山田 浩之
本稿の目的は、大正後期に設立された彦根高等商業学校生の出身階層を明らかにし、戦前において地方に設立された高等商業学校が社会移動に与えた影響を検討することにある。
高等商業学校(以下、高商と略記)が戦前の社会移動に果たした役割については、すでに天野(1989、321-328頁)などにおいて指摘されている。天野は昭和13年の『学生・生徒生活調査』などを用いて高等教育機関種別に学生の出身階層の検討を行い、その中で高商が自営商業層出身者を中心に受け入れ、卒業後、彼らを銀行員、会社員を中心とする新中間層として輩出していたことを明らかにした。すなわち、高商は戦前において社会移動のフィルターとしての役割を果たしていたのである。
しかし、こうした従来の研究では全国のマクロな資料を用いているため、いくつかの点について問題が残されている。まず第一には、日本全国に散在していた高商を一括して分析が行われていることである。大正後期における高等教育機関の大増設によって大正8年には5校のみであった官立高商は、大正14年には2倍の10校にまでなっていた。これらの機関は、北海道から九州まで全国に分散して設立されていた。こうして地方に設立された高商は、各地域の特殊性を背景にしていたため、それぞれが異なった性格を持っていたと考えられる。したがって、高商が果たした社会的機能を明らかにする際には、個別の機関について、その地域的属性も含めて検討する必要があろう。
第二には、入学者の出身階層のみが示され、各社会階層出身者がどのようにして高商を利用したのかが明らかにされていないことである。つまり、これまでの分析では社会階層による高商入学までの経路は不明のままであった。よく知られているように高商へは中学校を利用した者のみではなく、いわゆる傍系の商業学校から進学する者も多くなっていた。したがって高商入学者の社会階層による中等教育機会の利用状況、そして高商への進学状況の違いを明らかにすることは、戦前における高商の機能を明らかにする上では重要であろう。こうした入学までの経路は、資料的制約によってこれまで使用されていたマクロな資料では明らかにすることができない。個別の機関入学者について「学籍簿」などを使用した分析が必要であろう。
そこで、本稿では、滋賀県に設立された彦根高等商業学校入学者の出身階層について検討を行い、高商が戦前の社会移動に与えた影響を検討することとする。以下では、彦根高商について概観し、その後、彦根高商入学者の出身階層について検討を行う。こうした分析によって、戦前において高商が果たしていた社会的機能の一端を明らかにしたい(1)。
彦根高商入学者の分析を行う前に、彦根高商の概観について簡単にまとめておきたい。『滋賀大学史』によれば、彦根高商は全国で9番目に設立された官立高商であり、大正11年10月20日に設置、翌大正12年4月に開校された。
先にも指摘したように彦根高商が設立された大正後期は、高等教育機関の大拡張期であり、大正4年には1%にすぎなかった高等教育機関就学率は、大正14年には2.5%、さらに昭和5年には3.0%と、この短期間に3倍にまで膨れ上がった(文部省 1962、181頁)。増設された高等教育機関のうち官立校は各県一校が目指され、さかんに地方に設立されることになった。特に、高等学校と高商、高工などの実業専門学校は、これまで高等教育機関を持たなかった地域にも設立されている。彦根高商は、そうした新設高商の一つであり、滋賀県では初めての高等教育機関であった。
滋賀県に高商が設立されることが決定された後、高商誘致のため彦根以外にも大津、近江八幡が立候補していた。『滋賀大学史』によれば、これらの3都市が激しい誘致合戦を繰り広げた後、48万円の寄付金と16,000坪の敷地を用意した彦根町に高商が誘致されることが決定した。彦根高商の設置は「地元の人達の強い郷土愛と学問に対する深い理解に根ざし、さらに多大な経済的負担まで背負っての大事業であった」(『滋賀大学史』、20頁)とされる。このように、地方における高等教育機関の設置は、「多大な経済的負担」と引き替えにされるほど、設立される地域においては重要な意味を持っていたことになる。
