[研究一覧へ戻る][メインメニューへ戻る]
ご注意:以下の論文は印刷前の原稿をもとにしたものです。実際に出版されたものとは異なる可能性があります。

明治45年における中等学校長の学歴構成
The Educational Background of Secondary School Principals in 1912

山田 浩之(松山大学)



目次

1 問題の所在[目次へ戻る]

 本稿の目的は、明治45年における中等学校長の学歴構成を明らかにし、戦前の中等教員社会に学歴の差が与えた影響を検討することにある。
 戦前の中等教員は大きく次の4つのルートにより養成されていた。すなわち高等師範学校、帝国大学、文部省により認可された専門学校の卒業者、そして文部省中等教員検定の合格者である。したがって、戦前の中等教員は、学歴も訓練も多様な集団によって形成されていたことになる。
 こうした戦前の中等教員についての分析は、戦前の教育ばかりでなく、現代の教員養成や教育を考察する上でも重要であろう。例えば、寺崎昌男氏は「戦後の教員養成制度改革は、これまで、初等教育教員養成制度である「師範教育」だけを前史として措定するという視角で分析されてきた」ため、「中等教員養成の“遺産”とその変革如何という視点がぜひくわえられねばなるまい」(1)と中等教員史研究の重要性を指摘している。
 こうした寺崎氏らの指摘を受け、最近になって、少しずつ戦前の中等教員についての分析が行われるようになった(2)。しかし、そうした研究の多くは、高師や帝大など中等教員の養成ルート別の分析にとどまっている。したがって、個々の中等教員養成機関についてはさまざまな事実が明らかにされはじめているが、全体像としての中等教員はほとんど明らかにされていない。
 そこで本稿では、中等教員の全体像を明らかにするため、戦前の中等学校長に焦点をあてる。校長に焦点をあてる意義としては、次の2点があげられる。まず、第一に、校長の学歴はこれまでほとんど明らかにされてきていないことである。これまでにも『文部省年報』に記載された統計資料により、中等教員の学歴構成は明らかにされてきた。しかし、校長の学歴に関しては、まとまった資料がほとんどなく、彼らの学歴構成を知ることは非常に困難であった。
 第二には、校長の学歴構成を知ることにより、学歴間の威信の比較が容易になることである。戦前の中等教員は量的には少数派であった帝大、高師の卒業者が非常に強い力を持っていたとされている。しかし、彼らが実際にどのような影響力を持っていたのかについては、厳密な分析が行われてこなかった。校長の学歴に焦点を当てることにより、学歴別に昇進比率、在職校の威信、格づけなどの格差を比較することができる。そのことにより、学歴間の威信や影響力の差が推測できるであろう。
 以下では、本分析で使用した資料の検討を行った後、戦前の中等学校長の学歴を明らかにする。そして、彼らの学歴の差が、戦前の中等教員社会に与えた影響について考察する(3)

2 分析の方法 [目次へ戻る]

(1) 資料

 先にも指摘したように、戦前の中等学校長の学歴は、これまでほとんど明らかにされていない。それは、『文部省年報』のような概括的で、よく知られた資料がないことが一因であった。そこで、本分析では、大きくは三つの資料を用い、校長の学歴、およびその在職校の属性などを明らかにした。これらの資料は、これまでほとんど使われていないため、はじめに資料の検討をする必要があろう。本分析で使用した資料は次の通りである。
 a. 教育実成会編纂・発行『明治聖代教育家銘鑑 第一編』明治45年(復刻版:日本図書センター、1989年)
 b. 『日本帝国文部省第40年報』『全国中学校に関する調査』『全国高等女学校に関する調査』各明治45年版
 c. 内閣印刷局『職員録』明治45年
 以下、それぞれの資料について簡単に説明し、その後、資料の信頼性について検討しておきたい。
a. 『明治聖代教育家銘鑑』
 中等教員全体のおおまかな学歴は『文部省年報』に統計資料として記載されている。しかし、中等学校長の学歴をまとめた統計資料は管見の限りでは見つけることができなかった。そこで、本分析においては、戦前の教育関係の名士録である『明治聖代教育家銘鑑』を資料として用い、この資料により戦前の中等学校長の学歴を明らかにすることとした。この名士録は本分析で使用した明治45年のほか、大正期に三輯までが発行され、いずれも日本図書センターより復刻されている。しかし、これらのうち、第二輯以後には、中等教員の掲載率が非常に低く、中等教員の分析に用いることができるのは、第一輯のみであった(4)。そのため、本分析では明治45年に発行された第一輯のみを分析対象とすることとした。
b. 『文部省年報』『全国中学校に関する調査』『高等女学校に関する調査』
 各校長が在籍する諸学校の属性を知るため、これらの資料を用いた。これらの資料により、各学校の設立年、生徒数などを知ることができる。なお、師範学校については当該年度の『全国師範学校に関する調査』が発行されていないため、『文部省年報』で代用した。
 また、後で述べるように、本分析の対象者は限られており、全教員を網羅することはできなかった。そのため、分析対象者の在籍する学校の特徴などを明らかにするためにも、この資料を用いた。
c. 職員録
戦前の『職員録』には、公立学校の教員名とその号俸が記載されている。この資料により、各教員の等級、すなわち俸給表上の位置を知ることができる。ここに示される「等級」は、戦前の公務員の地位である判任官と奏任官でその表記の仕方が異なり、またその基準となる俸給表も別であった。分析時点の中等学校長は判任官と規定されていたが、実際にはその多くが奏任待遇とされ、別の俸給表が適用されていた。すなわち、校長には判任官と奏任待遇の者が混在しており、等級のみでは校長の格付けの比較は困難となる。そこで、本分析では、この等級によって算出された各校長の給与(年額)を使用した。
 ただし、本資料には、年功加俸などの付加手当は記載されておらず、ここで使用した給与はいわば基本給とも言えるものである。そのため、本分析で使用した賃金は、当時の教員の賃金を低く評価していることになる。しかし、各教員の地位を比較するための指標としては、この資料で十分であると判断し、この値を用いて分析を行った。

