見てもらえばわかると思うんだけど、そんなに片付いていない。研究室。
まぁ、「汚部屋」と言うにはおこがましいが、「整理整頓が行き届いている」と言うにはほど遠い状態。それが、我が居室。
今回は、「広島大学のこんまり」の肩書をもつ私が、部屋の整理整頓について論じたいと思う。ためになるねぇ~!
で、うちの子どもの子ども部屋ももちろん整理整頓されていないんだけど、彼らが言うには、自分たち以外には整理整頓されている状況には見えないかもしれないが、実のところ、自分たちにさえも整理整頓されているとは映っていない。
しからば、整理整頓をすればいい。
もっと強い調子で言うのならば、
整理整頓をしなくちゃいけない。
そう考えるのが定石だと思われるが、彼らの思考はそうは進まない。なぜならば、整理整頓は彼らの中では愚の骨頂で、チャンチャラおかしいことになっているからである。
なぜ整理整頓がチャンチャラおかしいか説明しよう!
彼らは整理整頓されている状態、つまり“秩序”そのものに価値を見出しているわけでなく、“秩序”がもたらす恩恵の方に注目しているからである。
若い人たちと言うのは、功利主義を通り過ぎて、実用主義。
で、私なんかからすると、実用の観点からも、「整理整頓されている方が必要なものがすぐに見つかって効率的である」、なぁんて考えがちなのであるが、彼らはこの考え方自体に根本的な疑問を唱えているのである。
つまり、『「整理整頓されている方が目的のアイテムが見つかりやすい」と伝統的に言われているからそう信じる』、と無条件に上の言明を受け入れるのではなく、そう考えるべく論理的根拠がどこにあるかを探索し、もし見つかれば受け入れる、さもなくば却下する、という論理的思考態度をお持ちなのである!
見上げた根性だ! 素晴らしいぞ! 娘!
で、彼らが独自に論理的な推論を重ねた結果として、伝統的に言われているような「整理整頓は恩恵をもたらす」という考えには全く根拠がなく、つまり、論理的な瑕疵・不整合を見出すに至ったのであった。だからやらないの、整理整頓なんて。
彼らがこの結論を導いた理論は単純で、つまり、「整理整頓なんかしたら、逆にどこに何があるかわかんなくなっちゃう。だから、ここはあえて整理整頓をしないほうが良い」、という新理論を進めているようなのである。
仮に、彼らの言い分が正しく、整理整頓がされていない方が、ものが見つかりやすいのならば、整理整頓しないという選択は、それはそれで理に適う。
しかし、私なんかは、彼らの主張とは真っ向からぶつかるんだが、「整理整頓しないほうがものが見つかる」という新理論に疑問を覚えてしまう。「果たして、彼らの主張は正しいのであろうか?」、と。
それでは、彼らの主張が正当なものなのか、論考を進めたいと思う。
まず、次のシミュレーションを始めよう。
私は、汚れっちまった子供部屋を見るたびに、「こんなんじゃぁ、どこに何があるかわからんじゃろ」と叱りつけ、整理整頓を誘うのであるが、それに対して娘たちは往々にして、
「私には私独自のルールがあって、それに従って物を配置しているから、たとえその配置が整理整頓されていないとあなたに映ったとしても、私には最適な配置となっており、仮に何らかのアイテムが必要になった場合など、この中からたちまち見つけることができる」
と主張する。が、これは嘘である。
いや、正直に言うと、真と偽が入り乱れていて、ある部分は真であるが、残りは嘘っぱちの主張なのであるから手に負えない。分かりやすくなるように、論点を整理しよう。
まず、嘘の部分を指摘してやる。震えて聞け!
それは、「私独自のルール」の部分だ。
私独自のルールと言えば聞こえがいいが、そのルールというのは、「手あたり次第、その時の気分で、床だろうが、ベッドだろうが、机の上だろうが、置き散らかす」、という条文から成っている。
はっきり言っておこう! そんなもの、雅の国、日本ではルールなんて呼ばない。ルールでも何でもないのさっ!!
だから、大上段に構えて、ルールなどと言ってはいけないのである。ルールっていうのは、本は本棚に入れるとか、文具は机の引き出しに配置するとかいう一般則のことを指し、仮に「自分独自」、って表現したいのならば、「文具は机の引き出しにしまうことが巷にはありふれていますが、私なんかは、ベッドの下にある収納の、文具箱にいちいち返却しますよ、どう? 独自でしょ?」みたいなのを言うんじゃ。わかったか!
で、真の部分はと言うと、
「何らかのアイテムが必要になった場合、この中から見つけることができる」
の部分で、これはあながち嘘ではない。で、なぜ見つけられるのかと言うと、それは彼らの洗練された記憶力にある。
で、さっき言ったように、彼らは自分の好きなところに好きなものを無秩序に配置するというやり方で、彼ら独自の整理を進めるのであるが、結果として本人以外は、「ここから必要なものを見つけるのは大変だろうなぁ」、と予想するのであるが、この予想は彼ら本人には当てはまらない。難なく、想定外の方法で予想を乗り越えちゃうのである。
で、その想定外の方法であるが、彼らは必要なアイテムが出現した場合、「それを最後に触ったのがいつか?」という記憶を手繰り寄せることから始まる。
例えば、コンパスが必要な場合、「確かコンパスは2日前の算術の授業で使ったな」、と言う記憶を手繰り寄せ、結果、「二日前、学校から帰ったとき鞄の中身をまき散らしたのは、あの一角だ」、と論を進め、そこを探すのである。で、たいがいの場合、見つかる。
こうした成功体験を納めている彼らなのだから、「これで何が悪いんじゃ?」、という情動を涵養させないわけもなく、さらに、下手に整理なんかすると、先ほど示した記憶だよりによる検索システムが機能しなくなるのだから、整理しないほうが合理的だ、と言うことにさえなるのである。
だからこそ、探索においては、「好きなように散らかしておく」と言うシステムは短期的には問題がない。ここはあえて屈服しよう。
が、貴様らの記憶なぁーんて、ほとんどが短期記憶から構成されておって、コンパスを直前に使った記憶など、使った事実が2日以内なら回収できたとしても、それ以上時間がたてば、コンパスの直前の利用履歴などきれいさっぱり忘れられ、探しようのない状態になっちまうのである。
こうなってしまえば、部屋が散らかっているのだから、見つけるのはほぼ不可能。将来、何らかの事故的に、偶然コンパスに再開するのを待つかしかない。「うわっ!コンパス、絵の具のパレットに挟んであった!?」みたいに。
で、往々にしてこういった悲劇が起こるのが、長期休暇明けの登校日である。
毎回毎回、飽きることもなく、長期休暇明けの登校日の前日に、
「定期がない」、「名札がない」、「登校時間の指示文書がない」、「雑巾がない(←これが実は一番厄介。登校日の前日に、「明日雑巾2枚持って行かないといけない」って言われて、夜中に雑巾を作ったことが何度あったことか……)」
と判で押したように慌てふためくのである(ああ、もうすぐ春休みが明ける……)。
だからさぁ。もうそろそろ、「自分独自のルール」なんて言っている自分の愚かさに気付いて、整理整頓を始めなさい!
と、娘に伝えているように聞こえるかもしれないけれども、実は自分への戒めなのであった。
Spark Joy!