その後、彦根高商は昭和19年に彦根経済専門学校と改称され、同年4月には彦根工業専門学校へと改組された。戦後、昭和21年には経済専門学校として復活し、昭和24年には戦後の教育改革の中で滋賀大学経済学部となり今日に至っている。
本分析で使用した資料は、滋賀大学経済学部に保存されていた『卒業生学籍簿』である。この学籍簿は、昭和3年の卒業者から保存されており、卒業者の出身学校、族籍、親の職業などが記載されていた。本分析ではこの学籍簿のうち昭和3、8、13年の3ヶ年を使用した。以下では、この学籍簿とともに『彦根高等商業学校一覧』『文部省年報』を補助的に用い彦根高商入学者の出身階層を明らかにする。
(1) 入学までの経路
彦根高商卒業者の出身階層について検討する前に、彦根高商に残された『卒業生学籍簿』によって、卒業者の出身校と出身地について検討しておきたい。
表1は、彦根高商卒業者の出身校について示したものである。年によって増減があるものの7割前後が中学校から、3割前後が商業学校から彦根高商に入学していることがわかる。官立高商全体への商業学校からの入学者の割合は昭和初期になって増加する。大正10年には25.4%にすぎなかった商業学校からの入学者は、昭和2年には36.5%にまで達した。その後漸減した商業学校入学者の割合は、昭和9年には25.1%にまで落ち込み、その後再び漸増する。
このように昭和初期において高商入学者に占める商業学校出身者の割合が減少したことは、この時期における高等教育機関卒業者の就職難によるものと思われる。昭和初期には、高商卒業者の就職未定率が非常に高くなっており、そのため中学校出身者が高商への進学を避けた結果このような状況になったのであろう。表1に示した彦根高商卒業者の出身校の推移は、こうした全国的な趨勢を反映したものであった。
表2には彦根高商卒業者の出身地を示した。府県別では、彦根高商が設置されていた滋賀出身の者が最も多く、通年で28.7%となっていた。それに次いで多いのが滋賀周辺の近畿地方の出身者であり、滋賀以外の近畿地方出身者の割合は全分析年度で32.0%となっていた。この両者をあわせれば約60%となり、彦根高商は、決して大きくはないが、一定の教育機会を滋賀、およびその近県に開いていたと言えるだろう。
(2) 家庭の職業
次に、『彦根高等商業学校一覧』により彦根高商入学者の家庭の職業について明らかにした。表3に示したように、彦根高商入学者には一貫して「商業」、すなわち自営商業層出身者が多く、また「農業」出身者も商業に次ぐ割合を占めていた。つまり、彦根高商入学者では、いわゆる旧中間層出身者が大きな割合を占めていたことになる。このうち「商業」出身者は、昭和5年に最大の割合となり、35.6%を占めるに至るが、その後減少し、昭和7年以後は20%代にとどまっていた。この傾向は、先に見た入学者の出身校に占める商業学校の割合の変化とほぼ一致している。つまり、商業層出身者の増減は、商業学校入学者の多寡に影響されていたと考えられる。また、「農業」出身者は、大正12年の29.5%からほぼ一貫して減少し、昭和14年には10.2%と約3分の1にまで落ち込んでいた。この「農業」出身者の減少により、彦根高商入学者に占める旧中間層の割合は、急速に低下することになった。
その一方で増加していたのは、新中間層とされる「官公吏教員」と「銀行会社員」の出身者であった。「官公吏教員」出身者は大正12年には7.2%、同13年には2.2%を占めるにすぎなかった。しかし、その後漸増し、昭和14年には18.2%と約2割を占めるようになる。また、「銀行会社員」の割合も大正12年には12.2%にすぎなかったが、昭和14年には19.3%と2割前後を占めるまでに増加していた。