(2) 調査対象の検討

 本分析で使用した資料は、教育家の名士録であり、威信の高い学校や著名な校長に偏って掲載されている可能性がある。そこで、調査対象とした中等学校長の属性を検討し、資料の信頼性を確認しておきたい。
 まず、本分析の対象となった校長は200名であった。明治45年における中等学校数が608校であったから、全中等学校の約3分の1が分析対象となったことになる。表1は、全国の校長に対する分析対象者の割合を学校種、設置者別に示したものである。この表からわかるように、本分析では師範学校長の割合がもっとも高く、65.1%となっていた。つまり、師範学校長は全体の3分の2近くを分析できることになる。その一方で、中学、高女では、府県立以外の公立、私立の学校に在職する校長の割合が非常に低くなっていた。したがって中学、高女は、府県立の学校に偏っていることになる。



 次に、学校種別に検討しておきたい。師範学校では、男子師範、女子師範にかかわらず、ほぼ3分の2の割合で抽出されており、学校種にサンプルの偏りはあまり見られなかった。
 一方、中学、高女では学校規模に偏りが現れていた。表2は、それぞれ分析対象者の在職校と全国の中学、高女について、生徒数の平均値を示したものである。これらの表からわかるように、いずれの学校種、設置者においても、分析対象者が在職する学校の生徒数が多く、府県立校では50名弱、公立、私立校では100名以上の差が現れていた。このように、分析対象者の在職校は、全国の学校規模の平均よりもかなり大きかったことになる。
 最後に、賃金の比較をしておきたい。なお、この時期における中等学校長の給与水準については後に検討することとし、ここでは、分析対象者と校長全体の給与の比較にとどめておきたい。
 表3は分析対象者の平均給与と『職員録』から算出した全国の公立中等学校長の平均給与を、いずれも年額で比較したものである。この表からわかるように、中学、高女の分析対象に、学校規模と同様の偏りが現れていた。すなわち、府県立学校では50円前後、その他の公立学校では100円以上、分析対象者の給与が高くなっていた。



 以上の結果をまとめれば、次のようになる。分析対象者は、師範学校ではほぼ全体を代表するサンプルが抽出されていると言える。一方、中学、高女では、全体よりも、規模が大きく、しかも格付けの高い校長が抽出されている。この傾向は、府県立以外の公立学校と私立学校でとくに顕著に現れていた。
 このようなサンプルの偏りは、名士録を使う際の限界とも言えるであろう。つまり、こうした名士録では、いわゆる名門校、あるいは有力者のデータを優先的に掲載することになる。そのため、ここに現れたような偏りが見られることになる。ただし、少なくとも師範学校と府県立の中学、高女に関してはそれほど大きな偏りは見られないため、これらの分析については、それほど大きな問題はないと考えられる。したがって、府県立以外の公立学校、私立学校の校長の学歴を分析する際には、こうしたサンプルの偏りに留意する必要があるだろう。
 資料には、以上のような限界があるが、この時期の校長の学歴を網羅的に示す資料はほかに見られない。以下では、資料の限界に留意しながら比較的サンプルに偏りの少なかった師範学校、および府県立の中学、高女を中心に分析を行い、彼らの学歴構成を明らかにしたい。

3 中等学校長の学歴 [目次へ戻る]


