測に着手したのは、彼が従来の自然哲学のパラダイムからかなり自由になっていたからであった。というのは、従来の自然哲学では天上の事物と地上の事物は全く別物であり、それらの運動のあり方も全く異なると考えられていた。したがって、たとえ望遠鏡が地上の事物に有効であることが明らかであっても、天上の事物に有効であるとは考えられなかった。少なくとも、論理的−−現代風に「科学的」と言ってもよいが−−な帰結とは言えなかったのである(ファイヤーアーベント、一九八一年)。
しかし、ガリレオは自らの研究を通じて、従来の自然哲学パラダイムが危機に瀕していることに十分気付いており、また研究の対象が自分の本来の専門分野である力学・運動学の分野とは異なる天文学と気楽さもあってのことだろうが、何のためらいもなく望遠鏡を天に向けた。そしてガリレオは、そこで得られた像が真実を写していると考えたのである。
一方、これもよく知られているように、ガリレオに反対する人々は、望遠鏡の像を認めるどころか、それを覗き込むことさえ拒否したという。ガリレオは自然哲学のパラダイムから自由であったが、後者は旧来のパラダイムに固執していたからであった。
このようにパラダイムから比較的自由な立場にある人物−−例えば、若い科学者とか、別の分野から参入した科学者−−が、科学革命の引き金を引く事例は、相対性理論を発見した青年アインシュタインの例、あるいはボーアやハイゼンベルクなど量子力学の形成に重要な役割を演じた科学者たちの例を挙げるまでもなく、科学史上、数多くみられる。
一方、いつの時代にも、また、どの分野にも、異端的科学者と呼ばれる人々が存在している。彼らはパラダイムに批判的であり、その意味でパラダイムから自由な立場にあるといえよう。そして、彼らも、ガリレオやアインシュタインと同様、科学の危機や行き詰まりを訴え、新しい実験器具や観測装置を「発明」したりする。遺憾ながら、これらの人々の多くは、同時代の科学者集団からも相手にされないまま(批判されれば、まだまし)、歴史の闇の中に消えてしまう。
われわれはガリレオやアインシュタインを科学革命を引き起こした偉大な科学者として尊敬するが、歴史の中に消えていった異端的科学者には一瞥もくれようとしない。後者は単なる夢想家、突飛な考えの持ち主、さらには山師にすぎないというわけである。もちろん、筆者もこのような判断を正しいと心から確信している。われわれは、ガリレオやアインシュタインの仕事が重要な位置を占める近代・現代科学のパラダイムを受容し、そこから得られるさまざまな成果を享受しているからである。
だが他方で、科学革命を引き起こした偉大な科学者と単なる異端的科学者・山師を区別することが原理的にできるとも思えない。もしそうなら、そもそも異端的科学者など存在しえないからである。批判を覚悟であえて言わせていただければ、両者を分けるのは、結局のところ、運が良かったか悪かったか、ではないだろうか。
以上、みてきたように、科学革命はパラダイムに忠実な科学者によっても、逆にパラダイムから自由な科学者によっても起こり得る。やはり、「何でも構わない」のである。
新しいエピステーメーの予感
しかし現代の学問状況においては、パラダイムに忠実であるか、パラダイムから自由であるか、といったことはもはや重要な問題ではないだろう。社会・経済的環境の変化、とりわけコンピュータやそのネットワークの加速度的な発達は、科学研究のスタイルにも、その中身にも大きな影響を与えている。すなわち、科学研究も含めた知識生産の様式modeが大きく変化しつつある。というより部分的には、すでに変化してしまったのである(ギボンズ、一九九八年)。
イギリスの科学政策や大学・高等教育の研究者M・ギボンズらは、従来の知識生産を「モード1」と呼ぶ。それは、概ね、本稿で論じてきたような研究のあり方、知識生産のモードである。モード1はパラダイムを共有する科学者による、科学者のための研究であり、学問のための学問とも言える。その結果が、役に立つか立たないかについて、科学者は無頓着である(あるいは無頓着を装っていた)。モード1の科学は外部に対して閉じているのである。