このような彦根高商入学者の家庭の職業は、全国の高商入学者と比較してどのような特徴を持っていたのだろうか。全国の高商入学者の家庭の職業を時系列的に示す資料は、現在の所入手しえていない。しかし、昭和13年については、教学局によって発行された『学生生徒生活調査』によって、学校別に高商生徒の家庭の職業を明らかにすることができる。この資料によれば全国における高商生徒の家庭の職業は「農業」11.8%、「商業」32.7%、「銀行会社員」19.1%、「官公吏」9.0%、そして「教員」4.6%となっていた。表3で示した彦根高商入学者の昭和13年前後の値と比較すれば、「商業」出身者の割合が彦根高商入学者でわずかに少なくなっているものの、ほぼ全国平均と同様の値であると言えよう。また、『学生生徒生活調査』によって学校別に比較してみても、彦根高商入学者の家庭の職業は全国平均と大きく変わっていなかった。つまり、ここで示した彦根高商入学者の出身階層はほぼ平均的なものであったと言えることになる。
ここで彦根高商入学者の出身階層の変化、すなわち旧中間層の減少と新中間層の増加について検討しておきたい。このような傾向は、高等師範学校を分析した山田(1992)、また陸軍士官学校について分析した広田(1987)によっても指摘されている。すなわち、高師や陸士のような無償の高等教育機関に限らず、彦根高商でも同様に旧中間層の減少と新中間層の増加が生じていたことになる。大正の終わりから昭和の初期には、このように高等教育機関利用者層が一般に大きく変化していたことが推測される。
しかし、ここで生じていた変化は、就業構造の変化によってもたらされたものかもしれない。つまり、産業構造の変化によって、第一次産業である農業の就業者が減少し、銀行会社員などが増加したために引き起こされたものであるとも考えられる。そこで、表4に彦根高等商業学校入学者の選抜度指数を示した。選抜度指数とは、全国就業者の産業別割合で対応する彦根高商入学者の家庭の職業の割合を除したものである。彦根高商入学者の家庭の職業のうち、全国の産業別就業者の割合と一致したもので選抜度指数は1となり、全国よりも少なければ1以下、多ければ1以上となる(2)。なお、この時期における産業別就業者数を示す資料では、「商業」と「銀行会社員」を区別することができない。したがって、選抜度指数では商業と会社員をともに含めた値となる。
表4によれば、ほぼ一貫して農業出身者の選抜度指数は1よりも低く、その一方で「商業会社員」「官公吏教員」の値は1よりも遙かに高くなっていた。したがって、彦根高商入学者では、農業出身者の割合は全国平均よりも一貫して低く、商業、および新中間層である銀行会社員や官公吏、教員の出身者が多くなっていたことがわかる。
これらの職業層のうち、「商業会社員」は昭和8年前後でわずかに低下するものの、ほぼ一貫して3前後の値を示し、大きな増減は見られなかった。その一方で、農業層では大正12年に0.68あった選抜度指数が急減し、昭和14年には0.26にまで低下している。つまり、全国の割合よりも低かった農業層出身者の割合は、昭和初期にさらに低下していたことになる。また、「官公吏教員」は増減を繰り返しているものの、大正12年には2.85、同13年には0.75であった選抜度指数は、昭和14年には4.23にまで高まっていた。
このように彦根高商入学者は、旧中間層のうち農業出身者が大きく減少し、その一方で、新中間層の「官公吏教員」出身者が増加していることが明らかとなった。ただし、ここでは旧中間層である商業層と、新中間層である銀行会社員とを区別することができず、両者の関係を明らかにすることができなかった。今後の課題と言えよう。
ここまで『彦根高等商業学校一覧』に記載された資料によって彦根高商入学者の家庭の職業を検討してきた。ここで本分析の中心である『卒業生学籍簿』に記載された彦根高商卒業者の家庭の職業を表5によって検討し、資料の妥当性を検証しておきたい。
