例のサンショウウオを研究した卒論生であるが、卒業発表会では、聴衆に語りかけるような口調で
「皆さん、井伏鱒二の小説、『山椒魚』を読んだことはありますか?」
というつかみで発表を開始していた。
それを聞いた私は、
「そんなもん、読んだことあるに決まっとるじゃろ」
と思ったのだけれども、恥ずかしながら、どうしてもその内容が思い出せない。
確か
「山椒魚は激怒した。」
から始まる短編小説を読んだのは、たぶん高校生の頃。“名著”との誉れ高い小説を読み漁っていた頃だ。
「山椒魚も激怒するのか?」、とたちまち彼の世界に引き込まれてしまったのと、小気味よくかつ明解な文章だったことは覚えているものの、肝心の内容が思い出せないのだ。
かなり気持ちが悪いので、ここはひとつ読み直すことにした。
読み直すや否や、驚愕の事実が判明した。冒頭は「山椒魚は激怒した。」ではなく「山椒魚は悲しんだ。」だったのだ。どうやら、メロスとごっちゃになっていたようだ。
冒頭の一文の後、わかりやすい文章がユーモラスにつづられていた。「そうそう、これこれ」と思いながら読み進めた結果、愕然とした。意味不明の終わり方なのである。
「もしかして、どこかで読み間違えたのか?」と読み直すも、どこも読み間違いなどしていない。彼の文章は明快で、読み間違いをしたくてもできないくらいに論理的で、洗練されていた。
そして、「なるほど、こういうことだったのか」と納得した。つまり、内容を思い出せない理由がつまびらかになったのだ。要するに、内容を思い出せなかったのではなく、端から内容を理解できていなかったのだ。
齢を重ねた今となっては、本を閉じてじっくり考えれば、彼が言いたいことは痛いほど伝わってくる。簡単に読み進められるものの、その実、内容を理解するためにはそれなりの咀嚼が必要で、なるほど山椒魚はよくできた小説である。しかし、高校生の頃の自分が、この小説を乗りこなせていただろうか?あの頃の自分を思い浮かべると極めて疑わしい。
どちらにせよ、素晴らしい卒業研究をしただけでなく、山椒魚を読み返す機会を与えてくれた卒論生に、ただただ感謝するばかりである。
アディオス