(1) 明治45年の中等教員

 中等学校長の学歴を明らかにする前に、明治45年時点における中等教員の状況について簡単にまとめておきたい。
 明治45年には、すでに中等教員の養成機関の制度化はほぼ終了していた。すなわち、先に指摘した高師、帝大、専門学校、文検という主に4つのルートにより中等教員が輩出されるという戦前の中等教員養成制度の枠組みは、この時期にはすでに完成していたと言える。
 このような養成ルートのうち高師卒の中等教員は、東京高師、東京女高師の卒業者が中心であった。広島高師、および奈良女高師はそれぞれ明治35年、同41年に設立されており、この時期までの卒業者は、まだわずかな数でしかなかった。しかも、これら新設高師卒業者はキャリアも短く、明治45年時点では、ほとんど校長を輩出できていなかった。また、この時期の校長はほとんどが男性であった。したがって、本分析で対象とした中等学校長のうち、高師卒としたもののほとんどが東京高師卒であった。
 また、帝大卒の中等教員は東京帝大卒業者が中心であった。二校目の帝大である京都帝大が設立されたのは、明治30年であり、彼らのキャリアは非常に浅かった。しかも、帝大では、文学部、理学部がもっとも多く中等教員を輩出していたが、東京帝大以外は規模も小さく、明治45年までの卒業者の数は、圧倒的に東京帝大卒が多くなっていた。
 これら高師と帝大は、中等教員養成の中心的な機関であったと考えられるが、これらの機関から輩出された中等教員は、限られたものにすぎなかった。表4は明治45年における有資格中等教員の学歴構成を、学校種別に示したものである。この表からわかるように、実際に中等教員を量的に支えていたのは、文検合格者と「その他」に分類される専門学校の卒業者であった。高師卒業者が多く在職していたのは師範学校のみであり、中学、高女で彼らの占める割合は20%前後にすぎなかった。帝大卒業者の割合はさらに低く、中学で10%を越えているものの、師範、高女では5%以下であった。その一方で、文検合格者の占める割合は、いずれの学校でも高く、とくに高女では46.3%と半数近い割合を占めていた。また、専門学校卒業者も非常に多く、とくに中学では3割近くを占めていた。
 このように、中等教員に占める高師、帝大の卒業者はわずかにすぎず、実際には、文検合格者、専門学校卒業者が量的な中心であったことになる。



(2) 校長の学歴構成

 前節で指摘したように、高師卒、帝大卒は中等教員の中では少数派にすぎなかった。しかし、校長では、その状況は大きく異なっていた。表5は、本分析の結果により、明治45年における中等学校長の学歴構成を示したものである。



 この表からわかるように、師範学校では、圧倒的に高師卒業者が多くなっていた。師範学校における高師卒業者の割合は87.5%であり、ほぼ9割近くを占めていた。その一方で、中学校では、帝大卒業者がもっとも高い割合を占めていた。中学校における帝大卒業者の割合は42.7%であり、他の学歴取得者よりも群を抜いて高い割合となっていた。また、高女では、高師卒業者がもっとも多く、その割合は42.9%となっていた。
 このように明治45年時点における中等学校長に占める量的な割合は、師範学校では圧倒的に高師卒業者が中心であり、中学では帝大卒業者、そして高女では高師卒業者が優勢となっていたことがわかる。すなわち、教員の割合ではわずかであった帝大、高師の卒業者が、校長への昇進において量的に優位となる傾向はこの時期にすでに確立されていたことになる。
 しかし、この表5からはこの時期に特徴的と言えることが読みとれる。すなわち、中学、高女における「中等以下」の割合の高さである。中学における「中等以下」の割合は、23.3%であり、高師卒業者の割合をわずかながら上回っていた。また、高女における「中等以下」の割合はさらに高く、38.1%であった。これは高師卒業者の割合に迫る高さであった。この要因については、この表5のみで明らかにすることはできない。以下、その他の属性についての分析結果を示した後、改めて検討したい。
 次に、学校の属性による校長の学歴構成の違いについて検討する。師範学校は、先に示したように高師卒業者が圧倒的な多数を占めていた。そのため、男子師範、女子師範などの学校種、創立年などによる差はほとんど現れなかった。そこで、以下では中学校と高等女学校について、学校規模、設立年と校長の学歴構成との関係について検討する。ただし、本分析で用いた学校規模とは各学校の生徒数により算出したものである。
 表6は学校の規模別にみた、中学校長の学歴構成である。規模による学歴構成の違いは高師卒業者にのみ大きく現れていた。すなわち、高師卒業者の割合は小規模校で25.5%と、大規模校での割合よりも10%以上も高くなっていた。帝大卒業者などその他の者は、いずれも大規模校での割合がわずかに高くなっていたが、それほど大きな差は現れていなかった。



 次に表7により、学校の設立年別に見た中学校長の学歴構成を検討したい。この表に見られるように、帝大、高師卒業者が新設校に多く、私立専門学校卒、中等以下の学歴の者が伝統校に多いという傾向が現れている。しかし、こうした学歴別の差はわずかでしかなく、設立年では大きな差が現れていないと言うべきであろう。
 表8は、高等女学校長の学歴構成を学校規模別に示したものである。中学校とは異なり、高等女学校では明確な学歴による差が生じていた。生徒数400人以上の大規模校では、高師卒業者が50%と半数を占めていた。また、中等以下の学歴しか持たない者の割合も非常に高く、44.4%にまで達していた。その一方で、帝大卒業者の割合は5.6%にすぎず、大規模の高女はほぼ高師卒業者と中等以下の学歴しか持たない者に独占されていたことになる。
 一方、小規模校では、帝大卒業者の割合が高くなり、20.8%になっていた。しかし、大規模校と同様に、高師卒業者、「中等以下」の割合は高く、いずれも30%を越えていた。したがって、高女では、高師、中等以下の学歴しか持たない者が一貫して高い割合を占めており、帝大卒業者は小規模校に食い込んでいたことになる。



