件名 生物多様性に関する調査について

河童見たことある? 私はあるけど。

実は、中学生の時、河童を見たことがある。いや、正確には、河童かどうかわからないのだけれども、合理的に考えるとそれは河童でしかありえず、それ以来、それを積極的に否定すべき事実も得られておらず、これをもって今なお、私の中でそれは河童でなのである。

自宅と中学校の間にはため池があった。私が生まれ育った愛知県における知多半島の付け根には大きな河川が流れておらず、農業を営むためにはため池が必要であり、いたるところにため池があった。そして河童はうちの近くのため池に棲んでおった。

学校の帰り、そのため池に立ち寄り、生物多様性に関する調査を行うことが常であった。まぁ、ザリガニ捕まえたりするだけなんだけど。

で、その日はそのため池に流入する水の経路である土管の上に座り、水が流入するあたりで調査をしていた。経験上、こういったところに集まる習性を、生き物はもっている。私を含めて。

で、なんか変わった生き物いないかなぁ?って注意深く観察したところ、水深数十センチメートルのところに転がる大きめの石のところに、結構はっきりと、水かきが付いた足が見えた。足の大きさは5cm位ありそうで、そこから推定するに、本体はかなり大物なことがうかがえる。うかがえるんだけど、水が汚いがため数十センチでも視界が悪く、本体は見えない。

私にはこのため池に棲むそんな大きな足を持った生き物についての情報が欠如していたため、ため池外部から、なんらかの死骸がこの土管を伝って流れてきて、そこに沈んでいると考えた。キモイけど死骸を手繰り寄せて、この足の持ち主が何者であるか確認・同定してやろうと思い、長めの棒を探して、再び土管に戻ってきた。

棒を持って土管の上に戻ってきた時も、やはり死骸だけあって、そこにまだいやがる。で、死骸だと安心しきって、その近くに棒を突っ込んだやいなや、その水かき付きの足がゆっくり、ぬおーっと深いほうへ消えていったのである。生きていた!

移動方向が深いほうなので、もちろん本体は見ることはできなかった。

私が得た情報はここまでなのだが、この情報から合理的に何が起こったか推理すると、河童がため池におって、それに遭遇したというストーリがもっとも蓋然性が高い。いや、それ以外のストーリーが思い浮かばない。なぜならば、それだけの大物の、足に水かきをもつ生物など、私が知る限り河童しかいないからである。

それからというもの、中学生の私は河童におののきながら生きる日々が続いた。これは河童の身になって考えてもらえればわかると思う。

河童と言えば、誰しもが知る生物界のスーパースターである。だからこそ私は皆さんに、「河童を知らない人がいれば、ヤホーで検索してほしい」と言わなかったのである。つまり、老若男女、皆さんはすべからく河童を知っていて、河童を知らない人などはいないからである。河童は知名度レベルで行くと犬・猫に匹敵する生物なのである。

にもかかわらずその正体はいまだミステリアスで、その標本は日本のいかなる博物館はおろか、かのスミソニアン博物館、大英博物館、ライデン自然史博物館(ナチュラリス生物多様性センター)、広島大学博物館にも所蔵されておらず、謎のままなのである。

これはひとえに河童側の努力の賜物であり、これまでも、これからも、正体がばれそうになった場合は、そのソースを根こそぎ始末するという処置で乗り越えてきたことが予想される。

ということは、河童と偶然に遭遇した私はどうなるのかと言うと、当然、河童に消されるのである。

では、どうやって河童は私を消すのか?であるが、相手は河童である。たぶん、河童はこういった事態に備えて、誰がどこに住んでいるか、という個人情報を十分に把握しており、河童のみが持つ個人情報検索システムにより、私の所在などひとたまりもなくばれてしまうのである。これはたぶん個人情報保護法に抵触すると考えられるが、相手が河童なんだから、個人情報保護法の対象になるとは思えない。やつらは、ずるい。

よしんば、個人情報検索システムを河童側が構築していなかったとしても、やつらはそれで打つ手がない、ということにはならない。やつらは、神通力を持つ。河童が持つ神通力により、やはり簡単に私の居場所など特定されてしまうだろう。やつらは、ずるい。

