件名 共有地の悲劇に関する勉強会

共有地の悲劇という言葉を耳にするようになったのは、生態学から環境学へシフトした頃くらいだろうか?

大学院博士課程を終えて、国立環境研究所で勤め始めたくらいだった気がする。

環境破壊が進む理由を説明する共有地の悲劇は、よくできた考え方だと、その当時思った(今でもそう思っている)。

で、共有地の悲劇は一般に、「誰しもが自由に利用できる有限な資源は、枯渇する運命から逃れられない」と理解される。

自由な経済競争が資本主義社会の基本的な立ち位置。そこには、自分の利益の追求はありえても、他者の利益を慮る原理はない。誰もが自分の利益だけを考えて行動すると、割を食うのは環境であり、結果として地球・人類全員が不幸になるという考え。

共有地の悲劇を回避するためには、自由な競争を制限するしかないという結論。

で、この考えはアメリカの生物学者、ギャレット・ハーディンが1968年にサイエンスに発表した「共有地の悲劇(The Tragedy of the Commons)」という論文で紹介された。

彼は自説の共有地の悲劇を紹介するために、あるたとえ話を使用した。そう。有名な、「放牧地と牛主と牛の数」の物語。

この比喩が分かりやすすぎたのだろうか? 共有地の悲劇といえば、まずは、「放牧地と牛主と牛の数」。次に、「誰しもが自由に利用できる有限な資源は、枯渇する運命から逃れられない」という概念。

でも、たぶんハーディンがサイエンス論文で本当に語りたかったのは、そっちの方じゃなく、共有地の悲劇の概念を使った人口問題の議論。

残念ながらこちらの方は、あまり脚光を浴びれていない。

というか、ハーディンの共有地の悲劇を原著で読んだ人は少ないんじゃないだろうか?

で、共有地の悲劇のハーディン論文をかなり素直に読んで、それをとげとげしくならないトーンで紹介する文章を書きました。

かなり原著に近く、ハーディンの意見を反映していると思います(彼はもっと強い物言いです。そのまま紹介すると炎上しそうだったので、これでもだいぶ婉曲して書いています。原著を読むことをお勧めしますが、その前に私の紹介文も読んでみてください)。

それでは紹介します。
食糧をたくさん作れるようになっても食糧難は解決しない、その理由
「共有地の悲劇」をやさしく解説


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アディオス

2020年10月23日