 表9は、高女校長の学歴構成を設立年別に見たものである。規模別ほどの大きな違いはないが、ここでも、高師が伝統校に多く、帝大が新設校に多いという傾向が現れていた。1900年以前に設立された伝統校に占める高師卒業者は50%と半数であり、1901年以後に設立された新設校でも36.4%を占めていた。その逆に伝統校では10%にすぎなかった帝大卒業者は、新設校では18.2%となっていた。したがって、高女では、設立年で見ても高師卒業者が強く、帝大卒業者は新設校に偏っていたと言える。
 その一方で「中等以下」は一貫して高い割合を占めていた。すなわち、「中等以下」の伝統校での割合は35.0%、新設校では40.9%となっており、中等以下の学歴しか持たない者は設立年にかかわらず高い割合を占めていたことになる。
以上の結果は次のようにまとめられるだろう。中学では、規模、設立年に関わらず、帝大卒業者の割合が高くなっていた。高師卒業者は小規模校で少し占有率が高くなっていたが、帝大卒業者には及ばなかった。その逆に、高女では、高師卒業者が大規模な伝統校で高い占有率を示していた。したがって、帝大は中学、高師は師範と高女を中心として勢力を伸ばしていたと考えられる。
また、中等以下の学歴しか取得していない者の割合は、中学、高女、いずれにおいても高くなっていた。昭和初期には、彼らの校長輩出率は非常に低くなり、戦前の中等学校長は、ほぼ帝大と高師の卒業者でしめられていたと考えられてきた。しかし、本分析の対象とした明治45年時点においては、中等以下の学歴しか取得していない者が、校長としてかなり強い勢力を持っていたことになる。

(3) 年齢と学歴構成

 ここまで、学校の属性による違いを中心に検討してきた。しかし、ここに現れた差は、キャリア、あるいは年齢の違いによって生じたものであったかもしれない。とくに、中等以下の学歴しか持たないものが非常に強い力を持っていたということは、彼らの年齢が高く、まだ十分に中等教員養成制度が制度化される前に中等教員になっていたからかもしれない。つまり、帝大や高師の卒業者と中等学校以下の学歴しか持たない者の年齢は大きく異なっていたとも考えられる。そこで、各学校別に生年による学歴構成の差を検討することで、彼らの年齢が学歴構成にどのような影響を与えていたのかを検討しておきたい。ただし、師範学校長は高師卒業者がほとんどであり、他の学歴の者は数名にすぎなかったため、ここでは中学と高女について検討する。
 表10は生年別に中学校長の学歴構成を示したものである。この表からわかるように、帝大卒業者とその他の学歴の者との間には、大きな違いが現れていた。1865年以前に生まれた者では、「中等以下」の割合がもっとも高く、31.4%となっていた。帝大、高師の卒業者は25%前後であり、それほど大きな違いは現れていなかった。ところが、1866年以後に生まれた者では、状況が大きく異なり、帝大卒業者の割合が、63.3%と圧倒的に高くなっていた。すなわち、帝大卒業者には若い世代が多く、その他の学歴では、年齢の高い者が多いということになる。これは、帝大卒業者が若いうちから中学校長となることができ、その一方で、帝大以外の者は、年齢が高くなければ、すなわちキャリアを積まなければ、中学校長になれなかったことを示していると考えられる。



 次に、表11には高女校長の学歴構成を年齢別に示した。高女では、年齢の高い世代で「中等以下」、若い世代で高師卒業者の割合が高くなっていた。すなわち、1865年以前に生まれた者のうち、もっとも高い割合を占めたのは、中等以下の学歴しか持たない者であり、彼らの割合は40.7%となっていた。高師卒業者の割合は37%にすぎず、それほど高くはなかった。しかし、1866年以後に生まれた者では、高師卒業者の割合は非常に高くなり、63.6%を占めていた。高師卒業者以外は、いずれも若い世代の割合は非常に低くなっていた。このことは、高女において、高師卒業者がキャリアの初期から校長となることができたが、高師卒業者以外は、かなり年齢が高くならないと校長になれなかったことを示すと考えられる。
ところで、中等以下の学歴しか持たない者の割合は、年齢によってどのように変化していたのだろうか。表10、表11からわかるように、中学、高女いずれにおいても、彼らの割合は若い世代で減少していた。したがって、彼らの多くは、先の仮説の通り、中等教員養成制度が制度化される以前に中等教員になった者であると考えられる。
 しかし、それでも1866年以後に生まれた者の割合はそれほど少なくない。若い世代に占める、中等以下の学歴しか持たない者の割合は、中学で14.3%、高女で27.3%であり、他の学歴取得者と比較すれば、むしろ彼らはかなり高い割合を占めていたことになる。つまり、若い世代においても、制度化された中等教員養成システムを経なくても中等学校長になれる道が残されていたと考えられる。したがって、本分析を行った明治45年時点では、中等教員社会内での学歴主義は、まだ完全に制度化されておらず、非学歴取得者にも昇進の道が、少しではあるが残されていたことになる。この点については、賃金の格差を検討することで、より明確にできるであろう。

4 賃金の格差 [目次へ戻る]