この表からわかるように、「学籍簿」から作成した家庭の職業の分布は、表3に示した家庭の職業の変化をよく反映したものとなっていた。確かに「商業」の割合が『彦根高等商業学校一覧』よりもわずかに低くなっているなど多少の違いはある。しかし、この表でも「農業」「商業」という旧中間層が大きな割合を占めている。また、旧中間層である「農業」および「商業」が一貫して低下し、新中間層である「官公吏」「会社員」「教員」が一貫して増加している。これらは先に見た家庭の職業の変化と同様のものであった。つまり、学籍簿に記載された資料も、『彦根高等商業学校一覧』に記載されたものとほぼ一致し、本分析で使用する資料として問題がないことになる。
(3) 族籍
天野(1989、189-191頁)などによって指摘されているように、明治初期においては士族層が積極的に高等教育機関を利用し、官吏を中心とする近代的な職業へと転身していた。その後明治中期になると高等教育機関へと進学する平民層の割合が増加し、士族が高等教育機関入学者に占める割合は大きく低下する。しかし、士族層の割合は低下したのみで、安田(1971、296頁)などが指摘するように士族層は一貫して平民層よりも高い社会的地位を達成していたとされる。それでは、彦根高商生においては、どのように族籍との関係があったのだろうか。
表6は彦根高商卒業者の族籍を示したものである。分析期間全体では11.4%であり、全人口に占める士族の割合が10%程度であったとすれば(3)、ほぼそれを反映していることになる。すなわち、族籍に関係なく彦根高商は進路として利用されていたことになる。
しかし、時系列的に見れば、士族の割合は大きく増加していた。昭和3年の卒業者に占める士族の割合は8.3%にすぎなかったが、昭和8年には10.9%、昭和13年には14.5%と年々その割合は増加していた。士族増加の理由については、戦況の悪化による徴兵の忌避などが推測されるが、現在の所、それを裏付ける資料はない。今後、昭和初期における進路選択などの問題を検討する中で、彦根高商入学者に占める士族層増加の要因について検討する必要があろう。
表7には、彦根高商卒業者の家庭の職業と族籍との関係を示した。なお、士族の数が少ないため、本表には分析対象者全体の数値のみを示している。
この表からわかるように、平民層に旧中間層出身者が多く士族層に新中間層が多いという明確な差が生じていた。旧中間層である「農業」「商業」の出身者の割合は、平民層でそれぞれ21.1%、26.1%であったが、士族層ではそれぞれ15.2%、8.7%にすぎなかった。その一方で、新中間層である「官公吏」「会社員」「教員」では、平民層がそれぞれ7.0%、12.1%、5.9%であったのに対し、士族層ではそれぞれ15.2%、19.6%、10.9%といずれもほぼ2倍の割合となっていた。
こうした士族層と平民層の差は、両者の就業構造の違いを反映したものかもしれない。先に指摘したように、士族層が早くから高等教育機関を利用して新中間層へと転身したため、士族層に新中間層が多くなっていたのであろう。ただし、この点については、士族層と平民層における進学状況の違いなど別の理由も考えられる。今後、さらに検討する必要があろう(4)。
(1) 出身学校による差
前章では彦根高商生の出身階層について検討を行った。以下では、出身学校と出身地域を中心に、彦根高商生が、出身階層によってどのように異なった経路を使って入学したのかを検討する。そのことにより、出身階層による教育機会の利用状況の差について明らかにしたい。
表8は、彦根高商卒業者の家庭の職業と出身学校との関係を示したものである。この表から明らかなように、中学校と商業学校の出身者では大きく出身階層が異なっていた。
もっとも大きな違いが現れていたのは「商業」においてであった。中学校出身者に占める「商業」の割合は18.9%に過ぎなかったが、商業学校出身者ではその約2倍の36.0%となっていた。その一方で中学校出身者に占める「農業」の割合は23.4%であったが、商業学校出身者では、その約半数の11.7%に過ぎなかった。商業学校出身者は、中学校出身者よりも自営商業層の出身者が多く、農業層出身者が少ないということになる。