だが、研究テーマが社会の要請に応じる形で、例えば、地球環境問題といった広範で具体的なものになれば、研究は、当然ながら、学際的・総合的にならざるを得ない。そこには明確なパラダイムはないし、パズル解きな研究も少ない。同時に、科学者は、研究費を直接負担しているスポンサーに対して、あるいは広く社会一般に対して、研究の意義とその成果を説明する義務accountabilityを課されるようになってきた。また、こういった研究の遂行にあたって、大学・企業・官庁の研究者の、さらには一般市民の協力が奨励され、実際、それが可能になる条件が整いつつある。つまり、科学は外部に対して、一時的・過渡的にではなく、常に大きく開かれている。このような研究や知識生産のあり方が「モード2」と呼ばれるのである。
今後、知識生産のモード1とモード2が競合し、あるいは補完し合うことによって、研究活動は活性化していくことだろうし、また、そうなるようさまざまな手だてが講ぜられねばなるまい。
最後にコンピュータについて考えておきたい。コンピュータに対しては、非常に便利で強力な機械ではあるが、結局のところ、仕事のための単なるツールにすぎない、との見方が支配的であるし、筆者もこれまでそのように考えてきた。しかし現在では、コンピュータは単なるツールの域を越えて、科学そのもの、さらにいえば、われわれのエピステーメー(知)そのものを根底から変革していくのではないか、といった議論もある。例えば、黒崎、井関の両氏はコンピュータをめぐって次のような議論を展開している(黒崎、一九九八年)。
決定論的な法則を繰り返し反復するとカオス=複雑系が生ずる(これを決定論的カオス)が、このようなことはコンピュータの使用なしには決して明らかにされなかったであろう。また、近代的な学問の誕生以降、学問の専門細分化がとめどなく進行してきたが、それは、研究を進展させるには、研究対象を要素に還元し、考慮すべき変数を限定することによって、現象を単純化するしかなかったからである。
確かに、このやり方は能率的だったし、大きな成果も挙げた。しかし、地球環境問題一つを例にとっても、要素還元主義的方法の限界は、今や誰の目にも明らかであろう。この限界を克服突破する可能性をコンピュータは秘めている。なぜなら、大容量で超高速のコンピュータなら、ある現象に関わる変数をいくつかに限定する必要はないからである。その結果、専門細分化した個別科学が、自ずと総合され、融合していくだろうというシナリオも想定できるわけである。
現在のコンピュータに学問の統合を可能にするだけの力があるとは筆者には思えないが、潜在的な可能性は将来に向けて十分に期待できるだろう。かつて活版印刷術の発明と普及が、当初は書写の機械化にすぎないと思われていたのに、近代文化・文明を創出するキーテクノロジーとなったように、コンピュータは二十一世紀の新しいエピステーメーを産み出すキーテクノロジーかもしれないという論議は、確かに胸躍らせるものがある。
追記:クーンの生涯と学問、また、その意義と背景の詳細については、野家啓一『クーン パラダイム(現代思想の冒険者たち24)』講談社、一九九八年を参照されたい。
参考文献
M・ギボンズ(編著)(小林監訳)『現代社会と知の創造−−モード論とは何か』丸善ライブラリー、一九九七年。
T・S・クーン(中山訳)『科学革命の構造』みすず書房、一九七一年。
−−−(我孫子・佐野訳)『本質的緊張−−科学における伝統と革新 2』みすず書房、一九九二年。
−−−(常石訳)『コペルニクス革命』紀伊国屋書店、一九七六年。
−−−(佐々木訳)「解釈学的転回」『科学論(岩波講座 現代思想第10巻)』所収、一九九四年。
P・ファイヤーアーベント(村上・渡辺訳)『方法への挑戦−−科学的創造と知のアナーキズム』新曜社、一九八一年。
M・ドゥ・メイ(村上・成定・杉山・小林訳)『認知科学とパラダイム論』産業図書、一九九○年。
黒崎政男(編)『サイエンス・パラダイムの潮流−−複雑系の基底を探る』丸善ライブラリー、一九九八年。
成定薫「『科学革命の構造』との出会い」『情況』一九九六年、十二月号、二九−三四頁。