(1) 学校種別による給与の格差

 前節まで、中等学校長の学歴による分布状況を検討してきた。しかし、ここまでの結果は、単なる学歴による住み分けを明らかにしたにすぎず、学歴による威信の格差を示したものではなかった。そこで、以下では、中等学校長の賃金を比較することにより、学歴による威信の格差を検討したい。ただし、以下での「給与」とは、先にも指摘したように、俸給表上の位置を示すものであり、「年功加俸」などの手当は算入されていない。したがって、実際の給与よりも少し低くなっていることになるが、威信の格差を示すにはこれで十分であろう。
 まず、表12により、学校種別にみた中等学校長の学歴別平均給与を概観しておきたい。はじめに中等学校長全体の給与を見てみよう。中等学校長全体の平均給与は年額1316.1円であり、月額に平均すると109.7円となる。それでは、この当時の、他の職業の賃金はどのようなものだったのだろうか。教員では、師範学校教員の全国平均は約45.3円、小学校教員は18.5円であった(5)。したがって、中等学校長の給与は、中等教員の2倍以上、また小学校教員の約6倍という、かなりの高額であったことがわかる。また、明治44年の高等文官試験に合格した高等官の初任給が55円、銀行での大卒者の初任給が40円とされており(6)、中等学校長は、これらのほぼ2倍の給与を得ていた。このように、この時期の中等学校長は高い給与により優遇されていたことがわかる。



 それでは、中等学校長の給与にはどのような格差が生じていたのだろうか。まず、学校種別に見ておきたい。表12の学歴全体を見ると、師範学校長の平均給与がもっとも高く、1472.9円であり、その次が中学校長の1321.1円、最後が高女校長の1074.2円と、その差は約150円ずつであった。したがって、師範学校を頂点とした、中学、高女という明確な階層が形成されていたことになる。
 次に学歴別に見てみよう。中等学校長全体では、もっとも平均給与が高いのは高師卒業者であり、その額は1352.0円であった。また、帝大卒業者の平均給与も高師卒業者と同様に高く1346.9円であった。この両者の差はわずかなものでしかなく、帝大卒業者と高師卒業者の給与は、ほぼ同じ水準であったと考えられる。これらの下に来るのが専門学校卒業者で、彼らの平均給与は1262.5円であり、そして最後が中等以下の学歴しか持たない者であった。したがって、中等学校長全体を学歴で見れば、高師・帝大→私立専門→中等以下という階層性が生じていたことになる。
 ところが、学校種別に学歴による差を見てみると、状況は少し異なり、中等以下の学歴しか持たない者の地位がかなり高くなっていた。確かに師範校長では中等学校長全体とほぼ同じ傾向が現れ、高師卒業者の給与が高くなっていた。しかし、中学と高女の校長では、中等以下の学歴しか持たない者が、かなり高い給与を得ていることがわかる。すなわち、中学では、中等以下の学歴しか持たない者の給与は1286.1円であり、これは高師卒業者の1283.3円よりも高くなっている。また、高女校長での「中等以下」の平均給与は、帝大、高師卒業者に次ぐ1054.5円という額であり、これは帝大や高師の卒業者と大きく変わらなかった。つまり、高師卒業者が帝大卒業者に次ぐ地位を占めていたのは師範学校での給与が高かったためであり、中学、高女においては、中等以下の学歴しか持たない者が高師卒業者とほぼ同じ地位を得ていたことになる。
 ただし、この点については、先にも指摘したように彼らの年齢が問題となる。つまり、こうした結果が得られたのは、中等以下の学歴しか持たない者の年齢が高いからかもしれない。この点については、年齢と給与の関係を分析する中で詳しく検討したい。

(2) 学校の属性による給与の格差

 次に、学校の属性と給与との関係について検討したい。学校の規模や歴史によってどのように賃金は異なっていたのだろうか。
 表13は師範校長の在職校と賃金との関係を学歴別に示したものである。師範学校については、各府県に男子師範1校から2校と女子師範1校が設立されているのが普通であった。そこで、本分析では師範学校を次の3種に分類した。すなわち、各府県のもっとも歴史の古い男子師範を「第一師範」、二校目以上の男子師範を「第二師範」、そして「女子師範」である。以下、この分類に従って、師範校長の在職校と賃金との関係について検討する。