では、いつ消されるか?であるが、相手は河童である。昼間に公道を歩いてうちまで来たら、多分たくさんの人とすれ違い、すれ違う人それぞれを消して回らないといけなくなる。河童の身になって考えれば、これはめんどうなので、絶対に避けたい。おそらく、奴らが来るなら、人通りが少なくなる夜だ。

で、夜な夜な、今日は河童が来るんじゃないだろうか?今日こそ河童が来るんじゃないだろうか?と恐れおののく日々が続いた。中学時代、恋にも、部活にも、勉強にもいまいち集中できなかったのは、ひとえに河童のおかげである。つまり、恋や部活や勉強など考える暇があったら、河童のことを考えなければならなかったのである。その頃の私の頭の中は、生命にかかわり、切迫した問題である河童にほぼほぼ埋め尽くされていた。

にもかかわらず、これは私の人徳の部分なんだけど、自暴や自棄を起こさなかった。つまり、「どうせ俺なんかやがて河童に消される身。お嬢さん、少し下がっておきなさい」と、悪人から娘さんを保護するといった類の勝ち目のない喧嘩を買ってみることや、学校を休んで、NHK教育テレビを見続けるといった行為、もしくは様々な反社会的な行動に至らなかったのである。将来が無いと思えば、こうした反応をしても不思議ではないにもかかわらず。

ではなぜ、自暴や自棄に至らなかったかと言うと、私は賭けに出たからである。もし、河童が根こそぎソースを始末し続けて来たのであらば、なぜ我々は河童の存在を知っているのであろうか?完全に矛盾する事実である。この矛盾を説明するためには、新たな仮説を導入せざるを得ない。つまり、河童は遭遇した人間のうち、ほんの一部だけを生きながらせ、その生き延びた少数の人間が、河童のことを言いふらしてきたのである。

では、河童はなぜ、一部だけを生きながらさせるか、と言うと、これも、河童の身になって考えれば簡単でに分かる。河童はいつも我々に気が付かれないようにと、ひっそりと生活している。河童はこれが人と共存する最適な戦略と踏んでいるのだろう。しかし、この生活は正直、寂しい。「俺は、ここにいる。誰かに俺のことを認めてもらいたい」という気持ちを河童が持ったとしても不思議ではない。いや、持っている。

では、この気持ちをだれにぶつけるのかと言うと、ちょいちょい人前に現れ、そいつを「カッパー!」と驚かせたり、己の河童姿を見せつけたりすることで、人類に河童の存在を周知するのである。こうして河童に選ばれた、故意に河童と遭遇させられて人は、どうなるのかと言うと、生かされるのである。「あそこに河童おるでぇー」と人々に周知するために。

よって河童に消される大多数もあれば、一方でこうした役割を担わされる人も、少数ながらいるわけである。そして、私は賭けた。私は選ばれたのだと。私は河童に生かされるのだと。河童伝道師として、河童の寂しさを埋めるために。

皆さんももうすでに気が付いてもらえたと思うけれども、夜な夜なこんなことを考えていたら、勉強する暇なんてどこにもない。

で、幸いにも、私は選ばれたほうの人間に回され、結局いつまで待っても、河童は現れず、だからこそ今でも消されずにいる。自暴や自棄をしなくてよかった。もうこの年になれば、河童が私のもとに来ることもなかろうし、たとえ来たとしても、私も中学時代からかなり人相が変わっているから、わざわざ訪ねてきた河童が、「よしんば俺に見覚えがねぇとは言わせないぜ!」などと言ったとしても、平気な顔して「誰かと人間違えしてんじゃねぇの?お前なんか知らんよ。河童を見るのは、これが初めてじゃ!」と、すっとぼけてやることだってできよう。

この河童に遭遇したという話は、河童に託された、河童伝道師としての使命でもあるので、ちょいちょい披露するんだけれども、これを聞いた人は、結構高い確率で、「私も河童にあったことがある」という反応を返される。野生のクマを見た人より多いんじゃないかと思うくらいの勢いである。

と言いうことは、結構いるんじゃないだろうか、河童。よって、皆さんにとっても、河童遭遇リスクは結構高いことが予想される。一つだけ助言をすることが許されるのならば、たとえ河童に出会ったとしても、自暴や自棄する必要はないと思う。日々、河童におびえながら、しかし、まじめに生きよ。ならば、河童に生かされん。

アディオス!

2017年10月17日