また、「官公吏」「会社員」「教員」といった新中間層ではいずれも中学校出身者の割合が高くなっていた。つまり、中学校からは商業学校よりも新中間層が多く高商に進学していたことになる。
しかし、ここで現れた差は、中学校と商業学校という学校間の性格の差によるものかもしれない。そこで中学校出身者について彦根高商への志向度指数を算出し、その結果を表9に示した。商業学校については『文部省年報』および『全国実業学校ニ関スル調査』などに入学者の家庭の職業を示す資料が掲載されていないため、ここでは中学校出身者のみについて志向度指数を求めた。また、『文部省年報』に記載された中学校生徒の家庭の職業では新中間層である「官公吏」や「銀行会社員」が分離できないため、この表では新中間層をすべて「その他」に参入して志向度指数を算出している(5)。
なお、志向度指数とは、中学校、商業学校のそれぞれの生徒の家庭の職業の割合で、それぞれ対応する彦根高商生の家庭の職業の割合を除したものである。例えば、中学校からの農業出身者がそれに応じた割合で彦根高商に進学していれば志向度指数は1となる。彦根高商へと進学した農業出身者の割合が中学校よりも低ければ、志向度指数は1よりも小さくなり、逆に彦根高商の農業出身者の割合が中学校よりも高ければ志向度指数は1よりも大きくなる(6)。
まず、表9の「計」に示した分析年度全体について検討しておこう。中学校から進学した者は「農業」「工業」「商業」のいずれにおいても分析年度全体では約0.9と志向度指数は1よりも低くなっていた。つまり、中学校からは商業層に偏って高商に進学していないことになる。しかも、ここでの値は約0.9と1に非常に近いものであった。したがって、中学校からは旧中間層や新中間層といった出身階層に関係なく高商に進学していたことになる。
しかし、この値を時系列的に見ると大きな変化が現れていた。昭和3年卒業者では、農業が1.28、商業が1.09といずれも志向度指数が1を上回っていた。つまり、農業層、商業層の出身者が高い確率で彦根高商に進学していたことになる。ところが、その値は次第に減少し、昭和13年には農業で0.64、商業で0.75にまで落ち込んでいた。このことから、彦根高商においては、昭和初期において急速に農業層、商業層の出身者が中学校から進学しなくなったことがわかる。
その逆に、増加したのは「その他」で示した項目であった。昭和3年に0.83でしかなかった「その他」の志向度指数は、昭和13年には1.36にまで高まった。「その他」の内訳を明らかにすることはできないが、銀行会社員、官公吏などの新中間層の志向度指数が高まったことが推測される。すなわち、中学校からの彦根高商への進学者は、この昭和初期において、大きく旧中間層から新中間層へとシフトしたと言えるだろう。これまで商業層を中心とした旧中間層の学校であった彦根高商が、新中間層出身者の学校へと変化していたのである。
現在の所、商業学校出身者との比較ができないため、ここで示した特徴が中学校独自のものであるかどうかを検討することはできない。また、他の高商との比較も困難である。今後、分析を進めていく中で他機関との比較を行い、こうした特徴を検証したい。
次に、表10によって、出身学校と族籍との関係について検討しておこう。この表からわかるように、士族層に中学校を利用する者が多く、平民層で商業学校を利用する者が多くなっていた。先にも検討したように、明治初期から士族層は官吏、教員などの公職を求め、高等教育機関への進学もそうした公職分野への就職と関連のある領域に士族層は多く進学していた。その一方で、医学などの実学分野では早くから平民層によって占められ、士族層の割合はそれほど大きなものではなかった(天野 1989 189-191頁)。また、唐沢(1955、165-167頁)によって分析された興譲館中学の事例によれば、昭和期においても中学校卒業者に占める士族の割合が非常に高かったことがわかる。ここで現れた族籍による中等教育機会利用の違いは、こうした族籍による進学パターンの違いを反映したものであろう。ただし、本分析の結果のみではこうした族籍による中等教育機会の利用方法について明らかにすることはできない。今後、他の事例なども踏まえながら、さらに検討する必要があろう。