 この表13からわかるように、学校種によって師範校長の給与は大きく異なっていた。「第一師範」校長の平均給与は約1516円であった。それが、「第二師範」「女子師範」と次第に減少し、女子師範校長の賃金は、第一師範の校長よりも100円安い1416.7円となっていた。すなわち師範学校は学校種によって序列化され、第一師範−第二師範−女子師範という階層が形成されていたことになる。
 それでは、学歴別ではどのような差が生じていたのだろうか。先にも指摘したように、師範校長のほとんどが高師卒業者であり、量的に見れば、高師卒業者が師範学校をほぼ支配していたかのように見える。確かに、師範学校での高師卒業者の賃金は非常に高く、第一師範にいる高師卒業者の賃金は1516円ともっとも高くなっていた。しかし、すべての学歴の者がいる女子師範で賃金の違いを見ると、必ずしも高師卒業者優位とは言えなくなってくる。女子師範校長でもっとも給与が高かったのは帝大卒業者であり、彼らの給与は1500円であった。彼らは、もっとも給与の安い女子師範にいながら、第一師範の高師卒業者に迫る給与を得ていたことになる。したがって、師範学校では、量的には高師卒業者が優位に立っていたが、賃金から見ると、帝大卒業者もかなり優遇されていたことになる。
 次に、中学校長について、学校規模と設立年により学歴と給与との関係を見ておきたい。表14、15は、それぞれ学校規模別、設立年別に中学校長の賃金を示したものである。これらの表からわかるように、規模、設立年によって大きく給与は異なり、規模が大きく、また設立年が早い学校に在職しているほど給与が高くなっていることがわかる。すなわち、規模で見れば、生徒数が500人以上の大規模校での校長給与の平均は1393.9円、500人以下の小規模校では1260.2円であり、130円以上の差がついていた。また、設立年では1895年以前に設立された学校の校長給与の平均は1377.5円、それ以後の新設校では1276.0円と約100円の差がついていた。このことから、すでに中学校においても学校規模や設立年により学校間の威信に差が付けられており、それがこのような賃金の格差につながっていたと考えられる。



 最後に高女校長の平均給与を学校の属性との関係で比較する。表16は学校規模別に高女校長の平均給与を示したものである。まず、全体の平均給与を規模別に比較すると、生徒数が400人以上の大規模校で1146.7円、生徒数が400人以下の小規模校で1013.9円と、大規模校に在職する校長の給与が、100円以上高くなっていた。中学と同様、高女においても規模による威信の格差が明確に現れていたことになる。
 学歴別では、大規模校でもっとも高い給与を得ていたのは高師卒業者であり、その賃金は1166.7円となっていた。先に学歴別の分布状況でも指摘したように、高女においては高師卒業者が量的な優位を保っており、それは賃金にも反映されていたことになる。帝大卒業者の賃金は1100円であり、これは中等以下の学歴しか持たない者の給与よりも低いものであった。
 しかし、小規模校においては状況が大きく異なっていた。小規模校でもっとも高い給与を得ていたのは帝大卒業者であった。その一方で、高師卒業者の賃金は992.9円と大きく減少していた。先に指摘したように、高女に在職する高師卒業者は若年層が多くなっていた。したがって、ここで現れた小規模校における高師卒業者の賃金の低さは、彼らの年齢によるものとも考えられる。



 表17は、設立年別に高女校長の平均給与を示したものである。この表からわかるように設立年別では学歴による差は現れていなかった。私立専門学校の卒業者を除けば、いずれも1100円前後の給与を得ていたことになり、設立年では、給与の格差は生じていなかったと言って良いであろう。。

(3) 年齢による差

 ここまで学歴と賃金との関係について検討してきた。しかし、ここに現れた差は、学歴別分布状況と同様にキャリアの差によって生じたものであったかもしれない。とくに、これまでの分析で現れた中等以下の学歴しか持たない者の賃金の高さは、彼らが学歴を必要としなかった世代であったためであるとも考えられる。そこで、先と同様に、生年による賃金の格差を検討しておきたい。
 表18は、師範校長の平均給与を生年別に示したものである。ここでは、先に指摘した学校の属性別にみた師範校長の平均給与と同様の傾向が指摘できる。すなわち、量的に見れば、高師卒業者が師範校長を独占していたが、わずかな数しかいない帝大卒業者がかなり高い地位を占めていたということである。この表からわかるように、帝大卒業者は1866年以後に生まれた若い世代しか師範校長となっていなかったが、彼らの給与は1500円と、年齢の高い高師卒業者の平均給与と大きく変わらない額であった。つまり、師範学校に在職する帝大卒業者は、若いにもかかわらず高師卒業者以上に優遇されていたことになる。



 次に、表19には、中学校長の平均給与を生年別に示した。帝大と高師の卒業者では明確に生年による差が生じ、いずれも年齢の高い世代の平均給与がかなり高くなっていた。このうち高師卒業者では、若い世代の平均給与が非常に低く、1886年以後に生まれた者のうちでは最低となっていた。すなわち、中学校長では若い高師卒業者は十分な地位を得られなかったことになる。
 その一方で、「私立専門」と「中等以下」では生年の差が賃金の格差を反映せず、平均給与はむしろ若い世代で高くなっていた。つまり、私立専門学校の卒業者と中等以下の学歴しか持たない者は、キャリアの長さとは無関係に賃金が決定されていたことになる。このことは先に提示した仮説に矛盾する。すなわち、これまでの分析で、中等以下の学歴しか持たない者の賃金がかなり高水準にあったことを明らかにし、それは、彼らが学歴を必要としない時期に校長となっていたためではないかという仮説を提示していた。しかし、ここに現れた結果を見ると、若い世代、すなわち、中等教員養成機関がほぼ整備されてきた時期に、そうした機関を経ないで中等教員となった者も、かなり高い賃金を得ていることになる。つまり、先に見た量的な分布と同様に、賃金から見ても、この明治45年時点においては、校長への昇進に学歴主義は十分に浸透していなかったと考えられる。