(2) 出身地域による差
先の問題設定でも指摘したように、大正後期に行われた高等教育機関の大拡張は、地域における高等教育機会を広げるという目的を持っていた。それでは、彦根高商生の出身地域と出身階層はどのような関係にあったのだろうか。
表11は彦根高商卒業者の家庭の職業を出身地域別に示したものである。この表からわかるように近畿地方出身者に大きな特徴が見られた。近畿地方出身者では「農業」が13.8%にすぎず、滋賀およびその他の地域出身者を大きく下回っていた。その一方で、近畿地方出身者に占める「商業」と「会社員」の出身者の割合は他の地域よりも高く、それぞれ29.2%、17.7%となっていた。
このような近畿地方の特徴は、京都、大阪、そして兵庫など大都市圏からの進学者が多いことによる。本分析期間中に京都、大阪、兵庫から彦根高商に進学した者はいずれも30名前後であったが、その進学者に占める「商業」出身者の割合は、それぞれ27.3%、37.8%、31.0%であった。また、京都、大阪、兵庫から彦根高商に進学した「会社員」出身者の割合は、それぞれ30.3%、16.2%、17.2%となっていた。このように大都市圏からは商業層、会社員層の子弟が多く彦根高商に進学していたことになる。
滋賀出身者の家庭の職業は、「官公吏」「会社員」などの新中間層の割合が比較的低いものの、ほぼ彦根高商全体の値に近いものであった。その一方で、その他の地域出身者の分布は、「農業」が26.9%と高い割合を占め、その一方で「商業」が18.8%と低い割合にすぎなかった。これは一般的な高等教育機関出身者に見られる家庭の職業の分布に近く、商業層出身者の多さという高商生に見られる家庭の職業の特徴を示していない。
こうした滋賀出身者とその他の地域出身者に見られる家庭の職業の違いは次のように考えられるだろう。その他の地域出身者にとって、彦根高商は遠隔地にある学校であった。彼らにとって彦根高商へと進学する動機付けは弱く、彦根高商はたんに数ある高等教育機関の一つとして選択された。しかも、彼らにとって彦根高商への進学は、地方高商とはいえ高額な機会費用を伴うものであり、そうした機会費用を支出できる階層は限られたものであった。そのため、その他の地方出身者は一般的な高等教育機関進学者と同様の家庭の職業の分布を示すことになった。
さらに、家の相続という意識の強い自営商業層出身者は(7)、その子弟を地元の学校以外に進学させることを望んだと考えられる。地元以外の学校に進学すれば、その子弟が地元へと戻ってくる可能性は非常に低くなってしまう。そのため、商業層出身者がその他の地域出身者に少なく、滋賀出身者に多くなっていた。また、先に指摘した近畿、および大都市圏の出身者における商業層の多さも、彼らができるだけ近隣の地域を進学先として選択した結果であると推測される。
ただし、ここに示したものは仮説にすぎず、本分析の結果のみで明らかにすることはできない。当然のことながら就業構造の地域間格差などもあり、そうした観点からも分析を進める必要がある。また、商業層に見られる家の相続という意識については、彦根高商進学者の出生順位についても検討を行っておく必要があろう(8)。
次に、表12により出身地域と出身学校との関係を検討しておきたい。この表からわかるように滋賀県出身者に商業学校出身者の割合が際だって高くなっていた。滋賀県出身者では商業学校出身者が31.4%と約3分の1を占めていたのに対し、近畿、およびその他の地域では商業学校出身者の割合は25%前後でしかなかった。この結果からわかるように、彦根高商が設立されたことにより、商業学校出身者に一定の高等教育機関への進学機会が開かれたことになる。
このことは、各府県の状況を検討してみると一層明らかとなる。滋賀近隣の地域で商業学校から進学する者の割合が高くなっており、その割合は大阪で39.5%(38名中)、京都で27.8%(36名中)、また福井では45.5%(11名中)となっていた。その一方で、滋賀から少し離れた地域では商業学校出身者の割合は減少し、例えば比較的進学者の多かった愛知県、岐阜県では、商業学校出身者の割合はともに11.1%(18名中)にすぎなかった。
このように、高商は、設立された府県、およびその近隣の府県の商業学校出身者に一定の高等教育機会を与えることになったと言える。しかし、この点についてもさらに商業学校生の進路決定の過程などを検討する必要がある。今後、商業学校と高商との関係について詳細に検討することで、高商が地域に与えた影響を明らかにする必要があろう。
本稿では、彦根高商に残された資料をもとに、彦根高商生の出身階層、およびその出身府県との関係を検討してきた。本分析で明らかになった点をまとめれば以下のようになる。
1) 彦根高商入学者の出身階層は、昭和初期において旧中間層から新中間層へと大きくシフトし、特に農業層からの入学者が大きく減少していた。また、族籍では昭和初期において士族層の占める割合が増加していた。
2) 彦根高商生の出身階層を出身学校別に見ると、商業学校出身者は中学校出身者よりも商業層出身者が多く、農業層出身者が少ないという特徴が見られた。また、中学校出身者では農業層、商業層のいずれにおいても昭和初期において高商に進学する者が減少していた。
3) 出身地域では、近畿圏以外の出身者の出身階層は一般の高等教育機関と変わらず、滋賀、および近隣の府県から多くの商業層出身者が彦根高商に進学していた。
4) 滋賀近隣の地域で商業学校から進学する者が多く、彦根高商の設置によって近隣府県の商業学校生の高等教育機会が拡大されたことが推測された。
本分析は、これまであまり詳細に検討されることのなかった高商生の出身階層を明らかにしたという点で大きな意義があるものと考える。しかし、資料的制約などにより多くの課題を残すこととなった。もっとも大きな課題は卒業者の就職先の分析ができなかったことである。『彦根高等商業学校一覧』に掲載されている卒業者名簿には企業名のみで勤務場所が記載されていない。そのため、卒業者の正確な勤務地を明らかにすることができなかった。このことにより、卒業者の分布状況や出身階層、出身地域による就職状況の違いなどを検討することができなかった。今後、卒業者の資料を収集することで、このような問題を明らかにし、高商と設立された地域との関係を詳細に検討することが必要であろう。
また、滋賀が京都、大阪といった大都市圏に隣接しているため、その影響を強く受けているという問題もある。出身地域を検討した際に明らかにしたように、大都市圏とそれ以外の地域では彦根高商生の出身階層に大きな違いが生じていた。また、卒業後の就職先を選択する場合、京都、大阪などに多くの職業機会があり遠隔地に就職する場合とは大きく異なっていたであろう。そのため地域と高商との関係を明らかにするには、他の地域に設立された高商なども分析する必要がある。今後、地方高商の資料を収集することで、さらに高商と設立された地域との関係について検討を行いたい。
(1) 本分析は、片岡(1993)で一部使用された資料をもとに再分析を行った結果である。
(2) 選抜度指数については、菊池(1967)を参照されたい。
(3) 安田(1971、301-302頁)において、士族人口の推算が行われている。
(4) 安田(1971、294-296頁)において、士族層と平民層の就業構造の違いなどについて検討が行われている。
(6) 志向度指数については、広田(1987)を参照されたい。
(7) 自営商業層の進学過程については、天野(1992)、天野編(1991)を参考にされたい。
(8) 彦根高商生の出生順位については、続稿において検討を行う予定である。
附記:本稿は平成7年度松山大学特別助成金による成果の一部である。記して感謝の意を表したい。
ご意見、ご感想、ご批判は、山田浩之(yamada@cc.matsuyama-u.ac.jp)までお送りください。