 最後に、表20には、高女校長の平均給与を生年別に示した。この表からわかるように高女校長では、生年の差に従って給与が異なっているのは「中等以下」のみであり、帝大、高師の卒業者は、むしろ若い世代で平均給与が高く、特に高師では、100円近くもの差が生じるという、逆転現象が生じていた。こうした状況は、中学における「私立専門」「中等以下」と同様であり、この結果からも明治45年時点における校長の賃金の決定はたんにキャリアのみでなく、その他の要因が働いていたと考えることができる。




5 考察 [目次へ戻る]

 以上、明治45年における中等学校長の学歴構成と賃金の関係について検討してきた。これまでの結果は、大きく以下の3点にまとめられるだろう。
1) 量的な分布では、師範学校では高師卒業者が圧倒的な割合を占め、中学校では、帝大卒業者が高い割合を占めていた。また、高女では高師卒業者と中等以下の学歴しか持たない者が、シェアを2分していた。
2) 賃金では、帝大卒業者がいずれの学校種においてももっとも高く、量的にはわずかであった師範学校においてもかなり高い水準の賃金を得ていた。その一方で、高師卒業者は、師範学校において高い賃金を得ていたものの、中学、高女ではそれほど高い給与を得られず、とくに中学校では若い世代の給与が低い水準にとどまっていた。
3) 中等以下の学歴しか持たない者は、世代にかかわらず、中学、高女で一定の割合を占めていた。また、賃金も決して低くはなく、正規の中等教員養成ルートを経なくても中等学校長となり、高い地位を得ることができた。
 こうした結果をもとに、以下、この時期の中等学校長について考察しておきたい。まず第一に中等以下の学歴しか持たない者の地位の高さである。昭和初期においては、中等教員内における階層性が明確に見られ、文検合格者はその最下層に位置していた。彼らは同県内での異動にとどまる「ローカルな存在」であったことが指摘されている(7)。しかし、本分析に現れた文検合格者は、大きく異なっていた。彼らは決して教員階層の下部ではなく、かなり上層に位置していた。
 このような中等以下の学歴しか持たない者の地位の高さについては、次のような仮説を考えることができる。すなわち、この時期における地位決定の基準は、学歴のみでなく、地域の名士であるなど他の属性が重要であったということである。つまり、「学歴主義」よりも「属性主義」が重視されていたという仮説である。
 しかし、彼らのキャリアを検討してみると、必ずしもそうした地方の名士層のみが校長となっていたのではないことがわかる。この点についての詳細な検討は別稿にゆずりたいが、彼らには大きく2通りのキャリアがあったようである。一つは生年の早い者の多くがたどったもので、伝統的な教育を受けた後、他の職業から中等学校の校長に転入してくるものである。例えば、安政9(1862)年に生まれたある中学校長は、警官としてのキャリアから中等学校長へと転身している(8)。これは属性主義による中等学校長就任の典型であろう。
もう一つは初期の師範学校を経て、初等教員となり、その後昇進を繰り返して中等学校長となるものである。これは、若い世代に多いタイプのようである。例えば、慶応3(1867)年に生まれたある中学校長は師範学校を卒業した後、小学校教員として教育界でのキャリアをスタートさせた。その後、文検に合格して中等教員となり、中等学校長へと昇進した(9)
 これら二つのキャリア・パターンは、いずれも地域にとどまるわけではなく、文検合格者でも府県を越える異動を経験した者が多く、決して「ローカルな存在」ではなかった。すなわち、明治45年時点までの中学校長への昇進は、「属性主義」でも「学歴主義」でもなく、教員としての力量が重視される「業績主義」が存在していたと考えられる。今後、さらに中等学校長の分析を行い、この時期における校長への昇進を決定する要因、あるいは、これ以後、校長への昇進に学歴主義が浸透していく過程を明らかにする必要があるだろう。
 第二の問題は、高師卒業者の地位の低さである。昭和初期において、高師卒業者は帝大卒業者にひけをとらない地位を得ており、給与も帝大卒業生と同じかそれ以上であったと言われてきた。しかし、本分析の結果が示すように、明治45年時点では、とくに中学校において高師卒業者は低い地位に甘んじなければならなかった。
 本分析の対象とした明治45年以後、大正期に入って中等教育機関が拡充されると、中等学校長に占める高師卒業者の割合は飛躍的に増加する(10)。そして、昭和初期においては、中学校長においても帝大卒業者以上の割合を確保することになる(11)。このように、帝大よりも学校段階の低い高師の卒業者が、同じ労働市場の中で帝大卒業者に負けないシェアと地位を確保するためには、そのための「手段」が必要であったろう。このように考えると、これまで言われてきた高師卒業者の精神形成を説明する仮説を提示できるだろう。
 一つは、高師卒業者の「学閥」である。高師卒業者の「学閥」は、すでに戦前から「著しく同党異伐の嫌なきか」(12)と指摘され、さらに、「教員人事を中心に、学校の経営に陰に陽に影響を与えた」(13)と批判されてきた。こうした「学閥」は劣位におかれた高師卒業者が、中等教員社会内における地位向上のために形成したと考えることができるであろう。
 もう一つは、高師卒業生の保守的な性格である。高師卒業者は「規矩準縄を墨守するの弊に陥り」(14)、しかも、「いつも小心翼々として校長になることを鬼の首でもとるような大事件ででもあるかのごとく考え」(15)ると指摘されてきた。これは次のように考えられるだろう。高等教育機関へも転職の機会が残されていた帝大卒業生に対し、高師卒業者のキャリアは中等教育機関内に限定されていたため、彼らのキャリアの最終目標は中等学校長であった(16)。したがって、高師卒業者が中等教員としてのキャリアをまっとうするためには、失敗は許されず、規則に従順でなければならなかった。また、校長に昇進することができても、さらに威信の高い学校の校長となるためには、革新的な教育方針を導入するなどの冒険をせず、それまでの伝統的な教育を踏襲することが無難な方法であった。そのため、高師卒業者は保守的になったと考えることができる。
 すなわち、高師卒業者の「学閥」と「規矩準縄を墨守する」性格は、彼らが中等教員社会内でうまくやっていくためのstrategyだったのである。しかし、これらは仮説にすぎない。今後、大正期から昭和期における中等学校長の分布状況を明らかにする中で、こうした問題を明らかにしていきたい。



(1) 寺崎(1983)、348頁。
(2) 最近の主要な中等教員研究としては、広島高師を対象とした、広島大学教育学部日本教育史研究室(1987)、片岡・山崎編(1990)、三好信浩(1991)、東京帝大の教育科増設を検討した川村肇(1992)、文検合格者を対象とした寺崎ら(1994)による共同研究がある。また、船寄(1986)は、高師の存廃論争により帝大と高師の関係を明らかにしている。
(3) なお、筆者は、現在、明治45年以後の、大正9年、昭和5年、昭和12年の各時点における中等学校長の学歴を調査している。本稿は、これら一連の調査の第一報となるものである。
(4) 『教育家名鑑』第二輯以降で、中等教員の掲載率が低くなった理由は明確ではない。収録対象が初等教員中心となったためと考えられるが、今後検討する必要があろう。
(5) 師範学校教員の給与は『師範学校に関する調査』(復刻版:大空社)、小学校教員の給与は、『日本帝国文部省第四十年報』明治45年度による。
(6) 週刊朝日編『値段の昭和史』(上)朝日新聞社、1987年、583頁、601頁による。
(7) 山田(1992)を参照されたい。
(8) 教育実成会(1912) 939頁。
(9) 教育実成会(1912) 549頁。
(10) 片岡・山崎編(1990)
(11) 山田(1992)。
(12) 寄田(1987)、31頁。
(13) 牧(1971)、380頁。
(14) 寄田(1987)、30頁。
(15) 柳田(1967)、79-80頁。
(16) 山田(1993, 1994)

参考文献

船寄俊雄 1986 「大正期高等師範学校存廃論争にみる中等学校教師像の性格」『教育学研究』第53巻第2号。
広島大学教育学部日本東洋教育史研究室編・発行 1987 『中等教員史の研究 第一輯』。
片岡徳雄・山崎博敏編 1990 『広島高師文理大の社会的軌跡』広島地域社会研究センター。
教育実成会編纂・発行 1912 『明治聖代教育家銘鑑 第一編』明治45年(復刻版:日本図書センター 1989)。
三好信浩 1991 『日本師範教育史の構造 − 地域実態史からの解析 −』東洋館出版社。
川村肇 1992 「東京帝国大学教育学科の講座増設に関する一研究」『東京大学史紀要』第10号。
牧昌見 1971 『日本教員資格制度史研究』風間書房。
寺崎昌男 1983 「戦前日本における中等教員養成制度史」日本教育学会教師教育に関する研究委員会編『教師教育の課題』明治図書。
寺崎昌男・岩田康之・菅原亮芳・船寄俊雄・榑松かほる 1994 「「文献」合格者の学習体験とライフコース − 中等教員の資格試験と教育学的教養に関する歴史的研究(1)−」『日本教師教育学会年報』第3号。
柳田謙十郎 1967 『自叙伝』(柳田謙十郎著作集1)創文社。
山田浩之 1992 「戦前における中等教員社会の階層性」『教育社会学研究』第50集、東洋館出版社。
山田浩之 1993 「旧制中等学校教員のリクルート − 帝国大学文学部卒業生を中心にして −」『松山大学論集』第5巻第5号。
山田浩之 1994 「帝国大学文学部卒業生のキャリア − 高等教育機関での移動を中心にして −」『創立70周年記念論文集』松山大学。
寄田啓夫 1987 「広島大学中等教員養成小史 − 制度的沿革を中心として −」広島大学教育学部日本東洋教育史研究室編(1987)

付記 本稿は平成6年度松山大学特別研究助成金による研究成果の一部である


[先頭へ戻る][研究一覧へ戻る][メインメニューへ戻る]

 ご意見、ご感想、ご批判は、山田浩之(yamada@cc.matsuyama-u.ac.jp)までお送りください。